2010年3月10日水曜日

トヨタの合理性と人類の自然性


「韓国ドラマを観ていて、ときどき「あれっ、どこかで観た場面だな」と思うことがある。それは、現実にあった何かの現象だったり、他のドラマや映画のシーンだったりする場合もあるのだが、北朝鮮で見た映画やドラマとダブるときも少なくない。同じ民族だから、生活様式や習慣で相通じるところがあるのは当然だが、思想や理念においても、似た場面が出てくるとつい驚いてしまう。たとえば、『太王四神記』や『朱蒙』で主人公が臣下との間につくる人間関係は、北朝鮮の金日成の活動を描いた『革命映画』における指導者と部下との関係とまったく同じといってよかった。たとえば、戦争で勝つためには、兵士のなかで多少の犠牲者が出るのはやむを得ないといって無謀な戦いを挑もうとする指揮官に対し、タムドクは兵士一人ひとりの命を大切にしなければならないことを厳しく諭す。また、朱蒙は行軍途中、兵士たちの前で部下と親しげにシルム(相撲)を取って士気を高め、偶然そこにいた敵までも感動させてしまう。このように指導者がいつも部下を大切にし、苦労を共にする場面は、北朝鮮の映画やドラマ……」(蓮池薫著『私が見た、「韓国歴史ドラマ」の舞台と今』講談社)


冒頭引用のような蓮池氏の感想を、私も韓国歴史ドラマをみて思ったものである。むろん、私はそのドラマと、北朝鮮の社会とを連想比較するのではなく、自分が仕事としてやっている職人世界の社会に見られる様とを重ねてしまうのである。では、そのような社会から、トヨタのアメリカでのリコール問題に発する社長自らのアメリカ議会での公聴会に連なる模様を眺めていると、そのトヨタが従い従おうとしている合理性が、人間的に片手おちの疑わしいものに思えてくる。あのJapan as No.1のバブル時代のとき、トヨタの吹聴するカンバン方式なるものが世界的にも参照されはじめていた。郵政民営化にともなって、民間の合理性を取り入れて不合理に肥大した組織人員を矯正するのだと、トヨタの管理者が派遣されたりもした。そしてそこでは、勤務者の座る机から出入り口までの歩き方までが統制され、無駄なく最短コースでゆくのだと、床にテープをはりはじめた、とかの記事が紹介されもした。要するにこれは、アメリカでテーラーシステムとしてはじまった流れ機械化作業を、愚直なまでに下請けや末端の労働者へと推し進めたものにみえる。まったく日本人はまじめな優等生である、ということか? しかしおそらく、その公式(――外からみたら、それは学ぶべき公式にみえてしまう……)を自ら作った本場のアメリカでは、古風な職人意識や人間関係が残っていて、あるいはそんなに糞真面にやってなくて、その両者の齟齬が、公式の根拠(安全安心)は不在であるというゲーデルの数学的証明のように、今回露呈してしまったのではないか? 「いつあなたはその問題を知ったのか?」と公聴会で議員から豊田社長は問われ、「12月末ごろに、アメリカの運輸局の人が来たいう報告はあったのでしっていたが、その内容は知らなかった」と発言し、議員は「それは組織が縦割りだからなのではないのか?」と問い返した。この「縦割り」と翻訳されてきた言葉の意味がよくわからないのだが、会社組織自体が部分に分割された流れ作業、と解すれば、たしかに全体を判断する視点を欠いた官僚的な(無)責任組織、となってくる。どうして、豊田社長は、「何しにきたんだ?」と部下に質問しなかったのだろうか? 自分の所にきたのではないので、我関せず、現場(その部署、部分)に任せよう、という判断だったのだろうか? あるいは現場の当事者は、どうしてそんな重大事を、トップに知らせようとしなかったのだろう? 彼が、重大ではない、と認識することは、これぐらいの組織であるなら、そんな無能な人は出世していないだろうからありえない。政治家の秘書のように、自分が罪をふっかぶるようにボスには知らせない、というような事柄でもあるまい。あるいは自分の不埒がばれて困る、というような事柄でもないだろう、それは技術的な問題であって、管理者の一人(責任者)だけが問題とされてくるわけでもないだろうから。この事件が、日米の政治的なかけひきで、相当にでっちあげられた問題なのかもしれない(だとしたら、トヨタ管理者側にスパイがいるのだろう)。しかしだとしても、その過程で浮きあがってきたのは、流れ(分割)作業に象徴されるような官僚的な合理性の脆弱さである。つまりそれは、外から社会や産業のあり方を公式として学んだ日本人においては、民間企業においてもなおよりその公式(縦割り官僚組織)の根拠のもろさが、まるで数学の例題のごとく露見してくるのだ。公式の本場では、実際には、官僚よりも議員(政治家・人格)のほうが強いらしいのに。

