2025年7月26日土曜日

スラヴォイ・ジジェク著『「進歩」を疑う』(早川健治訳 NHK出版新書)


「つまり、労働でも言語でもなく性こそが、われわれ(人間)が自然から切断されるポイントなのである。性とは、われわれが存在論的な不完全性に直面し、無限の自己再生産になるというループ――欲望のねらい(aim)が欲望の目標(goal)ではなく、その目標の欠如の再生産になるというループ――にとらわれる場なのである。」(スラヴォイ・ジジェク著『性と頓挫する絶対』 中山徹+鈴木英明訳 青土社)

 

前回ブログで論じた平野啓一郎著『本心』を読んでいて、私は濱口竜介の映画『悪は存在しない』を想い起した。この映画監督も、平野より少し若いが、氷河期世代と呼ばれた年代の人である。どちらも、ものわかりのよい相対主義、いわゆる善にも悪にも熱意的に加担するのをさけてゆくようなバランス感覚で自己を律している感がある。

私はこの映画を、同時期に日本公開されたヴェンダースの『PERFECT DAYS』と対比した(ダンス&パンセ: 映画『悪は存在しない』と『PERFECT DAYS)。

濱口の価値態度は、自然を開発する側の人間の事情もわかってくれば、一概に開発派が悪とは言えないのではないか、という視点、それが映画冒頭で示唆されるカラマツの風景(開発荒廃と自然回復が一体的な途上であるような)、人間悪を自然悪によっても相対化させていかせるようなバランス、良識を握持しているように見えた。

ヴェンダースは、悪は存在するのだ、しかしその悪の重なりのなかでこそ、木漏れ日のように善が差してくるのだ、という覚悟を示しているようにみえた。私は、ヴェンダースの方に共感を持った。

 

ジジェクのこの新書の後書きで、訳者の早川健治が、ジジェクの『PERFECT DAYS』への扱いに関し、こう述べている。

 

<ジジェクは同作を、ささやかな日常生活の幸せの維持に満足して政治に関わろうとしない個人を描いたアジア高所得国の作品の例として取り上げている。それ自体は妥当な解釈かもしれない。しかし、そもそも『PERFECT DAYS』はリアリズム映画ではなく、ヴィム・ヴェンダース率いる政策チームの日本像の投影、THE TOKYO TOILETの宣伝、そして欧米の観衆からの需要の各要素に合致したファンタジーと言ったほうが正確だろう。>

 

そして日本での伊藤詩織の著作『Black Box』やテレビゲーム『Final Fantasy Ⅶ』をあげて、体制にあらがう若い政治的個人や動きもあることを付加する。

 

しかし、ヴェンダース映画の文字通りな物語的メッセージは、こうなっている、「金持ちよ、その立場を捨ててトイレ掃除のような労働者になれ、それこそがパーフェクトな日々なのだ」、と。そもそも、なんでこのトイレ掃除をする男は、資産家の家庭から下りたのだろうか? それこそが政治性ではないのだろうか? ヴェンダースは、欧米の脱政治化した観衆やアジア高所得者向けに、イロニーもなく、そんなメッセージ性を提出したのだろうか? これを観たお金持ちは、どう感じるのだろうか?

 

ジジェクは、『性と頓挫する絶対』において、映画『追憶』をあげてこう指摘する。この映画が、このカップルの離婚後として、もし活動家の女性のほうが過激すぎるゆえに無害な地域指導者として受け入れられていて、流行作家の一員となった男の方が実は過激な政治的活動で挫折し絶望しているのだ、というような視点を孕んでいたら、もっとよくなっていただろうと。

 

少なくとも、ヴェンダースの映画には、この反転、ジジェクのいうメビウスの輪のような構造が暗示されている。平野や濱口には、むしろ悪に加担してしまう「盲目の中の洞察」がないゆえに、それ以前の、良識的なバランス、相対主義に固着している。

 

『本心』で若い主人公らが求めているのは、同性愛者やペットとの同居も同等となるような、人間関係的な軋轢を回避した「ルームメイト」的関係のように見えた。そう仮説して、より話をわかりやすくするために、現今のペット事情をとりあげてみよう。

 

私の住んでいる地域の町内会回覧板には、こう書かれた案内がいつも挿入されてくる。猫は家の中で飼うよう注意してください。たしかに私の芝庭には、猫のウンチがたまってきたりするし、困るのはわかるし、私もこの猫野郎目! と対策をねり、芝や雑草もある程度伸ばし放題にさせておく(すると猫はこない、がやはり近所というより見回り顔役から文句がきそう)。がそれが猫だろうと思うので、私は町会で、猫って、家の中で飼えるんですか? と質問する。それじゃ猫じゃなくなってしまうんじゃ……いや今は犬だってそうだ。番犬として庭の犬小屋にでも外だししていたら、近所から文句がきそうだ。だから、やたら小型化された犬がでまわっている(しかもあらかじめしつけられて)。たしかに可愛いのはわかるが、何か変だ、と感じる私の感覚が「昭和かよ」という話になるのだろう。

 

しかしこの件は、ジジェクの哲学で解釈できる。ペットに優しい人社会は優しい平和な世界、そうだよね? とする影には、小型化されて可愛くなった大量のペットが生産されるその分、売れ残った大量の子犬たちが廃棄され、その構造が見えなくさせられているのだ。犬猫の野生という本性とされたものも、全体的な見方が変わることによって変化を受け、つまりは自然自体もが変化をするというのが、量子論的な科学示唆から知れる現実である。

 

ジジェクからすれば、本源的な対立が自然にはあり、男女やトランスジェンダーといった性的関係も、その対立(欠如・矛盾・敵対)を埋めるための防衛的な方策である。

 

人間関係上の軋轢闘争を好まない、忌避する若い世代は、なんらかの身体的な傷を抱え込んだのではないか、とだからその根源的な対立を仮説することによって、逆に推定されてもくる。対立を前提として容認的に抱え込んでいるような恋愛という欲望が幻想だとしても、そこから逃げた相対主義的な良識、バランスとりは、もっと悪いもの(「父またはもっと悪いもの」)を惹起させているのかもしれない。

 

<つまりは、真の進歩とは、過去のすべての進歩でつぶされた鳥たちを(引用者註…つまり大量廃棄されるペット)遡及的に贖おうとする。それは(バイオ宇宙主義が夢見たように)現実世界で贖うという意味ではなく、そこにあった潜在的可能性を贖うということだ。>

 

次回は、たぶん、冒頭引用のジジェクの『性と頓挫する絶対』を扱う。がその前に、また熊本にゆき、その天草の地で、東京でみそびれた映画をみる。ヘーゲルは、精神とは骨である、と言ったそうだ。熊本は山鹿で撮られた映画『骨なし灯篭』は、どんな精神をみせてくれるだろうか?


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