2021年12月26日日曜日

量子論と現象学


 量子論と、<単独―普遍>をめぐる柄谷行人著の『探究』誌上での関連について、少しまえブログで指摘した。

その『探究』は、外部(他者)へ向けての内省的な遡行を突き詰めた先での、行き詰まり破綻からの「転回」として実行された、と説明された。現象学的な追求としてではなく、論理的な前提として他者は導入されなくてはならない、となった。

 

が、量子論をめぐる識者の文章を読んでいくと、柄谷が直面していたアポリアが、いわゆるアインシュタインやボーアとの間で議論された、「観測問題」といわれるものと重なってくることに気づかされた。波(無)であった状態が、観ることによって物質(有)となるという原子以下で気づかされた現象の謎。そこを突き詰めるに貢献したアインシュタインは、その不可思議さにとどまり、「ならば月は、見ていないときは存在していないというのか?」と、謎をそのままにして実用化されていった産業科学的なあり方に抵抗した。のちに、月は見ていない時には存在しない、のミクロ現象は、問題なのではなく現実、科学的事実なのだとアスペの実験などによって実証されてしまった。その実証に後押しされるように、謎は棚上げされたまま、いまは量子コンピューターの開発が競われているようなものだろう。

 

そうした現代において加速していくような科学の在り方、とくに、量子論の水準において異議を提出した者に、廣松渉氏がいたわけだ。廣松氏のその異議の視点は、日常的に物をみる有り様にだって、同様な謎が思考しえる、というものだった。

 <円筒型は見え姿の無限集合であるといっても、そして、それの形成に際しては過去の体験に俟つとしても、一つの見え姿以外は「可能態」(デュナミス)ないし「潜勢態」(ポテンティア)としての見え姿にとどまる。それらはしかじかの視点から現に見られることにおいて「現実態」(エネルゲイヤ)に転化するが、円筒型が円筒型たるかぎり、それはさしあたり可能的、潜勢的な(未在的に既在的な)見え姿の無限集合ないしそのアルゴリズムである。…(略)…

 量子力学的次元での観測対象についても、これと全く同様な論理構成になっている。観測理論のプロブレマティックを劃したとも称されうるあの確率波的解釈をボルンが持出したとき、どのような論理構成になっているか? ボルンは電子という対象が、或るときには粒子的な見え姿(量子的作用)で、また或るときには波動的な見え姿(回析や干渉)で“見える”ということ、このいわゆる粒子性と波動性とを統一的に捉えるべく、波動函数を確率波的に解釈してみせたわけであって、このかぎりでは、それはあの円筒型の場合と同様、しかじかの条件のもとではしかじかの「見え姿」を呈するところの或るものetwas Identischesにほかならないわけである。>

<観測に際して直接的現相を対象化的に措定する者、量子力学的次元を意識していえば、波動函数を定式化する者は、いかに具身の個人であるとはいえ、単なる一私人ではない。“学問的知性の一代表”ともいうべき者、謂うなれば認識論的主観を具現する者として彼が認証されているかぎりで、彼の観測が「観測」として通用geltenするのだということ、このことはもはや駄目押しするまでもあるまい。――単なる一私人が、所与の「見え姿」から対象を措定したり、波動方程式を立てたりしたのであれば、それがいかに能知・所知的な被媒介的形象であるにせよ、「対象」としての認証に値しえないであろう。しかるに、観測に基いた対象措定が間主観的な認証性をもつところから、それが第二次観測に先立っては「可能態的存在」にとどまろうとも、これには対象的存在性が認められうるのである。>……引用中の傍点部分は省略(『事的世界観への前哨』 廣松渉著 筑摩書房 2007年発行)

 

現在では、田口茂氏の『現象学という思考 <自明なもの>の知へ』(筑摩選書2014年発行)が、この日常的な自明的な有り様にこそ、量子論的現実が潜んでいることを、フッサールの読解において提示している(他にも、郡司ペギオ幸夫著『時間の正体』講談社、もそうかもしれない)。ここからみると、柄谷氏の「転回」が、早まった錯誤のようにみえてくる。田口氏の読解上では、柄谷はフッサールの「超越論的主観性」めぐる微妙な物言いをとらえきれなかった、ということになるのだろう。いわば、柄谷の『内省と遡行』のなかに、『探究』が挿入できるのだ。