端的に、歩き方まで管理するのは卑しいことである。有能な職人は、自然そうなり、そうするけれども、他人になど強制しない。馬鹿は馬鹿でいることが、むしろ組織としては多様な適応力をもってくると、全体的な認識判断を、自ら行なう部分作業において意識化できる、生活の連綿さを生きてきているからである。ゆえに職人集団が実践するのは、分割作業ではなく、人それぞれの能力に応じた分担作業である。しかしそれはそのように平等(親切)的ではあるが、近代的な意味では、平等ではない。普通の人には登れない木に登り枝を下ろす、危険作業を引き受ける職人や、人心を掌握して判断が的確な頭(かしら)はまわりから尊敬されるだろう。「後片付けはわたしたちがやるから」と、木の下で枝処理をしている手元の人たちは、無事生還できたことにほっとしている職人にいってくれるだろう。しかしもしそれが、まだ勤務時間中だからおまえも片付けを手伝えと、労働者としては平等(当たり前)のようなことを言われたら、その人の尊厳は傷つけられるだろう。しかしまた、俺は偉いんだ、と謙虚さがないと知られれば、周りの人たちは手伝わなくなるだろう。縄文時代ぐらいまでの狩猟民の世界では、そうして人心を失った狩猟者は、それでも自らの尊厳と名誉を守るために、一人で敵にむかい殺されていったのだそうだ。だから、インディアンをはじめ、その世界の髪型は、取られた首が持ちやすいようにと上で編んであるのだという。武士のチョンマゲもその名残だろうといわれている。私が「韓国歴史ドラマ」に覚える共感には、そんな古くからの人間社会の倫理が反映されている、ということになるのかもしれない。……「狩人としての始祖王の表象は、実に古代日本に限られていない。ことに注目すべきは、高句麗、百済両国の始祖である朱蒙はすぐれた狩人であり、かつ朱蒙という名自体が「善射者」を意味していた。そして興味深いことに、朱蒙の後裔たる高句麗、百済の王たちは、しばしば狩猟をおこなったのに反し、朱蒙系ではない新羅の王たちが、狩猟したことは、ほとんど記録されていないのである。ここで日本の場合も、『日本書紀』によると、天皇の狩猟は、ことにいわゆる応神王朝の天皇たち(応神、履中、允恭、雄略)に集中していることが注目される。これは、いわゆる応神王朝と、高句麗、百済系の王権との関連を示唆するものかも知れない。また、これら王者の狩猟活動に、後にはたんなる娯楽になってしまったであろうが、元来は、狩人としての始祖王の行為の儀礼的反復という性格をもっていたのであろう。」(「日本の狩猟・漁撈の系統」『狩猟と漁労 日本文化の源流をさぐる』所収 雄山閣出版)

この倫理、というか古代の人間観の巻き返しは、世俗的には、郵政改革をめぐってみえてきたドタバタ劇のようなものとして、表象されるのかもしれない。そこでは、近代的な個人・合理主義を貫徹させようとする小泉グループと、それに反対を唱えたことでいったんは下野したが、政権交代によって返り咲いた反動的な人たち、という往還運動として立ち現れた。しかしこの反復現象は、たとえば佐藤優氏が、「復古」として呼称するような、歴史的な時間軸によって捉えられるだけではない、というのが、ポストモダンと称される思想を通した昨今の基調的な考え方であろうか? つまり、その反復を、むしろ空間的な、普遍的な構造として把握してみ、それを現在から未来への指針として考察していく、という考え方である。新しい人類学を提唱する中沢新一氏の言い方でいえば……「しかし、洞窟的実践の背後には、男性結社性が隠されています。そこは戦争機械の温床でもあるからです。それが政治権力を掌握していくとき、日常生活者の世界は根底から破壊されていくことになります。…(略)…私たちの思考のあらゆる領域に、「洞窟的=映画的」なものと「テラス的=テレビ的」なものとの、緊張をはらんだ関係は潜在しています。それを生み出すおおもとが、ホモサピエンスである私たちの「心」のトポロジー構造の中に実在しているからです。私たちに求められているのは、この二つの構造の間に、今日のテクノロジーとそれがもたらしつつある社会形態にふさわしい、真に新しい絶妙なバランスを再構築することではないでしょうか。」(中沢新一著『狩猟と編み籠 対称性人類学Ⅱ』講談社)――そして、この反復劇を、「心」の問題(位相)ではなく、あくまで唯物論的な装置(制度)の問題として捉えてみせるのが、柄谷行人氏の「世界共和国へ」という提言になるだろうか? ……「各地のさまざまな運動は自然発生的にグローバルなつながりをもつようになっている。しかし、それはいつも諸国家によって分断される恐れがある。だからといって、「インターナショナル」のような組織を形成することはできないし、そうする意味はまったくない。つまり、国連と別の国際組織を創る必要はない。そのような組織ができても、国家を抑える力をもたない。われわれがなすべきなのは、世界各地のさまざまな運動を、国連を軸にして結合することである。国連はたんなる人間の思いつきではない。人間的自然(人間性)がもたらした遺産である。」(「atプラス」03号太田出版)――で、この雑誌の特集「生きるためのアート」冒頭には、内田樹氏へのインタビューがあり、氏の作る「麻雀連盟」という共同体の話がでてくる。そして、「資本主義についてマルクスが告げたのは「資本主義を倒せ」ではなく、「共同体を作れ」なんです。」との発言で締めくくられている。資本主義的な自由の蹂躙から、国家権力支配への反動という世俗的情勢に対し、いかにそれらとは別個の「結社(共同体)」をつくっていくべきか、が実践的な問題として集約されてきているのだ。ならば、これらの思潮から導きだされる結論の例とは、「麻雀連盟」のような同好会も国家につぶされないために、国連に参加し、その後ろ盾をもらって連帯の力をつけるべし! ということなのだろうか?

