2017年8月11日金曜日

夢のつづき(4)

「もしそうだとすれば、国民国家と帝国の二層化は、数学的な必然で支えられた構造であることになる。人類社会がひとつのネットワークであるかぎり、そこに必ず、スモールワールドの秩序を基礎とした体制とスケールフリーの秩序を基礎とした体制が並びたつ。ぼくたちはもはやナショナリズムの時代に戻ることはないが、かといってグローバリズムの時代に完全に移行することもない。スモールワールドの秩序の担い手がいまのような国民国家でなくなる可能性はあるかもしれないが、人類が人間であるかぎり、世界がスケールフリーの秩序に覆い尽くされることはありえないだろう。
 人類全体がひとつのネットワークに包まれ、スモールワールドの秩序とはべつにスケールフリーの秩序が、すなわち、つながりのかたちとはべつに字数分布の統計的真理が見えるようになるためには、交通や情報の技術がある段階に到達する必要がある。動物たちの真理を二世紀にわたって政治と哲学的思考の外部に放逐し続けたヘーゲルのパラダイムは、技術がその段階に達せず、まだ多くの人々にスモールワールドの秩序しか見えていなかった時代の社会思想にすぎなかったのではないか。」(東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』 genron)

目をつぶったまま瞳だけを開いて見えるまぶた裏の光景。光の粒子が、私には赤っぽくみえる粒の群れが、まだら模様を描きながら動いている。それはイワシの群れ、あるいはPCディスプレイでのスクリーンセイバーのような動きとも見える。








そしてこの粒々をもっとミクロに、目を凝らしてみようとすると、何か規則性をもったいくつかの幾何学的パターンで織られているように見える。それは魚の鱗みたいだったり、格子縞だったりして、丸い粒なのではなくて、そうした規則性で密集した粒子群、それは星団のようで、まぶたの裏では、そんないくつかのミクロな規則的パターンで織られた星団があちこちと展開されている。が、それら銀河の群れは目を凝らそうとすればそれを受けるようにその都度動きを速めるので、はっきりとした形はみえない。それを追ううちに、眠りがやってくる。ある星団が展開した光粒子の形が、何かを私に連想させたらしく、粒々が画像として、動画として浮かび上がってくる。そのまま夢に移行していくようだが、寝入るときは、もちろんそのストーリーを思い出せるわけではないが、それが不眠癖のある私の、「羊がいっぴき」と羊の姿を思い浮かべながら数える言い伝えの代用、私的な工夫だった。
しかし、目覚めるときは別だ。繰り広げられる夢の物語を見ながら、これが夢であることに気づく、そしてそうっとうまく操作できたとき、その夢の画像がぼろぼろと光の粒子へと崩壊していき、その様を静かに凝視、目を凝らすことができたとき、その粒子の模様が拡大されて、夢物語とはまったく別の静止画が現前してくることがある。「夢のつづき(2)」で再現してみたのとは別に、2か月ほど前だったか、次のようなパターンに出くわした。
(1)
(2)

あるいは、2週間ほどまえだったか、光の粒子が、したたり落ちようとする水滴のように集まっているような光景もでてきた。これらは、なんなのか? 夢のつづきにすぎないのか?

私が見た印象からの推論。
視覚から入る光景は、情報量があまりに「ビッグデータ」なので、それを圧縮して処理する必要がある。意識のある目覚めた状態のときは、その圧縮の方法には、生活に適応しなくてはという重み(プレッシャー)がかかる。だから、分類/整理(圧縮)以上に、回帰(誤差処理)のループ(修正)に重点が置かれて、それは部分では対象認識の正確さが、全体では意味の統一性が保持された縮約的なものになる。つまり光粒子からの連想方は隠喩的・象徴的になる。が、寝ている時は、適応の重みから解放されるので、その連想方は、換喩的・寓意的となる。しかしどちらにせよ、人は光景(データ)を見ないように処理されている。実際、私たちは、ものを見て生活していない。そこにコップがあれば、それを見て認識するのではなく、そういうものだと概念認識して(言葉で処理して)、すまさなければ、次の動作に移れない。だから、どんなコップだったか、そこにどんな汚れがついていたかなどまるきり覚えていない。その人間の傾向は、夢においても同じ、というか、夢だからこそ伺えてくる、ということか。まぶた裏の光の粒子自体が、すでにしてデータを圧縮するためのフィルターなのだ。外の光で輝いた窓を見てからまぶたを閉じると、窓の残影が白い光となって赤っぽいまだら模様の世界に浮かび上がっている。生活上では、それは窓として一致して認識されなければ、私たちは不適応を起こしてしまうという圧力をうけている。が、夢では、そう認識されるだけとはかぎらない。窓枠に似た白い光の形が、この私の今を左右させているより精神的にダイレクトな連想を惹起させてくるかもしれない。が、それでも、それは自由連想というわけにはいかないのだ。というのも、まぶた裏のまだら模様自体が、実はすでに概念的に縮約された文字パターンで編まれているからである。その意味を、生活上における言葉のように私たちは理解できないが、結局は、その文字を通してしか世界=光景を認識できないようになっているらしい。おそらく、そう「ビッグデータ」を圧縮して過ごさなければ、この世界自体に私たちは適応できないのだろう。その外部があったとしても、私たちは、少なくとも、見ることはできない。目を開けていようと、つむっていようと。

