「今の子どもが二十歳を迎えるころ、この日本は、世界はどのようになっているでしょうか?/ かつてはいかに速く正確に計算ができ、いかに記憶ができるかが、優秀な人間とされてきました。でも、今やそれらはコンピューターの仕事となり、人間はコンピューターのできない仕事を受け持つようになるのです。その時必要な能力が、自分でものを考え、他者とコミュニケーションを取ることができる力です。グローバル社会においても何よりも大切なのが論理力です。」(『出口汪の日本語論理トレーニング』出口汪著 小学館)
「いま、東京大学が九月入学制に変えようという動きを進めています。これは、東京大学の当事者がどれくらい意識しているかは別として、教育を新・帝国主義の現代に適応させようとする動きなのです。/ これまでの日本の教育システムは、非常に特殊でした。端的に述べると、後進国型の教育システムをとっていました。後進国というのは、なるべく早く外国語のわかる外交官を育て上げて外交交渉をしないといけない。また、なるべく早く税務署長をつくって国の税収を上げないといけない。そのために国家はどうするか。記憶力のいい若者を集めてくるのです。そして促成栽培で、事の本質を理解しなくてもいいからともかく暗記させる。暗記したことを再現できる官僚を養成する。明治以来、東京大学を頂点とする日本の教育システムは、そういう後進型の詰め込み式で、それは戦後になっても変わっていません。その結果、いま日本の官僚が恐ろしく低学歴になっている。」(『人間の叡智』佐藤優著 文春新書)
残念ながら、一希は4年生トレセンからもれてしまった。技術的には第二グループの10人目前後くらいに位置しているかな、とみえていたので、私としてもちょっとショックだった。親バカの目だったのかな、ともおもうが、監督や、すでに自分の息子が上級の代表選手に選ばれていた親からも「大丈夫」と言われていたので、今でもそれがなぜなのか、サッカー経験のない私には、ボールタッチの妙技や微妙さのことはわからないので、理解できない。おそらく、各チームの中心選手で落ちたのは一希だけだろう。モチベーションの高い子たちと一緒に練習することで、もうひとつ上の真剣さをしってもらいたいと考えていた私には、本当に残念だった。
が、私自身が、テストが終わった直後に一希に言ったことはこんなことだった。「おまえ、下が人工芝で気持ちがよかったから、たおれてもすぐに起き上がらなかっただろう。あんなとこをテストコーチにみられたら、二度とおまえのほうをみてくれないよ。一度でバッテンつけられておわりだ。一次テストの試合でも、点をとられて『どんまい!』と仲間に声をかけるのはおかしくないかい? なんで、自分でゴール前に猛然と防ぎにいかなかったんだ? まるでひとごとじゃないか? そんなやる気があるのかどうかわからない選手を、わざわざ代表を選んでいくセンターの練習に参加させるとおもうかい? 元気にやるのと、真剣にやるのとはちがうんだぞ。……」
実際、ちょうど落選の結果がわかった練習日、こんなことがあった。練習途中、校庭の遊具周辺が新しい人工芝に変えられているのを上級生が発見した。おそらく一希はそこによっていく6年生をみて、「新しくかわったんだ」とみなを誘うような声をあげた。私はその様を背中で聞いていて、次にどんなことが起こるか想像していた。するとまだ2年生、この4月からは3年生になる男の子が、自分の友達の名をコーチには気づかれないように低いがしっかりした声でよびつけた。「〇〇、いくな!」それを聞いて、コーチが皆を呼びつけて言う。「△△が面白いこといったから許してやるよ。まだ2年生だぞ。おまら、わかるか?」 友の名を呼んだ彼は、入団テストのある他の区の強豪チームにも入っていた。ボールさばきは、もう上級生なみだ。彼は、いわばサッカーを選択した子だった。だから、下級生の練習が終わったあとも、私から上級生の練習にも参加していいといわれていたので、そのまま居残っていたのである。去年の今ごろ、一希もコーチからそう言われたが、一希は友達と公園へ遊びにいくことを選んだのだった。その選択の差は、技術的な面だけではなく、それを支える精神面にこそあらわれていた。一番最初に校庭の人工芝に近づいた6年生は、テクニックと視野の確保に優秀さがみられる子だが、区代表にあたる6年トレセンにはもれてしまっていた。一希も、落選の判定は、そういうところにあったのかもしれない。
