2018年1月23日火曜日

にわ、について


にわ、と『磯崎新と藤森照信の「にわ」建築談義』(六曜社)では、ひらがなで表記されている。しかし二人の談議を読んでいると、むしろ、「庭」、つまり朝廷に通じるテイへの当て字としての「にわ」、という趣が強いと感じる。そのことは、談議の第一章「自然信仰と「にわ」 日本古代の儀式と神遊び」において、天皇の「国見」への言及からはじめられていることからも、知れてくる。

磯崎 …『古事記』などの時代には、天皇は国見をやっていますね。国見というのは、どこか高いところに立ってあたりを見晴らすわけじゃないですか。
藤森 山の上へ立って、民のかまどを見るんですね。
磯崎 おそらく自ら統治する国はどの範囲かなんて考えているのでしょうが、そのついでに、かまどの煙が出ているのを見る。その煙が、そこに家があるという目印になる。つまり。火をそこで使っているという認識ですね。家はおそらく藁屋根ですが、生活がある。国見は見晴らすという行為がまず基本にあって、そこで何がおこっているのかというイメージは、その次に出てくるのではないかなという感じがするんです。国見の意味は、今の解釈だと「ここまでが俺の領地だ」という確認だけれど、本来はもうちょっと本質的な我々のものの見方の始まりであって、その場所に住めるか住めないか、人間の生きている場所はいったい何なのかということを感じることから始まっているのではないかと思います。そう考えると、藤森さんが言うように、建築というのは、お据えものですよね。その建築が一個ではなくて、いくつかの家から煙が出ているということがすごく重要だと僕は思うんです。
藤森 むしろ古代的な宇宙観というか、世界観というか空間観ですね。その中に点々と建つ火のある場所に人間は閉じこもって暮らすのだけれど、たしかにそこにいる人たちにとっても、自分たちの住んでいる外界を眺めることは、古い時代では、重要な行いというか喜びだったかもしれませんね。
磯崎 『海上の道』(一九六一)で、柳田国男は潮の流れに乗っかって「漂着」することで、人はまず、その地に住みこむのだと言っています。おそらく、高台や山頂に登って、まずは見晴らしたのでしょうね。
藤森 そもそも美とは何かということを考えたことがあるんですが、それを今の話からも考えることができる。国見や狩りに行くと、新しい原野を見るなど、必ず新天地を見る機会がありますね。そのときに彼らは、その場所がいい場所か悪い場所かということを、直感的に認識したんじゃないかと思います。おそらく、今だと調査をして判断するけれど、そうではなく直感的に見るというのは、たとえばどこかが崩れているとか、あるいは木が倒れているとか、何かわけのわからないものがあるとか、そういう場所はきっと避けたでしょう。つまり、視覚的な統一がそこにあるのをよしとして、その統一感を、今の言葉で言うと「美しい」と感じたんじゃないかと私は思っています。…>

にわ、が和語として、「日和」と漢字表記されもしたのは、これから漁場に向かうものが、天気をみようとしたからである。その「見晴らす」行為は、つまり「にわ」は、あくまで朝廷の「国見」から来るものではなく、庶民が生死のかかる場所を見計らい、そこで交流(交通)する=生計を立てることを願う行為(呪術)からくるのだ――という推論を、植木職人をし始めた私はエセーとして残した。

<進士五十八氏は庭の「基本構造」を語源的に探って次にようにのべている。(『日本庭園の特質』)──「ところで、庭(garden site)は建物と一体となって住生活の基本単位となっている。周囲を垣などで囲む構成が様の東西、時代にかわりなくみられるのは、敵の侵入や強風から家を保護するのが、庭の基本機能だからである。庭園を意味する東西の語源に「enclosed space」があるのもこのためである。たとえば東洋では、庭〈テイ〉─建物で囲まれた場所、園〈ソノ〉─果樹の植えられた囲まれた土地。西洋では、Garden─ヘブライ語のgun( protect and defendの意味)と、eden( pleasure and delightの意味)の合成語、Yard─アングロサクソンのgeardすなわちhedge,enclosureから由来したもの、である。」そして以上の考察から庭の「本質」には「囲い」があり、その囲われた内部に理想環境のイメージ、楽園やユートピアの表現がおこなわれるのだと。それは、「庭─囲われ閉じられた空間─楽園・ユートピア─田園─自然─風景・景観─ランドスケープ」といったイメージ連鎖の支柱になるだろう。おおまかには、庭を自然と結び付けてしまう思考である。

しかしそれは本当のことだろうか? 語源的な考察は、自然主義の一変種たるロマン派によくみられる傾向だが、それはわたしたちの生きた系譜を見失わせてしまいがちである。自分の遊び場のことをニワといい、ヤクザ者がここは俺のニワ(シマ)だ、と言う時、その用法には明確な囲いという常態的な安定ではなく、境界地がいつ塗り替えられるかもしれない動態的な不安定さを、あるいは生き生きとしたものを提示していないだろうか?