追記;
(1)見る、という行為が、意識的かどうかには疑問がつく。生活に適応するため対象物の境界(輪郭・エッジ)に焦点をしぼって概念処理している傾向があるといっても、それに収まらない経験も在るようだからである。見た光景を細部にいたるまで写し描いてしまう人もいるとされるサヴァン症候群、と呼ばれる現象まではいなかなくても、私たち自身、ふとしたことから、なんでそんな細部まで覚えていたのか、とびっくりするようなフラッシュバックがないだろうか? 私は、眠れない夜、その日起きてから目に映ったものを再現してみようと映像的に振り返っていく場合がある。朝目を開けて何をみたか、次に何を、と順次思い出そうとしていく。結構変な細部まで記憶がよみがえる。文学作品で著名な例としては、プルーストの「失われた時を求めて」であろう。あるいは、柄谷氏が近代文学の起源、「風景の発見」として読んだ国木田独歩の「忘れ得ぬ人々」。どうでもいい見過ごしてきた人の方が記憶に浮きあがってくる。それを文学的な思想的意図(ロマン主義的イロニー)としてではなく、単に、日常生活的な出来事の一つ、と受け止めることも可能だろう。というか、そっちのほうが普通の現象なのではないか? としたら、私たちは、実は監視カメラのように、光景を写し取っている、ということになる。死の危機の前に、走馬燈のように過去がフラッシュバックされてくる、ともよく言われる。
(2)まぶた裏の光景は、脳内イメージと、同時に、重ねて見ることはできる。
(3)まぶた裏の光景は、外の風景と重ねられない。同時に見れない。
(4)脳内イメージと(想像)と、外の風景は重ねられる。同時に見れる。
(5)脳内イメージ自体が、実は概念的に処理されていることが多い。想像して脳内で見ているように思い込んでいるだけで、では実際それをよくみようとすると、まったく映像がないことに気づく。ないものを、思い出して見ていると錯覚することで次の動作に移っていこうとしているのだ。子どもの頃の、野球試合でのあの場面を思い出していると思っている、たしかにそれは印象にあるシチュエーションなので、言葉的にストーリ性を付属させて思い返すこともできるようなのだが、実は、映像としては再現されていない。あるいは、かすかな境界、メインな映像部分の輪郭が動いているだけである。その細部まできちんと映像化するには、意識的な作業では無理なようで、やはり何か無意識を発動させるきっかけが必要なのかもしれない。
(6)もともと、目自体が、可視光線しか見えない、それ以外はふるい分けるフィルターなのだから、私たちは、生物的に、何かを守るように作られているのだろう。しかしそれは、単に人間という種の生物的適応のためだけの限定ともいえる。人には見えないものを見て生き延びている生物もいるのだから。臭いでもなんでもそうだが。となると、人工知能と呼ばれるものの思想は、深かろうが浅かろうが、世界を変えていくというよりも、単に環境適応にすぎない、ということか? 農業革命に匹敵する「ディープラーニング」という発想の転換、とも呼ばれているが、そもそも、農業は、人間を、世界を変えた、と言えるのか? 社会は変えたろう。が、この身体と、世界の境界との、適応力自体の在り方を変えたか、変えられるのか、というのが、問題なのではないだろうか?

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