2009年3月28日土曜日

草の根の意地と、安全管理


「「我々ロックフェラー財団がウーマンリブ運動に資金を提供したんだよ。我々が新聞やテレビで大いにこの運動を盛り上げたんだよ。その大きな理由は2つある。1つ目は女性が外に勤めに出ると所得税が取れるので税収が増える」後述しますが、連邦所得税の全額はロックフェラー家を始めとする国際金融資本家の懐に入るようになっています。ニコラスはそこまでは言っていませんが、所得税収が増えると彼らの懐が温かくなるという筋書きなのです。「2つ目は家庭が崩壊するので、子供の教育が母親から学校やテレビに移っていく。我々が子供をコントロールしやすくなる」とニコラスは、ロックフェラーが女性の権利向上を積極的に支援した理由を、アーロンに説明したのでした。」(菊川征司著『闇の世界金融の超不都合な真実』徳間書店)


WEC決勝戦で、決勝打を放ったイチローは、「無の境地でいきたかったんですけど」と断りながら、もし自分がこの延長戦ツーアウト2・3塁の場面でヒットを打ったら「俺もってるじゃん」との雑念を抱いていたという。そう色々なことを考えてしまう場合は打てないもんなんですが、と付け加えながら。そしてのちのインタビューでは、「神が降りてきましたね」と解説していたようだ。イチローが「持っている」もの、とは、新聞でのカッコつきで推察挿入された「運」という確率(数学)的な用語というより、まさに<憑き物>、先のブログで引用した芸術家の文章で紹介されるところの荻生徂徠のいう「鬼神」、つまりより宗教的な意味合いに近いものだろう。そんな超越論的な感覚が、技術(=理論)を磨いて(=統制して)いるのだ。神は光とともにあったと信じたアイシュタインが、自ら作った理論が神の居場所をなくしてしまったら、自分は間違っているかもしれないとまた新たに理論を練り直し始めるように。その厳格さだけが、確率をまぐれ(運)ではなく、必然=格律として人々を説得(=信じ)させるのだ。でそのイチローはまた、「日本のために勝った」とも言う。イチローの神は、国家的、あるいはわが同族=共同体的なものなのだろうか?

*原監督が優勝後のインタビューで、まさに「正々堂々」「潔く」という日本男児的な言葉使いをしていた、のには驚いた。ただそのイデオロギー的機能は逆説的に働いたようで、勝ちの意識に緊張しているよりは負けてもともと、みたいな余裕ある兄貴分の態度が、選手たちに安定感と自由な意識を与えた、ということになったのかもしれない。

「向こう30年、日本に手をだせないような勝ち方をしたい」と韓国戦に際し豪語するところからはじまった、一昨年のイチローのWBC参戦への決意は、なおさら韓国選手およびその同国ファンを奮い立たせる結果になったのだが、その驕りはオリンピックのメダル数を競うような、国別対抗的な意識、それを保証する経済進歩的な国力への後釜を無意識にもひきずって発言してしまったものなのだろうか? 野村監督のような管理野球を嫌い、日本シリーズで優勝できなかった一番の悔しさを「あんな野球に負けたくなかった」ともらす彼が、国家体制的な態度を引き受けているとは考えにくい。むしろ、前者の驕りと後者の嫌悪は地続きで、イチローは韓国のような国策(管理)的な野球体制では勝てないもの、を日本の野球文化にみてきた、ということではないのだろうか? かつて日本人にとって野球とは、そのベースボールの日本語訳どおり、貧しい子供たちが野原や空地で時間を忘れる、ブラジルでのサッカーのような社会的位置にあったのではないだろうか? 少年野球から甲子園そしてプロ野球への組織化といえども、そのリゾーム的な草の根の思いとネットワークが下地になっているのである。大リーグへと闘争=逃走した選手たちが、その文化形成での悪い面を批判してゆくけれど、この厚みをもった地層から自分たちが育ってきていることを自覚している。それが、自然的な熟成を飛び越えて、社会主義国のオリンピックでのメダル確保を目指させているような国策的な速度でおいつこうとしても、それは基本・原理的な態度として無理なのだ、俺たちに勝てるわけがないのだ、似て非なるものなのだ、……そうイチローは言いたかったのではないだろうか? いや、日本の選手たちが、韓国に勝ったからといって、日の丸をマウンドに立てる仕草をするとはおもわれない。優勝したイチローは日の丸を背中に羽織って駆け回るようなやんちゃさをみせるけれども、彼のいう日本とは、国家(=管理)とは亀裂を走らせるものだろう。私には、WBCの最後にみせたあの<センター返し>の一打は、「草の根の意地」に見えたのである。

