2025年5月24日土曜日

映画『V.MARIA』(宮崎大祐監督)を観る

 


「連帯婚を基礎とする古代社会では特定の人間を対象として妻問うことは社会通念に反するから、罪の意識をまぬかれない。したがってこの矛盾を克服するためにはさまざまな贖罪の意識が必要となった。」(村上信彦著『高群逸枝と柳田国男 婚制の問題を中心に』 大和書房)

 

宮崎大祐監督の作品は、『大和(カルフォルニア)』の感想をこのブログ上で書いて、監督本人からの評価反応があったので、以来、ずっと見続けて感想を綴ってきている。が今回は、音楽が全面に出るらしいというので、その分野の趣味と知識のない私には、反応できないのだろうと思っていた。が主人公の高校生マリアが、亡くなった母の開けてはいけないという段ボール箱を開け、開けて見たからにはこれを背負え、というような書置きに促され、その翌日だったか、母の遺品にあったものと同じ小さなキーホルダー式の人形を鞄につけていた同級生ハナと一緒に、母が好きだったヴィジュアル系のバンド演奏を聴きに行く途上、路地道の倉庫に落書きされた絵のような文字が写っているのを目にして、私は愕然としてしまった。一年半ほどまえに亡くなった妻のことが強迫観念のように襲ってきたからである。

 私の妻も、生前に触るなと言っていた段ボール箱の山を残していた。私はその禁断の箱を開けた。三十歳の妻の、がりがりにやせたニューヨークでの写真があった。背景は、ニューヨークの壁を埋め尽くす絵文字のような落書きだった。四十半ばの妻と三十半ばで知り合い結婚した私は、妻の若いころのことは何も知らない。「傷心旅行」と、友に宛てた手紙にはあった。小学生卒業時の寄せ書きから、日記や手紙・手帳のたぐいが全て残っていた。アート系のダンサーになった妻だから、自らのダンス映像もあり、背景でも使う音楽のカセットテープ群もあった。妻の表現は、自身が被ってきた苦境の発散に近く、その源をたどっていくと、水俣という出自が大きいにことに気づく。父が、水俣病を引き起こした会社の幹部になっていった子息であった。そこを探ると、水俣病事件史を書いた石牟礼道子にゆき、さらに探ると、石牟礼が師事した同郷の高群逸枝にゆきついた。日本で初めて女性学を起こした詩人・在野の研究者である。彼女はたんたんと、暗黙に父権を擁護する学問を打ち立てた柳田国男の民俗学を覆していった。その業績は、おそらく今でも正当に評価されていない。妻が背負って生きてきた課題を自分のものとして背負い続けるとは、高群が開示させた母系の現実性をまず喚起させることとなっていったのである。

 

 

V.MARIA』。――この映画タイトルは、原曲の『Virgin Mary』 の変更であろうと思われる。しかしこの変更にこそ、宮崎監督がこれまで一貫してテーマ的に追及してきている自身の問いが露呈している。池袋シネマロサでの舞台挨拶では、映画最後にこの曲を歌う段になって、迷った末になんらかの変更を作曲家に申し出たというエピソードが披露されていたが、この件にまつわることなのではなかろうか。英語圏では、マリア様のことを「Mary」と表記し、発音する。これがMariaになるのは、移民した南米系の者たちが子息にそう土着のまま名づけたりすることがあるからである。そもそも、マリア信仰自体が、父権的なキリスト教を受容するための土着的な工夫、露呈だ。宮崎監督がMaryMriaに変えたのは、自身の土着的な感性にこだわり探っているからであろう。そしてこの探求が、「V.」への変更にも現れる。このVは、Virginではなく、音楽ジャンルで使用されるVisualであろう。しかしこのvisionは、ジャンルとしてというより、より語源的に、洞察、幻視、霊的体験、つまりは見えないものを透視する力としてである。Visual Mariaとは、埋もれて見えなくなってしまった土着的な霊性をみようとし、そこに、母系的な力のようなものがあるのではないか、という問いの顕在化なのだ。

