2017年8月19日土曜日

夢のつづき(5)

「人間の記憶はある種のビッグデータ処理機と見なしてよいと思う。サヴァン症候群の患者は、記銘力と芸術的能力において特異な才能を持っていると言われている。…(略)…サヴァン症候群の患者は、驚くべき量と正確さの記憶力を示す。一方、健常者の記憶は正確ではないし、裁判での証言者の記憶は不正確である。証言者の記憶は解釈の都合で如何様にも歪んでしまう。これは人間の記憶特性である。コンピューターのように一次元のメモリアドレスから正確に参照される類の記憶とは異なる。その代り人間の記憶は脳という記憶空間内に、幾重にも重なって畳み込まれていると考えられる。このとき潜在意味分析の如く特異値分解でキーベクトルを与えたときに想起される内容が人間の記憶と同一視することができると考えるならば、人間の記憶とビッグデータとは親和性が高い(人間の長期記憶と潜在的意味分析、あるいはその元となった特異値分解)と考えることができよう。さらに自動符号化によって抽象化が起こると考えるならば、…(略)」(浅川伸一著『ディープラーニング、ビッグデータ、機械学習 あるいはその心理学』 新曜社)


「事物の認識はこの関係によってこそ行われるのであって、実は見かけ上の類似性などは意味をもたないのである。抽象とは外観に現れたかたちの抽出ではなく、この具体性にもとづいた認識であり、判断である。」(岡崎乾二郎「抽象の力」)

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「もう一度出発点に立ち返って、機械の画像認識を向上させるために何が必要かを考えてみたい。図7・4を見ると我々は、画像には幼児の顔が写っていて、その子が何か(スクリュードライバー…引用者註)を手に持ってこちらに向けている、という状況を理解できる。畳み込みネットワークを使って制限ボルツマンマシンを重ねれば、この状況を察するユニットが形成されるのだろうか? 素朴には答えはノーであろう。このような状況をモデルに理解させるためには、古典的な人工知能の手法を取り入れて宣言的知識をシステムに与えたくなる。
 しかし、そうする前にまだなすべき仕事は残されている。マーガレット・ウォリトン(Warrinngton. 1975)は、意味記憶が視覚的記述と機能的記述に分かれている可能性を指摘した。すなわち神経心理学的には、視覚の対語は聴覚でも運動でもなく、機能である。人間の意味記憶障害では動物と非動物とに大別される。動物は視覚的に記述されることが多い。トラとチーターの違いは、主として視覚情報の違いによる。ところがイスとテーブルの視覚情報にはそれほど差がない。同じ素材で作られていて、同じ色をしていることもあり、同じ場所に存在し、どちらも四足であり、かつ、大きさもそれほど違わない。縁日で売っているミドリガメとゾウガメの大きさの違いの方が極端である。イスとテーブルの違いは主として、どのように使われるかという機能によって判別される。…(略)…視覚情報だけでなく機能情報も同時に与えて制限ボルツマンマシンで多層化して視覚情報に機能情報を連携させれば、動物と非動物の二重乖離という神経心理学的症状を説明するモデルができるだろう。その知識を使えば、ディープラーニングは図7・4の画像をスクリュードライバーと認識できるのではないかと思われる。」(浅川・同上)

・もし、健常者をぶんなぐってサヴァン症候群が成立するなら(事故でもいいが)、それは異常さの中に普遍性が見えてくる、ということではないだろうか? 私が主観(自我・意志)を超えて、捨てて、ぼんやりとモノを見ているときにこそ脳みその力が発揮されているのだとしたら? モノを見ている者が、私以上の者だったら?

・心理学的視点から、「機能」に着目したのは面白いとおもった。が、「機能」は一義的だろうか? さらに、この図7・4の赤ん坊は、それをスクリュードライバーとして使っているのか? そんな通例的な「機能」ではなく、その道具の有限性的な限定から、想像力豊かに「機能」を新しく創りはじめている、というのが赤ん坊(子ども)の現実だろう。たとえ私たは、その新しさを、既存の社会的枠組みに触れたときにだけ、「ああそうしようとしていたのか」、と新鮮な感動を覚えるだけであっても。つまり大概な用法は、理解できないのだろう。

