「ホッブズが自然状態について最初に指摘するのは、人間の平等である。ただし注意が必要である。これは、「人間には平等な権利がある」とか「人間は差別なく等しく扱われねばならない」といった意味で言われているのではない。そうではなくて、「人間など、どれもたいして変わらない」ということだ。
確かに他の者よりも腕力の強い人間もいる。少し頭のいい奴もいる。しかしホッブズによれば、そうした違いも、数人が集まればなんとかなる程度の違いでしかない。どんなに腕力が強い人間であろうと、数人で立ち向かえば何とかなる。たとえば寝たきりであろうとも、誰かに依頼して、ある人物をやり込めることが可能だ。人間の能力の差異などは相対的なものに過ぎない。いわゆる「どんぐりの背比べ」ということにである。(國分功一郎著『近代政治哲学 自然・主権・行政』 ちくま新書)
<プレイヤーズ・ファースト>と、子供の自発性を重んじるサッカー・コーチのなかには、試合出場の機会も平等に振り分ける人がいる。実際にはそこまでするコーチはほとんどいないが、むしろ一人だけでもいることによって、その<大義>に誰も異議は唱えにくくなるので、その考えがイデオロギーとして現場を支配する。むろんそのコーチは、冒頭引用にあるホッブズ的認識として、人は誰も大差ないのだから、誰を出場させても同じだ、と考えてそう実践しているわけではない。人間(子供)は平等であるべきだ、という理念(やさしさ)によって、そう行おうとするのである。が、低学年ならば、子供たちの間にある差異をとりあえずカッコにいれて、機会均等、形式的平等を実践しても問題はないし、私もそうすべきとおもうが、やる気も含めた能力差が子供たちの目にも歴然としてきそれを自己意識化してくる中・高学年ともなると、ゆえに生じる偽善という観念が芽生えてくる。あいつ練習にもほとんどこないしやる気ないのに、なんで俺と交代して出るんだ? だから負けたじゃないか。なのに、なんでコーチは勝利をめざして一生懸命やれ、などというのか? 本気でそんなこと言っているのか? 嘘なんじゃないのか、と。むろん、そんなことを口にだせる子供たちはいない。だから、<プレイヤーズ・ファースト>という理念が、負け(現実破綻)の口実として、それを実践する者の責任を棚上げし、子供たちには自発性・自主性の強要として、抑圧的に、つまりはやりたいことと事実やってしまっていることとの乖離を発生させて機能するイデイロギーになるのである。
その実践的な可笑しさを、しかし日本サッカー協会側も気付いているのかもしれない。スポーツ雑誌『Number』874号「日本サッカーへの提言」では、元代表監督の岡田氏とJリーグの村井チェアマンが対談しているが、そこで岡田氏が育成レベルで主張される<ボトムアップ>理論を批判している。
<岡田 ええ、自由から自由は生まれません。以前高校サッカーで優勝したチームが選手にスタメンを決めさせていると話題になりましたが、その影響で、今は小学生でも自分たちで選手を決めるチームがあると聞きました。でもそれは無理でしょう? 根底に型があるからこそ、それを破る驚くような発想が生まれてくるわけです。>
岡田氏がそのような考えを強くしたのは、今回ワールドカップの優勝国が、ブラジルではなく、ドイツだったからかもしれな。個人の自由闊達な技でフィールドを切り開いていくと言われるブラジルサッカーではなく、型(頻繁に起こる状況に対するマニュアル的対応)の育成段階からの暗記習得というエリート養成で復帰してきたドイツ。バルセロナなどのジュニアユースの育成に体験・参加しはじめている若いコーチの間でも、指摘されてくることは、日本人がまだその対応の例題を知らないということ、長友や内田選手のレベルでも、個人のアイデアで対処しようとして複雑にやりすぎ、ために連携にミスが発生しやすく逆襲されてしまう、というものだ。彼らはおそらく、育成段階で、その時どうするかの基本例題を教わってこなかったのだろう、だからヨーロッパの選手なら絶対やってはいけないプレーを平気でやっている、と。私が受講したD級コーチ・ライセンスでも、子供たちに自由に判断させて、といっても、判断材料がなくてはだめですよね、その判断材料とは、算数の公式みたいなものですよ、と講義されていた。
しかし、岡田氏がなるほど型(公式)の暗記主義、という欧米に追い付き追い越せとやってきた日本で問題となってきた現実に敏感であったとしても、その型を学び型を破る、という発想は、あくまで日本的なような気がする。たとえば、前回チャンピオンズ・リーグの勝利者ドイツのバイエルン、そこを率いたもとバルサ監督のグラウディオラは、サイドバックが縦に走るという公式を破って、斜めに走らせるという新しい公式を打ち立てている。それはすぐに他のチームに模倣されて使われるようになった戦術だから、まさに公式と言ってもいいだろう。歴史の長い囲碁や将棋では、新しい定石を開発するなど至難の業だが、サッカーはなお余地があるのかもしれない。
