2018年8月8日水曜日

日大アメフト部事件から(4)

「…日本のスポーツいついて、何か問題点が見えたり、それをアメリカではどういうシステムで行っているかという類の情報をシェアしようとしたとき、いつも目に見えない壁にぶち当たる。/「どこの誰に話せば良いのか?」という壁だ。対岸の大火事をただ見ていられるような性分ではないので、なんとかしなければ、誰かに伝えよう、となる。そうしたとき、スポーツに関して言えば、以下のような窓口リストが出てくる。
 ・JOC/・JSC/・スポーツ庁/・文部科学省/・日本体育協会  …(略)
それぞれが最新鋭の技術を搭載した消防車や消火設備を備えているのに、その火事がどこの管轄か、瞬時に判断できない。そして、通報を受けた隊員も、ボスの、そのまたボスに確認しないと行動ができないのである。そればかりか、数軒隣に位置する消防署同士の横のつながりはほとんどなく、大きな火事の原因となる小さなボヤが、たらいまわしになってしまうのである。

 一極集中とは言わないが、もう少し窓口を減らしてほしい。そして、良い意味で、彼・彼女の一声ですべてが動くような、強大な牽引力を持ったリーダーに現れてほしい。」(河田剛著『不合理だらけの日本スポーツ界』ディスカバー携書)

上引用は、日大のアメフト部事件を予期するかのように出版されていた、スタンフォード大学アメフト部のアシスタントをしているという人物の著作からである。
下引用は、佐藤優氏の最近作、『ファシズムの正体』(インターナショナル新書)から。

「真珠湾やマレー沖海戦で、日本は航空機の重要性を示しました。どのような巨大戦艦でも、束になった爆撃機には勝てないことが明らかになったわけです。
 しかし当時の日本には、空軍がありませんでした。海軍と陸軍は「海軍航空隊」と「陸軍航空隊」という形で、それぞれ別個に航空機を持っていたのですが、両者はまったく別の兵器体系だったので、ネジの大きさもエンジンの規格も違っていました。そうなると陸軍は陸軍の、海軍は海軍の部品しか互換性がありません。
 それに対して、米軍の兵器の規格はみな共通していました。だから戦場で、壊れた機種が何種類かあっても、それらを合わせて一つの航空機をつくることが可能だったのです。…(略)また戦前の日本の軍隊には、ロジスティックス(戦場において戦闘部隊の後方で行う、物資の調達や補給)という思想がまったくありませんでした。…(略)そうした兵站軽視とセクショナリズムが端的に現れたのが、一九四二(昭和一七)年以降、陸軍が一生懸命に航空母艦を建造したことです。ミッドウェー海戦のあと、海軍が輸送船の護衛をしてくれないからと、陸軍は「あきつ丸」をはじめとする四隻の揚陸艦を航空母艦に改造しました。さらに陸軍は、艦載機まで自力で開発しています。世界の陸軍で空母を造ったのは、おそらく日本だけではないでしょうか。」

佐藤氏によれば、多元的な「縦割りシステム」として「しらす」思想、いわば「忖度による統治」がめざされた日本では、独裁的な「ファシズム」は不可能なのだという。大政翼賛会は成立したが、結局は独裁として揶揄され機能しなかった現実を、片山杜秀氏の『未完のファシズム』を参照して指摘する。ゆえに、河田氏が期待する「強力なリーダーシップを望むことなどできません。」となる。

*追記として、今日8.11に買ってきた川渕三郎著『黙ってられるか』(新潮新書)の、渡邉恒雄氏との対談から。
<川渕 長年、さまざまなリーダーをご覧になってきた渡邉さんの目から見て、最近のリーダー、リーダー候補者の中で、「これは」という人はいますか。
渡邉 うーん……昔と今とでは違いますからね。たとえば政界でも、安倍さんのような独裁的ではない、柔らかい人柄の人がいつの間にかトップに行きました。まあ実際には独裁的なところもあるのかもしれないけれど。
 ポスト安倍と言われていた石破(茂)さんとか野田(聖子)さんとかは、今は総理になれっこない状況になっている。その次の候補者は、岸田(文雄)さんとも言われているが、これもおよそ独裁的ではない。開成の後輩にあたりますが、大人しい。こういう人がいいと言われているのだから、あまり独裁的なリーダーは望まれていないのではないでしょうか。
 昔は経団連、日経連などでも独裁的な人が会長になりました。しかし財界でも穏やかな人がなっているんじゅやないかな。
 日本は独裁者が流行らないんじゃないでしようか。…>

