2024年4月9日火曜日

山田いく子リバイバル――(16)


Youtubeにアップしていた、仮タイトル「チムチムニー」の全体データがみつかったので、いく子のダンスを連続で上げてきたアカウントの方へ、「森のクマさん」と仮タイトルして、アップロードした。前のものは途中までで、音響も壊れてすさまじくなってしまっている。逆にそれが、それなりのアクセス数になったような気もするが。

 

山田いく子「森のクマさん」(仮タイトル)…2008頃 (youtube.com)

 

息子のイツキの体格からすると、まだ幼稚園児くらいの頃であろう。正確な年月はわからない。私は会場にはいなかったようだ。六さんのダンスパスでの、私的な交流公演なのだろう。

 いく子はここで、またどこか私的な奔流に呑まれたようなダンスをしている。やはり何か、トラウマのようなものがせり上がってくるのだろう。

 いま、映画で、1993年公開で、カンヌでパルムドール賞をとった、ジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』が、4kになってリバイバル上映されている。いく子は当時、この映画の感想をノートに書きつけていたので、タイトルだけは記憶にあるがこれを私は見ていなかったので、観賞してみた。以下は、その感想を、妹さんへのライン宛てに書いたものである。このいく子のダンスの出所は、そういうものであると、私は思っている。

 

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「ピアノ・レッスン(原題は、The Piano)」の出だしで、女性主人公の設定が、6歳から唖になってしまったとあって、すぐに了解。最後のテロップで、監督が女性で、設定場所がニュージーランドということで、もしかして、いく子のダンス「エンジェル アット マイ テーブル」のタイトルとなる映画を作った監督と同じなのでは、と推論。スマホで調べたら、やはりそうでした。

 

女性の自立みたいな解説をみたりしていたのでそうかな、と思っていたら、逆で、それが不可能である、という内的現実の在り処を示そうとするものです。描いたのは、女性というより、アーティストといっていた方がわかりやすい。

 

ピアノは、自分の意志ではどうにもならない、抑えられない力、を意味します。オシになった彼女は、再婚のためにスコットランドから植民者の白人のもとへゆくのですが、愛することはできない。彼とマウリ族の間で通訳者をする現地化した男を愛するようになってしまった。その男との交際中にしゃべるのですが、通訳者にはきこえなかったその言葉を、覗き見していた植民者には、制御できない意志の力が自分でも恐ろしいのだ、と彼女がささやいたと聞こえた。彼女の指を切り落としてしまった植民者は、彼にそう伝え、二人が一緒になって現地から去ることを許す。

 

この、抑えられない力は、いく子のテーマです。映画でも、6歳から、ということで、なにかトラウマを負ったのかもしれませんが、とにかくそれに突き動かされる。それは、性と結びついている。最後は通訳者との幸せな結婚のように見えますが、現実には、ピアノは海の底(無意識)に沈んでいるだけです。それが爆発するのではなく、なんとか手懐けられるよう、彼女は発声練習したりして、通訳という境界にいた男との関係で、リハビリをしているのです。そして話すのが恥ずかしいので、今度は目隠しをしているのです。

 

「エンジェル アット マイ テーブル」は、まだビデオ化もされておらず私は見てませんが、精神病院に入っていた女性の話です。

 

当初このテーマは、画家のアンリ・ミショーの言う「噴出するもの」、後期では、ウィトゲンシュタインの「語り得ぬものは黙らなくてはならない」、との言葉として、いく子が自身のノートに引用していたものです。「ガーベラは・と言った」の「・」も、語り得ぬ力、を意味しています。

 

私はたしかに、この通訳者の位置に重なるかもしれません。いく子の短編小説では、女のアパートに何かを買ってきてと呼ばれた男はシャワーを浴びたあと、「おまえは用を頼む以外はしゃべらないんだな」と捨てゼリフを吐いて出ていくのですが、その筋の合間に1行、やることはやったし、と挿入されていてなんのことかと思うのですが、セックスでしょう。いく子はクリステヴァという女性哲学者の「サムライたち」という赤裸々の自伝を読んで、「女は感じるのだろうか?」と問うています。読めば、感じまくってる作品なんですが、いく子にはそれでも、女は感じないのではないか、と思わざるを得なかったんですね。

