2017年8月31日木曜日

夢のつづき(6)

「人間がネコを認識するときに「目や耳の形」「ひげ」「全体の形状」「鳴き声」「毛の模様」「肉球のやわらかさ」などを「特徴量」として使っていたとしても、コンピューターはまったく別の「特徴量」からネコという概念をつかまえるかもしれない。人間がまだ言語化していない、あるいは認識していない「特徴量」をもってネコを見分ける人工知能があったとしても、それはそれでかまわない、というのが私の立場だ。
 そもそも、センサー(入力)のレベルで違っていたら、同じ「特徴量」になるはずがない。人間には見えない赤外線や紫外線、小さすぎて見えない物体、動きが速すぎて見えない物体、人間には聞こえない高音や低音、イヌにしか嗅ぎ分けられない匂い、そうした情報もコンピューターが取り込んだとしたら、そこから出てくるものは、人間の知らない世界だろう。そうやってできた人工知能は、もしかしたら「人間の知能」とは別のものかもしれないが、間違いなく「知能」であるはずだ。」
「そして、そうして得た世界に関する本質的な抽象化をたくみに利用することによって、種としての人類が生き残る確率を上げている。つまり、人間という種全体がやっていることも、個体がやっているものごとの抽象化も、統一的な視点でとらえることができるかもしれない。「世界から特徴量を発見し、それを生存に活かす」ということである。…(略)…私の研究室では、ディープランニングをこうした選択と淘汰のメカニズムによって実現しようという研究を行っている。組織の進化も、生物の進化も、脳の中の構造の変化も、実は同じメカニズムで行われているのではないか。そう考えると、個人と組織、そして種との関係性は思ったよりも密であり、そして「システムの生存」というひとつの目的に向けて、備わっているのかもしれない。」(松尾豊著『人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの』 kadokawa)

アパートをさがしている。どうも(たしか)、夫婦げんかをしたからなようだ。そこで、学校を休んで、東京の街中を歩いてさがしている。(ということは、私は息子のイツキの立場に重なっている、ということか? そもそもこの夢は、その日の午前、イツキと女房で勉強をめぐるバトルがはじまったことを受けているのだろう。前もって逃亡を防ごうと女房は自転車を隠していたので、イツキは激しい雨の中、歩いて知り合いのジイサン・バアサンの所へ避難しに行っていた。)今住んでいるアパートは、私が学生の頃借りていたもののようにオンボロだ。どうも(たしか)、豊島区の方に近い街中に、いいアパートをみつけた。(ということは、「初夢」として見た今年の夢のつづきでも、あるらしい。)年があけたら、移ろうとおもう。保証金は払ってきたが、夫婦喧嘩か、仕事がうまくいったら、引っ越す必要がなくなるかもと、状況を見るために、しばらく(年末のことのようだ)、実家に帰ることにする。母との折り合いがつけば、移らなくともすむような気がする。洪水が起きる。ナイル川が氾濫する。その規模を示す世界地図、アフリカを中心とした地図が解説として映像に出てくる。洪水は、アフリカ大陸の西側までは広がらず、借りてきたアパートは大丈夫だとわかり、安心である。(どうも、西側のナイジェリアの辺にアパートはあるらしい。)というか、洪水になってもそこまでいかないという知識が前もってあるようで、平然なようだ。母が、以前のオンボロ・アパートを訪れたことがあるように、新しいアパートに移ったら、やはりまた訪れてくるだろうか、と思ったりしている。(女房と母が重なっているようだ。)そうこう思っているうちに、夢に気づき、目をつむったまま、この夢の分析をはじめていた。洪水を恐れていない。また寝ると、忘れてしまうので、起きてメモにした。4時半ごろ。寝たのは10時ころか。映像の少ない夢。というか、これは夢なのだろうか? わかりやすすぎる。その雰囲気も、夢の中というよりは、意識的な感じだった。浅い眠り。