 

    Noteでのインタビューで、監督は「欧米文化とヤンキー文化の影響を受けて咲いた、奇妙で土着的で唯一無二の音楽と遭遇する若者の映画をつくりたいと思っていた」と述べている。さらに「V系文化やヤンキー文化も仲間にある程度寛容で、何よりも関係主義的で母性的なところがある」とも。(『V. MARIA』宮崎大祐監督ロングインタビュー(前編)|daichiyoshino

 

マリアが母・聖子の遺影の下にいる冒頭、母の母、マリアからすれば祖母が現れる。背中を伸ばす器具はないか、とマリアにきく。ということは、祖母の実家というより、母の家なのだろう。が、マリアはのちに、友人には「おばあちゃんち」と紹介している。「おじいちゃんち」でもなく。マリアが夜おそく帰宅したとき、おそらくは祖母の靴が玄関にあるシーンがアップされる。だから、祖母は別のところに住んでいて、孫娘のために夜食を作っていたのだろう。家には、先祖の写真、祖父の写真などは飾られていない。父と母は離婚したのかもしれないから、父との家族写真などがないのは普通かもしれない。が、この女だけしかおらず、しかも、祖母は娘に家をゆずって他の家にいるらしい、という設定は、奇妙ではないだろうか?

 

この映画の舞台は、大和市周辺であろうとおもわれる。源頼朝が鷹狩をしていたといわれもあるかつての山地。その鎌倉時代とは、高群の史実によれば、擬制婿取婚という、以後確立されていく父権原則に母系原理が最後の抵抗を示した婚姻形態を残す。

 

<つまり、「家は女のもの」という太古以来の頑固な意識、したがって婚姻は男が女のところにくる形式以外にはないという母系制以来の伝統が、このどたん場におよんでもなお生きて原理となって作用しているわけで、これを要約すれば、すなわち擬制婿取婚は、女が男側へ迎えられることとなったこの現象――日本民族が太古以来かつて経験したことのなかったこの現象――にたいして、招婿婚原理すなわち女系原理が、最後の抵抗と権威を示した婚姻形態であったといえる。>(『高群逸枝全集/第6巻』「日本婚姻史」 理論社)

 

宮崎監督が、まず透視しようと設定したのは、そのようなヴィジョンである。ここでのヴィジョンには、過去だけではなく、将来(ヴィジョン)を持つという言い方にあるような理想像も含む。現在に埋もれた過去の系譜の洞察に、願う未来社会を予見する。その時、ヴィジョンは土着性を超えて普遍性を身に纏おうとする。

 

母・聖子は、「東南アジア」にパラグライダーをやりにいき、その帰路か、旅客機の事故により死亡したとされる。わざと観光地を曖昧にした表現には、何か意図があると思われるが、最初はマリア信仰の強いカトリック地帯のフィリピンかとも思ったが、もしかして、『TOURISM』とかけたシンガポールなのかもしれない。ただ私は、聖子やハナが所持していた人形から、ブードゥー人形を連想する。この販売の拠点はタイであり、パラグライダー観光の人気国のひとつだ。しかし重要なのは、ブードゥー教である。これは中米ハイチで、黒人奴隷がキリスト教を受容するに土着的に変形させたシャーマン的な密教のようであるらしい。呪いの宗教のような地下の雰囲気がある。もしかして、アメリカの南部地域のプロテスタント教会でも、黒人の系譜が強く、カトリックのようなヴィジュアル的な雰囲気があり、映画パンフレットから推論すれば、監督が学生の頃に触れた早稲田大学近辺であろうプロテスタント系の教会で触れた音楽体験にも、この普遍宗教の向うに土着性の触知を幻視したのかもしれない。

 

