2026年11月1日日曜日

エリック・ホッファーの「信仰」をめぐる


「人間とは、まったく魅惑的な被造物である。そして、恥辱や弱さをプライドや信仰に転化する、打ちひしがれた魂の錬金術ほど魅惑的なものはない。」(エリック・ホッファー著 『魂の錬金術 全アフォリズム集』 中本義彦訳 作品社)

 

ホッファーの説く「信仰」について考えてみよう。

上記の引用からもわかるように、ホッファーは、信仰あるものを、「狂信者(the true believer)」として否定しているのではない。むしろ、「魅惑的」だと賛美している。処女作にあたる『大衆運動』(『THE TRUE BELIEVER  Thoughts on the Nature of Mass Movements』)その他では、一見、猛烈に批判しているようにみえようと。執行草舟が指摘するような「逆説」があるのだ。それは、柄谷が『現代という時代の気質』(ちくま学芸文庫)の後書きで指摘しているような端的な読み方では読み得ないような強度をもっている。このホッファーの「逆説」の強度、ひねくれた強さは、ホッファーの立場が、「愛」によっているからなのだ。

 

<山を動かす技術があるところでは、山を動かす信仰はいらない>(『魂の錬金術』)

 

柄谷はこう説明している。<要するに、彼は自然と闘ってはならない。自然を加工すべきである、といっているのだ。山を動かす信仰とは文字通り山と呪術的に闘うことであるが、山を動かす技術はたんに自然を認識しその力を利用することである。同じことが情念という自然についていえる。>―—が、そんなわりきった理屈でわかったような話ではない。

 

そもそもホッファーのこの山の比喩は、アンリ・ベルグソンの『道徳と宗教の二つの源泉』から来ている。

 

<信仰の強さは、ベルグソン(中略)が指摘したように、山を動かすことにではなく、動かす山を見ないことに現れる。そして、周囲の世界の変わりやすさや、意外な事件や、不快な現実にたいして彼が無感覚なのは、絶対に正しいと彼がいう教義の確実性を彼が信じているからである。>(『大衆運動』)

 

まるで信仰者を盲目的な狂信者として記述しているようなこの箇所も、実は、ベルグソンが最終的な視点にすえる「愛」を、ホッファーも首肯しているところからくる。がホッファーのその「愛」の理解の仕方が屈折的になるところには、ホッファー固有の精神性があるのだろう。海を動かしたモーセも、大衆を動かしたヒトラーも、ホッファーは同列に扱う視点をとる(ちなみに明治天皇も同じ活動家に分類される)。その冷徹というか、透徹していこうという意志の強さ、あるいは世界への絶望の真摯さが、彼の記述の是非を、凡人には不透明にさせているのだ。

 

では、ベルグソンはどう言っているか?

その該当らしきところを抜き書きしてみよう。

 

<このような解放された魂には、物質的な障害のことは語らないでいただきたい! 語ったとしても、この魂は、障害は避けられねばならないとも、それは力ずくで突破されうるとも答えないだろう。この魂は障害など実在しないとはっきり言うだろう。かかる魂の道徳的確信について、それは山をも持ち上げるだろうと言うことはできない。なぜなら、この魂には持ち上げるべき山が見えないからだ。諸君が障害についてあれこれ推論する限り、障害はそれがあるところから動かないだろう。諸君が障害を見つめている限り、諸君はそれを諸部分へと分解し、それを一つづつ乗り越えねばならないだろうが、細分化は限りないものでありうるので、諸君がすべてを汲み尽したことを語るものは何一つない。しかし、諸君が障害の存在を否定するなら、諸君はそれをひとまとめに全部取り除くことができる。>(p72 『道徳と宗教の二つの源泉』 ちくま学芸文庫 合田正人訳)

 

<仏教は人間の行動を信頼していなかったのだ。唯一この信頼のみが力能となり、山をも持ち上げることができる。完全な神秘主義者であれば、そこまで行っただろう。>(p310)

 

わたしたちは、いまだエベレストや富士山を動かすことはできない。そこらの山を再分割し調べてやろうとしても、現在日本のリニアモーターカーや外環道工事の自然を加工していくさまを見て見ればいい。それすらできないのは、「全部」(系の相互作用)を引き受けることができないからである(それをできるのが「神秘主義」だといっているのだ)。裏山を崩して開発するくらいなら、旧石器時代や縄文時代でもできた。しかも彼らは、何百年、何世代にもわたってそれを続行(信仰)することによってである。ホッファーは、石器時代の人類の平均寿命が25歳であることから、それらが未熟な子供の熱狂と遊びの延長においてあっただろうと推測している。(「未成年の時代」『現代という時代の気質』——だから、この現代の「未成年(学生運動)」批判にも、両義性・逆説があるのだ。区別もしているけれど。)