 


いく子が最後の方の入院中、自分で買って読んでいた本は、荻尾望都と竹宮惠子という少女マンガ家の自伝です。彼女たちは、男女ではなく、少年同性愛を描いた作家です。彼女たちの漫画を読んできた1960年前後に生まれた女たちを、民俗社会学的には、荻尾のタイトルからとって、「イグアナの娘たち世代」と呼ばれているようです。いく子が直面していた問題は、他の女性とも共有共感的になる、歴史的な問題でもあるのです。


 ※ 現地部族にとけ込んだ通訳者には聞こえず、白人植民者には彼女の声ならぬ声が聞こえた、という設定はおかしく感じるかもしれません。が、7歳くらいの娘とニュージーランドに嫁いで行った彼女の最初の夫にも、テレパシー(という言い方はしていないが)が通じたので結婚できたが、その関係が怖くなって夫は逃げていったと娘に手話で言い聞かせています。いく子が、最後に関心をもったダンサーは、アメリカのトリシャ・ブラウンで、まだ封を開けていなかったDVDをみると、トリシャは、デビュー時コラボした男性アーティストに、あの当時のテレパシー現象をどう思うか聞いているんですね。男は黙って答えずはぐらかし、トリシャが困惑するシーンがあります。また彼女は、子供を産んで創造力が湧き上がってきたと言っている。これは、竹宮惠子のSF漫画「地球(テラ)へ」もそうで、そこが男のSF漫画からすると異色になり、もっと突っ込んで考えていく余地があると思います。 

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※ この映画の語りは、7歳ころであった娘、なのかもしれない。そしてその彼女も、オシになってしまって、このナレーションは心の声だ、と言っているのかもしれない。となると、娘が口がきけなくなってしまったのは、新しい父が母の指をオノで切り落とすのを目の当たりにしたショックからとなる。となれば、母も六歳のとき(娘も6歳という設定を暗示しているのか?)、両親の暴力を目の当たりにして、その現実が反復されている、となる。むろんこの暴力性は、植民地主義と結びつけられている。白人の男の賢さ・ずるさを、現地の人や主人公は、受け入れられないのだ。それはまた、この映画の女性監督が、故郷ニュージーラーンドで認識したことなのだろう。

ピアノ

 


 慎吾は、鍵盤からはずれた小指と薬指が折れるように曲がって拳のようになると、そのまま叩きつけた。悲鳴のような音が割れて、誰もいない閉めきった居間に響いていって、消えた。グランドピアノの黒光が、なおさら部屋を暗くした照明のように閉ざす。ぼんやりと、消えていった音響が木霊をかえしてくるように、家具の輪郭や置物のたぐいが慎吾の視界に浮き上がってきた。空になった、天井まである備えつけの本棚、そこには箱に入った日本文学や世界の文学全集、思想全集が並べられていた。母に言われるままに、直希が市の清掃局へと持ち運んで処分したら、なんで捨ててしまったの、せっかく読もうとしていたのに、と直希は小言を言われていた。空いた棚のところどころには、その代わりに、お土産で買ったりもらったりした人形が飾られている。上の段には、三人の子供が小さいころに、野球やテニスで獲得したトロフィーが溶けたような金属色でくすんでいる。このピアノも、引き取ってもらう手配ができているとのことだった。箱型のピアノから大きなグランドピアノへと取り換えるさいは、防音設備の整った部屋の庭へ通じたガラス戸の方から入れられることができたけれど、もう庭の木も大きくなって、戸の前をふさいでいる。ふたを開けると竪琴のように大きな羽を広げるピアノは、ピアノ教室のための部屋には入りきらなかったので、居間の真ん中へと据えられたのだった。