マリアがハナに連れられていったビジュアル系バンドの観衆のダンスも、地下にもぐり、シャーマンのような身振りにあふれている。こういう風に首を振るのだと、マリアはハナから教えられる。が、この身振りは、のちに、二人が喧嘩別れし、また仲直りした儀式のように、お互いが、ごめんなさいと首を何度も縦に振る仕草と照応させられる。ということは、このシャーマン的な身振りが、殴り合いの喧嘩に始末する男性原理的な対応とは正反対な、平和を構築していく女性原理的な儀式とし象徴的に理解され、提示されているということだ。ここには、監督の時代認識、戦争へといたっている現今の情勢への批判が結びついているのだろう。母の日記から読み上げられた日付は、8/15日の敗戦、9/7日の沖縄での降伏調印式(沖縄では「市民平和の日」)、そして7/8日が何かのおりに言及された。この日は、オウム真理教の地下鉄サリン事件があった日である。そしてこの事件が起きた今(2025年)より三十年前に、母・聖子とヴィジュアル系バンド「GUILTY」のギター&ボーカリストのカナタ(おそらく彼方であろう)が出会ったのである。そしてこのバンドを愛するファンの女性群から、聖子は集団リンチを受けてカナタとは別れることになったのだ。

 

聖子は、赤い戦闘服のような衣装の背中に、「GUILTY 革命前夜」と刺繍していた。マリアも、この母の遺品を着て、三十年後に出会ったカナタのライブを訪れる。

 

何が、「革命前夜」なのだろうか? おそらくここにも、原曲(LUNA SEA「革命」)や原作(ベルトリッチの映画タイトルから来ているという)を超えて喚起されてくる監督の問題意識が重ねられている。ギルティー、罪、これはアダムとエヴァの物語、神の言葉に背きリンゴを女が食べてしまって善悪の分かれた世界に墜ちてしまったというキリスト教的な原罪を想起させようとしているのではないのだ。もっと、ヴィジュアルでなければならない。一人の男を独占しようとして聖子は群れから暴行を受け排除された。ここにあるのは、仲間を裏切っても愛に生きるという新しい罪意識の芽生えなのだ。高群が、より太古の群婚制から招婿婚への移行に見たのも、この愛と罪の歴史である。(冒頭引用参照)

 

<招婿婚の発現によって、群婚制は一部を遺存して亡びたが、群婚本能は亡びなかった。いったい群婚制というのは、その頃や、また前節の終りの若衆組條でもみたように、性の連帯感にたつ婚制であるが、招婿婚では、個別式すなわち対偶式となり、連帯観念を断絶する。しかし、個別式となったからとて、多夫多妻―男が同時に多くの女に通い、女が同時に多くの男を迎えることはさまたげない。この点外見はほとんどプナルア時代とかわらないものがあるが、プナルア時代では否応なしの連帯観念であり、自由意志のそれではない。それが、ここでは自由意志で、自分の好きな多くの相手に通い、また多くの相手を迎えるのである。自由選択権が原則として個人にあたえられたのである。こうして群婚本能は、連帯性の部分をたちきり、自由化して再生した。>(『高群逸枝全集/第2巻』「招婿婚の研究一」 理論社 註;旧漢字適当に変更)

 

    この映画を見る一週間ほど前か、近所の千葉劇場で4Kリバイバルになったエドワード・ヤンの『カップルズ』をみた。そこでも、男(女)友達の恋人は自分たちの恋人、独占するなという群れ意識規範から離れて、一対のカップルを選択する国際的な恋愛の様、土着性と普遍性がテーマとなって描写されている。また私が三十年つとめた植木屋親方は、任侠ものの暴走族シリーズDVDSPECTER』に出てきて中学同級生を伝説的な総長に担ぎ上げた再興メンバーの一人だが、若い私に酒の席でこう言った、「おまえは友達がやったあとの女とやれないだろう、俺たちはできる」と。――この群れとしての性は、歴史的ではあるが、高群は「本能」とも言っている。この反復は、精神分析化できるものではない。冒頭引用の村上も、ダーウィンは昆虫に伺える「本能」の出自(歴史)は理論化できなかったと要約している。私自身は、量子力学にあるフェルミ粒子とボース粒子のような区別原理が、人の生体にも作用しているのではないかと探っている。