しかしそこで、やはりインテリの私は迷ってしまうのだった。「いくな!」と友の名を呼ぶその選手の様には、もう子どもらしさがないというか、その目的に即した”賢さ”はいいのだろうか、とおもったのだった。練習がおわったあと、あの6年生は、待ってましたとばかりに、人工芝に飛び込んで寝ころび、その感触を味わった(コーチからはあきれられた)。そうした、目的に拘束されない逸脱した、発散した好奇心を、抑えつけていくことが、果たしてよいことなのだろうか? 一希は、なお通学や行楽でも、寄り道がおおく、目的地にはなかなかつかない。大人の私は、怒鳴ってばかりである。そして怒鳴りながらも、迷っている。サッカーがいくら視野を広くとって情報処理をするスポーツだといっても、それはゴールという目的にそくした論理の中に拘束されている。しかし生きるとは、そのゴール自体を自分で見つけ、あるいは作り、そして変えていくものなのではないだろうか? 実際、優秀なサッカー選手が、この世界や現実上で、目的を見出しあるいは創造し、視野を広くもち情報をとってこられる応用力をもてるかどうかは怪しい。しかし親としは、というか私としては、あくまで現実や世界で生きていくための縮約モデルテストとして、子どもにサッカーを、あるいは一希がサッカーを選んでくれたことをまだよしとし、そのサッカーを通して、その論理力、情報処理能力を養ってもらいたいと考えるのである。ならば、サッカー自体が目的と限定されてしまうとき、子どもがそう選択し真剣になってしまうとき、本末転倒が発生するだろう。サッカー・ゴールしかみえなくなってしまえば、多様な世界が消されてしまう。しかも、このブログでも指摘してきたように、サッカーとは、現在の資本論理世界の中で、一番の大衆集約力を持つ領域なのである。それを鵜呑みにすることは、それしか見ない、見えない人間になってしまうとは、資本主義の論理以外を知らない、他の世界を想像できなくなってしまう大人に育ってしまうことである。それは、私がサッカーをやらせる、それを通して子ども(たち)に知ってもらいたい、培ってもらいたい事柄、能力とは正反対のものである。
そういう意味では、順調に受かるより、落選したほうがよかったのかな、と思い直している。一希は自分で納得しないことは、やろうとしない。意味がわからなければ、その練習をするのもぐれてしまう。だから、アホなのか、ともみえてしまう。というか、奥手なのだろうと私はおもっている。だから、急がば回れ、で、あちこちに目移りするスキゾ・キッズのままではすまないよう、週に一度は冒頭引用の出口氏の論理ドリルをやらしている。女房の九九・漢字の暗記訓練で泣かされていない時をみつけて、すでに勉強ぎらいになっている息子にやらせるのは難題だ。
トレセンに落ちた一希が、自身でもショックだったのは、一緒に風呂にはいっているとき、「俺、落ちた」と一言いって落とした涙でわかるけれども、そんなことに頓着しないように、相変わらず元気にやっている。このあいだも、全日本予選の6年生大会に、キーパーとして出場し、猛烈なシュートを何度もあびながら、後ろから大声で指示をだしていた。それでいい、とおもうのは、やはり親バカということなのかもしれないが。
*似たようなことを以前書いたなと思い出しふりかえってみたら、「ユーロ・サッカーから――世界とコーチング」という「http://danpance.blogspot.jp/2012/07/blog-post.htmlのブログがあった。その差異とも銘記するよう参照した。
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