2012年1月8日日曜日

現状を考えるための引用

「明確な定義を明かさないグローバリズムの背後に潜んでいる思想をあぶりだしてこそ、現在起きている様々な現象を統一的に理解することが可能となるばかりか、数十年後の世界を予想することができるのである。/数十年後には、理念として無限である「カフカの帝国」が閉じてしまうのである。先進国の中で先頭を走っている日本は、実は「カフカの帝国」以後に備える上で最も恵まれたポジションにいることを自覚することが重要である。/三・一一以後をこのような視点で考えなければならない。被災地・東北の問題は日本全体の問題であり、先進国の問題なのである。残念ながら、今の日本が直面しているのは、「がんばれ日本」で乗り越えられるような生易しい危機ではないのである。」(水野和夫著『終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか』 日本経済新聞社)

「このように、金利の歴史において前例のないほどに「革命」的な超低金利が実現したのは、その背後に「革命」的に変わろうとしている歴史の断絶があったからである。すなわち、十六~十七世紀の「利子率革命」は、中世と近世を画し、それは同時に「陸の時代」から「海の時代」への転換を示唆していたのである。…(略)…近代資本主義にとって、交易条件の数世紀にわたる持続的な改善と海外市場の拡大こそが、資本蓄積の必要十分条件である。だから、ニ〇世紀初頭に「海の国」となってアジアに進出した米国が、一九七五のベトナム戦争で事実上敗北したことで、利潤極大化原理は「電子・金融空間」で実行されるようになった。/一方、二度にわたる石油危機は、交易条件の趨勢的悪化をもたらした。それを少しでも緩和しようと、先進国は原子力発電への依存度を高めていった。それがニ〇~ニ一世紀の「利子率革命」となって表れている。…(略)…グローバリズム、「海に対する陸のたたかい」、そして「人件費の変動費化は、いずれも同じ根っこを有している。すなわち、これら三つは、ニ一世紀の「利子率革命」をいかに克服するかを共通課題として生じたのであり、これら三つは「利子率」、すなわち資本の利潤率を再び引き上げようとする反「利子率革命」として捉えることができる。…(略)…米「金融帝国」が「帝国」たる所以は、米消費者だけに依存するわけではなく、「帝国」の定義通り、外国に対しても影響力を行使する点にある。米「金融帝国」の狙いは、グローバル化することで世界の金融資本市場で新しいマネーを創出し、そのうえで新興国・途上国の六〇億人の近代化を促すことで、反「利子率革命」(=「空間革命」)を引き起こすことである。…(略)…マネタリスト的世界が成立するのは、「空間」が閉じられているときである。新しい「空間」ができると、一六~一七世紀や二〇~ニ一世紀の現在のように、旧い空間では金利が低下し、新しい「空間」では物価が高騰(新価格体系への移行)するのである。旧い「空間」で旧来のインフレを起こそうとしても無理である。」…(略)…「「価格革命」が収束するときが概ね、新しい「空間」と旧い「空間」が一体化するときである。」

「長いニ一世紀」の「空間革命」がいつまで続くかという問いに答えることは、日本のデフレがいつまで続くのか、そして資源価格高騰に代表される新興国の物価がいつまで上昇するのか、という問いに答えることと等しい。…(略)…長い一六世紀に起きた「価格革命」は、ヨーロッパ大陸が一つの価格体系に収斂していくプロセスであった。「価格革命」が収束に向った一六五〇年後には、次の二つのことが起きていた。一つは、ヨーロッパの先進地域と後進地域の内外価格差がニ対一になったことであり、もう一つは、新興国・英国が先進国・イタリアに一人当たり実質GDPで追いついたことである。…(略)…ニ一世紀の「価格革命」がいつ収斂するかを知るために、一六五〇年前後に起きた二つの現象を二一世紀に適用すると、次のようになる。まず、日本の一人当たり実質GDP(九〇年国際ドル基準)に中国のそれがいつ追いつくかを試算すると、およそニ〇年後ということになる。…(略)…次に、一六五〇年に内外価格差がニ対一とは、第一グループである先進地域・地中海と第三グループの東欧の間の物価格差のことである。そこで二一世紀においては、第一グループ(物価水準が最も高い)ドイツと、インドを比較するのが適当である。/九〇年国際ドルで測ったドイツとインドの内外価格差は、ニ〇〇八年時点で三・四対一である。今度、IMFの見通しに従って、ドイツの物価上昇率〇・五%、インドを同四・〇%とすると、インドの物価水準がドイツの半分に達するのはニ〇ニ四年である。/新興国の生活水準が先進国と肩を並べるのはニ〇年後であり、先進国と途上国の内外価格差がニ対一に縮まるのは一三年後である。アフリカのグローバリゼーションを考慮すると、「価格革命」が収束するのは三〇年から四〇年後となるであろう。/二一世紀の「空間革命」の始点を「利子率革命」が始まった一九七四年とすると、すでに三七年が経過した。ニ〇一一年現在、ようやくニ一世紀の「空間革命」は中間地点に到達したといえる。」

