2024年7月12日金曜日

スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ』と大澤真幸『我々の死者と未来の他者』

 


「言い換えれば、過去を遡って解釈し直すことはいくらでもできるが、未来に関してはそれができない。だからと言って、未来を変えることが不可能なわけではない。未来を変えるためには、まず、別の未来に向かう道が開けるように過去を解釈し直し、過去を(「理解する」のではなく)変えるべきである。」(『戦時から目覚めよ』スラヴォイ・ジジェク著 富永晶子訳 NHK出版新書)

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「普通、私たちは、現在の傾向のそのままの延長戦上に未来を予期する。この場合の未来は、現在の継続である。しかし、現在から断絶し根本的に新しいものとして未来を想定できたとしたらどうだろうか。そのような想定に確信をもてる者からは、現在の惰性の中に生きている者には見ることができない過去が見えるはずだ。」「「未来を変えること」と「過去をまったく異なるものとして見出すこと」とは、別のことではない。両者は同じことの二つの側面である。支配的な解釈とは異なった過去の現実を見出すことができるとしたら、その人はすでに、現在から断絶した新しい未来を「来るべきもの」として確信し、そこから過去を見ている。あるいはこう言ってもよいだろう。失われた<我々の死者>を見出し、救い出すこと、<未来の他者>に応答することとは、別のことではない、と。<我々の死者>への視線と<未来の他者>への視線は緊密に結びついているのである。」(大澤真幸著『我々の死者と未来の他者』 インターナショナル新書)


まず、ジジェクからはじめよう。

コロナ対策やウクライナでの戦争をめぐる、ジジェクの思考前提的な現状認識は、主に日本での情報から状況認識するわれわれとは、異なっているように思われる。ジジェクは、コロナ対策やワクチンの世界的促進は不徹底(特に途上国への)であり、ウクライナへの支援も曖昧なまま終始している、と認識している。が、日本からみれば、MRNAを使った新ワクチンの接種者は日本では9割前後くらいなようだったし(再確認していないので不正確数値)、その処置普及の徹底化の方へ世界も動いていたようにみえた。ウクライナへの支援に関しても、日本は欧米と足並みをそろえての強気な全面支持を表明している、が日本の実際は、9条規定や地政学的な遠さから積極的な支援策が打ち出せないでいる、というようにみえる。

が、イデオロギー的な掛け声レベルでなく、実際の現場を考慮するならば、欧米でのワクチン接種拒否者は4割近くをしめ(接種者が9割前後になるのは人口の少ない国(だったと思う)、ウクライナへの軍事支援は限定的なものに終始している。そして、ジジェクのこの論考が書かれた頃よりさらに最近の実際自体はより露わになりはじめ、新ワクチンに関しては製造会社を告発する裁判闘争が欧米では散見しはじめ、ウクライナへの支援も陰りがみえはじめた。が、日本では、今でもその現状を指摘するだけでも、陰謀論の変質者と思われてしまうきらいがあるだろう。

新ワクチン接種後の、年間の超過死亡者数の急激な増加は、状況証拠的にはワクチン接種が一番なのに、科学的には原因不明と棚上げされているのが現状のようにみえる。

熊本での水俣病もそうだった。状況証拠的にはチッソの排水に何かある、とはっきりしているのに、正確な原因物質や因果関係が不明だと、企業と国、そして当初はマスコミもが結託的に防御対策を放置していたのである。つまり、状況証拠は科学ではないと人も国も動かない。しかし、日本ではそうした戦後高度成長期の経験から東電の原発事故等あったのに、無邪気に大企業の言葉を信じて自らの腕を差し出して病気になっていく。これは、科学以前の話だろう。そういう意味では、欧米(と曖昧な言い方しかできないが)の民衆は、政治的な掛け声にやすやすとは相乗りせず、自らの身体性で抵抗し、マスクなどもはずしてサッカー観戦してきたようにみえる。で、そうした中で、ジジェクはどこにいるのだろう? 彼の認識は、要は掛け声(イデオロギー)の上に終始しているようだ。ならばその思考は、現実をとらえていると言い得るのか? しかし、形式的な論理的整理は、緻密であり、参照になる。