ニワとは、古語として「日和」とも表記されたりもした。(*)それは陸上の広々とした空間にたいしても用語されたが、おおくは海上の空間を意味し、また天候の善し悪しにも言われた。どういうことだろうか? それはこれから海へ、陸の何処かへと航海や旅にでるものが、その日の空模様と海の様を注視するにあたってでてきた語意ではないか、つまり、庭とは交通の、交易の空間としての意味が内包されているのではないのだろうか。(――おそらく漁場(天気)としての日和が、「島(シマ)」という造園作りの古語と結びつきながら、庶民的な営みの場で、「庭(ニワ)」として概念創造されていったのではないか――)だから、中世においては、モノとモノとが集積し、交換され、売買される空間のことを、「市庭( イ チ ハ ゙)」というだろう。あるいは関所などで払う交通税のことを、「庭銭( ニ ワ セ ン)」とも呼ぶだろう。また手習のための教科書として使われた冊子には、「庭訓往来」といったものもある。これは書簡体で書かれたものだが、もちろん文通という交通の意味があるからだろう。また江戸時代にもなれば、「庭銭」とは、荷物を宿や倉庫に預けるさいに支払う金のことであり、あるいは祝日などに客が遊女にあたえる金、その逆に遊女が置き屋の主人や奉公人にあたえた金のことをさすようになるだろう。それは遊女が異界との交通空間にいる者だからではないのか。あるいは庭番とは、各地にもぐりこみ情報を集めてくる忍者であり、あるいは共同体とその外との境界にある高木に登りもしやの敵を監視している者である。要するに、庭とは交通の、交易の場所といった意味をもたされているのであり、寺社の境内に庭が多く造られるようになったのは、そこが異界との境界としての、交通としての場所であり、また実際そこは市場=市庭であった。金融の発生が寺社とその僧たちではないか、しかも彼等が造営資金を捻出するためにあみだしていったのではないかという考証は、歴史学上あきらかにされつつある(網野善彦氏などによる研究)。

* 岩波古語辞典によれば、「庭」における「漁場」としての意味が転じて、「日和」となり、「風がなく、海面の静かなさま」をさすようになったとされる。小学館の古語大辞典の「庭」の「語誌」には、「家屋の周りの平らな土地や地面が原義であるが、これは同時に宗教的に神聖な場であり、農業のための生活の場であったと考えられる。やがてそこに草木が植えられ、池や島などが造られると、それはもう美観を主目的とする園(その)であり、山斎(しま)であって、「には」とは区別されていた。」と解説されている。学研の国語大辞典では、「庭」の「水面。海面」を意味する万葉集での用例も、「海全体を指すウミやワタツミとは異なり、眼前の一部の海面であり、海人にとっての生活の場・作業場・漁場としての意味と解される。」とされている。以上の慣用の考察からは、進士氏の語源に返った理解の方が、少なくとも日本(語)の文脈では、自明的であるとはいえないのではないか?>(ブログ「庭から森」/HP「庭へ向けてのエセー」)>

あちらとこちらの境界としての漁場は、陸地にあっては、住居と外との境界としての「土間」であり、そこは作業場でもあって、また「かまど」がおかれ煙があがっていたことだろう。そういう営みの延長として、「にわ」という音韻が「庭」という文字を受け入れる意味的余地を孕ませていたのだ。

公的建築にたつ磯崎氏の発言に、藤森氏が「そこにいるひとたち」と庶民的な異化を導入しようとし、その自分を異化してくれる藤森氏の建築立場を磯崎氏は意識的に挿入・操作しようとしている対談なのだろうが、私には、やはり公的談議に聞こえてしまう――のは、やはり私が「にわ」という語について、職人立場から考えてきたことがあったからだろうか?

