2024年10月26日土曜日

山田いく子リバイバル(21)

 


ちょうどいく子の一周忌を前に、最後として頼んでいたものが仕上がってきて、ビデオテープのデジタル・DVD化が完了した。


①『青空×干渉するものたち』 ザッシュ+Nobody 2001年10月 <DANCE PAS2001> 東京芸術劇場


・いく子に誘われて、はじめて見た作品が、これであったのでは、と思う。ザッシュというグループと、自身はジムジャームッシュの映画からとったNobodyという名で出演している。本番前のゲネ最中、「この女を黙らせろ!」と、演出家なのか、が声を張り上げていたのを、思い出す。だから、ダンス自体には、いく子らしさは希薄になっている。行き詰まり感がでている。次の年の2月に、江原朋子先生の『ピカソ考』にで、3月、NAMの地域通貨プロジェクトの国分寺はカフェスローでのフェスティバルに、私といく子でパフォーマンス参加をしている。そしてすぐ翌月の4月に、銀座の画廊で「トランスアバンギャルド 野蛮ギャルドの巻」をやることになるのだ。


②『テロリストになる代わりに』 2004年9月19日 <TOKYO SCENE 2004 in 元麻生ギャラリー>


・出産後1年にも満たないあと、いく子が友人二人と敢行したダンス。ゲネはすでにユーチューブにアップしているが、今回は、元ビデオテープをきちんとデジタルデータ化した本番をアップした。改めてみてみると、これは作品としても、いく子の人生にとっても、それまでを決別する決定的な作品として意図されているのではないか、と感じられた。たぶん、映画『追憶』のように出会った男は、死んでしまったのかもしれない、と思わせる。かつての自傷行為的な、自身をひっぱたくという振りは、自罰行為と化している。自傷がナルシスト的だとするなら、自罰には、他者との関係において私は悪であるという自戒が濃厚になる。いく子は、本気で自身をたたき、燔祭の炎(黄色いリボンの山)の回りを走る。空中に、片手を伸ばし、許して、と和解の握手を差し出す。そして天を見上げ、両手を振る。あなたは死んだ、私は、子供を産んだ、私は、決意したんだ、もう戻れないんだ……ニキ・ド・サンファルから借りたタイトルの「代わりに」という意味は、超えて、という意味なのかもしれない。「テロ」という自傷行為的な次元をを超えて、自罰という宗教的な、この世界を超俗してゆくシャーマンのように踊っているようにみえる。が、この作品を頂点に、いく子は、のち、自殺衝動が回帰してきたときの仮題「森のクマさん」(2008.12)と「あいさつ」(2010.4)しか作れなかった。


が、千葉の実家にもどってきた亡くなるまえの一年の間、いく子は、三十歳前後ころに師事していた深谷正子先生のもとで一緒にやっていた、二人の女性が千葉で開いているダンス・スタジオに通っていた。そのうちの一人が、いく子のラインでこう話してきた。もうそろそろまたやりはじめるんだろうな、という感じがしていたと。


2024年10月21日月曜日

江原朋子ダンス 「Primitive」を観る


いく子の一周忌を前に、葬儀に参列してくれた、江原朋子先生の公演を、両国駅近くのシアターXへ見にいった。1946年生まれだそうだが、葬儀式場へは、バンビのように歩いておられた。この公演でも、舞台上を走ったりしたのだから、驚きである。


タイトルは『Primitive』。原始古代から現代までの通史を集約していくような構成。この壮大な意図は、普通では、空想ファンタジーじみてくるはずだが、だんだんと、そうはならず、とくには東京大空襲を連想させられるところから、それどころかの、壮大な批判的意図のもとに企まれた作品なのではないかと思われてきた。最後、ボレロの音楽で舞う。それはまるで、世界史のなかにダンス史が、動物のなかにライオンが現れてきたような、衝撃的な接続だった。

※ベジャールの振りは、盆踊りにデフォルメされていたが、それはユーモアやイロニーをこえた、痛烈な批判に思われた。


公演後、出演者との質疑応答トークがあったので、質問してみた。


「原始古代から赤い靴の女性を連れれてゆく異人さんの文明に行き着く世界史を、下町の視点から、ユーモアとイロニーで批判していくような意図を感じました。とくに、最後、ボレロがでてくる。ここには、やはり何か意図的なものがあったのですか?」

