海近辺、災害現場の中は、一般車両は進入禁止。
避難場所の体育館。
カレーライスの配膳あとで。
この避難所の、理科室を使った厨房で食事を作る若夫婦の話しによると、海近くで食堂を営んでいた自分たちが生き延びたのは偶然だという。避難場所として指定されていた市民体育館に避難していた母親は亡くなったという。自分たちがそこに行かなかったのは、中学生の娘が心配だったので、そっちへ向ったからだと。奥さんは「あんな遠くまで」と最初もらしたそうだ。だから逆に、「生かされている」とも感じるという。内陸商人の考えが自然な肌になっているインドレストラン経営者のパキスタン人とは、帰り際、まさにこれから自分の生活を作っていくためにどんな援助が欲しいか、いくらかかるか、と必死に情報を交換する旦那さんだった。避難所は、子供がかけまわったりしながらも、静かだった。そして規律があり、清潔だった。落成したばかりの体育館や校舎のためというより、そうした努力とノウハウの蓄積がなじんできているのだろう。しかし夜になるにつれ、そのただっ広い避難所で過ごすことの寂しさが漂いはじめるような気がした。当初1000人が、いまは200人ほどになり、近隣地区からのボランティアスタッフもいた厨房の体制も、7月からは、ほんとに津波で家が流されて避難した人たちだけの世界になるという。そっちのほうがいいのだ、家のあるなしが意識の違いをうむので、自分たちだけのほうが居心地よくなるのだとも、旦那さんはいう。外はどしゃぶりに近い雨だったので、涼しかったが、これから暑くなると、どうなるだろうか? 被災・避難者の沈着振りが、想像を超えた出来事に直面したものの、異常な心理にもおもえてくる。
* 陸前高田市から、東北道にのって車で8時間ほどで東京中野区は上高田まで帰ってきてしまう。いま団地の6階から雨のふる窓外をみても、すぐ向こうにある気がしてしまう。往きも帰りも、ほとんどまともに寝ずに、慣れない真夜中の運転だったので、なおさら夢見心地で、現実感がない。ここでもあすこでも。しかし、被災地の人たちは、東京が遠く感じられることだろう。われわれはここを、身近な感じにさせられることができるだろうか? そのように、生きているだろうか? 3月20日すぎには現場にカレーをもって、単独駆けつけたというパキスタン人たちの、他人事とは感じない能力と実践を、私たちはもっているだろうか? また、普段の仕事も休まずボランティアにくりだす日本人スタッフの人たち。なお怪我が完治していないこともあるが、朝帰りを見込んでさっそくまえもって仕事をさぼる段取りの私には、真似できないことである。だけれども、一生懸命ついていこう、身を寄り添うように生きていこうとするのが、この自然に生かされている人間の務めなのだろうと、考えている。
東北の旅、お疲れ様です。
返信削除私がいわき駅前でカレーを食べた店のインド人たちは、震災後、つい最近、大阪からやってきた人たちでした。地震時にどう感じたのか訊こうと思って店に入って肩透かしではあったのですが、震災後にやってくるという態度、それ自体が語っていることがありました。
最後にあるように、本当に東北は近所、隣人ですね。
いただいたメールにありました件、私の知人にも代替エネルギーの研究者(千葉大学准教授)がいますが、そんなことは資本、国家、ネーションが勝手にやるのだから、科学者は福島原発を何とかしろ、と言ったらケンカになりましたよ。ネット上ですが。
それでは、またいつかどこかでお会いしましょう。
鈴木