2019年3月3日日曜日

柄谷行人著『世界史の実験』を読む――平和条約を前に(4)

おそらくこのコンパクトな形をもった新書(岩波新書)は、柄谷氏の著作のなかで、一番難解な書物かもしれない。なにせこれまで単行本としてまとめ出版された諸著作群が、短く横断されてまとめられているのである。一冊の単行本として提出された作品でさえ、証明というよりは、状況証拠的に積み上げられていく引用の編集によって説得的な論理の体裁を保っていたというのに、さらにそれを簡約的にまとめあげているのである。だからこの作品の提示の作法は、もはや状況証拠の集積ではない。そんな長さは許されていない、というよりは、氏は自身の洞察=抽象力を手短に語れるほどに、余裕がでてきている、という印象なのだ。しかし、氏の横断=連想が、単に羅列されていくだけのようにはみえず、やはり説得的な論理をもっているように受け止められる。ではどうやって、次のテーマから次のテーマへと移行されていくのか? 私は、氏が「語」っているといった。私には、一種の話芸でもって、移動していくようにみえたのである。しかも、ユーモアというよりは、江戸的な諧謔性、庶民的な笑いによってである。この横断技術を、トランスクリティークと呼んでよいのか、私は知らない。

たとえば、氏は、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」を、ラテン語の様相に近い関西弁に訳し直すことを提案する。<思うわ、ゆえに、あるわ>、と。(「わ」とは「われ」という主語が語尾についたものだという説をふまえて。)しかも、そう言った次章のタイトルが、「何か妖怪」なのだ。こんな駄洒落を許していいのか?
とくに私は、柳田国男から抽出する柄谷氏の「固有信仰」が、どうして氏が説く「交換D」=互酬交換の高次元での反復と結びつくのかが不透明だった。この作品では、その結びつきが、「双系性」という概念を媒介することで示されている。「固有信仰」には、「双系」的な原初の家族形態にあった人倫が内在系譜されているのである、と。これは証明というよりは、柄谷氏の洞察である。強いて言えば、エマニュエル・トッドの家族人類学的な実証への言及によって、その洞察が裏付けされているともいえるが、強いとは言えない。補助線として引用されてくるいくつかの文献も、日本特殊の文脈だけではない問題性を開眼させるが、論証的というよりは論説的である。むろん柄谷氏は、問題にしている事柄が実証できる範疇にはなく、抽象力によってだけ把握できるものだということを強調してきたわけだが、それが独断ではないと提示するには、なんらかの説得的な技術が必要とされるだろう。これまでは、これでもかというぐらいの引用の集積とその編集の技術だった。が、今作においては、次ような話術なのだ。

<彼(註―柳田)は直観的に、父系でも母系でもないようなものがあったと考えていたようである。そして、彼がいう固有信仰は、そのことと深く関連しているといえる。それについては後述する。>

「…ようなもの」が「…ようである。」と「いえる」を「後述する。」――この記述は、主観的な推論を断言に言い換えて、その言い換え(断言)によってできた「関連」についての証明は、後回しにする、ということだ。つまり自身の推論についての証明は問うてはおらず、棚上げされたままである。ならば、後述の証明というか、状況証拠の提示は、氏の洞察自体を照明してくるわけではないのだ。が、こんな差異を超えて、氏の語りは説得的に継がれていく。一般の読者が、この話芸で説かれる論を、納得的に理解するようになるのかは、私にはわからない。その内容自体は、分厚い著作群によって提示されてきたまとめなのだから。

私には、そしてこのブログを読んできている人からしたら、しかし柄谷氏の今回のテーマ連結は、理解しやすいものであろう。とくには、トッドと柄谷氏の論議の類義性を提示してきたものなどには、親しみやすいはずである。(例;エマニュエル・トッド著『家族システムの起源』ノート(3)――柄谷行人著『遊動論』と)しかしゆえに、日本的土壌を批判してきた柄谷氏が、双系的現実の色濃い日本を、理念的に肯定しはじめているのだろうか、と疑問に思えてくるのである。が、それは私自身に対してもそうなのだ。おそらく私の身近な日常世界での実践は、以前同様、モダニスト的、主体的である。無主体的、無責任的な、しょうもない習慣連中と戦うことになるので。柄谷氏が今作で触れた「夫婦喧嘩」でもそうである。そして、負け続ける、という双系的現実! その屈辱の中で、私が考え、このブログでも追及していることを、『世界史の実験』の言葉で言い換えれば、次のようなものである。