「あります。」

「それは、なんですか?」

「反抗」

私は、まさかこんな直接的な回答がでてくるとは思わなかったので、おどおどした。

「わかります。ありがとうございました。」


公演のチケットも、じきじきの招待券に変更してもらったり、質問前にも、一周忌で忙しいでしょうのに、と声をかけてくださった江原先生の作品は、いく子が参加していた当初から、少女的なファンタジーの背後に、鋭い批判精神、とくにジェンダー的視点からの、が潜まされているのを感じていたが、卒寿を迎えても、その「反抗」が生きている、その気概が衰えていない現役のダンサーであることに驚かされた。


2024年10月5日土曜日

サヘル・ローズさんの話から


先週、生協関連の支援で、こども・若者未来基金運営委員会主催の、サヘル・ローズさんの話を、千葉商工会議所へ聞きに行った。


戦争孤児であったイラン生まれのサヘルさんの話を聞いてみたいと思ったのは、妻が死に、気の狂うような悲しみに襲われて、ふと特には最近の災害や事故、戦争状況等がテレビニュースであふれるなかで、世界ではこんなにも親しい人が亡くなって悲しみに満ちているのに、なんで世界が成立しているのか、存在しえるのか、不可思議で、神秘に見えてきたからである。手を伸ばせば、すぐに亡き人と出会えるような錯覚の中に入り込む、そうしたとき、知らぬ間にビルから飛び降りたり、電車に飛び込んだりすることは、ありえることなんだな、と思われてきた。普通の死を迎えただけの私よりか、ずっと不合理な現実の中で死と向き合ってきたサヘルさんは、どうやって生きてこられたのだろうと、知りたくなったのである。


サヘルさんは、今でも自殺の衝動と闘いながら生きているという。おそらく、イランから日本へと養子として八歳のサヘルさんを連れてきてくれたイラン人の母(そのために自らはイランの法に従い、子供を産めなくする手術を受けた)が亡くなったら、自分は死んでしまうのではないか、と言う。戦争孤児ということであっても、彼女は、生まれたときはもう両親はいないので、親しい人との感覚があるわけではなく、スタート地点から破壊されているのである。日本の男と結婚した養母は、心理学の知識があったので、日本に移住してからのサヘルさんの普通とは違う衝迫に満ちた行動を、理解してくれたという。父の方は、耐えきれずに、暴力をふるってきたので、母は娘を守るために、イランへ送還されないような内密な手配をして、離縁した。サヘルさんは、中学生までおねしょだったそうである。サヘルさんも心理学の知識を使って、何週間と言ったか、たしか2年くらいになる間は、母のような自分をみつめてくれる存在と一緒にいないと、心の根拠が形成されないので、それ以後どんな愛情をそそがれても、心の空虚さは埋まらず、いつも死と向い合せで生きるようになる、と言う。


何か月かまえのテレビ番組で、サヘルさんが数年前に撮影した、孤児施設で成長した子どもたち主演の映画をめぐるドキュメンタリーのようなものを見ていた(そのうちのひとりは、完成映画を見る前に自殺したという)。サヘルさんは、成人をむかえた彼ら彼女らに、思い出したくないことは、無理に思い出さなくてもよい、でも、わたしは思い出してきた、振り返って追跡するほかなかったから、だから訓練されているからだいじょうぶなんだ、でもあなたがたにはきついから、無理しなくていいよ、と発言していた。


しかし講演では、二百人ほどの聴衆を前に、まだ人前で話したことのない記憶を思い出し、語り始めた。いやそれは語りというようなものではなく、彼女には過去ではなく現在なので生々しく、突然の慟哭の中での告白だった。成人に近くなってから、母の親戚訪問で、一年に一度ほど、イランへと帰ることになった。そしてそのたびに、わたしは親族のひとりからレイプをされていた。それは数年後に、母が現場を目撃することになってやんだが、母は誤解したようにわたしを責めた。わたしは大人になって、孤児施設に残っていた自分の資料を見せてもらった、わたしは、生みの母に、父の親族が暴行したときにできた子供だった。わたしが一番つらかったのは、母が、おまえなどひきとらなければよかった、と聞かされたときだった。それが母の本音ではないのはわかっている、だけど、それはわたしを突き落とすほどつらいことだ。(発言の言葉そのままではなく、あくまでブログ執筆者の言葉で要約した趣旨。)


サヘルさんは、こどもたちは、見ていないようで、見ている、知らないようで、みな知っているという。記憶は、忘れられるのではない、凍結されているだけだ。とくに施設のこどもたちは、大人にあわせるように成長するので、ニコニコしている。陽気にみえても、違うのだ、と。サヘルさん自身、そんな生い立ちを知らなければ、笑顔が素晴らしい、明るくて陽気そうな、美しい女性である。


