次の<イスラム国の人質(7)>>で、そうした引用から考えられることを書いていこうとおもう。
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「アジア・アフリカ会議でネルーや周恩来と並んで脚光を浴び、スエズ運河を国有化し、それに続く英・仏・イスラエルの侵攻に立ち向かったナセルには、アメリカでもソ連でもなく、資本主義でも社会主義でもない第三の道を提示してくれるのではないか、という漠然とした期待が寄せられていた。「非同盟」「第三世界との連帯」こそ日本の取るべき道だと考えた知識人も多かった。…(略)…このようなナセルに投影されていた「夢」がその後のナセルの敗北と死によって失われたことは、アラブ世界に思想的な危機状況をもたらした。思想的危機は「分極化」という形で顕著に現れた。言説空間が、一方でラディカルな現体制批判から急進的なマルクス主義へ向かう流れに、他方で宗教信仰への回帰現象や、そこから動員力を汲み取るイスラム主義へと向かう流れに、激しく分裂したのである。「アラブ統一」や「民族社会主義」のもとに一体性を感じることができた時代は終わり、混迷と対立の時代が到来した。」(池内恵著『現代アラブの社会思想――終末論とイスラーム主義』 講談社現代新書)
「人民闘争を謳うイデオロギーがアラブ世界に希望を与え得た期間は短い。それは「人民勢力」とみなされた世界のさまざまな運動と盛衰をともにした。
まず、パレスチナでの闘争が挫折したことが大きい。一九六七年を画期として独自の活動を始めたパレスチナ解放運動は各国の政権に封じ込められ、活動の場を転々と移すことになった。アラブ諸国もイスラエルも、「人民勢力」を封じ込めるという点では一致していた。アサド政権のシリアも、影響下にある組織が国外で人民闘争を行うことが国益に適う限り支援したものの、自国内から世界革命が始まることを許すはずもない。」(池内・同上)
「現在、このような「アラブ現実主義」が現実の各国の政治を方向づけていることを、どう評価すればよいのだろうか。「アラブ現実主義」は、現政権の安定を最重要視し、国益を最大限追い求める。それが結果的には生活環境の向上や国防・治安といった面での国民の利益に寄与する、と主張する。
しかし、「アラブ現実主義」は、思想的分極化の根源にある精神的な空白を満たすには至っていない。そして、国民を支配するという局面では現実主義が標榜されるものの、国民が主体となって現実主義の観点から国政に参与する機会はほとんど与えられていない現状は、「アラブ現実主義」を国民から遊離したものにしている。」(池内・同上)
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「近代はさまざまな価値観を相対化してきた。これまで信じられてきたこの価値もあの価値も、どれも実は根拠薄弱であっていくらでも疑い得る、と。
その果てにどうなったか? 近代はこれまで信じられてきた価値観に代わって、「生命ほど尊いものはない」という原理しか提出できなかった。この原理は正しい。しかし、それはあまりに「正しい」が故にだれも反論できない、そのような原理にすぎない。それは人を奮い立たせない。人を突き動かさない。そのため、国家や民族といった「伝統的」な価値への回帰が魅力をもつようになってしまった。
だが、それだけではない。人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する。なのに、世間で通用している原理にはそんな力はない。だから、突き動かされている人間をうらやましく思うようになる。たとえば、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち。人々は彼らを、恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。…(略)…だれもそのことを認めはしない。しかし心の底でそのような気持ちに気づいている。
筆者の知る限りでは、この衝撃的な指摘をまともに受け止めた論者はいない。ジュパンチッチの本は二〇〇〇年に出ている。出版が一年遅れていたら、このままの記述では出版が許されなかったかもしれない。そう、二〇〇一年には例の「テロ事件」があったからだ。」(國分功一郎著『暇と退屈の倫理学 増補新版』 太田出版)