 <「変様」とは、現象学が扱う基本現象の一つであり、随所に起こる特徴的な構造をもった現象である。「現在」は絶えず「過去」へと流れ去るが、そこで現在は過去と決定的に異なると同時に、「過去もかつては現在であった」という意味では、今ある現在と並列されうる。そこにあるのは流れる変様現象であり、現在は流れのなかでしかつかむことができない。「つかもう」とする眼差しをつねに逃れ続ける現在が、それでも他の現在と並列され、「つかみうる」ものとなる現象が、変様の現象である。

さらに「現在」は、空想変様によって空想的可能性とも並列可能になる。これはきわめて身近な変様であって、われわれの日常的経験においてもつねに起こっている。そのなかでわれわれは、他の可能性とまったく並べられていない比類のない純粋な現在をそれとして「つかむ」ことはほとんどできない。ここでも、「つかもう」とする眼差しを逃れる現在が、他のものと並列可能になることによって「つかみうる」ものとなる現象が見てとれる。

ここで、類型的予科が機能しない不意打ち的な場面に遭遇した自我を思い起こそう。そこで自我は、類型から引き剝がされ、「原事実」的現在に放り込まれる。それは私のコントロールが利かない状況である。だがそこで、自我は瞬時に過去・現在・未来・空想を駆けめぐるモードに入る。動かせない現在を、変様によって「つかみうる」ものに変え、私の自由によって扱いうるものに変質させるのである。おそらくこの場面が、自我の基本性格を示す原型的場面である。個であり普遍であるような自我のあり方は、ここに根差している。

それはまた、反省的思考の起源でもある。危機における自我のあり方を、「平時」において自由に発動できるようになったのが反省である。そこで自我は、遺憾なく自らの本領を発揮する。だがそこでは「変様」によって、比類のない原事実的現在は、いつもすでに手の届かないものとなっている。反省的思考のなかでは、過去・現在・未来・空想を「駆けめぐる」自我のモードが支配的になっているからである。このモードゆえに、自我は一切を自らの視点から見渡していると誤認する。原事実的現在に巻き込まれて生きる経験のモードは、そこでは忘却されている。

この状態から私を再び原事実的現在へと引き戻してくれるのが、「他者」である。現象学は、この現実的他者の呼びかけと同様に、思考を反省の手前へと呼び戻さなければならない。現象学的コミュニケーションは、そのための媒介となるのである。>(『現象学という思考 <自明なもの>の知へ』 田口茂著 筑摩選書)

 

柄谷のいう「他者」、用例として後付けされた坂口安吾の「突き放される」体験とが、現象学でいう「原事実」ということになろう。

 

が、<自明なもの>の謎の有り様が解明されたからといって、それが、実践的に「コントロール」されてくるわけではない。むしろそのアポリアの不可避性、解決困難さがクローズアップされてくるのである。柄谷に「転回」を強いた病が、快癒されたわけではないのだ。

 

現今の科学は、この「コントロールの利かない状況」を、アポリアを認識しているのだろうか? 原発もなお稼働しつづけたままなのは、コントロールできる、できている、と思っているからなのか? できなくても使わざるを得ない、と思っているからなのか?

 

棚上げされた問題が、実験室のなかではなく、この世界で、日常的に現実化されてくるのを目の当たりに観測できるまで、私たちは<進撃の科学>でやっていこうというのか?

2021年12月12日日曜日

交換とジェンダー(1)

 


文芸誌『群像』10月号の「創刊75周年記念号」にて書かれた柄谷行人のエセー「霊と反復」が、物議を呼んでいるというような話を知って、図書館から借りて読んでみた。

私自身は、このエセー自体から、特別な感想を抱かなった。「交換」を「霊」と言い換えてみる曖昧さのほうが気になって、すぐには腑には落ちてこなかったからだ。

が、すぐ次に、蓮見重彦の「大江健三郎『水死』論」があったのでそれも読んでみて、その「曖昧さ」がはっきりしてきたので、ブログにメモしておくことにした。

 

蓮見が、この「創刊記念号」にて、自身の文章が柄谷のそれと並べて掲載されることを知って、敢えて、『水死』を選んで大江論をのせようと思ったのかは知らない。しかし私には、この大江論は、最近までの柄谷の思想への、そしてそれが伴うかもしれない社会的な動きへの批判として提出されたもののように思えたのである。

 