そしてこんなとき、かつての日本主義者なら、公式違反だ、そんなのありえないぞ、とあわてふためいた、ということなのだろう。二次大戦中、植民地主義という公式を欧米が勝手に変更してこれからは違う、と戦略を変えてきたのに、その公式を一生懸命学んでまねて、今度はそれを、侵略した領地をもとにもどせだと、都合がいい、いやだ! と。グラウディオラは、「型を破る」つもりで、新しい公式を生み出したのだろうか? おそらく、そうではないだろう。単に、ゴールを、真実を追求しただけなのだ。
これは宮台真司氏が指摘してたことだとおもうが、公式は学べても、それを作っている動機は学べない、と。ヨーロッパでだけ、球を蹴って遊ぶという遊戯が変化・進化し、いまのサッカーという球技に発展した。日本の平安時代の蹴鞠をはじめ、アラブ世界でも、世界中で、似たような遊びはあったという。なのに、なんで、ヨーロッパだけが、フィールドの大きさ、そこで戦う人数、手を使うキーパーの発生、人員の配置……いまなお変化しつづけている。私の考えでは、それはおそらく、キリスト教からくるのだろう。この世界を神(ゴッド)が創ったのなら、でたらめにではなく、一つの真実によって創ったはずだ、ならば、その法則を探せ。ゴールに近づく、ゴッドに近づく真実の法則を追求せよ。つまり、サッカーも、技術ではなく、科学だということだ。
戦術の変化・変更だけなら、なおその動機など学べそうにおもえるかもしれない。が、へとへとになる競技で、交代選手が3名しか認めらていない、というのは、ほとんど不合理なようにおもえる。おそらく、人間の限界に達し、それを超えて出てくる神秘的な姿をみたい、ということなのだろう。だとしたら、それはバレエを観賞することにも似ている。そこで、これからは交代選手を2名にする、と本場が言い始めたらどうだろう? あるいは逆に、フィールドの選手は使徒の数と同じ12名とし、交代は1名とする、とか。そうなったら、私たち日本人の反応はどうだろう? え? なんで? それじゃサッカーじゃなくなるんじゃないの? とか。しかし、サッカー自体が、真実を追い求める上でのひとつの見かけ、にすぎないとしたら? 日本人が、ゴールへの気迫が足りない、決定力が弱い、とされるのも、もともとの動機のあるなしにかかわっているのかもしれない。そのゴールを決めたときの、ヨーロッパ選手の感激表現の有様、裸になってかけまわる……もう、われわれには不可解ではないか?
しかし、このキリスト教的な一神教の発想も、その血みどろの歴史から生まれた国際ルール的な公式も、もう一つの一神教との戦いで、その底が抜けそうになっている。前回ブログで引用した池内氏は、イスラム教内部での宗教改革が必要だ、その自発的な解決が達成されないと、新しい世界秩序の安定は難しいと、その内的・思想的要因に重きをおいて主張している。
民主主義という、形式的平等の押しつけはごめんだ。能力差は、格差はあるじゃないか。だから俺を交代させるな、試合にだせ、とやる気のある能力を持った子が主張しはじめたのかもしれない。が、人間に差があったとしても、たいしたことはない……その現実に根差した、ゆえに万人が万人を妬むことができる狼になるというホッブズ的認識が、民主主義という公式を生み出す道筋を導き出したのである。「型を学んで型を破る」という発想は、あくまでその民主主義という枠の中での、バリエーション、実務的な変更程度にすぎないだろう。が、あたらしい公式自体が必要なのだ。偽善を暴く子供たちの真実の声を受け止める包容力ある根幹のルールが。それが、真実追求の科学精神にあくまでもとづいて探究されるなら、もしかして、また同じことの繰り返しなのかもしれない。ならば、なんのために、というその目的、ゴールをゴッドに重ねることなく、万人が追求しえるコンセンサスが、まずは必要、ということなのかもしれない。しかし、その必要性が文化差異を超えて万人に了解されるまでには、もっと血みどろな歴史が経験されなくてはならないのだろうか?
さて、今日はこれから子供たちのサッカーの試合だ。去年まで、どのチームとやっても10対0や20対0で負けつづけてきたチームが、リーグ戦となった今年度の全日本予選では6戦負けなしだ。リーグ優勝をかけて、残り三試合。このままいけば、息子の一希のいる新宿の代表チームとリーグ1位通過をかけた決定戦を行うことになるだろう。親子対決だ。
私が、息子や子供たちに伝えたいのはサッカーじゃない。好きでやっているサッカーをとおして見えてくる、世界のことだ。
*認識的に落とした、詰めきれなかった部分もあるので、イスラム国の人質(8)も予定。
0 件のコメント:
コメントを投稿