その晩(つまりは、夢を見るまえ)、NHKの「ファミリー・ヒストリー」での、オノ・ヨーコの特集をみていた(女房も大会社の社長の娘だったので、重ねているのだろう)。「あの子は(サッカーでは)立ってるだけ、(勉強では)写しているだけ。一生懸命やることを覚えさせるのが大切だ」と、なにかの拍子でまた夫婦喧嘩になって、女房、以前の「人として最低限のことは覚えさせる」という論理とは違った理屈で、自分の暴力を正当化してみせる。そこで私が反論した理屈。「オノ・ヨーコが、結婚して子供ができたら、九九が覚えられないといって蹴とばすか? そうやって子供を追いつめるか? 黒沢美香が、子どもを産んでそんなふうになるか? そうした途端、自分がやってきたダンスが偽物だった、まがいものだった、ということになってしまうんだぞ。」「そう生きるには、覚悟が必要なのよ」「俺は文学をやっている。就活などしたことがない。今日ここで喧嘩していられるのも、植木屋で仕事がないからだ。あの時死んでたら、いまどうなっている?」――その二日後か、お盆で帰省した際、母がイツキのことを心配しているから電話をかけてくれと兄からメールを受けていたので、実家に電話した。母は、私と女房が、私がプリントしてきた谷川岳の地図をめぐりちょっとしたいざこざになった際、イツキが下を向いて悲しい表情をみせた、という。「あれは、虐待でしょ。(と、実家に帰った際も宿題をやらせようとする女房とイツキのやりとりを、何年もみてきたので。)児童相談所に言ったほうがいいのではないの?」「あれでも、だいぶおさまってきてる。」「何かあったら、こっちに避難させてもいいから」「突発的なことがないかぎりは、大丈夫だよ。」

夢は、「システムの生存」が私たちの目的なのかどうか疑わせしめる。死への衝迫の感触は、環境適応とは別の論理、潮流の在り処を私たちにほの見えさせてくれているように思える。

2017年8月19日土曜日

夢のつづき(5)

「人間の記憶はある種のビッグデータ処理機と見なしてよいと思う。サヴァン症候群の患者は、記銘力と芸術的能力において特異な才能を持っていると言われている。…(略)…サヴァン症候群の患者は、驚くべき量と正確さの記憶力を示す。一方、健常者の記憶は正確ではないし、裁判での証言者の記憶は不正確である。証言者の記憶は解釈の都合で如何様にも歪んでしまう。これは人間の記憶特性である。コンピューターのように一次元のメモリアドレスから正確に参照される類の記憶とは異なる。その代り人間の記憶は脳という記憶空間内に、幾重にも重なって畳み込まれていると考えられる。このとき潜在意味分析の如く特異値分解でキーベクトルを与えたときに想起される内容が人間の記憶と同一視することができると考えるならば、人間の記憶とビッグデータとは親和性が高い(人間の長期記憶と潜在的意味分析、あるいはその元となった特異値分解)と考えることができよう。さらに自動符号化によって抽象化が起こると考えるならば、…(略)」(浅川伸一著『ディープラーニング、ビッグデータ、機械学習 あるいはその心理学』 新曜社)


「事物の認識はこの関係によってこそ行われるのであって、実は見かけ上の類似性などは意味をもたないのである。抽象とは外観に現れたかたちの抽出ではなく、この具体性にもとづいた認識であり、判断である。」(岡崎乾二郎「抽象の力」)

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「もう一度出発点に立ち返って、機械の画像認識を向上させるために何が必要かを考えてみたい。図7・4を見ると我々は、画像には幼児の顔が写っていて、その子が何か(スクリュードライバー…引用者註)を手に持ってこちらに向けている、という状況を理解できる。畳み込みネットワークを使って制限ボルツマンマシンを重ねれば、この状況を察するユニットが形成されるのだろうか? 素朴には答えはノーであろう。このような状況をモデルに理解させるためには、古典的な人工知能の手法を取り入れて宣言的知識をシステムに与えたくなる。
 しかし、そうする前にまだなすべき仕事は残されている。マーガレット・ウォリトン(Warrinngton. 1975)は、意味記憶が視覚的記述と機能的記述に分かれている可能性を指摘した。すなわち神経心理学的には、視覚の対語は聴覚でも運動でもなく、機能である。人間の意味記憶障害では動物と非動物とに大別される。動物は視覚的に記述されることが多い。トラとチーターの違いは、主として視覚情報の違いによる。ところがイスとテーブルの視覚情報にはそれほど差がない。同じ素材で作られていて、同じ色をしていることもあり、同じ場所に存在し、どちらも四足であり、かつ、大きさもそれほど違わない。縁日で売っているミドリガメとゾウガメの大きさの違いの方が極端である。イスとテーブルの違いは主として、どのように使われるかという機能によって判別される。…(略)…視覚情報だけでなく機能情報も同時に与えて制限ボルツマンマシンで多層化して視覚情報に機能情報を連携させれば、動物と非動物の二重乖離という神経心理学的症状を説明するモデルができるだろう。その知識を使えば、ディープラーニングは図7・4の画像をスクリュードライバーと認識できるのではないかと思われる。」(浅川・同上)

・もし、健常者をぶんなぐってサヴァン症候群が成立するなら(事故でもいいが)、それは異常さの中に普遍性が見えてくる、ということではないだろうか? 私が主観(自我・意志)を超えて、捨てて、ぼんやりとモノを見ているときにこそ脳みその力が発揮されているのだとしたら? モノを見ている者が、私以上の者だったら?