しかしこの自然な歩みの厳密さと厳格さを合理化して(はしょって)、わかりやすい神がかりで人を操作=支配しようとするのが国家である。すでにオバマに政権が移ったアメリカでは、国民をなだめ動員する大掛かりな物語操作(イデオロギー)が発動されているようだ。いまだその後塵を拝している日本では、まさかイチローの言葉にあやかって「神風」の神話がでてくるともおもわれないが、しかしいまだ真剣み切実さの足りない能天気さに、「遅れたものが先になるだろう」ような両義的な可能性が残存している、ということなのかもしれない。イチローは資本家(企業)に管理されてWBCに出場できない大リーガー選手のことを「かわいそう」と思うという。アメリカの選手は、サッカー界と同様、お国(ボランタリー)のためというより個人(プロ)のため、という社会的位置にいる。イチローの発言はプロチーム(個人主義)としては後発国としての遅れを露呈させてくると同時に、そうは時代の流れに操作はされきれていない共同体的な心性を明かしているのだ。つまりここにも、草の根が残っている。国家官僚をはじめ、冒頭引用した国際的な金融資本家も、インテリ的な小手先の制度的操作で人々が管理できると信じているらしい。しかし女性が社会に進出し、子供がテレビを見るのは、そんな陰謀の結果ではないだろう。彼らのイスラエル建国がパレスチナの住民を思い通りに操作しきれずに終わってきているように、社会に進出した女性や子供が今後どう動くかは、地震のメカニズムに似た「スランプ(自然の巻き返し)」のしのぎ方によるだろう。ニーチェは、そこを「ロシア的泥酔」として、冬眠する熊のようにひたすら眠ってやり過ごすことを説いたのだが……。もちろん、それは何もしない平和ボケ的な昨今の日本人の態度とは似て非なるものだ。安全カラーコーンと安全バーで囲ってあるその外ならば、そこで何が起きているかも気にかけずに談笑して通り過ぎ、あるいはその現場の真下でクレーン車をものめずらしそうに親子で見学している人々のような態度とは。それならば、韓国での工事現場でのように、外見的な安全対策がなにも講じてないような町の人々のほうがニーチェの哲学に近いだろう。何もなければ、自分の目で、それがどんな危険をもった場所なのかが見えてきてしまうだろう、ならばそこは足早に駆け抜けたり近寄らないようにするだろう。実際、日本での安全管理など、事故が起こったときの言い訳作りのようなもので、それを信じて安心している通行人をみると、現場の人間はアホかと思ってしまうのである。動物的な本能が、つまり自然力が退化している……。「昨日撮ってもらった写真なんですけど」と現場代理人をやりはじめた親方の息子が事務デスクから携帯をかけてくる。「ノーヘルの人いるんですよ。それ使えませんから。」と役所への提出書類の不備を指摘してくる。それは私が年上の職人に、肥料まきの作業なんだから、タオルを頭に巻いた今の姿のままでいい、いちいち現場写真だからってヘルメットとりにいかなくていいですよ、と断って撮ったものだった。被写体が作業員ふうな若造ならともかく、面構えだけで職人とわかる人にそんな形式の強要は礼儀知らずだというのが私の意見である。そして実際、役人でもそんな常識や教養は持っていて、機械的な所作をするものは下っ端なのだけど。しかしともあれ、どんなレベルであっても、ロックフェラーのような資本家や国家官僚に負けないようにするとは、そうした形式化を排して動物的な本能を失わないと意志することがまず第一なのだ。この自然に近い厳密さ厳格さだけが、スランプを素早く脱出させるのである。王貞治はスランプのときの対処として、「ボール球を振らないよう気をつける」ことをあげていた。じたばたせず、じっとしていることに集中するのだ。それが冬の厳しさに準備した熊の冬眠であり、「ロシア的泥酔」というニヒリズムを脱する方策なのである。WBC中、試合の流れを止めてしまうような状態だったイチローは、こうもインタビューに答えていた。「普段と変わらない自分でいることが僕の支え。この支えを崩すと、タフな試合の中では、自分を支えきれなくなってしまう」と。不調の中でもイチローが動じずじっとしていなかったら、おそらく日本代表は優勝までいけなかっただろう。それは何もしないで待つ日本的諦念感とは似て非なるものであり、むしろそれが、リーダーシップという実践的態度につながっているのだ。

でははたして、この世界的な危機のなかで、日本の政治家や官僚はどう行動しているだろうか? テポドンひとつにじたばたしはじめて、これから起こることのための言い訳作りのために、機械的な手続きをふんでいるだけなのではないだろうか? やたら動いているが、実はなにもしていない。北朝鮮が、人工衛星を運ぶロケットの破壊は「宣戦布告」とみなすと明白に挑発しているのに、なんでその挑発にのって動いてしまうのか? ほんとうに、戦争で答える覚悟があるというのか? それを受け入れさせる説得力=信仰を国民にみせているのか? むしろ、こんなあっけらかんとした挑発の裏には、なにかあるのではないかと勘ぐるのが普通ではないのだろうか? 北朝鮮の政府が、「正々堂々」と「潔く」戦いをのぞんでくるとは思われない。ほんとうは、誰が戦争をしたがっているのか? 本当に挑発(=結託)しているものが他にいるのではないか……われわれの本能は、厳しい冬を眠ってしのぐ熊のように目覚めているだろうか?

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