2012年1月8日日曜日

仮説物語と世俗の夢

「民主主義は熟議を前提とする。しかし日本人は熟議が下手だと言われる。AとBの異なる意見を対立させ討議のはてに第三のCの立場に集約する、弁証法的な合意形成が苦手だと言われる。だから日本では二大政党制もなにもかもが機能しない、民度が低い国だと言われる。けれども、かわりに日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、わたしたちはもはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか。そして、もしその構想への道すじがルソーによって二世紀半前に引かれていたのだとしたら、そのとき日本は、民主主義が定着しない未熟な国どころか、逆に、民主主義の理念の起源に戻り、あらためてその新しい実装を開発した先駆的な国家として世界から尊敬され注目されることになるのではないか。」(東浩紀著『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』 講談社

震災前に書かれた文章集の著書に付けられた帯でも上のように引用された東氏は、さらにまえがきで次のようにも述べている。――<もしもいま(*引用者註;震災後のこと)、存分に手を加えるとすれば、筆者はおそらくは、本書を日本論に変えてしまうことだろう。一般意志2.0の実現が、単にルソーのテクストから導けるというだけでなく、また単にこの国の風土に合致しているというだけでもなく、日本がこれから新しい国に生まれ変わるためにこそ必要とされるのだと、そのように軸足を変えてしまうことだろう。」……先のブログでも引用を集めた水野和夫氏もその『終わりなき危機――』で、「日本」こそが「最も恵まれたポジションにいる」と前置きしている。私はこのどこかロマン派的な前提に懐疑と留保を覚えるけれども、明確にしえる文脈が仮説されえるかぎり、その方向で想像力を行き着くところまで押し広げたほうがいいと考えるので、二人の試みについてゆくことは面白かった。また東氏の立場とは、前々回のブログ宇野常寛氏の『リトル・ピープルの時代』の認識前提に重ねていったのと同様、私はおそらく超越的な視点を仮説しているということになるだろうので、東氏とも根底的なところで異議をもつ。が、そこをカッコにいれてみると、また東氏自身がそうした立場への批判を抑えているとおもわれるが、氏の唯物論的な理論、というよりは(むしろそうではなく、というべく)、具体化へと向けられた方策を、とても面白く拝読した。この面白さからみれば、最後に<超越>者的な選民に期待を寄せる、私の立場に近いだろう水野氏の「大きな物語」よりも、東氏の世俗的な知恵のほうが、好ましく感じられるのである。というか、私が認識的には超越者的なモノを理念的に仮構することになるとしても、実践的には、大衆と心中するほうがましだろう、と考えるからだ。それはなにも東氏が著作の最後のほうでローティの「アイロニー」をだしているような高尚な思想性によるのではなく、たとえば、もし雪山でまだ七歳の息子と二人で遭難し、前に進むことをぐずる息子を置いて体力ある私一人で下山すれば助かると認識しえるとき、果たしてその超越(大人)的な認識に従って行動することがいいのか、自分にできるだろうか、と考えてみた場合の結論のようなものである。おそらく私は、たとえ二人で行き倒れても、死ぬまでなんとか二人で打開できる方策をさぐっていくだろう。というか、実際には、それこそが理念的、より大きな我慢を強いるものであることは、幼い子供ふたりで街中を歩いてみればわかるだろう。幾度ぐずって立ち止まり、寄り道を好む子どもを置いて先に行ってしまうことだろう!

水野氏の「海から陸へ」という歴史転換という経済史的に大きな物語は、最近でもNHKで「シルクロードの復活」というような特集番組や、副島隆彦氏のような政治学者も説いていたことである。ただ水野氏の重点は、そこで資本主義が行き詰まってしまうのでゆえに今からなんとかしなければ、という話である。一方東氏は、そうした時間軸的な転換を前提とするより、停滞した時間としての空間的常態を認識の枠組みとして捉えることから始めているようだ。この二人の話の前提をまえに、震災・原発事故を見てきた私としては、おもわず次のような想像してもしょうがない想定外的な事態を仮想してしまう。温暖化で南極の氷が解けて新大陸が出現し、ゴールドラッシュ的な移民的新しい歴史がはじまってしまったとしたらどうなるであろう? しかも、あらわになった南極大陸から人類の文明遺跡までもが発掘され、アフリカのサルからヒトへが北へ向っただけでなく海を越えて南へも直接向かっていたことがわかってくるような、人類史を塗り替えるようなことが起きたらどうだろう? インターネット世界は、電気を前提する。その配線や人工衛星を。それが世界のあちこちで寸断・破断・墜落するような災害が発生したらどうだろう? 大事な政治的な決め事まで発電していないと決められないインフラ社会に住むようなことになったら、たしかにクリックしていれば政治参加していることになるのだから、これほど楽なことはないけれど、この怠け癖が危機時の対応を遅らせてしまうのではないか?