・心理学的視点から、「機能」に着目したのは面白いとおもった。が、「機能」は一義的だろうか? さらに、この図7・4の赤ん坊は、それをスクリュードライバーとして使っているのか? そんな通例的な「機能」ではなく、その道具の有限性的な限定から、想像力豊かに「機能」を新しく創りはじめている、というのが赤ん坊(子ども)の現実だろう。たとえ私たは、その新しさを、既存の社会的枠組みに触れたときにだけ、「ああそうしようとしていたのか」、と新鮮な感動を覚えるだけであっても。つまり大概な用法は、理解できないのだろう。

・中学生棋士で有名になった藤井氏が、モンテッソーリ教育を受けていたことが注目されている。→<しかし《フレーベルの教育遊具》は、その演習が、あまりに詳細な操作方法まで指定されていたことによって形式的すぎる、儀式的であるという批判もされていた。ここまで詳細に事物との関わりに指示を与えてしまうと、児童の自発性、自由はむしろ抑制されるのではないか。後続するモンテッソーリの《教育遊具》はそもそもマリア・モンテッソーリ(1870-1952)が知的障がい児の知能向上育成にあげた驚異的な成果をもとに発想されており、事細かな指示がいっさいなくても、ただ遊具と具体的に接していれば自動的に思考や感情が促されるように工夫されていた[fig.109]。まさにモンテッソーリの《教育遊具》は主知的な指導がなくても事物が身体を触発し、知性を生成させるという発想に基づいていたのである。

《感覚教育》として知られる、そのメソッドは以下のようなものだった。身体的な運動およびその感覚から、抽象的な概念、法則性の理解を自動的に促すこと。そして身体的な交渉、試行錯誤を繰り返すことで、その過程で与えられる具体的な感覚、感性的感受から高度な抽象概念の習得へと導くこと。すなわち事物との関わりこそ知性を維持し育成するきっかけになる。むしろ知性を誘うのは事物である。人は事物に触発され考えさせられるのだ。触発すなわち事物が与える感覚が人間を育てる。>(岡崎・同上)
私も、子どもへのサッカー指導から、オランダのトータルフットボールがどうして実践しうるのか、と調べてみて、その新しい教育実践のことについて知った→<オランダでは、1960年対後半、そうした制度から、いじめ問題が深刻化しました。オランダ人は、その原因を、近代国家によって導入された一斉集団授業という形式に問題があると原因特定しました。それゆえ、学校創立に自由を与え、生徒が一定数集まって場所もあると証明できれば、私立でも公立と同じく予算をだし、先生の給与全額を国が負担するという政策をとったのです。結果、ドイツはナチス政権下で弾圧されていた新しい教育理論を採用する人たちがあらわれ、一つの地区に色々な方針を実践する小学校が現れた。要約的にいえば、授業から「学習」という形態に移行し、それは近代以前の日本の寺小屋に近いです。教壇はもうなく、1から3年までが一緒の部屋 で勉強し、先生は個人の発達レベルにあわせた課題を与えて、定期的に、4人ぐらいのグループを作った机の間を見回ったり、床にすわっています。宿題を終えた子は廊下にでてもっと好きな勉強を一人ではじめたり、先生がレベルの高い自習問題をあたえます。そしてこの風潮は、なお数量的には主流にはならないとはいえ、EUを離脱したイギリスを除いて、ヨーロッパの理念的なメインストリームになっているといっていいとおもいます(最近の難民問題で次の課題に直面しはじめていますが)。なんで私がそんなことを知っているかというと、サッカーのクラブ活動だけで、トータルフットボールなどという、全員が一丸となって休まず走り通すモチベーションを育成することなどできないな、もっと子供が時間をすごす小学校に問題があるのではないかと、中野区の図書館程度でですが、調べたからです。>(D&P2016.92016.8)……というか最近は、小学校以上に「いじめ」を通り越した不登校が中学に入った途端びっくりするくらい増加するようなので(息子もその兆候あり)、もう一度探ってみようとおもっている。

