2011年3月13日日曜日

自然と世界史


「ここでひとつ興味深いのは、なぜ人類が、この物資と出会ってから五万五千年もの間、金は貴重だという考えをほとんど起こさず、このわずか五千年の間にそう考えるようになったのかである。」(『先史時代と心の進化』コリン・レンフリー著 ランダムハウス講談社)

木から落下している最中の記憶が、トラウマ的なフラッシュバックとしてよみがえってくるのに気味の悪さを覚えていたのに、一日中余震にゆさぶられている今は、揺れてもいないのに揺れていると錯覚してしまう船酔いのような気持ち悪さの方が強くなってしまった。テレビで壮絶悲惨な映像をみるにつけても、元気がなくなってきてしまう。このブログを今日書いてみようとおもったのも、そんなことではいけないと、自分を励ます意味もある。9.11からアフガン戦争へ向けての動きのときもそんな脱力的な気持ち悪さを味わったが、ナショナリズム的な感情があるのか、そのときの情緒を超えている。

大地震まえは、在日献金問題をめぐる前原前外務相の辞任劇から菅首相へと飛び火した件と、前沖縄総領事メア米日本事務部長の発言問題の件について言いたいことがあったのだが、変更せざるをえない。というか、この大地震の悲劇が、そのような人為的な問題をなくして解決してしまうことはないだろうので、それをうやむやに誤魔化すことでさらに悪化方向で進んでいくかもしれない世界史的な流れ自体をふまえて、と、より大きな枠組みの中で言い換えざるをえなくなったのである。

たとえば、現在報道中の福島原発からの放射能もれにまわつわる件にしても、おそらくこのことで、たとえ世界的に原子力エネルギーへの反対の声が高くそれが議題にあがるようになっても、日本の自然史的事態が世界史の趨勢を変えることはおそらくなくて、むしろ、その流れ=利権・権力体制をかたくななものにしてしまうだろう、ということだ。クリーンなエネルギーとしてエコロジカルにその推進と海外への日本技術売り込みを測っていた民主党(日本)の営業力は喪失されるとしても、その失墜に乗じた他諸外国が、談合的にしのぎを削ることになるかもしれない。田中宇氏の世界記事をみると、この地震まえの事件として焦点をあびていたのは、中東でのイスラム化、それと関連したイスラエルでのアメリカの影響力の低下、アメリカ国内でのドル離れから州単位での金本位制的貨幣の構築、中国元の国際決済化容認とそのフィードバック政策としての金の買占め貯蓄体制への移行、日本がロシアと手を組んで東アジアで経済活動し中国を牽制しろとのアメリカの遊動発言に対する日本の自立的対応策のなさ、などである。つまり、この地震は、よりアメリカを頼りとしてしまう日本の旧世界史的資本体制への反動を導いてしまうように機能するだろう、ということだ。国内政党的には、一度選挙で失墜した旧勢力が連立反動的にでてくるかもしれない。選挙支持基盤が被害地域県になっている小沢氏がどう対応してくるかが、それに抵抗する動きとして、より注目をあびるという事態も考えられるかもしれないが……。

私は、前原氏の辞任劇に際し、せっかく頑張れと献金したかもしれない「おばちゃん」はどうおもうのだろうか、ということだった。人間関係を、政治関係が裏切った、という話しではないか? だとしたら、なんと悲しいことか。法律の主旨は外国からの影響力を防備するためということで、その本源的な意図には抵触していないようなのに、なんで簡単に前原氏は辞任してしまったのか、と私はおもった。潔癖をたもって次期総理をにらんで、という意見もみられたが、そんなていたらくな政治レベル、というわけでもあるまい。そして菅首相も、ならば……とジャーナリズムでの批判体制がつづいていった最中での地震だったわけだが……。私はこの批判体制と、メア氏への沖縄人の反発に迎合する日本(大和)側のジャーナリズムの批判体制は重なって見えた。在日や沖縄の人という当事者の影に隠れて、つまり自分の保身を確保しながら相手を批判しているような感じである。しかし、前防衛省事務次官守屋氏も、沖縄人に対し似たような視点をとって対応していたのは、氏の退職後の著作でもほのめかされたていたことではなかったろうか? 大城立裕氏の『小説 琉球処分』では、この大和人と沖縄人との間での、お互いが「わからない」ことからくるすれ違いのことが幾度もくり返される主題の一つであるようなのだが、その相互非理解は、「けっきょく、弱い者は、そんなとぼけかたで急場をしのぐということなんでしょうね」と明治官僚の認識によって要約されているのかもしれない。日本(沖縄)人が建前でアメリカをのらりくらりとかわすのに対し、アメリカが露骨に正々堂々とものがいえるのは、単に強い権力をもっているから、というより一般的な権力構造からくるのであって、なにも文化的な違い、ということではない、ということだ。メア氏は自身の発言を「オフレコ」としたかったようだが、「オフレコ(記録しない)」と「本音」とはちがうのか? それが違うといえる馬鹿馬鹿しさに居直れるのも、アメリカ側が強いからか。実際、グアムの移転処置にはいっているのに、堂々とお金ほしさにまだ沖縄にとどまるといいつづけるのは、まさに人をなめきった堂々さだ。本音も建前もない。明治政府も、「琉球」に対し、結局は強行的に「処置(日本構造改革)」の推進を断行した。メドベージェフ大統領は、ロシアの農奴改革を祝う講演で、改革はいつもこう批判されて邪魔される、そんなことをしたら社会が混乱すると、しかしそんな批判(のらりくらり)を乗り越えていかなくてはならないと。

命拾いした労災による骨折を契機に、私が次ぎの手(アイデア)をほのめかしただけで、実家は混乱した。父はアル中を高進させ、兄はおびえ、弟は疑心暗鬼し……私は、だいぶ腹立たしかったが、改革を断行しようとはおもわない。私は、自分のできることなど、たかがしれているとおもっている。しかしこの優柔不断さは、旧世界史構造(アメリカ)から抜け出せない日本人的なものと、同等ということなのだろうか? しかしこの地震で、日本はより取り残されるだろう、落ちこぼれるだろう、しかし、そのことは、わるいことではないのではないのか? 他国が原発を推進しようと、自ら降りて次の道を、違う方へゆくべきだ。むしろこれを契機に、世界史の構造からドロップアウトし、遅れてきたものが先に出る道と技術を模索すべきだ。それを「のろまで怠慢」と批判する権力構造は強くなるかもしれない。しかしそんなことを気にすることなく、ひとつひとつ、われわれを襲った人為の瓦礫を取り除いて進むべきだ。私は、そう考える。

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