というか、東氏の知恵に意義があるのは、それが「夢」だからであろう。「みんなの意見は案外ただしい」という統計的正しさが保証されるのは、そうした数学的な現実が本当の現実として実現されるのは、柄谷氏が新聞書評でも述べていたように、参加者各々が自由な条件にいるときであるという、実現不可能な社会の理想の下においてなのだ。東氏のデータベース(各人の履歴蓄積)としての一般意志2.0が、フロイトが理念(超越)的に仮説した「無意識」と重なるとするのは、正確ではない。形式的に同型な階層としてあるとされるだけであって、データベースと世界(国民)大衆の無意識がぴたりと重なり合うという保証はどこにもないのである。それは、そうしたテクノロジーを信仰する者たちのあいだにだけ存在するだけである。信じられない者たちの間では、そのデータベース自体が疑わしい、依拠することもできない<似非無意識>と想定されてしまうであろう。しかし、フロイトの無意識と同型的であるだけに、それは「否定」できない形として、やっかいな下手物としてわれわれの前にたちふさがってくるとされるのが理論的な実状である、と私は理解する。つまり、東氏の設計する一般意志2.0という無意識は、抑圧された夢、というよりは、理想化された夢である。つまり、精神分析的というより、世俗でいう夢の語意に近いだろう。しかしだからこそ、この震災後において、われわれ読者をして鬱屈させるよりか、どこか楽観的な解放感をもって読める、苦々しい日常を一時でも忘れさせてくれる爽快さ、突き詰めた想像を味あわせてくれるのだ。これは東氏の意図したことではないかもしれないけれど。

しかし私は、やはりこの世俗的な夢のほうが、たとえば、昨年柄谷氏が文芸誌で連載していた「哲学の起源」と題した「大きな物語」よりも、より思考を刺激するのでないかと考える。教養のない私ゆえに、そのギリシア以前の哲学的前提状況を、比喩として現在と重ね合わせる読みしかできないとしても、つまりその真偽(仮説)は検討しようもないが、その構えは、デモにもいかない大衆への脅迫的なエリート意識、悪意に裏付けられている、と感ずる。とくにNAM実践での挫折経験のあとでは、『世界史の構造』の文明史論的枠組み、そしてその派生たるようなギリシア文明論的な「大きな物語」は、眉唾物的な発想として警戒感が強くなる。参考には十分するが、発想自体がいいのか、前作まではともかく、ひきつづく作品と、そして水野氏にも現れた「大きな物語」、大きな流れでのレトリックを、罠にははまるまいとする思いで私は受け入れる。この警戒は、身体的にいかんともしがたいトラウマになっているのかもしれない。しかし逆に、その物語を本当なものとして受け入れるのであれば、「金融空間」にいる現在の流れは変えられないまでも、数十年後の資本主義的行き詰まりを焦点として捉えて、どうそこへ向けて現生活を組織していけばいいだろうか、という実践思考になるのだろうか。つまり私たちが必要としている実践とは、仮説的な時間軸から暫定的な目的地点へむけて、現在をどう待機的に編成していったらよいのか、ということになるだろう。一方、東氏の「一般意志」という現常態から発する実践とは、すでに今から発想され設計されうるもので、その実現(実装)の持続をアップデートとして更新していけたらいい、ということになるだろう。

唯物論的な理論、か、世俗的な知恵、か。いやこの二つの態度は、両立可能なのか? それとも、全く不要なものなのか? 少なくとも、この二つの相対した態度が、われわれが望むと望まずとも、震災事故後には、後戻りできない地点から考えられていることだけは確かだと、私は認識する。

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