・コンピューターはなぜそんな手を打てるのか、もはや人間にはブラックボックスになっているという。人がやれば何万年とかかってしまう場数経験を踏んだ上なので、私たちにはわからないのだと。が、そういう経験値レベルでのわからなさなら、遺伝子や身体レベルまで考慮したら、私がなんでこうしてしまったのかさえ、ブラックボックスである。しかし本当は、グーグルは、解析できるらしい。何年かしたら(おそらくはつまり、儲けを確保したら)、その解析本を出版するかもしれないらしい。しかしそんな参考書、ハウツー・テキストをみずども、すでに若い人たちは、コンピューター相手にゲームをしているのが日常的なのだから、何万年かの経験値をとり込んでいるのである。難しく正しい歴史的経緯など知らなくとも、そのノウハウ的結果、すなわち知恵はついてくる。コンピューターとまた互角に張り合える時期はくるだろうが、しかし、その時は、人間と自動車が競争しても意味がないように、疲れを知らない機械相手に戦っても、面白い見世物にはならないだろう。お笑いにはなるかもしれないが。

2017年8月11日金曜日

夢のつづき(4)

「もしそうだとすれば、国民国家と帝国の二層化は、数学的な必然で支えられた構造であることになる。人類社会がひとつのネットワークであるかぎり、そこに必ず、スモールワールドの秩序を基礎とした体制とスケールフリーの秩序を基礎とした体制が並びたつ。ぼくたちはもはやナショナリズムの時代に戻ることはないが、かといってグローバリズムの時代に完全に移行することもない。スモールワールドの秩序の担い手がいまのような国民国家でなくなる可能性はあるかもしれないが、人類が人間であるかぎり、世界がスケールフリーの秩序に覆い尽くされることはありえないだろう。
 人類全体がひとつのネットワークに包まれ、スモールワールドの秩序とはべつにスケールフリーの秩序が、すなわち、つながりのかたちとはべつに字数分布の統計的真理が見えるようになるためには、交通や情報の技術がある段階に到達する必要がある。動物たちの真理を二世紀にわたって政治と哲学的思考の外部に放逐し続けたヘーゲルのパラダイムは、技術がその段階に達せず、まだ多くの人々にスモールワールドの秩序しか見えていなかった時代の社会思想にすぎなかったのではないか。」(東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』 genron)

目をつぶったまま瞳だけを開いて見えるまぶた裏の光景。光の粒子が、私には赤っぽくみえる粒の群れが、まだら模様を描きながら動いている。それはイワシの群れ、あるいはPCディスプレイでのスクリーンセイバーのような動きとも見える。








そしてこの粒々をもっとミクロに、目を凝らしてみようとすると、何か規則性をもったいくつかの幾何学的パターンで織られているように見える。それは魚の鱗みたいだったり、格子縞だったりして、丸い粒なのではなくて、そうした規則性で密集した粒子群、それは星団のようで、まぶたの裏では、そんないくつかのミクロな規則的パターンで織られた星団があちこちと展開されている。が、それら銀河の群れは目を凝らそうとすればそれを受けるようにその都度動きを速めるので、はっきりとした形はみえない。それを追ううちに、眠りがやってくる。ある星団が展開した光粒子の形が、何かを私に連想させたらしく、粒々が画像として、動画として浮かび上がってくる。そのまま夢に移行していくようだが、寝入るときは、もちろんそのストーリーを思い出せるわけではないが、それが不眠癖のある私の、「羊がいっぴき」と羊の姿を思い浮かべながら数える言い伝えの代用、私的な工夫だった。
しかし、目覚めるときは別だ。繰り広げられる夢の物語を見ながら、これが夢であることに気づく、そしてそうっとうまく操作できたとき、その夢の画像がぼろぼろと光の粒子へと崩壊していき、その様を静かに凝視、目を凝らすことができたとき、その粒子の模様が拡大されて、夢物語とはまったく別の静止画が現前してくることがある。「夢のつづき(2)」で再現してみたのとは別に、2か月ほど前だったか、次のようなパターンに出くわした。
(1)
(2)

あるいは、2週間ほどまえだったか、光の粒子が、したたり落ちようとする水滴のように集まっているような光景もでてきた。これらは、なんなのか? 夢のつづきにすぎないのか?