とはいえ、私はその「庭へ向けてのエセー」(たぶん20年近くまえに初稿)を、磯崎氏の建築史論からの引用で作っていったのだった。今回の二人の建築談義で、「にわ」を注視するさいの中心の要因は、「石を立てる」、という行為と形象の問題であろう。私の「庭へ向けてのエセー」でも、中心軸は、「石を立てる」という批評行為にある。それは、テイとしての「庭」に対する、「にわ」からの反逆なのだ。

以下、二人の対談から、参考になる主なものを抜粋して、メモとしておく。

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藤森 なぜ人は石を立てるのか。人類はうんと早い時代にスタンディング・ストーンを立てますけれど、あれが太陽信仰と関係しているのは間違いがなくていろいろと世界中で実証されている。私がそれを実感したのは、イギリスの中部に、サークル状のスタンディング・ストーンがあって、そこに夕方遅くなってから行った。そうしたら、岩に触ると昼間の熱でほのかに温かい。いい気持なんです。太陽がこもっているように感ずる。立石が太陽信仰というのは考古学的に間違いない。石を立てると、地上の垂直軸として太陽とつながる。加えて、石がほのかに温かくなり、太陽がしみ込んだように体感される。そのことにイサムさんは理論的に気づいていたかはわかりませんけれど、看取しただろうと思う。
 それともう一つ、日本の庭には夢窓疎石の問題がありますよね。岩にこだわり続けたが、おそらく地上の垂直軸としての立石という意識はなかったんじゃないかと思った。禅宗の面壁九年から来ていますから。
磯崎 大げさに言うと岩の中に入るとか上に乗るとか、そういう自然の中に入りこんでいくという感覚ですね。
藤森 岩とは、石とは何かを、ちゃんと論ずる必要がある。現代において庭を論じようと思ったら三つのことを論じないといけない。庭と建築との関係、庭そのものの意味、それともう一つは、庭で使われている土、石、水、緑が、人間や社会にとってどういう意味があるのか。…>

藤森 独歩は雑木林が美しいとはじめて言った。それまでの日本人は、そうした自然を味わってはいたけれど、美しいと意識化していない。大きな自然についてはヨーロッパのアルピニズムが入ってきて、志賀重昂が『日本風景論』(一八九四年)を書く。信仰の対象だった山を景観として見て、登山を楽しむ道を開く。江戸時代まで自然観から脱することで、小川治兵衛のああいう平明な庭ができた。その後が問題で、よくわからない。その後、日本の庭は何を求めて彷徨っているのだろう。
磯崎 僕もまったく同じことを思いますね。たとえば夢窓疎石が一つの型をつくった。これを大名庭園風に組み替えたのが遠州たち。疎石がいて遠州がいて、あとは小川治兵衛しかないわけです。そうするとこの三人の庭を見れば日本の庭は全部なんだというくらいに考えられる。その後に我々は何をつくったらいいかといったら、もう虚構しかないんですよ。その虚構を、何を手がかりに虚構にするかということもそれぞれ問題が起こる。だから小川治兵衛の場合は田園的なもの、だから武蔵野であるとか田園のいろいろなもので、佐藤春夫、国木田独歩というように、あの時代の好みはみんなつながっていますよね。…>

藤森 もともと石というのは寝ていて、寝た石を起こすことで人類の構築的表現が始まる。日本の歴史で言うと夢窓疎石です。それが小川治兵衛は嫌だった。石をもう一度寝かす。
磯崎 寝かしたままですね。
藤森 小川治兵衛の庭に行くと石は立っていない。この問題に意識的だったのは何度も触れますが、イサム・ノグチだった。イサム・ノグチ庭園美術館には自分の遺骨が入っている丸い石があって、立てて二つに割って中に自分の骨が入っている。人間がやる表現は、寝ていたものを起こすことだと、イサム・ノグチは身をもって表現した。
磯崎 それが立石そのものですね。庭づくり、庭の基本に戻ったということかもしれないですね。>

藤森 人間の体は食べたものでつくられている。食べたもの以外ではできていない。私は人間の脳の中の画像処理能力は基本的に見たものでつくられているんじゃないかと思っている。見たものがいろいろな形で抽象化されて一種の銀塩写真じゃないけれど、外からの刺激に反応する視覚の粒子みたいなものがある。人間は見たものの中から何かをつくっているのではないかと思います。>――この発言は、私の「夢」分析と似ている。


2018年1月2日火曜日

今年からの課題


大晦日と元日を、伊豆で過ごしてきた。
宿泊先の長岡が、北条氏の地盤であり、幽閉されていた頼朝と政子の出会いの地であったことは、地元のパンフをみるまで無知だった。修善寺に行きたいといった女房の一言で急きょたてた予定だった。早起きして、歴史の地を歩いてみたかったが、寝坊してしまった。ホテル裏山の源氏山公園に昇って、初日の出を見るには間に合った。朝靄のなか、伊豆の地形は、地元の群馬の山並みとはちがって、微細に複雑だったが、調和をもっている。修善寺地域にあったジオパーク・ミュージアムで、地球下の三つのプレートの衝突の自然史をおさらいしたが、その自然のカオス的複雑さを、人の文化が調和させてきている、血なまぐさい歴史によって……と感じてきたことにある認識が、奇妙なことのように思えてきた。

