母の部屋 |
「このように器物を収納するナンドは、同時に産室、寝床、性の営み、そして死の場所として用いられ、同時に豊穣を祈るナンド(先祖)神が祀られていた。そこでは者とモノとの交感が行われたのである。これは先のインドネシアにおける高倉と同様の性格を持った空間ではないのか。つまりインドネシアでは垂直的関係において現れた化モノ空間が、日本の民家では、ナンドに着目するとわかるように、平面=水平に展開していったのである。」(中谷礼仁著『未来のコミューン 家、家族、共存のかたち』インスクリプト)
群馬の実家が、まさに中谷氏の指摘する、日本民家に明確な間取りをなぞっていることに驚かされる。いや正確には、両親が住んでいるうちに、そうなってきた、と言うべきだろう。市中の長屋住まいから市外の平屋へ越してきたのが私の幼稚園のとき。そしてオモテ東から子供部屋(ウラがトイレ風呂)、中央広間応接室、西オモテが台所(ウラが両親寝室)、玄関は西のオモテ、にあったその家が、父の親戚の甘楽町の大工によって二階建てに増築されたのが小学4年のとき。その改築に悲しくなった私は、平屋の間取りと何かしらの詩を創作して、新築の二階天井裏にいまだに隠したままだ。が、玄関が東のオモテ側に移動したことにより、その対角線となった西ウラが、まさに中谷氏のナンドになった。いや当初は単に両親の寝室のままであったが、そこに神棚がつき、子供の上京に伴い二階の空き室が父の書斎兼寝室となったため、ウラのオクは、母が寝起きするだけでなく、不使用となったモノどもの物置と、徐々になっていったのであった。歩くのもままならなくなった母はいま、所せましと積み込まれた家具や荷物の隙間に、動物の巣に住まうように、寝床をしきっぱなしにして暮らしている。中谷氏の著作は、まず私に、そんな母の姿を想起させ、その連想から、氏が柳田国男を受けて追求する「家の作り手、あるいは住み手の意志に関係なく、避けがたく現われてきてしまう家の根源的構成」を納得するのだった。
が、その納得はまだ、あくまで真実への過程であるだろう。
私は、同じく柳田を受けて日本の先祖(固有)信仰と、人類的な双系性と遊動性について考察した柄谷行人氏の「世界史の構造」の一説をも想起していた。――「定住は、死者の処理を困難にする。アニミズムでは一般に、死者は生者を恨む、と考えられる。遊動生活の場合、死者を埋葬して立ち去ればよかった。しかし、定住すると、死者の傍らで共存しなければならない。それが死者への観念、および死の観念そのものを変える。定住した共同体はリニージにもとづき、死者を先祖神として仰ぐ組織として再編成される。こうした共同体を形成する原理が互酬交換である。」(『世界史の構造』岩波書店)
つまり疑問はこうなる。――<家とは、定住によるものなのか? (原)遊動によるものなのか?> 柄谷氏の、人が定住した理由は、どこか即物的であるようにきこえる。「死者」とは、腐臭を発する異物であり、ゆえにそこから逃走(遊動)し、てっとりばやく取得できる獲物とは魚であるゆえに、その漁具は重く、ゆえに最初の定住地は河口であろう、となる。この唯物論的な着想は、中谷氏の考察からは、想像しにくい。インドネシアの高倉への中谷氏の洞察からは、定住が、むしろ死者からの逃走ではなく、腐臭を超えた共存を志向していることを示している。母の姿をまず思い起こした私としては、中谷氏の方に分があるように理解したいが、しかし、死者とは、先祖とは、誰であろうか? 今でこそ、先祖といえば、両親をおもうかもしれないが、そこまで長生きしたものは、昔はマレだったはずだ。一番の多くの死者とは、赤ん坊、そして産みの若い母、女房であったろう。となると、両者はなお、記憶を共有したといえるには一緒にすごした時間が少ない他人に近い存在なのではないだろうか? 長生きしたマレな存在だけが死者として特別に埋葬=共存された、ということだろうか? とにかくも、彼/彼女を埋葬したところが、定住した河口付近であったならば、洪水で流されて、家も流されて、どこに埋めたのかわからなくなってしまう。だから、土を盛り、家を高くする……となれば、この人の作法は、やはり柄谷氏の考察から受け取れるような、即物的、唯物論的な洞察ではない、きわめてヒューマンな考えを私がすすめているゆえに、ということになるだろうか? このヒューマンさをさらに推し進めれば、定住とが、物理的対応処理ではなく、死者と一緒にいたいがために、敢えてそこにとどまった、ということになるのだが……。つまり、原遊動性、というよりは、原定住性、である。遊動していても、定住(家)が、反復されてくるのだ。この視点は、坂口安吾の「家」をめぐるエセーでの考察に近い。が原遊動性にしろ原定住性にしろ、それは生というよりは、死の欲動、タナトゥスの範疇ではあるだろう。
家が、死者を埋葬する=共存するモノ置き(ナンド)として根源的な機能を働かせてくる、としたら、それは第一には死者のためのものであろう。ならば、生者は、どこにいるのか? それは、著作中の民家の間取りスケッチでも記されているように、土間=ニワ、ということになる。日本の古語として、ニワとが、漁場としての近海であり、作業場=狩り場としての山であり、家(定住地)から見晴らせる広々とした空間のことであった。かつてはニワが<日和>として書かれたのは、これから漁や狩場へと、海や山へと出かけるために、まずは天気を見る行為があったからだ。その行為と空間とが一体化した作法のことを、ニワ、と呼んだのだろう、それは今でも、ここは俺のニワだ、という庶民の慣用からこそ知れてくるのである、というのが私の庭をめぐる考察だった。
中谷氏のこの著作のエピローグは、「庭へとつづく小径」と付記され、精神障害等をかかえた当事者たちの地域活動「べてるの家」、その東京での活動拠点たる池袋の家の改造の模様がつづられている。いま私の実家は、母と、統合失調症の兄が暮らしている。かつて、母は、この「べてるの家」の活動のことを知って、私にその東京での活動報告会に参加し説明をきいてきてくれ、と頼んだのだった。私はそこに出向いていった。ただ私は、北海道に兄を送り出して生活=自立させることには反対だった。いま、母のいるナンドと、垂直的な対角線上にある子供部屋で、兄が暮らしいる。発作が起きるとどうなるかわからない、殺してしまうかもしれないと電話口でいう兄に、私は、その時はとにかく逃げて、家から出ていくんだ、と助言する。物片づけが苦手な女房の荷物で「ポルターガイスト」状態となった2LDKの我が家でも、母に向かって発作のように暴れ出す息子に向かって、「早く外にいけ、しばらく散歩してこい!」と私は怒鳴ることになる。中谷氏が、「べてぶくろ」でやったことは、家と庭を当事者に即してつなげることだった。
家と庭、死者と生者、ナンドと子供部屋……うまく結べる作法を、私は身につけることができるだろうか?
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