私が見た印象からの推論。
視覚から入る光景は、情報量があまりに「ビッグデータ」なので、それを圧縮して処理する必要がある。意識のある目覚めた状態のときは、その圧縮の方法には、生活に適応しなくてはという重み(プレッシャー)がかかる。だから、分類/整理(圧縮)以上に、回帰(誤差処理)のループ(修正)に重点が置かれて、それは部分では対象認識の正確さが、全体では意味の統一性が保持された縮約的なものになる。つまり光粒子からの連想方は隠喩的・象徴的になる。が、寝ている時は、適応の重みから解放されるので、その連想方は、換喩的・寓意的となる。しかしどちらにせよ、人は光景(データ)を見ないように処理されている。実際、私たちは、ものを見て生活していない。そこにコップがあれば、それを見て認識するのではなく、そういうものだと概念認識して(言葉で処理して)、すまさなければ、次の動作に移れない。だから、どんなコップだったか、そこにどんな汚れがついていたかなどまるきり覚えていない。その人間の傾向は、夢においても同じ、というか、夢だからこそ伺えてくる、ということか。まぶた裏の光の粒子自体が、すでにしてデータを圧縮するためのフィルターなのだ。外の光で輝いた窓を見てからまぶたを閉じると、窓の残影が白い光となって赤っぽいまだら模様の世界に浮かび上がっている。生活上では、それは窓として一致して認識されなければ、私たちは不適応を起こしてしまうという圧力をうけている。が、夢では、そう認識されるだけとはかぎらない。窓枠に似た白い光の形が、この私の今を左右させているより精神的にダイレクトな連想を惹起させてくるかもしれない。が、それでも、それは自由連想というわけにはいかないのだ。というのも、まぶた裏のまだら模様自体が、実はすでに概念的に縮約された文字パターンで編まれているからである。その意味を、生活上における言葉のように私たちは理解できないが、結局は、その文字を通してしか世界=光景を認識できないようになっているらしい。おそらく、そう「ビッグデータ」を圧縮して過ごさなければ、この世界自体に私たちは適応できないのだろう。その外部があったとしても、私たちは、少なくとも、見ることはできない。目を開けていようと、つむっていようと。

追記;
(1)見る、という行為が、意識的かどうかには疑問がつく。生活に適応するため対象物の境界(輪郭・エッジ)に焦点をしぼって概念処理している傾向があるといっても、それに収まらない経験も在るようだからである。見た光景を細部にいたるまで写し描いてしまう人もいるとされるサヴァン症候群、と呼ばれる現象まではいなかなくても、私たち自身、ふとしたことから、なんでそんな細部まで覚えていたのか、とびっくりするようなフラッシュバックがないだろうか? 私は、眠れない夜、その日起きてから目に映ったものを再現してみようと映像的に振り返っていく場合がある。朝目を開けて何をみたか、次に何を、と順次思い出そうとしていく。結構変な細部まで記憶がよみがえる。文学作品で著名な例としては、プルーストの「失われた時を求めて」であろう。あるいは、柄谷氏が近代文学の起源、「風景の発見」として読んだ国木田独歩の「忘れ得ぬ人々」。どうでもいい見過ごしてきた人の方が記憶に浮きあがってくる。それを文学的な思想的意図(ロマン主義的イロニー)としてではなく、単に、日常生活的な出来事の一つ、と受け止めることも可能だろう。というか、そっちのほうが普通の現象なのではないか? としたら、私たちは、実は監視カメラのように、光景を写し取っている、ということになる。死の危機の前に、走馬燈のように過去がフラッシュバックされてくる、ともよく言われる。
(2)まぶた裏の光景は、脳内イメージと、同時に、重ねて見ることはできる。
(3)まぶた裏の光景は、外の風景と重ねられない。同時に見れない。
(4)脳内イメージと(想像)と、外の風景は重ねられる。同時に見れる。
(5)脳内イメージ自体が、実は概念的に処理されていることが多い。想像して脳内で見ているように思い込んでいるだけで、では実際それをよくみようとすると、まったく映像がないことに気づく。ないものを、思い出して見ていると錯覚することで次の動作に移っていこうとしているのだ。子どもの頃の、野球試合でのあの場面を思い出していると思っている、たしかにそれは印象にあるシチュエーションなので、言葉的にストーリ性を付属させて思い返すこともできるようなのだが、実は、映像としては再現されていない。あるいは、かすかな境界、メインな映像部分の輪郭が動いているだけである。その細部まできちんと映像化するには、意識的な作業では無理なようで、やはり何か無意識を発動させるきっかけが必要なのかもしれない。
(6)もともと、目自体が、可視光線しか見えない、それ以外はふるい分けるフィルターなのだから、私たちは、生物的に、何かを守るように作られているのだろう。しかしそれは、単に人間という種の生物的適応のためだけの限定ともいえる。人には見えないものを見て生き延びている生物もいるのだから。臭いでもなんでもそうだが。となると、人工知能と呼ばれるものの思想は、深かろうが浅かろうが、世界を変えていくというよりも、単に環境適応にすぎない、ということか? 農業革命に匹敵する「ディープラーニング」という発想の転換、とも呼ばれているが、そもそも、農業は、人間を、世界を変えた、と言えるのか? 社会は変えたろう。が、この身体と、世界の境界との、適応力自体の在り方を変えたか、変えられるのか、というのが、問題なのではないだろうか?