私は、妻のいく子のことを思った。前回ブログで、冒頭に、水上勉の作品、水俣事件のことを取り扱った小説から引用した。これは、肯定的な引用ではなく、否定的な引用である。主人公の名前が「郁子(いくこ)」と同じだが、水上は、要は女の魔性、みたいな浪漫的な見方を前提に受け入れているのだ。が、わたしブログ文章は、そんな文学じみた話ではなく、単に散文的な現実を女性が生きさせられている対応としてあるにすぎない、と妻の遺した日記等から、暴露させてみたのである。いく子は、千葉の高校にはいって、図書館から、星新一の『ボッコちゃん』を借りているが、もし星新一が、女性を神秘化してみせる見方が男の機械(ロボット)的な妄想にすぎない、と告発してこの作品を書いているなら、星の方が水上より正解に近いだろう。そしておそらく、中学・高校生時代のいく子は、自分が悪女(魔性の女)としてどうも男から見られてしまうことに悩んでいたのでないかと思われる。サガンの小説なども続けて借りていることが、図書カードから知れる。


※余談だが、ホリエモンがユーチューブで、フカキョンと結婚し離婚した起業家から聞いた話として、魔性と言われる彼女はすげえらしいよ、言えないけど、おまえよく耐えたよな、と発言した。たぶん、金にまつわることとしてほのめかしているのではないかと思う。がのちに適応障害で芸能活動を休止することになった彼女は、男からぶんどった金を、シュレッダーにかけて粉々にしてごみ捨てにだしているかもしれない。女は金ではないし、男がフェティッシュに抱く性的部位の記号的意味は理解しようがないので、体をあげることなどもなんとも思わないだろう。男が、女を落とした、とか、ものにした、と体のゲットを自惚るとき、そんな思い込みは拙い意味での文学的な習慣である。女性はもっと、散文的なところにいる。


その妻も、自殺の衝動と闘いながら、生きていた。私と結婚して何年もたってから、たぶん息子が5歳くらいだったか、のカレンダー形式日記に、久しぶりにこの感覚がよみがえってきた、ずっと忘れていた、みたいな記述がある。たぶん、「森のクマさん」と仮題してユーチューブにアップしたダンスとだぶっている時期なのでは、と推論する(いちいち確認しないが)。そこでも、ロシアンルーレットの素振なように、ピストルをこめかみに当てる振り付けがみられる。この自殺衝動は、どこから来るのか? 日記では、自分でもわからない、と言っていることになるのだろう。たぶん、生まれてすぐの幼少期なのだ。


いく子が生まれた1958年とは、水俣病が発覚し、漁師たちが工場を占拠したり暴力事件に発展していった年である。ダイナマイトが盗まれている、チッソ幹部が暮らす陣内屋敷を爆破し、その家族にも危害を加える、という噂も飛び交っているような状況である。おそらく、入社して10年ほどの若き父は、その対応におわれて、生まれたばかりの子供の面倒など見ている暇もなかったに違いない。そうした幼少期のアルバム写真は、ほとんどない。いく子や、ひとつ年下の妹の写真は、幼稚園くらいからである。妹さんによると、ほとんど、ほったらかしだったそうである。だから、冒頭写真でも使ったように、すでに危険が周知されていた百間の海で、二人してよく遊んだそうである(見るからに汚かったそうである)。そして、父母のアルバムはない。あったはずだと妹さんはいうが、ない。それどころか、二人の子供たちのアルバムのなかで、父の同僚の送別会などの写真ページもあったらしいのだが、説明文字の痕跡だけが残って、そのページ自体が破られているのである。父が持っていたかもしれない資料というのも、まったく存在していない。単に、リフォームするさい、いく子が、捨てた、ということなのだろうか? しかし、あのアルバムの引き裂かれた痕跡群は?


息子は、高一まで、おねしょだった。以前のブログでも言及したが、私の記憶では、夫婦喧嘩が始まったのは小学二年の暗記勉強がでてきてからだ。幼少期は幸せだったはずだ、となると、その前に、実は母子間で、何かあったのか? と推定していた。そして、結婚後の、カレンダー形式の日記が見つかってきた。すると、やはりどうもそうだったのだ。いく子は、手をあげてしまって、自分がコントロールできないことに悩んでいた。私はそのことに、まったく気づかなかった。


いく子が、不倫関係で壊した家庭の子供は、施設で庇護され、どうなっていっただろう? 成長していれば、40歳くらいなのではなかろうか。生みの両親のどちらかが、改めて引き取ったりしただろうか? 男は、生きているだろうか?


サヘルさんは、一番伝えたいことのひとつとして、次のように言った。子供たちが一番のぞんでいること、それはあなたがた大人たちが、幸せでいてくれることです。