初夢は見た。夜半に起きてトイレにゆき、また蒲団に入るまえにカーテンを開けてみると、満月に近い月が、源氏の山にかかっている。携帯の時計をみると、1時半だ。おそらく、先ほど目覚めたときにあった夢が、まさに初夢になるのだろうな、と思う。私は、かつて一緒に働いていた南米からの友達と、セメントか何かを作る作業をしていた。といっても、肉体労働をしているのではなく、その背景にあるらしいコンベアー(子どもの頃の遊び場だった、河川敷の砂利採掘の工場跡地の風景が、重なっている……)が走った大きな工場を、管理しているのか、椅子に座ったペルー人のルイスに、私が何か色々質問している。書き留めなかったので、それ以上のことは、覚えていない。寝付くのに時間がかかったからか、4時半にセットしていた目覚ましの音は、気づかれていない。

夢の雰囲気を伝えるのは難しい。それは、今の私の精神・生理状況を把握するのが難しいのと似ている。年末にかけて、あの相撲界の混乱事件から、ふと、それまで考えていた色々な文脈が一つの束になった。その要約を、トッドの家族人類学や柄谷の世界史の構造を使いながら、自分のやってきた野球部からの問題意識発端から、やったわけだ。いや、NAMの解散以降、息子の生まれた年からなのだから、約14年ほどかかってやっと理解できてきたのが、その短く要約されるものだ。たったこれだけか、という思いというより、そういうもの、そんな程度なんだよな、と、幾度なく繰り返されてきた思考経験から確認する。そしてそうなように、いつもなように、その要約できた束は、またすぐにほどかれてそれぞれの文脈へ、道筋へと走りはじめる、動きはじめるのだ。それはちょうど、色々な波長の光の動きが、プリズムを通して一つに焦点化される一点を持つが、そこを過ぎればまた色々な波長の領域、波線へと拡散されていくようにである。またそういう状況に、今の私はなった、また新ししい振り出しの地点に立たされた、ということだ。しかしそこに、単に思考の形式だけでなく、私の年齢的、そして息子がこれから思春期に入り大人になっていくという家族的状況が付加されている。今年51才になるその年齢は微妙だ。老年ではなく、中年のパワーも失ってきているその最中、落下の加速度が増してきたが、落ち切って安定化するにはまだ遠い……。仕事納めのささやかな宴席には、60過ぎの親方と、70近くになる職人さんと、私。もう終わった人たちの話になる。いや話す事すらない。しかし、私はまだ生理的にも同期できない。実際問題としても、思春期の息子を抱えている。……そうした、生活の状況と、思考の形式的状態があいまって、いま自分が健康なのか否か、不安がないのか否か、充実しているのか否か、というメンタル把握を難しくしているのだ。それがまた、夢の理解を妨げている。

しかし二日目、今日の朝3時、ふとおおざっぱに三つの具体的な課題、考えるべき文脈があることが意識化されてきた。

(1)「川崎事件」から「相撲界の混乱」へ――石井光太氏の『43回の殺意』(双葉社)を読んでいる。それによると、私の見立てよりは、だいぶ古典的な事件という印象を受ける。脱サラして自然にエコに帰る左翼イデオロギーの影響というより(それも間接的にはもちろんあるが)、より先輩―後輩、という、ある意味人類学的な自然により近い領域で理解した方が正当であるようだ。ネット環境などのテクノロジーは、その自然を異化しているというより、補完しているのではないかと見受けられる。まさに、スマホを覗いていた貴の岩をカラオケの端末でぶんなぐった日馬富士とおんなじだ。「そんな暴力はいかん!」とは、モンゴルでは問題にならないだろう。日本でも、戦後途中の言説状況からそれが問題視されるようになった、という特殊文脈はあるけれど、もっと古典的に、根源的に考えてみる必要がある。

