2010年9月16日木曜日

政(まつりごと)と果実


「したがって、『人間学』は文化の歴史でもなければ、文化の諸形態の分析でもなく、あらかじめ有無を言わせぬかたちで与えられている文化の実践となる。この実践は人間に対して、自分たちの文化そのものに世界の学校を認めるよう教えるのだ。」(ミシェル・フーコー著『カントの人間学』 王寺賢太訳 新潮社)

カブトムシの幼虫が育ったあとの、糞だらけの培養土をただ捨てるには忍びないと、ベランダ菜園をはじめてみた今年。とりあえずはトマトとナスとシシトウ。この土再利用のアイデアは面白いと自惚れながらも、野菜を育ててみる土にしてはカブトの糞がでかすぎなのではないのか、糞が多すぎで果実の味がおかしくなるのではないか、と心配していたのだが、ちゃんと結実し、食べてみても問題はなかったのでひと安心。ただ普通のミニトマトとシシトウは、次から次へと果実を得ることはできるが、、ちょっと高価なシュガートマトだの、ナスだのは、一度採れると土の栄養が切れるのか、もう終わってしまう。やはり追肥が必要なのかな、と思うのだが、土にはなおたくさんの幼虫カブトの糞が残存している。女房は、有機肥料などと呑気なことをいってないで、液肥を買ってプランターにさしこんでいればいいのよ、と息巻くのだが、金かけてやるようなものじゃない。米のとぎ汁をとっておいてよ、といってもいまなお協力の気配なし。でもまあ、やはり野菜は土作りから、と実感できただけでもやらないよりはやったほうがましだったとおもう。6階に住んでいると、植木鉢には雑草も生えにくい。たまに生えてくるクローバーを、女房が根こそぎ抜いてしまうので、マメ科は窒素を固定化するから養分蓄積にはいいんだから抜くなよ、としかる。が逆に、土の中での微生物も寄生しにくいらしく、さなぎや成虫になってから死んだカブトムシの死骸が、プランターの土の上にいつまでもその原型のまま残存している。金魚の死骸と一緒に。アブラムシやイモムシに葉を食われる心配もそうしなくてもよさそうだが、だからこそ土作りをきちんとやらないとかんのだな、と考える。じゃあ今度ははコンポなんとかという腐葉土作りの入れ物を残材で作って、そこにカブトムシの幼虫の糞交じりの培養土をいれ、ミミズを捕まえてきていれ、ベランダに飛んでくるケヤキの枯れ葉をいれ、残飯をいれ、たまに米のとぎ汁をかけて栄養価たっぷりの土をつくってやろう、それでうまくいったら、次には収穫物から種を採取してそこから育ててみよう、と実践欲が湧いてくるのだった。
とまあ、私が試みる実践などとはこんな程度のことになる。庶民の度素人な自己流趣味だ。それは、世の中を変えることとは関係がないかもしれない。しかし、私がここのベランダに立っているのは、青年時の引きこもり登校拒否からフリーター、植木屋になって三十歳半ばをすぎて結婚し一児の父になるまでの過程があってこそ、である。その試行錯誤自体が、ベランダ菜園という試行錯誤を産出している。その実践は、山に登り、子供と田植えをし、といった観念への渇望を生み出すことにつながっている。この夏の異常な暑さで、ぎっくり腰がなおったとおもったら日射病にやられて、田植えした里山への稲刈りには参加できなかたったが、たまたまこの団地の会が、親睦交流を結んでいる群馬赤城山麓への稲刈り体験を募集している。私の地元群馬県の高校の同期会にいけば州県制の話であり、中学の同期会にいけば市町村合併の話だった。私の軌跡と、身近な実践と、観念と、現状は、からまりあっている。おそらく私にできることは、そのそれぞれの糸を私の身近において編んでいくことなのだろう。
民主党選挙では小沢氏が負け、菅氏が勝った。一般的には、インテリ層が小沢氏支持で、大衆層が菅氏の支持であったと見受けられる。しかし新聞で報道する傾向とは違って、一人一票の得票率では大差はなかった、と私は受けとめる。小沢氏自身、党員・サポーター票が9万対13万という結果だったことに、そう認め、おそらく次の戦略の具体性を思い浮かべてきただろう。選挙前の世論調査という新聞報道自体が世論(特には態度曖昧な国会議員への)操作だとか、アメリカと対等に付き合おうとする小沢派と、対米追従の財政をとろうとする菅および官僚側という対外的闘争が、「政治とカネ」という偽装された内輪問題でごまかされた、という意見もある。その通りだとしても、こうした大きな政(まつりごと)は、なぜかもはや私の身体には反応してこない。むしろ、その世間的には意義ある真剣さだったかもしれぬ祭りは、ゆえに国家の権能を一層神秘化させることになったのではないか、その目に見える一契機だったようにおもえる。つまり、日常的にも、目に見えた動きが、緩慢だった日本(アジア)でも見えてくる。サプライズといわれた選挙後の政府・日銀による市場介入は、そうした国家の神権化の趨勢の成り行きだったのではないか? 小沢氏は介入すべきと選挙ではいっていたが、それに反対ではあった菅氏でも準備するはめになったのは、政治家個人の力量を超えた波に流され始めたからではないのか? 
ベランダのプランターに実るミニトマトは、大きな政とは関係ない実践果実かもしれない。けれども、そのささいな出来を注視する日常・庶民的な注意を忘れることは、実際の実に繋がっているかもしれないより糸を、選挙された国家神秘主義(ファシズム)という魔法の一手で、一挙両断されてしまうかもしれない。