 慎吾は、大学生の頃に、独学でやり直し始めたのだ。小学生のころ、母から教わってはいたけれど、ブルグミュラー教科書の最後の、エリーゼのためにが弾けた程度だった。それ以来、やってはいなかった。いまやってみたくなったのは、たたまれた黒い羽の羽ばたきをもう一度目にしたかったからだろうか? 自宅に帰ってくるたびに、ひたすら練習した。ショパンの革命を弾けるようになった。その有名な曲の、下流から上流へとさかのぼる魚群の奔流のような指の動きが上達するにつれ、自分も天へと舞い上がっていくような気がしてきた。高揚した気分そのままなように、文学部だったけれど、バブル真っ最中の銀行へと就職した。地方の銀行だった。それで満足したわけではなかった。もっと俺は上昇できる、現金の最終確認で俺の窓口から十円盗んで揚げ足を取りいじめてくる奴らを見返してやれる。そうして、外資系の会社の経理部長としてトラヴァーユした。それでも奴らは、そのアメリカの大会社と手を組んで俺を追い落とそうとした。尾行し、盗聴をしかけ、悪い噂をながさせる。あいつはバナナだ、中を白く見せたがっている黄色いバナナだ、英語と日本語で、俺の耳に飛び込んできた。鍵盤の音に変わって、声が、洞窟の中の残響のように俺の脳みその中で渦巻いた。妄想なんかじゃない、幻聴じゃない、あれは、ほんとうの話で、ほんとうの声だったんだ!

 母と、弟の直希は、母の実家のあった宮城の方に行っていた。留守宅にひとりでいた慎吾は、久しぶりにピアノを弾いてみたのだ。統合失調症と診断された病気以来、もう弾いてみたことはなかった。ピアノを処分するからね、と直希から確認されていたので、ならばこの誰もいなくなった居間で思う存分弾いてみようという望みのようなものが湧きあがった。が、もう指が動かない。もともと、小さな手だった。その手を思い切り開いて思い切り素早く動かさなければ、鍵盤を渡っていけなかった。まるで自分の人生のように、指は折れた。「音大にいったらどうなの?」学生時代、女友達に言われたそんな言葉が、よみがえってきた。あれは、どんな意味だったろう?

 慎吾は、スプリングのような原理で伸び縮みする椅子から立ち上がった。子供の頃は、丸くて、くるくる回すと高くなったり低くなったりする紫色の椅子だったな、と思い出されてきた。小用をたそうと、居間から洗面所へと通じるドアの方へ向かい、取っ手をつかむ。金属質の冷っとした感覚が、外に目をやらせた。花模様の絵柄の彫られた曇りガラス製の玄関から、日の光が曇り空のように広がってくる。まだ夕刻にはなっていないはずだが、晴れなのか、曇りなのか、わからない。カーテンは、閉め切っていた。雨戸は、その開け閉めは自分の役割として言われていたので、まだ暗いうちの早朝にすませていた。朝食は、近所のコンビニへいって、お結びを買ってくる。そしてすぐに、英語の勉強がてらもあって、映画の『ゴッド・ファザー』のビデオを見る。もう何十度、何百回と見ていることになる。ほぼ毎日、見ている。あきないのかい、と母に言われても、新しい番組は緊張してしまって、見ることはできない。俺は、病気なんだ、それでも一日一日を頑張って生きている、それなのに、なんででできないああしろこうしろって言われなければならないんだ?

 慎吾は廊下にでると、南側をふさぐ半開きのままの襖から、母の寝起きする部屋をのぞいてみた。掛布団がめくれたままの、ベッドが見える。もともとその部屋は、床の間のある客間だったのだが、いつの間にか、炬燵もおかれ、母が過ごす部屋に変わったのだ。西側にある、食卓の置かれた台所の北側の、奥まった部屋を父とともに使っていたのに、そこから表へと出てきたのだ。あの日の当たらない薄暗い部屋に、両扉で開く鏡台があり、子供のころは、内職していたタイピングの機械などもあったはずだ。お父さんは、居間の備え付き本棚が延びている北側の窓のところに机を置いて書斎がわりとしていた。お父さんがいなくなって、まるで岩戸の奥に隠れていたようなお母さんがでてきて、口うるさくなった。父がいない、いつの間にか、お父さんはいなくなった、いや俺は、なんでお父さんがいなくなったのか、知っているじゃないか、抑圧するな! いやそれも俺の幻なのか?……あいつが、ほんとうに、やったというのか? わからない、わからなくなっちまった……俺の病気の、妄想なのか?

