2018年10月5日金曜日

「歴史の終わり」をめぐって(2)


「また、近年のフェミニズム運動の例を取り上げてもいい。フェミニズムの主張によれば、これまでの歴史の大半は「父系制社会」間の紛争の歴史であったが、もっと和気あいあいとして、慈愛に満ち、平和を好む「母系制」はそれにとって代わる有力な選択肢であるという。母系制社会の実際例が存在しないため、この主張を経験的な事例をふまえて証明することはできない。とはいえ、人間の人格のうちの女性的な面は、解放され得るはずだとするフェミニズム運動家の理解が正しければ、将来において母系制社会が存在する可能性は除外できない。そしてもしそれが実現すれば、いまの時点でわれわれはまだ歴史の終わりに達していなかったことになるのだ。」(『歴史の終わり(下)』フランシス・フクヤマ著・渡部昇一訳 三笠書房)

男たち(父系社会)の「気概」をめぐる戦争がなくなり、サッカー・ワールドカップのような平和的代行でその用がすまされるようになったのは、まさにその社会が完結(歴史の到達)にいたったからだ、というのがフクヤマの論たてだった。しかしそれはあくまで仮設で、「女性的な面」が前面に出てくるような実際が生起してくれば、その限りではない、という留保というか、前提条件があったわけだ。しかし、「女性の識字率」と「出産率」を、歴史の動向(関数)の主要な変数とみなすトッドの家族人類学によれば、むしろ歴史の価値実現としての到達点(目標)たるリベラルな民主主義とは、父系社会的な文明発祥地(ユーラシア中心部あたりに仮設される)での家族形態、共同体家族といったものが、なお伝播されきっていない周辺的な地域での産物なのである。つまりトッドの見立てによれば、共同体家族の現代的衣装である「共産主義」(父系的絶対制)の崩壊とは、歴史の終焉というよりは、挫折なのである。文明化が失敗し、なお野蛮な、文明前の未開的家族形態、いわば核家族的な価値が残存・延命していることを意味するのである。しかもその価値内には、「女性的な面」の重視がある。核家族的な系譜では、父(長男)に家系されていくわけではなく、むしろ末っ子や娘が両親と暮らし続けるという、ある意味無理ない自然性をみせる。そして文明中心地に近いロシアや中国、中東などでも、むろんその原初の核(価値)は残っていると想定されるので、その地において女性が自らを表象する識字能力を獲得し出産を自己制限できるようになったとき、その識字・出産率がある閾値を越えてくるとき、民主主義的な方へ、つまりは未開的な核家族的価値が露呈してくる、と統計的に見立てるのだ。
ヨーロッパ、および日本に顕著な封建制とは、共同体家族的なほど絶対的な父系・父権制ではないが、その伝播途中の中間形態的なものだ、ということになる。イギリス(アメリカ)やフィリピンが、伝播しきれなかった残余、周縁地帯になる。しかしヨーロッパは、あくまでユーラシアと陸続きである。日本でその父系原理が強度をもって伝播されはじめたのは、鎌倉武家政権時代、つまりはモンゴル帝国の影響が考慮されるが、ヨーロッパはその一部が征服され、日本には神風が吹いた。フーコーをはじめとした、いわゆる西洋の文脈でのポスト・モダニストと称されもする思想家たちの試みは、ファシズムへの反省から、父権的な共同体原理を脱構築することにむけられたが、日本では、その文明化が不十分でありそれ以前の地のより強い残存が、むしろ「未完のファシズム」として日本人自身を悲惨に陥れたとして、未開批判の文脈が説得力をもった(宮台の「田吾作」批判など)。
が、共産主義体制の自壊は、西洋による西洋批判の文脈を頓挫させ、未開礼賛(=民主主義礼賛、「歴史は終わった、西洋の、男たちの勝利!」)の風潮を前景化させた。そうした風潮が、プレ・モダンとしての江戸批判を、むしろポスト・モダンな江戸として評価する逆転を後押しする。さらにこの言説文脈と、事実上、第三次大戦にはなっていないという世界の平和的延命が、日本人が日本を批判するという日本の文脈を失効させている。日本がなお未開(プレモダン)だという批判文脈とは、大きくは天皇制批判ということになるが、いまやそんな声は端っ子においやられて気違いとみなされるだけのような雰囲気だ。
そもそもこの変化は、日本の土壌批判に徹してきた柄谷行人が、その土壌を「双系制」(核家族的一変種)と人類学的に捉え直したことが兆候的な転換点だっただろう。それ以来、柄谷自身が「世界史」的な文脈で語りはじめ、その大きな文脈において、憲法9条を江戸の平和へと結びつけるのだ。
最近の流行著書では、國分功一郎が、次のように述べている。

〈…そのとき、インド=ヨーロッパ語には属さない日本語にも中動態として分類されるべき要素が存在し、しかもそれのたどった経緯がインド=ヨーロッパ諸語の場合と同じであったという事実は、現在の人類が手にしている文明ーー新石器文明とでも呼べばよかろうかーーの何らかの核のようなものをほんの少しでも思い描いてみるのに役に立つかもしれない。〉(『中動態の世界』医学書院)

要は、日本の文脈以上に、深い文脈、ディープ・ヒストリーというかビッグ・ヒストリーというのか、いわば人類上の文脈で考察されることが誘導されている。かつてなら、「中動態の世界」とは、「天皇制だ!」と一喝されてしまったかもしれない。が、もっと丁寧に読もう、現実をみよう…私も賛成だ。が、そのことで、日本の文脈が、失われてよいのだろうか?

以上の問題意識をもって、もう一度江戸の世界、パックス・トクガワーナ下での富士講をめぐる庶民の姿勢を再考する。

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