佐藤氏は、ではなぜ日本ではそのような発想になってしまうかとは問わない。とにかくそうなってしまうことに注意喚起し、個(アトム)や全体(ファッショ)の回路に回収されない「中間」の団体を強くすることが実践的な重要さだと処方箋を説く。これは京都学派とライプニッツの関連などを論じた柄谷行人氏の論法をふまえた見解だろうが、柄谷氏はNAMという中間団体実践後、その「なぜ」を「世界史の構造」そして「遊動論」として再考したのだった。私はその要約を、「相撲界の混乱から」というブログでおこなった。
しかし「中間団体」においても、たとえば町場の地域少年サッカークラブでも、なかなか独裁的にはなれない、ちょっと前までは成立したが、もう成れない状況なのだった。チームを成立・存続しようとすると、佐藤氏のいう「しらす」思想をふまえた、「ミニ天皇」的にやる必要がでてきてしまう。不安な親たちが「強力なリーダー」で子供をしつけてくれと望んでも、戦後の長い平和で日本的な地が前景化されてしまったその地盤では、実際的に機能しない。望んだ(意識した)本人たちが揚げ足をとり、出る杭を打つ無意識を張り巡らす。そんな空気が読めてしまったら、少なくとも私には無理だ。空気が読めないコーチは追い出された。自分の息子が上級生にいる間は他コーチの問答を封じて独裁的に頑張ったが、忍耐がもたない。自分が手を引くとどうなっていくかは予測できでも、次の世代に「やってみろ」と忍耐が切れてしまったのだった。……

そしてそれは、安倍政権でも同じ様態にみえる。森友学園風にやりたいのに、できない。
最近も、「クラスジャパン」中間団体を作って、不登校をみな登校させていく、という方針を転換した。あるいは、「ジャパン・ハウス」なる安倍日本思想の海外発信拠点を新造したが、思想広報などどうもできやしないらしい。(世界相手にでは無理だろう。ヤルタ体制への謀反になるので。)――そうした保守系の教育運動、「江戸しぐさ」や「親学」といった森友学園と関連している思想集団でも、紆余曲折になった経緯があると、原田実氏は指摘している。(『オカルト化する日本の教育――江戸しぐさと親学にひそむナショナリズム』ちくま新書)が、原田氏が最後に暗示しているのは、日本の「未完のファシズム」にとって怖いのは、彼らが意識的に実践しようとすることなのではなく、それを取り巻く私たちの無意識、ということになるのだ。

<そもそも「江戸しぐさ」の背景に、薩長の流れをくむ日本の保守層に対して批判的な歴史観があったことはすでに指摘したところである。また、親学の背景にあるGHQ陰謀論にしても、それがもともと左派でもてはやされた主張であったことも説明した。…(略)
 親学およびその歴史的根拠としての「江戸しぐさ」は、第二次以降の安倍政権の文教政策と密接に結びついている。安倍晋三自身が親学の支持者であることはすでに述べてきたとおりである。しかし、自民党以外の政党にまで親学支持者がいる以上、政権交代は必ずしも親学推進の終焉を意味するわけではない。大手メディアの対応に見られるように親学や「江戸しぐさ」は安倍政権に批判的な勢力までとりこんでしまいかねない代物なのである。>

*<…親学では子供から親への感謝の念を歌う親守詩なるものが推奨されている。子供が子守歌を歌ってもらうように、父兄の方が子供から「親守」してもらうというのは私には異様に思える。現代の親たちは親であることに対して、そこまで自信を失っているというのだろうか?
 このグロテスクさは、親学が父兄および推奨する教師たちの感動と満足のためにあることに由来している。子供たちが大人に、感動や満足をもたらすことは一見、いい話のようである。けれど、そこまで大人たちは子供に感謝されたいのだろうか。>(同掲書)……私が洞察するかぎり、挨拶をしないサッカー・クラブの少年に、心因的な問題はない。なかには甘やかされ過ぎだな、と思える子がいるとしても、自然な情動(成長)の内にある。だから自然解決できる。今の社会現状でも。が、それを不満とする大人が声高になって社会を変えてしまったとき(「挨拶やり直し!」)、自然成長の速度を阻害された子供たちは、なんらかの心因性の病気を抱え込んで不健康、屈折していくだろう。単に、自分が率先して挨拶していればいいだけの話だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