 便器の内側には、まるでそんな妄想の破片のように、茶褐色の塊が飛び散って、こびりついている。朝方した、自分の大便の飛沫なのだろうと、慎吾はわかっていた。何度も、母から、そして直希からも、小言を言われていたからだ。当初は俺じゃない、と言い張っていたが、その汚れが、自分の薬の副作用で、便が下痢気味になることからくる汚れであると認めざるをえなくなった。それらは、その散らばった断片は、俺のばらまく現実なのだ。慎吾は小便で、その断片を洗い流そうとする。落ちるものもあれば、落ちないものもある。これも薬の副作用なのか、のどが渇いて、水が欲しくなるのだ。ペットボトルに水をいれて、いつも手元においていなければならない。俺は、何に渇いているっていうんだろう?

 トイレの汚れはそのままにして、慎吾は自分の部屋にむかった。ピアノの脇を通り過ぎて、階段をのぼってゆく。のぼり切った左側の、開け放したままだった引き戸をくぐって、すぐ右わきのベッドの上へと、仰向けに体をあずけた。ベッドのクッションが軽く反発して体を浮かせると、そのまま天井の木目の渦へと、自分が吸い込まれていきそうな感覚になった。

 この子供部屋は、慎吾が大学に通うため上京したあとは、すぐ下の弟の正岐の部屋になっていた。また慎吾がもどってきたときには、誰も使っていなかった、いや正岐の使ったままの跡が残っていた。退院して久しぶりに自分のベッドに横たわったとき、どこか違う感じがした。ベッドの置かれた場所が、違っている、移動していることに気づいた。そう気づけることが、ふと、はじめて自分を安心させて、いままで、自分はやっぱり病気だったんだな、と納得させてきた。入院のあいだ、自分がどこにいるのかさえ、わからなかった。殺風景な部屋の鍵はかけられていた。いや、紐か何かで拘束されていて、身動きもできなかった記憶がかすかにある。何かわめいていたのだろうか? 注射で、大人しくさせていたんだろう。俺は、大人しくなった。病院を移された。お父さんが、入院していたところだとあとで知った。自分がいたところは、一度はいったら出てこられなくなると有名な病院だったそうだ。だけど、俺は出てきた。そして、お父さんが狂って入っていた家から近い病院に俺も入ったんだ。ならば、そのときまでは、お父さんは、生きていたってことになるんだが……そこで、殺されたのだろうか? 遺書があったと、直希が言っていたような気がする。ならば、ほんとうは、自殺だったのか? いや……そうやって、そう見せつけて、あいつらが、そうやったということか? 俺は……とにかく、ベッドを、まえ俺が寝ていた場所に移動した。北側の窓のところから、隣の子供部屋とを仕切る襖の手前のこの場所に、いつもいた場所に……だけど、そこに、もうお父さんは、いなかったんだ……。

 アーメン! と慎吾は渦を巻いた天井に叫んだ。あわれみの神、来れたまえ! 慎吾は怒鳴るように、聖歌を歌う。声を張り上げて、天に、誰かに、聞いてもらいたかった。学生中のころ通い始めたプロテスタントの教会では、賛美歌と呼んでいた。いつくしみ深き友なるイエスは、われらの弱さを知れて憐れむ……もうどちらの歌を歌っているのかわからなくなった。張り上げた大声は、隣近所をもふるわして、苦情が来るからよしなさいと母から言われても、胸が張り裂けてくる。だって、その隣近所の子供たちだって、苦しんでるじゃないか! すぐ東となりの父母世代からみれば孫にあたる娘さんも、市役所に勤めていたのにいまは家に引きこもってでてこないみたいだというし、その隣のお宅の直希より三つ年下の末っ子も、家にこもりきりになって、去年だったか、家の中で暴力沙汰でもおこしたのか、パトカーが来て警察官がきて、通りを逃げるその末っ子を猛然と追いかけていったのをお母さんは見たという。南側の畑の先にあるお宅では、小学校は違ったからとくに仲がよかったわけでもない自分よりひとつ年下の長男も、十年近くまえだから50歳をすぎてから自殺したと近所に伝わっていた。ときおり朝早く、まるで髪を長くしたイエス・キリストみたく、まだ暗い道を歩いて、コンビニで食べ物を買って帰ってくるみたいだとお母さんは言っていた。なんだかあっちにもこっちにも、俺みたいのが家に隠れているじゃないか。老齢化したこの地方の住宅地で、あっちにもこっちにも、世の中で挫折したまま立ち直れなくなったものたちがうじゃうじゃしているじゃないか。俺は、黙ってなんかいられない! だから俺は……俺はもう、活動なんてできないけれど、訴えることはできる、歌ってわめいて、戦ってやる! 花も蕾の若桜、五尺の命をひっさげて、国の大事に殉ずるは、我ら学徒の面目ぞ、ああ紅の血は燃ゆる、ああ紅の血は燃ゆる!

