2024年9月7日土曜日

身体と体



「私たちが見出してきたのは、あくまで「脳―身体」というユニット全体によって「自己」は保たれており、「脳―身体」というユニットが環境との関係でその姿を変えてしまえば「自己」のあり方もまた変化するということだった。このような見方を「身体化された自己」(embodied self)と名づけることができる。哲学者のT・フックス(一九五八~)は、脳が身体と結合しており、身体からボトムアップに流れ込む内受容感覚(内臓を始めとする身体の深部に由来する感覚的情報で、自律神経が情報を伝達する)と脳が相互作用することで、私たちが素朴かつ暗黙に感じている「生きている感じ(feeling of being alive)」が生じるとし、これが最も根源的な自己感を生じさせるという。「身体化された自己」の根底にあるのも、この「生きている感じ」に他ならないだろう。/ただし、このような根源的な感覚に裏づけられた自己感については、現状では科学技術の力を借りて拡張できるかどうか不明である。私たちが本省で検討してきたBMIや身体錯覚から読み取れるのは、「生きている感じ」のように内受容感覚に対応するレベルの身体性ではなく、知覚や行為という主体感覚に対応するレベルの身体性なら拡張することができるということである。」(田中彰吾著『身体と魂の思想史』 講談社選書メチエ)


いく子のダンスの軌跡を追っているにつき、どうも現代思想経由でダンスの「身体」と呼称されてきたものが、とくには女性の身体性には当てはまらない、それでは把握しきれないのではないか、と思いはじめた。フォーサイスにいくような、身体の抽象をはばむものを抱え込んだものとして、女性たちのダンス表現が志向されているのではないかと想いはじめたのである。で、上引用の、ニーチェからメルロ=ポンティまでの思想史的な要約もかねた最近の論考を手に取ってみた。そうしたらやはり、引用か所にもあるように、あくまでこれまで言われてきた「身体」の範囲には、限定があった。たとえば、内臓における微生物の動きや、おそらく女性の生理なども、哲学や科学での理解(拡張推定)の外なのだ。


舞踏家の田中泯などは、だからなのか、「身体」とはいわず、「カラダ」と言う(『ミニシミテ』講談社)。彼が注意集中しているのは、身体の動き云々ではなく、内臓の微生物の動きのようなものであることが、この著作からもうかがえる。そして「生きている感じ」は、そこから来るので、知性(頭)の展開からくる「享楽」にあるのではない。


最近では、靴のサイズも、これまでは男の足を基準での象りだったから、女性はそれに違和感を抱いていたのがわかってきたということになって、女性用のサイズというので開発されているそうだ。というと、いや昔から足袋など、個別オーダーがあったではないか、という話がでてきそうだが、そう寸法を測ったって、そこから制作する思考において男性専用に還元されていったろうから、意図的に作成していく研究試行錯誤がなかったら、女性の足を包み込む製品とは言えないだろう。


いやさらに、もうジェンダーなんて枠ではなく、個々のセクシュアリティーの時代なのだから、そうした区別を前提にしてしまうのはおかしいのではないか、という意見も大勢になりそうである。『私の身体を生きる』(文藝春秋)という、女性作家の性告白を集めた論集を読むと、男女体験というより、多型倒錯の露呈のような趣である。が、そうした個人の特異さに対する注視は、現在の言説付置がそうあらしめているからということもあるので、また付置が変われば、注視する点も変わるので、違った発言が露わになろう。いまは特別なことでもないのに、ちょっとした違和感を拡大評価して、実は自分は女でした、体とは違った性でした、と自己表明してしまう人もでてきてしまっているのかもしれない。


とにかく、まだまだ、男女区別を思考するジェンダー領域でも不明なところも多いのだから、きちんと立ちどまって、早まった普遍(個別)化をするべきでないだろう。そうしたリズムスピードこそ、男性思考である。


そして女性のダンスは、ピナ・ヴァウシュを筆頭に、意味を求める表現主義的なものが多かった。一見、抽象性を志向しているようなトリシャ・ブラウンも、カニングハムやフォーサイスと同列に把握していいのか疑問におもえてくる。トリシャは、男性との共同制作で感じたテレパシー現象に興味をもっていた。「生きている感じ」が他世界から来るとは、テレパシーのような、遠隔現象でもあるということだとしたら、子供も産む、という体験自体も、他人事であり、ゆえに、「生きている感じ」と結びついているということになり、そこに、現状科学では把握できない「身体」がありうる、となるのか。そしてその「身体」が、意味を求める、ということなのか?


以上の思いつきを、どう、なにで、詰めていったらよいだろう。


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