しかし、ベルグソンによれば、それらの具体的に山を動かす信仰(神秘主義)は、「閉じた」「静的宗教」であって、そこからの「開かれた」「動的宗教」への飛躍(愛による民主主義)には、違った人間、英雄や天才や聖人といった、とびとびの発生が必要なのだという。

ホッファーも、この認識を共有している。

 

<大衆運動が発生するさいに、指導者は決定的な役割を果たすと考えられているけれども、指導者には、運動を発生させる条件を作り出す能力はないことは明らかである。指導者には、運動を空間から呪文で呼び出すことはできない。運動と指導者との出現が可能になるまえに、追従し服従したいという熱望と、現状についての極端な不満とが存在しなければならない。>(p126『大衆運動』)

<ひとたび舞台の道具立てができると、傑出した指導者の存在が絶対に必要になる。指導者がいなければ、運動はあり得ないであろう。>(p127『大衆運動』)

 

私の見立てでは、ベルグソンは、この天才(指導者)の出現を、量子力学の知見を背景に推敲している。私には、フェルミ粒子(単独)とボーズ粒子(群れ)という二区分の振る舞いが連想されるが。そしてホッファーの、「大衆運動」内における暗黙の区別、モーセとヒトラーの差違、石器時代の子供と現代の未成年の趣味的な区別には(ホッファーは個人に重きを置いている)、エマニュエル・トッドが家族人類学的に区別したことが、労働現場から洞察されているように読める。

 

<自然との戦争には、ほとんど注目されていないが私にいつも感銘を与えてきたひとつの側面がある。私には、維持するという平凡な仕事にはなにかしら荘厳の気が漂っているように思われる。私はそれを時間に対する挑戦とみなしている。維持するより築くほうが容易なのだ。…(略)…外国生まれの沖仲仕や船乗りと話してみて、私は維持能力が西ヨーロッパ、スカンジナヴィア諸国、アングロ・サクソン世界、および日本の特異性である、という印象を得た。…(略)…奇妙なことに、文明の発祥の地アジアでは、自然からの離反と自然を窮地に追い込む能力とは、西洋の若い文明とくらべてはるかに目立たない。>(「自然の回復」『現代という時代の気質』)

 

しかし、ホッファーは、この「区別」、トッド風に言い換えれば、核家族的なもの(自由と平等)と共同体家族的なもの(権威)、との区別は曖昧なままにする。対立ではなく、どこか絡みあいながら記述されていくのだ。おそらくそれは、ベルグソンの説いた「愛」の受容と、ホッファー自身のその理解の仕方にかかわるのだろう。人間(「魂の錬金術」)に魅惑されても、素直に愛しきれているわけではない。しかしその「愛」を受け入れるからこそ、ベルグソンのような明解なための区別とは違った記述になっていくのだ。ホッファーの人生をおもえば、その曖昧さ、両義性、屈折(逆説)こそが、「愛」の本当の姿なのではないか、という気もしてくる。それは温かく、冷徹だ。信じてないが、信じているのだ。ホッファーが「大衆」を馬鹿やアホだと言うことはない。

 

※ 柄谷行人は、最近、文芸誌『群像』で連載をはじめだした「新約聖書 変奏」で、シュタイナーを引用し言及している。脚注からの私の推論では、その箇所には、「宗教」に関心を抱いて研究していた現奥さんの示唆があったのだろうと思う。しかし、彼女が「共著」の提案にのらなかったというところにこそ、理論の要があることになるのだ。私は、このブログでも、贈与といってもたくさんある、どの贈与だ、と柄谷の「交換様式論」をめぐり問うたことがある。私の妻がつまらないものだけどともっていってと近所への贈物をもたされたエピソードをあげながら。今回、柄谷は、「純粋贈与」という言葉をだしている。しかしならば、「純粋」とはなんだ? となるだろう。そしてそれを普通の世間の意味でざっとして受けいれる時、純粋な人間が、そもそも金儲けにのるのか、国の権威に素直になるのか、なれるわけがないという人の弱さのことをそう呼びもするのだ、となる。ならば、「交換様式論」など、不要なのだ。そんなインテリの言葉で説得されないと純粋を受け入れられないというのならば、そんな知識階級は初めから問題外、不純の階層であることが論理前提されている。つまり、こうした論理の構え、記述のあり様にこそ、ホッファーが信じ、魅惑された人間や人類への「愛」が欠けている証左なのだ。それは唯物論(見た目の世界)にではなく、神秘主義と大衆に受け入れられてしまうものにこそ通じているのである。

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