 慎吾の歌は、いつの間にか、軍歌に変わっていった。そしてそれがいつものように、テレサ・テンの歌に変わってゆく……愛をつぐなえば別れになるけど、こんな女でも忘れないでね、優しすぎたのあなた、子供みたいなあなた、あすは他人同志になるけれど……あれは、どんな意味だったんだろうなあ? と、慎吾はまた思い返した。

 おなじテニス部だった。そのサークル活動とは別に、文学の趣味も共有できた。好きな作家は違っていた。慎吾は、川端康成や三島由紀夫のある種の作品が好きだった。彼女の方は、出版されたばかりの村上春樹の『ノルウェーの森』を読んで、好むようになったと言っていた。慎吾は現代文学には疎かったけれど、彼女が読むのだからと、読んでみた。鼠だの羊だのが、なんで出てくるのかわからない。100%の恋愛小説を歌った作品も、慎吾は石坂洋二郎の作品も好きでよく読んでいるのだったが、比べたら、その物語のどこが純愛なのだかわからない。女の子は、病気じゃないか、と思った。結核とか体の病ではなくて、精神病になっていく心の病をとりあげたのが新しいということなのだろうか? だけど男の方は、蜘蛛みたくみえる。中学くらいのクラスの中に、一人はこういう男子がいるものだという気がした。クラスの華である一番手や二番手の女の子にあこがれるのはあきらめて、四番手以下の、あまりぱっとしない普通のような女の子がよってくるのを待っている。わざと軟弱な擬態をして、声かけすいような大人しさでじっとして、細いけどねばねばした網を張り巡らせて、ひっかかってくるのを待ち構えている。かかってきたら、雨に濡れた体を羽織ってやるように粘つく網をからませて、食べきるまでは放さない。それから次の獲物。思春期まえのあこがれの男子は、あんまり女子に興味がいかないで、スポーツなんかに精出している。華ある女子も、なんだか見えを張っているだけのように見える。だから、奥手を捨てて、一番すすんでいくのはそんな普通かそれ以下のような男の子や女の子たち。普通とされる劣等感が、コアな動きを伏流させて、不良とレッテル張られた男女はもう、目に見える塊で底に沈殿していく。本能のようなカーストが、こっそりと、世の中の下地をつくってゆく。大学生ともなれば、そのヒエラルキーは自然体となっている。理想を体現するセレブな男女、普通の壁、落ちこぼれ……彼女は、俺を憐れんで、体を開いてくれたんだろうか? 「音大にいったら?」というのも、世俗の階層に不適応な俺の一途な想いを揶揄しただけだったのだろうか? 俺は……証明してやりたかった、俺だって、二枚目でもないぶきっちょな俺だって、世俗の中で生きていける、だから、二流の大学から銀行に行き、他のエリートと張り合う外資系の企業にいき……俺が、俺自身が病の男の子になっちまった。もう、昭和でなく、平成だったんだなあ。大手会社から内定もらえる基準も、外見を気にする、異性とのコミュニケーション能力がある、ユーモアを解する、友だちが多い、みたいな美的判断が成績以上に重視されるようになったっていうじゃないか。下の階級からの這い上がりは、生まれつきの顔や育ちの振る舞いで選別されてしまうって。セレブ同士の結婚、アスリート同士の結婚、遺伝子なんだか環境なんだかわからない。カネと地位を得ても、顔がよくなければ生理的な本能で疎んじられてしまう。いつの間にか令和になって、俺に近い年頃の男が天皇になって、技術的な能力なんてAIで代用できるんだから、これからはなおさら人間的な魅力ですって……俺は、だめなやつなのか? 一生懸命やってきたのに、それがだめだっていうのか? 遺伝環境的に、はじめから見込みがなかったっていうのか? 父親が狂ったから、俺も狂うっていうのか? ……それがわかってるから、俺は、お父さんをやっちまったのだろうか? いやそうじゃない。俺は、殺せなかった……いやそうじゃない、そんな遺伝のために、俺はあいつらといっしょに活動したわけじゃない……。