(2)息子の進学の問題――親方の孫も、私のイツキと同級生で、今年中三になって受験期にはいる。孫は、まったく勉強ができず、進学する気がないらしい。去年親方の長女と草野球の納会で会ったときの話からすると、母ちゃんも進学などせんでいい植木屋に入れば、と投げやりに考えているようだ。が、じいちゃん、ばあちゃんはそれではすまない。中卒で植木屋になった息子と、おなじ道、おなじようになってほしくはないようだ。ゆえに、熟の講師をやめて、ラオスに青年協力隊で支援活動にいっていた次女を呼び戻し、孫の家庭教師につかせる段取りをとっている。なぜそう思うのかは、推定にしかならないが、中卒でだと世間・視野が狭いままなので、他人のことまで想像力がいかず、地縁・血縁で従業員が成立するわけでもなくなったこの時勢では、もうそれではだめだ、と息子をとおして自覚されてきたからだろう。今のままでは、会社自体あぶない。大塚家具の長女も、父親の路線と対立して今風な売れ線に変更したけれど、赤字になって身内の支援も難しくなったと最近の新聞に出ていた。で、そんな会社にいる私はどうするのか? やはり勉強しない息子に、どう接すればいいのか? 女房の母親の葬儀のさい、工作機械の会社経営している女房の妹の旦那から、「うちに来てくれればすぐに幹部だ」とか言われたけれど、それはないだろう(実はこの発言も、会社を継ぐ気の薄い、大学出て銀行勤めをはじめた3代目の息子が関連している)。ないだろう、と判断するその延長で、義理堅く、今の会社にいるということはどういうことなのか? 老人の仲間に入って衰弱していく、ということなのか? 私がやめる、ということは、親方を切る、ということなのか? 息子とやる、ということは、会社(氏族)を立て直すことに中年最後の力をふりしぼって忠誠を尽くす、ということなのか? いや私がいるからその家族は寄りかかざるをえないので、いなくなれば、もっと真剣に対処しだすのか? 勉強しない息子が植木屋に入ってくることは、そういう状況下で、何を意味するのか? 「いつ会社つぶれるかわからないからな?」と、源氏山を降りながら女房にいうと、「開業してもいいわよ」と言う。……むろん私は、そうした具体的なことどもを、源頼朝家と北条氏との封建的関係で類比・類推的に考えているのである。

(3)野球とアメフトの問題――去年は将棋ブームの影響で、もとNAM会員でもあった、もと早稲田の古本屋の店主と、将棋をけっこうやった。まだ勝ったことがないのだが、その最中の世間話で、アメフトの話になった。たぶん、息子のサッカーの話から、野球になって、そして攻守が明確に切り替わることで同じなアメリカン・フットボールの話にうつっていったのだろう。アメフトは攻撃と守備でメンバーが総入れ替えになるみたいだから、相当な人数でやっているはずだ、でもじゃあどうやって、試合中に選手交代するんだい? とか質問されて私にもわからないので、さっそくその場でネット検索してみたのだ。すると、野球は3アウト制だが、いわばアメフトは4アウト制みたいなものなのだ、と書いてある。そう去年12月、初めて知って、要するにこれは、機会均等、ということだな、サッカーでいえば、ボール支配率を50%づつに近づけるために、10以上パスを回しても得点できなかったら相手ボールのキックオフになる、とか、5分ごとに交代で開始するとか、いうようなルールを作ってやる、ということだな。で、そうなったら、何かおかしくないか? 本当に、それを平等だと人は認めるのだろうか? たしかに、そんなことで、文句をいう野球チームはいない。面白く、公平なルールだと思っている。が、ルールの外に出てみてみると、やはり何か変だ。サッカーも、ボール支配率50%目指す条件下ゲームに、なれればみな納得しだすのだろうか? それに慣れてくるとは、どういうことだろうか? 政治的にみれば、いまやアメリカ自身が、万人に開かれた機会均等、チャンス平等な理念、ルールを、アメリカの夢を崩しはじめている。やり過ぎだ、と大統領が言い始めている。俺たちにもっとずっと攻撃させろ、と。ボールを支配しているのは俺たちなのに、なんで不利益に甘んじて相手にボールを渡してやらねばならんのか、俺たちはなおボールを持っている、と。いわば、アメリカの民主主義の問題だ。が、それは、人の自然な感じで、何かおかしい、というか、何かおかしい、と感じることが、人の自然だとしたら、この自然に対処するために工夫されたルール、方法は、どこがおかしいのだろうか? 相手をとっちめてやるという暴力、それを回避させていく術、知恵。たしかにそれは面白いゲームだった。が、今の状況は、そのおかしさを露呈させてきている。しかしどこがおかしいのか? 変更方は? それともまったく新しき方法で? しかしまずは、どこがおかしいか、とくに私の場合は、野球を例に分析してみることだ。

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(1)は、暴力、(2)は、それへの封建的対応の是非、(3)は民主的対応の是非、とかに要約できるだろう。そしてそられは、暴力という自然への向き合い方の問題、と定式化できる。あるいは、情念と知性、とか。しかしそこまで形式化すると、逆にわからなくなる。なにせそれは、私の生活の問題、どう生活していくのか、ということと切り離せないのだから。そして生活の些事に埋没していると、これまた逆にわからなくなる。

しかし今年は、また、わからない、という振り出しの地点からはじまる。