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「実際、その先に自分の死が待っていることを承知の上で死を恐れずにムハンマドの風刺画を掲載し続けた「シャリル・エブド」の人々がなしたのは確かに自殺の試みではあったが、彼らのその自殺は「何もまして美しい振舞い」と呼ぶに値するものとなったか。…(略)…もしフーコーが存命だったならば、彼の関心をより強く引いたのはむしろシェリフとサイードのクアシ兄弟そしてアメディ・クリバリによる自殺の試みのほうでありその失敗だったに違いない。死を覚悟して彼らが実行した行動は風刺雑誌の人々のそれと同様、自殺の試みだったと言えるが、彼らもまた失敗したと言わざるを得ない。ただしその失敗は「シャルリ・エブド」の人々が陥ったのと同種の失敗ではまるでない。そもそもクリバリとクアシ兄弟には「軽率さ」など微塵もない。事務所の場所を厳密に特定できていなかったということを除けば彼らは綿密に計画を立て、また、女性を二名殺害してしまったということを除けば自己制御を以って逸脱なく計画を実行した。事件は彼らの構想通りに実現した。その意味では彼らは自殺に成功した。しかしその成功が失敗でもある、少なくとも失敗と表裏一体のものとしてある。けっして裕福とは言えない環境で育った三人の若者(クアシ兄弟はとりわけ悲惨な境遇で育ったがクリバリもパリ郊外貧困地区の出身である)が、成功が失敗でしかあり得ないことの初めからわかっている「自由な実践」をそれでもなお字義通り「決死の覚悟で」実現しようとしたのであり、だからこそ彼らの振舞いには誰にとっても胸を打つ何かがあるのだ。」(廣瀬純著「我々はいったいどうしたら自殺できるのか。」『現代思想』3月臨時増刊号「シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃」所収)
「しかし全体としては、イスラーム主義過激派は行き詰まりに直面しているといえよう。現世を超越した宗教的理想を現世の政治秩序において実現しようとするところに、根本的なジレンマがある。権力を掌握した組織もそうでないものも、理想社会の現実形態をまだ示し得ていない。
ウサマ・ビン・ラーディンの一派に代表される国際的テロリズム組織の台頭は、イスラーム世界の各国内におけるイスラーム主義の行き詰まりを背景としている。エジプトのジハード団やイスラーム集団、アルジェリアのイスラーム救国戦線といった組織の一部は、それぞれの国での闘争で劣勢に立たされ、アフガニスタンやパキスタンを経由してイギリス・オランダや北米に居を移している。これをイスラーム世界の中でも特に強い宗教意識を持つサウジアラビア人の財力が側面から支援する。異教徒であるアメリカ人の支配する国際秩序を拒絶しその破壊を図ることに、イスラーム主義過激派は新たな使命と存在意義を見出そうとしている。」(池内恵著『アラブ政治の今を読む』 中央公論社)
「また、イスラーム主義過激派の信仰に基づいた行動は、極めて大きな犠牲を許容しうる。実行部隊の個々人どころか組織全体が殲滅されることすら、宗教的な観点からは失敗を意味しないからである。神がみずからに絶対の真理を告げたと信じる立場からは、必ず別の者が後に続くと信じられる。状況を変え、後続の者を触発するためであれば、組織全体の消滅すら選択肢に入ってくる。…(略)…これが例えば共産ゲリラであれば、報復によって組織が一網打尽にされてしまうことが予想されるような行動は取り得ないだろう。あくまで闘争を勝ち抜いて現体制を転覆した後にみずからの手で政権を握ってこそ、目的が達せられると考えるからだ。世間の関心を引くために時に自殺的な作戦を遂行することがあっても、組織そのものの消滅は許容し得ない。一方、民主主義であるアメリカの許容しうる犠牲はいうまでもなく少ない。
このような極端な「非対称性」により、「戦争」は制御不能に陥りかねない。従来の最低限の「戦争のルール」が無効になるだけでなく、戦場において互いの指揮官が交わすコミュニケーションが不全になることから、予想外のエスカレーションが進み得る。」(池内『アラブ政治…』)
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「一月七日にかけてパリで起きた惨劇から「イラクとシャームのイスラーム国」による日本人人質二名の殺害にいたる事態の展開を前にして、いくつもの歴史的、地政学的コンテクストが衝突し、急速に化学変化を起こし、ドラスティックな融合の段階に入ったのではないかという思いを禁じえない。この渦中にいる誰もが自分が何をしているのか分からない、そんな状況が生まれつつあるのではないか。ちょうど一世紀前、第一次世界大戦の渦中にいた人々が、政治家、軍人、民間人の別なく、何のための戦争なのか、自分たちが何をしているのか、もはや不明の暗闇のなかで戦っていたように。」(鵜飼哲著「一月七日以前」『現代思想』3月臨時増刊「シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃」所収)