 日が沈みかけているようだった。閉めたカーテンから漏れる光に、暗闇がまぎれこんでいる。雨戸を閉めにいかなくちゃな、と慎吾は思った。そう思えるなら、自分はまだ狂ってなどいないのではないか、と思えてきた。しかし、ベッドから起き上がることはできなかった。薄暗さの中へ沈んでいった木目の渦をまた逆巻かせるように、瞬きを繰り返した。それでも、あいつは、やったんだ……慎吾は考えつづけた。「君はもっと表にでる必要がある」なんて、俺と同じようにあいつらにそそのかされたにせよ、総理大臣を撃ち殺してしまったんだ。父親を通り越して……なんで、お父さんじゃなかったのだろう? お母さんを苦しめたのは、総理以前に、親父じゃないのか? 母親たちが大挙して新参の宗教に入っていったのは、家に居座っていた父親のせいじゃないのか? 2世問題とかなんとか言う前に、なんで女たちは、狂ってたんだ? なんで病の女の子たちが、蜘蛛の巣の網に引っかかっていったんだ? ねばねばの網に絡まれて食われるほうが、気楽になれるのだろうか?

 慎吾は慣れないスマホの操作で、テロ決行者を検索してみて読んだツイッターの文というのを思い越した。家族への連絡ようにと持たされた携帯電話の時もそうだったが、慎吾は普段、電源を切っていた。高校の同窓生や施設仲間との間で、フェイスブックやツイッターなどに参加し、たまには自分の意見を投稿してみるくらいにはなっていた。けれど、投稿してすぐに電源を切った。世間にいつも繋がっていることは、そう思うだけで恐ろしいことだった。常に迫害されているような、強迫観念がとりついた。自分から発信したら、引きこもる。断続的というよりは、非接続でなければ、身が持たない気がした。承認されることには、あとから身をすくませる恐ろしさがやってくる。

検索の中で、中年にあたるのだろうその男は、DNAの多様性を認めるように、軟弱な男子も救われるべき、その遺伝子も保存されるべきことを説いていた。これまでの事実として、男女関係はインフラとして機能している。男に女を配給する世界共通の事態として、貧乏子沢山の苦痛が現実だった。その現実の中で、女も生まれてきた。それを一定の豊かさを得た後の世代が無視して、女性こそがどのDNAを残すかの選択肢を持っていると思い込むのは権力的である、そう権力的に振る舞うことで、軟弱な遺伝子を殺しているのだ、世界を貧弱にしているのだ。女性問題が全てではない。憎むべき対象は、男女関係をもインフラの一部として取り込んでいるこの社会全てに対してである。この俺の思想を卑小化するな!