蓮見がこの大江論で言いたい論点は、一見マッチョにみえる大江文学を作品内部から批判・脱構築させていくような、女たちの視点の喚起である。大江とおぼしき主人公は、実父の思想態度にうかがわれるかもしれない、「昭和(明治)の精神」を継承していくかにみえる。が、その夏目漱石経由の作家の思想などは、「男たちの「幻想」」にすぎないとみる「女たちの優位」の「重要さ」を蓮見は指摘してみせているのだ。「それが『水死』の作者たる大江健三郎自身にふさわしい読み方だと断言するのはさしひかえておく」と留保されながら。

 

柄谷の「交換(霊)」論は、この「明治(昭和)の精神」が言い換えられてやってきたものである。柄谷は、交換Dという理念系の在り方を、柳田がとらえた山人の「遊動」的な在り方とだぶらせる。では、なぜ「遊動」がいい価値なのか? それは、「誇り高い」からであり、抽象的な物言いでは、それは「高次元」とされるのだ。そこには、「明治の精神」に殉じた漱石の「こころ」の先生を評価した柄谷の漱石論が伏在している。(参照ブログ<柄谷行人著世界史実験読む>)しかし、蓮見が読む大江の『水死』論では、そんな男たちの「精神」を茶化すような、「犬の縫いぐるみさながらに、「『メイスケさんの生れ替り』の御霊の縫いぐるみを飛び回らせる……」女たちの芝居がピックアップされる。

 

つまり、交換Dの国家(定住)に抵抗する誇り高き「精神」を「高次元(霊)」とみなす思想など、男たちの「幻想」にすぎない、と蓮見は言っているわけであろう。

 

この蓮見の批判的視点を、私は共有している。

 

が、それは、だから男が悪く、女性に「優位」があると措定してみているのではない。そこに、検討の余地がある、と私が見ているということだ。

 

たとえば、柄谷は、交換を四つの形態で抽出する。本当に、それしかないのか? もっと、いろいろな交換がないのか? そう単純化して、いいのか? 柄谷が参照しもしたエマニュエル・トッドは、その四つに構造化させる定義を、「ピタゴラス的幻想」であり、「デカルト主義の呪術的宇宙」への退行だと、自己批判的に学術方を修正した(ブログ<トッド家族システム起源ノート1))。

 

要は、柄谷の四象限、幾何学的構図は、男性的とも呼べるだろう、ということだ。

 

が、演繹法から帰納法的な学術態度に変更したトッドのやり方とは、いわば交換(家族形態)にはたしかおおざっぱに20種類ぐらいあって、その組み合わせヴァリエーションで対象を理解しようとするものになるだろう。つまり、基本の四つの家族形態で構図化できても、それは、ベクトルの図になる。基本要素の組み合わせ割合によって、濃艶や強度の変化がでてきて、四象限のどれかに在るか、ではなく、具体的にどの点にあるのか、が示唆されるのだ。交換ABCD、のどれか、ではなく、それらの要素の組み合わせバリエーションによって、縦軸A3と横軸D1の交点、として交換の強度が指示される。

 

『群像』でのエセー「霊と反復」では、柄谷は、「四つの交換様式ABCDのどれが主要か、それらがどのように組み合わさっているかによって違ってくる」という言い方をしているが、このような言い方でその交換様式を示してみせたのは、柄谷では、はじめてではないだろうか? もちろん、柄谷の理論からではなく、そこから常識的に推論して、私は、要するには組み合わせになってしまうのだろう、と推論してもいたわけだが。以前の交換はなくならず、とか、国家と資本が結託する、という物言いから、四象限の図を安定的にではなく、ベクトル的な動的な図としてみることもできるのだろうと。

 

となれば、蓮見の批判は、あくまで男性と女性の差異(区別)に依拠しているということで、批判としては弱いものになってくる。性差が、区別ではなく、組み合わせ割合であり、グラデーションの濃艶であったら、どうなるのか? という理解前提になっていることになるからだ。実際、最近のLGBTの現実の露呈が示しているのは、染色体レベルでは明確に区別される男女差の根底に、RNAレベルでなのか、多様な遺伝要素の組み合わせが様々な性的傾向を現象させているのではないか、ということではないだろうか?

 

ジェンダーとは、セックス(男女)という生物学的な性差を超えた、社会・文化的な獲得形質を肯定していく思想、ということだったはずだが、性の多様さは、実は生物学的な、身体的な現実であって、その自然の多様さを、実は男と女という文化的・社会的な区別が抑圧してきた、という逆転の真実を、現今の科学が露呈させてきている、のではないだろうか?