(1)「くりかえすと、互酬原理(交換様式A)は、フロイトの言葉でいえば、「抑圧されたものの回帰]」として生じた。したがって、それは反復強迫的である。だが、定住によって「抑圧されたもの」とは、原父のようなものではなくて、「原遊動性」である。その回帰は、不平等を許さない兄弟同盟を作り出す。そして、それが国家の出現を妨げる。したがって、氏族社会は、上から禁止によって縛られた抑圧的な社会なのではない。それは、原父のような専制的権力あるいは国家の出現を決して許さない誇り高い社会なのだ。」――私は問いたい、なんで、「国家の出現を決して許さない」社会は、「誇り高い」のですか?

すぐ次に続いた文章は以下である。

(2)「例えば、モンテーニュは『エセー』でつぎのようなことを記した。アメリカのインディアン社会では、首長は権力や名誉をもつのだが、誰もがそれを望むわけではない。むしろ首長になることを激しく拒絶する。というのは、首長には数々の重い責務があるからだ。旅行者に、首長の特徴は何なのかと聞かれて、原住民は、それは戦いのときに先頭に立って進むことだと答えた。」――まだ引用著作を捜せていないのだが、しかもそれが柄谷氏の他著作からか、中沢新一氏の著作中だったかわからないのだが、上引用のような人類学的なエピソードで、次のような話があった。その首長の戦闘(戦争)に他の者たちが賛同しないとき、それでも、言い出しっぺの首長はひとり戦いに赴かねばならない。そして、無残に殺されても、その怯まない姿勢を相手は賞賛し、黙って送り出した他の皆も勇気を称えるのだ、と。私は、この冷めた民衆(?)の態度の方こそが考察に値する、と考えるのだ。考えざるを得ないのだ、この屈辱の中で。戦争中、吉本隆明氏は、こんな夢をみたと言っていなかったか、全員突撃の中で、突撃したのは自分だけだった、という。私にも、そういう思いがある。

(3)「夫婦喧嘩」を通してであるが、それは、子供の教育をどうするか(何を子孫に伝えるか)、でおこりやすい。その時の女房(母)の剣幕というか真剣さはすさまじい。私はその様を、女は腹を痛めて子供を産んでくるので、自分の分身であるからであろう、ゆえに身体化された現状の価値にしがみつく、がその価値世界を世渡りしている男は、もうそれではダメだと未だ来ない時間軸で思考を展開しようとし、その観念的な態度を、お産を客観的にしか受けとめられない身体性が補完する。しかも、日本にはエディプス的な契機が乏しい双系的現実下にあるので、なお主客未分化な暴力性が噴出しやすいのだ、と。

以上の(1)から(3)の疑問は、すべて(1)の「誇り」、ということに収れんされる。要は、もし柄谷氏が、その首長(戦士)の「誇り」ということが実は価値の根拠、測定基準であるならば、その根底を検証するに適しているのは、マルクスというよりは、ヘーゲルになろう、ということだ。そして私は、他者である女の現実を考えるに、男である私は直接には無理なので、ヘーゲルに戻ってみようということを、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を今さらなように初めて読んで、試行し始めたのである(「歴史の終わり」をめぐって(2))。いまは、EUにかかわったコジェーヴを読んでいる。北方領土問題に関し、ロシアのラブロフ外相は、領土と主権は別だということを発言した。アメリカとの関係では、領土は日本でも、本当に日本に主権があるのか懐疑的になりうるとしても、表向きは、日本に主権がある。が、もう、公に、その前提、国土と主権は乖離的であるとする、というのである。ならず者国家はまともに統治できないのだから占領せよ(イラク戦)、原発事故対処できないならこっちでやるぞ(3.11)、と、1648年からのウェストファリア条約体制が崩壊的に変遷してきている、というのが世界システム論的見方である。そうした今の主権(主体)組み換えの世界情勢を根底から把握するためにも、男の論理たるヘーゲルを検証する必要があると感じている。

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