私の考えでは、このおかしな総合的な結論は、理論的には正当だが、実際的には諸理論の位相を混同している、ということになる。たしかに、たとえば戦陣中などでは、草野球でさえ国家の統制下におかれたことを考えれば、麻雀同好会もどうなるかわからない緊急事態は考えられるし、そうしたことも柄谷氏の論理には包容されていると思う。が、では本当に具体的な実際として想定してみると、奇妙なおかしさが伴うのは、やはりあくまで氏のいう「われわれ」が、中沢氏のいう「男性結社」的なエリート(秘境)の位相に傾いているからだろう。たしか内田氏自身は、柄谷氏を全面否定する言表をしていたとおもう。つまりあくまで、念頭にあるのが、メジャーな運動なのだ。しかしたとえば部落団体にせよ、女性団体にせよ、在日を中心とした外国人の団体にせよ、それらは「人権」という問題に収斂したうえで、国連にすでに参加し協同で取り組みにあたっているところもあるとおもう。それは、私が参加しているイミグレーションネットワークのMLからも想像できる。ならば、柄谷氏の提言など、いわずもがなな話だろう。まして、氏は自分が言っていることは既定の運動を新しく意味づけなおしていることなのだ、という発言もしているが、当事者たちの「意味」、つまり自分を支えてくれている意味とは、世界史的な意義などという、エリート意識なたいそれたものではないだろう。そんな意味づけは、大きなお世話にしかならないだろう。柄谷氏の構造分析(『世界史の構造』とかと題される本を準備中だそうだが……)は、あくまで念頭においておくだけで、実践的には忘れてしまってかまわない位相、つまり理念的な統制性の話しなのだ。庶民がまともに受けても意味がない。たとえば、派遣切りにあって、秋葉原にレンタカーで突っ込んでいくような青年が、自分を支えるためにアキバ同好会なる「結社(共同体)」をつくったとしよう。それは社会運動的には、部落や女性や外国人といったマイナー問題としてはメジャーな運動でもないので、国連が相手にするまでもない大衆運動にすぎない、と目されるだろう。が、その気味の悪さのためなのか、実際に町内会からは排除されていくし、より大きな弾圧も想定しえないわけではない。そうしたときは、世界的に普及しているアニメ趣味などから、国際的な連携と、それを「労働」問題というより大きな枠組みで収斂させて、国連にも通じていく文脈が形成されるかもしれない。つまりそういうふうには、柄谷氏の理論は論理の道筋を提示してはいるのだ。が、問題なのは、中沢氏の照射するような、「心」の位相ではないのだろうか? 秋葉原に突っ込んでいった若者がみせるのはまずそのレベルの“意味”のことだ。たとえそれが低レベルの話だとしても、類としての人間は、その自然のなかで生きているのである。私はやはり、最期まで馬鹿者たちへ愛着を注いだ中上建次氏の言葉のほうを重用する。――「……謂わばわたしはその間、猛烈な勢いで全力疾走して古代と現代と、神人と人間と、熊野と大和・京都、縄文と弥生、アイヌ文化と古朝鮮を経巡ったのである。元気はいや増しに増さざるを得ない。」(『君は弥生人か縄文人か』梅原猛+中上建次著 朝日出版社)しかし、今また改めて似たような問題が反復されてきているときに、中上氏のいう「元気」が増すことができるのだろうか? というか、それがありうるということ、あったということが、念頭においておくべき統制的な「理念」となりうるのである。

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