・中学生棋士で有名になった藤井氏が、モンテッソーリ教育を受けていたことが注目されている。→<しかし《フレーベルの教育遊具》は、その演習が、あまりに詳細な操作方法まで指定されていたことによって形式的すぎる、儀式的であるという批判もされていた。ここまで詳細に事物との関わりに指示を与えてしまうと、児童の自発性、自由はむしろ抑制されるのではないか。後続するモンテッソーリの《教育遊具》はそもそもマリア・モンテッソーリ(1870-1952)が知的障がい児の知能向上育成にあげた驚異的な成果をもとに発想されており、事細かな指示がいっさいなくても、ただ遊具と具体的に接していれば自動的に思考や感情が促されるように工夫されていた[fig.109]。まさにモンテッソーリの《教育遊具》は主知的な指導がなくても事物が身体を触発し、知性を生成させるという発想に基づいていたのである。

《感覚教育》として知られる、そのメソッドは以下のようなものだった。身体的な運動およびその感覚から、抽象的な概念、法則性の理解を自動的に促すこと。そして身体的な交渉、試行錯誤を繰り返すことで、その過程で与えられる具体的な感覚、感性的感受から高度な抽象概念の習得へと導くこと。すなわち事物との関わりこそ知性を維持し育成するきっかけになる。むしろ知性を誘うのは事物である。人は事物に触発され考えさせられるのだ。触発すなわち事物が与える感覚が人間を育てる。>(岡崎・同上)
私も、子どもへのサッカー指導から、オランダのトータルフットボールがどうして実践しうるのか、と調べてみて、その新しい教育実践のことについて知った→<オランダでは、1960年対後半、そうした制度から、いじめ問題が深刻化しました。オランダ人は、その原因を、近代国家によって導入された一斉集団授業という形式に問題があると原因特定しました。それゆえ、学校創立に自由を与え、生徒が一定数集まって場所もあると証明できれば、私立でも公立と同じく予算をだし、先生の給与全額を国が負担するという政策をとったのです。結果、ドイツはナチス政権下で弾圧されていた新しい教育理論を採用する人たちがあらわれ、一つの地区に色々な方針を実践する小学校が現れた。要約的にいえば、授業から「学習」という形態に移行し、それは近代以前の日本の寺小屋に近いです。教壇はもうなく、1から3年までが一緒の部屋 で勉強し、先生は個人の発達レベルにあわせた課題を与えて、定期的に、4人ぐらいのグループを作った机の間を見回ったり、床にすわっています。宿題を終えた子は廊下にでてもっと好きな勉強を一人ではじめたり、先生がレベルの高い自習問題をあたえます。そしてこの風潮は、なお数量的には主流にはならないとはいえ、EUを離脱したイギリスを除いて、ヨーロッパの理念的なメインストリームになっているといっていいとおもいます(最近の難民問題で次の課題に直面しはじめていますが)。なんで私がそんなことを知っているかというと、サッカーのクラブ活動だけで、トータルフットボールなどという、全員が一丸となって休まず走り通すモチベーションを育成することなどできないな、もっと子供が時間をすごす小学校に問題があるのではないかと、中野区の図書館程度でですが、調べたからです。>(D&P2016.92016.8)……というか最近は、小学校以上に「いじめ」を通り越した不登校が中学に入った途端びっくりするくらい増加するようなので(息子もその兆候あり)、もう一度探ってみようとおもっている。

・コンピューターはなぜそんな手を打てるのか、もはや人間にはブラックボックスになっているという。人がやれば何万年とかかってしまう場数経験を踏んだ上なので、私たちにはわからないのだと。が、そういう経験値レベルでのわからなさなら、遺伝子や身体レベルまで考慮したら、私がなんでこうしてしまったのかさえ、ブラックボックスである。しかし本当は、グーグルは、解析できるらしい。何年かしたら(おそらくはつまり、儲けを確保したら)、その解析本を出版するかもしれないらしい。しかしそんな参考書、ハウツー・テキストをみずども、すでに若い人たちは、コンピューター相手にゲームをしているのが日常的なのだから、何万年かの経験値をとり込んでいるのである。難しく正しい歴史的経緯など知らなくとも、そのノウハウ的結果、すなわち知恵はついてくる。コンピューターとまた互角に張り合える時期はくるだろうが、しかし、その時は、人間と自動車が競争しても意味がないように、疲れを知らない機械相手に戦っても、面白い見世物にはならないだろう。お笑いにはなるかもしれないが。

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