 

だとしたら、「贈与」という一つ言葉で要約されるその交換にも、実は、多様性がはらまれているのではないか、ということになる。まずそこには、おおまかな傾向割合としての、男女差があったりするかもしれない。――「男の贈与が建前に縛られた、いわば<硬い贈与>であったとすれば、女の贈与は――これもけっして本音を語っているわけではないが――はるかに融通のきく<軟らかい贈与>であった。」(桜井英治著『贈与の歴史学』中公新書)硬い⇔軟らかい、の様々な度合いが発生する交換実践……そういう理解前提から問われてくるのは、「誇り高い」「高次元」を想定する発想の是非であり、それが本当だというなら、その担保とは、根拠とは何か、ということである。個人的な趣味で、というのは、思考約束事上、とりあえずどけて考えてみなければならない。またそれを示せないならば、そんなのは男たちの「幻想」であり、「観念的な力(霊)」などとは男たちの「形而上学」にすぎない、とそれを「犬の縫いぐるみ」のように放り投げる女たちからの批判に答えることにならない。

 

しかしまた一方で、ならば、色々あるよ、グラデーションだよ、レインボーだよ、という態度は、実際には、どんな実践になり、どんな意味方向を持ってくるというのだろう?

 

私は、わからないので、両方を、考えているわけだ。

 

最後にヒントとして、私が考えさせられている私のブログに、リンクをはっておくことにしよう(<切腹いいね!>)。また、もともと以上の問題点への想起は、2週間まえぐらいの朝日新聞での女性学者の未成年への性的暴力に関するエセーからあったものだったのだが、柄谷・蓮見のエセーを読んだので、これは「交換とジェンダー(1)」として先に書き、女性学者のエセーからの思考は、(2)として、時間できたら、例題として、追記してみようかと思っている。

2021年12月8日水曜日

コロナ現状


急激に感染者なり重症者なりが減少し、ほぼゼロ状態といってもいい状況がつづいている日本のコロナ情勢。といっても、ワクチン接種がすすんで底をうったようになる減少から一月ほどあと、これまでにないぐらいの急激な感染増加率を示したきたのが欧米の現状らしいので、政府も第六波に次はなるのだという想定のもとに準備をしている、ということなのだろう。そして三回目のワクチン接種を早めたいと。私には、ワクチンをみなで打ってしまったから急拡大みたくなったとしかおもえないのだが、それはひとまず置いておこう。

 

とにかく、日本でのこの静けさはなぜだ? という話になる。

 

で、生活クラブの会合での、おばさんたちの話でそうなったのか、それは、マスクのおかげだ、とわが女房が言い張るのだった。

 

そんなことはありえないだろう、と私が反論してもゆずらない。日本人はマスクをちゃんとしているから感染が予防されているのだと。ほんとうにマスクで世界的パンデミックがおさまるなら、医学もなんにもいらないだろうに。私には、世界大戦に竹やりで戦えていると思い込んでいた、終戦間際の日本民衆みたく見えてしまう。

 

とりあえずこの件で、説得力あるとおもえたニュースは、まずは東大ミレーション報告、それと、日本でのデルタ酵素変化があったとする研究報告。

 

しかしそれでも、群馬でいきなりクラスター発生です、とかなるのだから、単に検査体制が不備だったり、オリンピックで対応出遅れ、重症になるべく遺伝免疫の人はすでにみな感染してしまったから、という話なのかもしれない。もともと東アジアではリスクが少ないわけなのに、日本では相対的に死亡者が多く、ゆえに「コロナ敗戦」とも呼称されてもいるわけだから、この今の静けさは、敗戦の焼野原ということなのだとか?

 

だとしたら、これが荒野であることを、私たちは気づいていない、ということになる。いま、ガウンにひざ掛けしてパソコンのキーボードを打っているが、冬の雨景色をみせる部屋の窓も、その技術の様は、もう先進国でもなんでもない、断熱効果もへったくれもない掘っ立て小屋の技術水準のままである、ということも、最近スマホニュース知った。建築分野でも、世界基準からは却下されてしまうあり様になっていようとは。

 

外が見えなくなり、竹やりで世界大戦に対応できるとおもっている、ということだろう。