大澤真幸も、当初はそんな風だった、と私は印象を受けていた。

当人は覚えているはずもないが、私は、彼と面識がある。たしか、岡崎乾二郎の『経験の条件』の出版記念会の二次会、歌舞伎町かどこかの少し大きめのバーである。そこで、大澤氏はまずひとり滔々と『経験の条件』の解釈を述べていた。で述べ終わると、用があるので、と足早に店をあとにしていった。私は彼が颯爽と消えていったあとで、「今の大澤さんの話は、間違ってますよね?」と発言した。真向いに座っていた浅田彰が、「まあ大澤さんはああやって整理してみるのがいつもだから」みたいな返答を返してきた。NAMプロジェクトの延長のようでもあったので、むろんそこには柄谷行人もいた。


しかし最近の大澤真幸の作品を読んでいると、「整理」にはとどまらない仕事を打ち出しているように思われる。継続中の『<世界史>の哲学』は柄谷の『探求』での「普遍―単独」「一般―特殊」という四象限図式の敷衍だし、今回の上の新書も、柄谷のその「他者論」の不備をより具体的な文脈で補足していったようなものにみえる。柄谷は『探求』公刊後、死者や未来の者も他者なんだ、と言いはじめたりしていたのだが、そうなる筋道がその論考につけられているとはとても思えなかった。どうしてそうなる? と素朴な読者は怪訝におもったはずだ。しかしいい悪いという話ではなく、竹田青嗣がいうように柄谷は「指摘」しているだけだとしても、たしか中島一夫が「柄谷行人」とはネットワークのことなんだと言っていたように、その「指摘」を受けて突っ込みを開始する各分野の知識人がでてくる。そういえば、その中島一夫が、最近のブログで、柄谷の「意味という病」はそう意味を排する病なんだ、と書いていた。私も同感だ。私の言葉では、「意味という病」はロマンチズムのバリエーションである。このストイックな左翼態度が、一般他者(意味)を排斥する禁欲主義や、マルクス主義的な絶対観念からの逃避は転向だとかいう潔癖主義、他者に出会いたかったら外国語を勉強しろだのというエリート主義を瀰漫させていた。妻のいく子の友達は、女にとってお嫁にいくとは外国にいくようなものなのだから、そうしたインテリの考えはおかしい、と手紙に書いていたが、正しい。岡崎乾二郎も、NAMの芸術系の会合で、長嶋茂雄の「ぶ~んと振れ」の「ぶ~ん」は専門用語なんだ、とそんな柄谷態度を暗に批判していただろう。辞書的な定義ととっくみあっても実際の言葉など覚えられるわけがない。その世界にはいって、その運用に身をおいて、はじめてその意味がわかるようになるだろう。植木屋の「さっと切れ」「ざあ~っと「ぱっと」「ばっと」「ちょんちょん」などの親方の言葉も、専門用語だが、それは定義し辞書化してみても運用などできるわけもない。


最近における大澤の柄谷批判は、柄谷の思考が古典物理レベルにとどまっていて、それでは現実の実際に切り込んでいけない、量子力学をふまえた思考を展開していかないと、というところにあるようだ。この上の新書も、量子論をふまえた論考である。大澤の量子力学の理解や、そこを正確に補足する論理学理解の間違いを指摘する学者もいるようだが、意義ある指摘には私にはおもえない。少なくとも、世界の知識人たるジジェクと同じ視点を提出している。そのジジェクが、現状認識においてわれわれとずれるのは、われわれが現場から遠い島国にいるから、というよりも、東欧にいるジジェクが現場(前線)から近いところにいるからかもしれない。ウクライナの支援の掛け声(イデオロギー)を本当に実施してくれないと、津波のような巨人軍が攻めてくる、という身の恐怖が、認識以前の前提になっているからかもしれないのである。


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