「「バブルの大きな物語」は、「成長とインフレ」のメカニズムが崩壊したからこそ登場したのであり、それまでのバブルとは性格を異にする。これまで幾度となく発生したバブルは「地理的・物的空間」(実物投資空間)の中で起きたのであるが、「利子率革命」下で生ずるのは、「電子・金融空間」における「バブルなくして利潤なし」なのである。一九七〇年代半ば以降、バブルと実物経済活動の関係において、主客が転倒したのである。/「バブルなくして利潤なし」の資本主義経済は、社会生活を崩壊させることになる。バブルが繰り返し生ずるのは、「大きなバブルの物語」が支配している中で、中間層にバブルに依存してでも「成長」を望む潜在意識があるからであり、その結果、国の借金が増えるだけであれば、現在の社会・経済システムを支えようとするインセンティブは働かなくなるからである。…(略)…「「バブルの大きな物語」は、「海と陸のたたかい」と同時並行で進行する。正確にいえば、「バブルの大きな物語」のもとで進んだ市場化と金融化は、「海の国」がそのたたかいを有利に進めるための手段であった。「陸の国」が地球上の多くの資源を保有する。米国は一九七〇年代の資源ナショナリズムで失った原油の価格決定権を取り戻すために、WTI先物市場をニューヨークに創設(八三年)するなどして、無から有のごとくマネーを生み出す「金融帝国」へと変貌していったのである。/しかし、歴史は思惑通りには進まない。事態は「海の国」の思惑を超えて進行する。その象徴が、二〇〇一年の九・一一であり、〇七年から急増したソマリアの海賊であり、〇八年のリーマン・ショックであった。」

「「海と陸のたたかい」は、新興国においてはいわゆるヘーゲルのいう「大きな物語」となって開花した。先進国は本来、「脱近代化の物語」に向うべきところなのに、現実には未だに成長物語を追いかけている。新興国における「大きな物語」にはモデルが存在するから、BRICsに象徴されるように、「輝く未来」が待っていると皆が確信している。一方、先進国における「脱近代化の物語」は未だ姿かたちもみえないし、それを指向しようとする意思もみられない。日本をはじめ先進国は今でも、「成長」によってさまざまな問題を解決できると信じているからである。…(略)…証券化商品バブルとその崩壊は、日本の土地・株式バブル崩壊がそうであったように欧米の財政事情を悪化させ、福島第一原発事故は名目GDPを増やすことを困難にしつつある。原発事故後、被災した東北が失った分だけ前進するから、そのほかの地域は後退する。九州、沖縄を含めて日本全体で自粛が起きるのは、もはや全員が前進するのは不可能であるという人々の直感の表れである。…(略)…東北地方の再興は、日本の未来の姿でもある。それは少なくとも近代社会の延長線上にはない。二一世紀は「脱テクノロジー・脱成長の時代」であるのは確実であり、それは「共存の時代」となるであろう。自然と人間の共存であり、陸と海の共存である。「定常」で成り立つシステムを構築することが必要である。貯蓄と投資がバランスし、ゼロ成長で持続する社会である。」

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以上の主旨を述べて、水野氏は、次のように待望する。――<そのために望まれるのは、シュミットが『政治神学』(一九ニ三年)で述べた「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者」の登場である。…(略)…シュミットは、『中立化と脱政治化の時代』(一九ニ九年)において、「根源に立ち返って新たな秩序が生れるであろう」と締めくくっている。この解釈に関して、長尾龍一は「危機に逆上した大衆により終末が始まり、最後に『完璧な知』をもつ大哲学者ないし大神学者が登場して秩序を創生するという趣旨か?」と述べている。/大哲学者であり、大神学者が例外状況において決断をするのである。そして、大哲学者や大神学者が決断する前に必要なのは、「成長教」の呪縛から解放されることである。>

この結論の是非と、引用してきた氏の説く経済政治史的な「大きな物語」の検討は、並列して読んだ東浩紀氏の『一般意志2.0』(講談社)と対比させながら、次のブログで言及していこうと考える。

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