 

聖子は、罪の意識を持つがゆえに、群れる者たちを切断しているわけではないのだ。あくまで、その仲間の連帯性を尊重しているのである。そこに、近代個人主義的な恋愛観とは違う太古性が反復され、それが母系にある本能(群れ)を超えた思想なのだ。この思想は、聖子にリンチを加えた側にも実は共有されていたことが示される。聖子を暴行した女性の一人は、バンギャル仲間が結婚などで離れていく中でも残り、「ライブハウスのキョーコ」として恐れられ崇められていた。その彼女は、自分が聖子にしてしまったことを悔い、贖罪意識をもっていた。だから、聖子の娘のマリアの想いを知ったとき、世代(時間)を超えた連帯性の側に立つのである。

マリアもキョーコも、その母聖子に伺えた思想を継承し、背負うとしているのだ。それは文明(父権)の所産として文字体系化されてゆく思考ではなく、それを流動化させ解体していかせるような落書き絵文字として提示されることを要請する。あるいは、言葉でなく、何度も首振りを繰り返すシャーマン的な身振り、ダンスとして表現される。群れのなかで、彼女たちは屹立し一人の立場にたつが、たとえ制裁を受け世間の風潮に排除されてもそこに甘んじることなく、毅然として仲間とともにあろうとする連帯の側にたたずむのだ。それは、高群が生涯を通して表明してきた自身の癖であり、思想である。

 

    キョーコを演じるサヘル・ローズさんの映画『花束』はまだ見ることができないでいるが、私が悲嘆に暮れていた半年ほど前になるか、千葉市中央区のの商工会議所に、子供支援組織の後援で呼ばれ自身の体験談を語ってくれた。その感想もこのブログで綴っている(ダンス&パンセ: サヘル・ローズさんの話から)。がこの映画では、キョーコとして着るTシャツの絵柄が気になった。私には、火に見えた。そこから、サヘルさんの出自イランの土着宗教である拝火教を連想した。高群の最期の作品自伝タイトルは『火の国の女の日記』である。これは、熊本男児の男性原理的な世界で自立していく女の苦闘の日記である。が、それは男性嫌悪にゆきつくようなフェミニズムにはならず、あくまで男との連帯を模索し、一対の「カップル」を成就し全うしていった愛の記録なのだ。

 

「革命前夜」とは、三十年前に、この思想を、ヴィジョンを垣間見たではないか、という監督の内省なのだろう。バブル経済がはじけ、自然災害やテロ事件が連続する時代相の最中に、そんな吉兆もまた見たのではなかったか、と。が、世界はまたそのヴィジョンを地下に追いやり、友と敵を分け勝敗を競う父権男性原理的な戦争に突入した。しかし前夜で終わってしまっても、まだその命脈は消えているわけではない。それは、本能と共存してそこにある。目に隠されていても、いつでもそこにあるのであり、私たちを刺激しつづけている霊的な力なのだ。死んだはずの聖子も、娘や友や仲間たちと一緒に、ヴィジュアルな音楽に満たされたその場所で実在をあかすのだ。

 

この映画は、そんな地下水脈の刺激に呼応しようとする試みであり、宮崎大祐監督のこれまでの映画の集約的な問いの昇華でもあるのだろう。

 

リンク;

ダンス&パンセ: 映画「大和(カルフォルニア)」を観る――座間事件(2)

ダンス&パンセ: 宮崎大祐監督・映画『Tourism』を観る

ダンス&パンセ: 『VIDEOPHOBIA』と『スパイの妻』

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