2016年1月10日日曜日

普遍論争――世界での戦い方(3)

「議会制デモクラシーに代表される西欧近代起源の「普遍的価値」に対抗する「実体としてのアジア」を評価する柄谷らの姿勢は、欧米的「普遍的価値」に対して「社会主義的核心的価値」をいう現代中国の党=国家戦略を評価するのと、結局は同じことを意味してしまう。こうした事態の根底に横たわっているものこそ、近代日本から現代へと脈々と続いている「脱近代」への絶え間ない誘惑なのである。」(石井和章編『現代中国のリベラリズム思潮――1920年代から2015年まで』 藤原書店)

日本に固有のサッカーを作っていかなくては世界で戦っていけなくなるだろう、という前回ブログでの私の主張は、逆に言えば、普遍的サッカーというものがあるのか、という問いを暗黙に含んでいる。というか、「ヨーロッパ」のサッカーを理念型として「追い付き追いこせ」という話を受け入れた上での主張なのだから、それをイデアルな「普遍」として捉えていることになるのは当然になろう。が一方で、その「普遍」に対抗しがたいのは、それが理念やイデオロギーとしてだけでなく、事実の上にあるからだ、という付記的な発言からも知られるように、一般的な文脈、問いかけをずらしている。私としては、「普遍」は実在するのか、そんなものはなく、個物(特殊)だけが存在するのか、と言った問いは問いつづけてもしょうがないので、その事実が多くの人に強度をもって信仰せられているのであるならば、それを「普遍」として仮構しておいてもいいだろう、という程度の態度である。だから、これぞサッカーだ、という普遍性=理念は存在すると言ってもいいだろう、世界の多くの人々が、そう信じ流通させているのだから。つまりサッカーとは、一般名詞であるだけでなく、それが各個人に折り返し了解させられて固有の愛着を生じさせている、固有名なのである。そして柄谷氏の『探究』によれば、固有名こそが「普遍」に結びつけられている。これぞサッカーと人々がおもうとき、そこには「この」サッカーが好きだ、称えている、というサッカーとの固有関係もが内在されているだろう。

このように、一般的な問題設定を受け入れた上で、それをずらしていくことでよりリアルな実体に迫ろうとする態度変更は、アメリカのヘゲモニーの揺らぎが顕著になっている政治の世界でこそ火急な課題なのかもしれない。次に世界を支配するのは中国だと召されている。その中国でも、今目指している立場を正当化するためのイデオロギー的探究が盛んであるらしい。そして日本の中国研究者の間では、冒頭引用にもあるように、柄谷氏の近著『帝国の構造』などが現支配体制の専制政治を支援してしまうものになると批判的である。もしかしたら、柄谷氏は、自身の説く「帝国の原理」が、そのように機能してしまうことにあらかじめ自覚的であったかもしれない、その誤読・無理解を。少なくとも、その理論的な作業だけを読んでいるだけなら、たとえば最近の氏の発言などは理解不能になるだろう。

<柄谷 …(略)…ただし、僕は中国がアメリカの次の覇権国家になれるとは思わないんですよ。覇権国家になるには、前の覇権国家の承認がいるんですね。イギリスはドイツとなら徹底的に争うが、アメリカならいいかという感じがあった。同様に、次の覇権国家が中国かインドかという状況になったときには、アメリカはインドにつくと思う。しかし、そもそも、その時期まで資本主義経済が無事に続くかどうか不明です。もうひとつは、中国とロシアには再び革命が起こる可能性がある。中国の場合共産党が残っているし。>(『ふらんす』特別編集「パリ同時テロ事件を考える」 白水社)

理論著作では実際、現中国の帝国的実際を肯定するような言辞は見て取れる。が、その時点でさえ、中国はヘゲモニー国家にはなれないと見切っていた。今回インドというのは初耳な気がするが、少なくとも、インドはノーベル平和賞という現世界的枠組みを継承する姿勢をみせているが、中国現体制は、受賞者を獄中へ送ったままだ。これでは、普遍的な「事実」が強固になっていかないだろう。が、そうしたことはともかく、柄谷氏の理論上に限っても、それを文字通り読まなければ、つまりは冒頭著作の論者たちが柄谷氏は「理念」と「現実」との齟齬を見ずゆえに実際上の「機微に触れることはできない」とする評価はしようがないだろう。なぜなら、柄谷氏の提示する「帝国の原理」とは、まずもって構造、数学的な抽象モデル(型)でしかないのだからら。モデルとは、あるいは数学的思考とは、世界の複雑さをそのままで理解するのは困難だから、0から9までの10文字の数字に置き換えてみよう、モデル(型)として類型化し単純化してみよう、そうして頭の中を整理して、わかることと、なおわかりえないものとを区別してみよう、という試みではなかったか。そして「帝国」とは、交換という人の営みに着目した場合に4つのタイプに分かれるとされるうちの、一つの形態に照応している。たしかに、その「高次」とされる交換形態は、理念型ではある。が、あくまでそれが数学的な抽象モデルにすぎないこと、その基礎的理解を握持しているならば、氏の理論が「現実」を無視しているとか、具体性がないとか言っても、当てはまりようがないのである。私がいた「NAM]の原理もそうだったではないか、あとは、各個人の「創意工夫」に任せる、「原理」(NAM)は何もしない、と説かれたのである。柄谷氏の理論を批判する中国学者の意見の在り様を見ていると、当時のNAM会員の一部の人たちを想起する。

日本のサッカーが「普遍性」を獲得するときは、これぞ日本のサッカーと、各人が固有の理解でそれを愛着し、称えられることが、多くの人によって認められ、それが事実として固有の強度をもったときであろう。そしてその実践は、「ヨーロッパ」にあるというよりは、すでに日本のなかにあるだろう、それぐらいの探究と試行錯誤を私たちはしてきているのではないか、だから、いままで同様、、子供たちとの緊張関係を失わず、自己誇大におちいらず、その探究心を持ち続けて創意工夫していくことが近道、と育成の末端にいるパパコーチはおもうのだ。

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