2019年5月6日月曜日

屑屋再考案3――トッド・ノート(7)

「魔女裁判は、したがって縦型の家族イメージと関連があるとともに、精神分析の古典的なアプローチが要求している父と息子との対立は二次的にしか浮かび上がってこないのである。母親と息子との関係の清算の問題が主要な対立としてあるのであり、それが悪魔のイデオロギーによって変容され、村のなかで選ばれた善良な老齢の女性に降りかかるのである。この母の象徴的殺害(しかし正真正銘の殺人を引き起こす)は、女性の権威が強いことによって、無意識な異議申し立てがなされる人類学的システムの特徴なのである。そこでは女性の地位が高いために、子供たちの躾と教育はきわめて徹底したかたちで行われるのである。ところで母の権力だけが子供たちの躾を深いところで保障することができるのである。そして権威を尊重する心理的なメカニズムの再生産を担っているのは父ではなく母なのである。」(『世界の多様性――家族構造と近代性』エマニュエル・トッド著・萩野文雄訳 藤原書店)

ゴールデンウィーク中の作業によって、ようやく穴掘り他の外構作業のだいたいが終わる(ツルハシとネコ車を導入して、ほぼ一日で荒堀終える)。物置の裏側をくり抜いて戸をつけ素通りできるようにする。とりあえずあとは、裏庭出入り口、門替わりの車止めやチェーン等の設置だけだ。コニファーの間にサツキを植え、東側の砕石の小山にはメッシュフェンスを信玄堤のように張り、ジャスミンを絡ませて土留め用に植える。西側の小山には、ツルニチニチソウを植えてみる。畑の中には、野菜ではなく果物ということで、母のリクエストのブルーベリーを植える(あと何本かを何にするか思案中)。サツキもブルーベリーも、酸性好みの植物だ。測定器で計ったら、PHは6だった。土壌は粘土質に砂交じりなようだが、なんだかよくわからない。黒色まじりの山砂のような黄緑色、といおうか。保湿はよさそう。かつてはここは利根川の支流の川底だ。1km先の土手が決壊でもすれば、こっちに流れてくるだろう。最近は大雨の異常気象があるから、少しは対処法をとりこんだが、このままではあまり役にたたないだろう。そんな作業をやっていると、母が、納戸になっている寝室は、西日が強くて雨戸を閉めきったままになっている。なんとかならないか、ともらしてくる。洞窟に隠れた天照大神を誘い出す古事記の神話が連想されてくる。女房は、「母親の尻にしかれる兄弟」と怨恨交じりに言って私を送り出したが(その拘りによって「母」という構造を反復しているのだが)、そんな私事の話じゃねえよ、と素人を正そうとしてもしょうがない。と、高1の息子のゴールデンウィーク中の宿題に、大澤真幸氏の『思考術』の読解が出されている。――<人間はなんでもかんでも考えなきゃいけないということはないけれども、考えることで何かを成し遂げようとした場合には、やはり十代ぐらいから少しずつ組み立てられていく、できればメリハリのきいた、一生考えなきゃいけないテーマがはっきりあるということが重要である。それがあると、それとの関係でいろんな問いが網に引っかかるように絡まって、出てくる。それに応じて、短期で処理したり年単位で処理したりという問題を設定し、それに答えるという作業を重ねていくと、結果的にライフワーク的な仕事のための道具がひとつひとつ整っていくことになる。>個別の事柄から普遍を、ここという特殊を出汁にして(大澤氏の言葉では「託して」)、一般というあちらのことを考える、という振り子訓練。息子はいまだ宿題をやっていないが。
で、私の「ライフワーク的な仕事」かもしれない実家の裏庭に「託して」、まだ読んでいなかった冒頭引用のトッドの著作から抜粋していく。

*****     *****     *****

「核家族はその二つの変種とともに、双系制システムに属しており、父系親族と母系親族に同等の価値を付与するものとなっている。女性も遺産の分割に関与する(外婚制共同体家族の場合は女性は一般的に相続からは除外される)。これは当然のことである。なぜなら核家族というのは、ひとりの男と女の単純な結びつきであり、その在り方によって一定の度合いの平等をもたらす自立的な対話のなかに位置づけられているからである。しかし逆説的なことに、対称性に関心を持たない絶対核家族の方が、「平等主義」家族よりも両性間の平等をより深く実践しているのである。兄弟間の対称性原理は、男性の連帯をア・プリオリに前提とするものなのだ。それがすべての社会で自然なものとなっている両性間の不平等をさらに強化するのである。」(同上)

「暴力性が少なく社会的な共同作業を優遇する絶対核家族は、文化的にもまた平等主義核家族より活性力がある。なぜならばこの家族構造では、実際上の女性の権威が認められているために、子供のきめ細かな躾やより速い教育的な進歩が可能となるからだ。この点では、母親の権力を認めている権威主義家族と対比することができる。
 しかし平等主義核家族と権威主義家族とに共通する構造的なひとつの特徴が、これらを他の構造から区別するものとなっている。女性の地位の曖昧性がそれである。
 権威主義家族は家系の男性継承を理想とするが、実際上は強い女性の権威を容認している。平等主義核家族は夫婦の連帯と両性の不平等とを同時に追求する。この二つのケースでは緊張が集中するところは同じではない。平等主義核家族の場合は男性とその妻との間に緊張が集中し、権威主義システムでは男性とその母親との間に凝縮する。
 核家族モデルは家族の縦の関係を弱めるものであるために、権威主義モデルや外婚制共同体モデルよりも不安を引き起こす要因は総体的に少ない。自殺率は常に低い水準にとどまっており、母親の権威が弱い平等主義核家族の場合は、自己破壊の頻度は最低の水準にある。夫婦の関係の曖昧さがこの人類学的類型に生み出す緊張は、縦型の家族システムから派生した図式のなかに閉じ込められている精神分析的図式には適合しにくいものである。」(同上)

「双系制で縦型、女性主義的で権威主義的なタイプ4は、もっとも強い母親の権威と対応している。女性の高い地位と強い親の権力が組み合わさったものである。その養育の力は最大である。このタイプは、例えば、ドイツ、スウェーデン、日本などの家族システムに対応している。」

「このシステムの起源はア・プリオリに特定できないとしても、権威主義家族構造の家系的理想と女性の高い地位との間には機能的な関係があることは認めざるを得ない。物質的あれ精神的であれ、資本をそっくりそのまま後の世代へと受け継がせていくことを何もまして優先させるこの家族システムは、男性継承者が不在のときにも、その存続の危険に対処できるものでなければならない。このように女系による相続か消滅かのいずれかの選択迫られるとき、このシステムは女系相続を選ぶのである。」(同上)