「アラブ諸国の問題の根源は、単なる経済発展の後れというよりは、社会システムのあり方や、その改善に欠かせない良好なガヴァナンスの不在といった問題に関わっているという指摘である。この報告書は具体的に、「人権と政治参加などの自由」が制限され、その中でも特に「女性の権利獲得と社会参加」に立ち遅れていること、そして「教育と研究活動の不活発と不全」が著しく、「知」を獲得して利用する条件の整備において不備を抱えている、といった点を、アラブ諸国が人間開発の観点から低位にランクされている原因として特定している。この報告書の作成はUNDPアラブ地域局に参集したアラブ知識人によってなされたものであり、内部からの改革に向けた貴重な試みとして注目すべきだろう。…(略)…経済的には「中進国」の位置を占めるアラブ諸国の問題は、今現在「食べられない」ということではなく、生まれ育った社会において将来に希望を描けない状況にあるのではないだろうか。逆に、現在はより低い所得水準に置かれた国であっても、将来の発展を思い描くことさえできれば、はるかに心やすらかに暮らすことができるだろう。アラブ世界の問題とは、社会システムの硬直化に悩み、将来の凋落を予期する下位の中進国が抱える問題ということになるのではないだろうか。」(池内・同上)
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「……本源的生産要素の商品化の限界は、単純な物理的限界ではなく、歴史性・地理性を帯びている。言い換えれば、労働の背後にある人間の定義、土地の背後にある自然の定義、貨幣の背後にある聖性の定義のいずれもが歴史的・社会的に構築されている社会――「大転換」において市場は、その網の目にともかくも接合されなければならないわけであるが――の底は抜けてしまうことがありうるということこそ、私たちは恐れるべきなのである。」「近代に入り近世帝国が解体するとともに、人間、自然、聖性の定義がゆらぎ始め、その流動化は現在、臨界点に達しつつある。それが世界の<帝国>化の条件を構成しているということだ。」(山下範久著『現代帝国論 人類史の中のグローバリゼーション』 日本放送出版会)
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「西谷 …私と二〇年来の付き合いがある知識人にフェティ・ベンスラマがいます。彼は「イスラームとは自分にとってお茶を飲むようなものだ」とかねてから言っていました。人々の生活習慣の基本的なベースとしてイスラームがあり、そのベースを捨てることはできない。それはある教義を選択し信じているというのとは違います。その彼は、今回の事件を受けて、イスラームがグローバル化する世界のなかで、人権や表現の自由といった価値観と連動するようにいかに改革しうるかを、イスラーム世界の宗教指導者に対して問うています。古いテクストに固執するのではなく、そのテクストを今の世界に適合的に解釈していく努力の必要性を語っています。イスラームの名のもとでテロが行われていることは、イスラーム社会の責任でもあるということです。これは西洋化を求めているのではなく、イスラーム内部に自己改革の可能性を見出そうという視点です。」(西谷修×栗田禎子「罠はどこに仕掛けられたか」『現代思想』前掲書)
「単純に、近年の社会意識や思想史の進展の中で、アラブ世界がテロリストを輩出してしまっていること、イスラーム教の教義の特定の解釈の進展によって、テロを助長し正当化する形の理論が形成されていること、それがアラブ世界において一定の信奉者を持ち、それを黙認する一定の人口が存在し、表立って反論できない世論が形成されているという事実を指摘しているだけである。アラブ世界に固有の理念やイデオロギーの展開がいかにしてテロを正当化するに至ったか、それを理解し克服することが、すなわちテロの「種」をなくすための作業である。…(略)…貧困がテロと関係があるとすれば、それは、できてしまった「種」を育てる「苗床」を提供したことにある。アル=カーイダに拠点を提供したアフガニスタンやソマリアは、まさに貧困が蔓延している地域である。…(略)…そしてテロが花を咲かせる「畑」とは、グローバル化した世界全域にほかならない。国際テロリズムはグローバル化に反対するどころか、グローバル化に乗じて資金を活用し、グローバル化によって提供される情報伝達や移動の手段を縦横に駆使してテロを実行する。アル=カーイダのような司令部のレベルでも、末端の実行犯のレベルでも、グローバル化に反対するなどという思想の形成やその表明はなされていない。何よりも重視されているのは、宗教的な規範理念に基づいた価値的・軍事的優位性の回復の希求であり、欧米や日本の反グローバル化論者がみずからの願望を投影して期待するような問題意識をそこに見出すことは困難である。」(池内・同上)
「戦闘員らは、金銭的な代償よりも、崇高なジハードの目的のために一身を犠牲にするつもりで、あるいはそのような高次の目的に関与することに魅力を感じて渡航している、という基本を押さえておく必要がある。少なくとも主観の上では、傭兵ではなく志願兵に近い。志願する目的の普遍的価値や手段の妥当性が、他者から見て承認し得ないものだとしても。そのような個々人の主観や個々人を包む集団の共同主観が前提にあることを認識しなければ、「イスラーム国」のような現象が生じてくる原因を探り、その解消のための適切な方策を考えることはできない。」(池内恵著『イスラーム国の衝撃』 文春新書)
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