慎吾は、自分が事実、軟弱の部類に入ってしまうということを、認めざるをえなかった。DNAという言い方はよくわからないけれど、自分の子供を世に残すことができないで終わってしまうのは、淋しい気もする。子供の頃は、父親とマンツーマンで、テレビ漫画の『巨人の星』でのように、思い込んだら命がけの特訓を受けていた。少年野球では、ストライクが入らず、ファーボールをだすと、お父さんはタイムをとって俺をベンチに呼んで、気を付けをさせ、ビンタが飛んだ。俺はまだ、あの痛さを覚えている。次男の正岐は黙って交代させられただけだった、三男の直希ともなれば、なんにもなしだ。なんで俺だけ……男子進学高の部活では天文部に入り、大学では、やはり女子のヒラヒラしたスカート姿にあこがれて、テニスのサークルに入った。その選択自体が、俺の育ちに対する反抗であり、だからそのまま、軟弱の道への選択になっていったのだろうか? テニスは上手なほうだったけど、俺は、やはりさえない奴だったのだろう、今現に、こうした病人生活をしているのだから。障害者認定の階級を審査で落とされたら、俺の老後なんてありはしない。いやそもそも、この病気になったものは、六十を過ぎて亡くなっていくのが平均寿命みたいだ。もうこんな弱者の毎日が、三十年! 俺の子孫なんて、俺には残しちゃ悪いような気がしてくる。……だけど、彼は、あいつは認めない……それは、まだ若いからか? 血気さんかな余力があるから、おだてにのってもと総理の暗殺を企てられたのか? お父さんでなく……いや、そういえば、あのメンバーのお父さんも自殺していたんだっけ? エリート土建業の世界で、気がふれて、自殺に追い込まれていった、ならば、俺と同じじゃないか? あいつがお父さんを通り越していったのも、父親を翻弄させたこの世界そのものを変革させていこうと試みたからか? そして俺には、そこまでできなかった……俺は、軟弱そのままだったんだ……

焦点の定まらない慎吾の視線が、部屋をさまよった。壁に備え付けの戸棚つきの本棚にも、机の上にも、床にも一面、この三十年読んできた本が積み重なっていた。部屋を視察に来た施設の担当者によれば、整頓されている方だという。本は、専門的なものではなく、自己啓発や実用的な書籍が多かった。小説の類は、同じものを繰り返し読んだ。淡い、恋の話のもの以外は、受け付けなかった。西日の濃さを滲ませた微光が、本の表紙を照り返させる。厚手のカーテンの隙間から部屋を斜めに区切った光の線は、昼と夜とをぼんやりと区別しているようだった。それは、生と死の堺も、ぼんやりと重ね合わせていることを暗示しているように思えた。実際、慎吾には自殺の衝迫が時おり、昼の明るさの真っ最中にやってきた。一度起こると、数日その衝動は続いて、また昼の光のどこかに消えていった。昼の中に夜があり、そして夜は、睡眠薬の助けがなければ、眠ることはできなかった。ということは、真実の世界は、昼の背後にぼんやり隠れている夜ということなのだろうか?

その夜の壁際が、西日の反射の中で、少し動いたような気がした。目が動いて見て、ぎくりとした。部屋の角には蜘蛛の巣があるようだった。その透明な反射の中で、姿の見えない小さな目が慎吾を発見し、じっと見つめているような気がした。がそうわかると、なんだかほっとするような気もしてくる。このままあの蜘蛛に食べられてしまっても、気楽で、気持ちよいような気がしてくる。「人はむしゃむしゃ食べられることを望んでいるのではないか?」焼き鳥屋で、時枝が言った言葉が思い返されてくる。たしかに、その蜘蛛が雌だったら、なおのこといいに違いない! 軟弱な俺なんか、雌どもの栄養にでもなったほうがましさ! ……でも、餌食にもなれないってことか? いや、そもそも……もしかして、彼女は俺を、つまみ食いしただけなのか?

慎吾は、頭が混乱してきた。もう眠れない夜が、やってきたのだろうか? 雨戸を閉めにいかなくちゃ……いや、あいつらの話は、もっとすっ飛んでいたぞ。人間の性差も、ニモと同じだって。クマノミは、一番大きな体をしたものが雌になる。他はみな雄だ。その雌が死ねば、二番目に大きなものが、雌になる。性の決定は、DNAじゃない。しかし、ならばどうやって二番目に体の大きな雄は、俺が二番だって、わかるんだ? 俺が二番目だから今度は俺が女王だ! って無理やり体重増やして自己主張しその地位を獲得するわけじゃあるまい。この現実は、蟻や蜂の生態でも同じだと。戦闘蟻をのぞいてしまっても、働き蟻の中からまた同じ割合の戦闘蟻がでてくる。そいつらは、主体的に志願したのだろうか? そうでないとしたら、どうやって選択されるんだ? コミュニケーションがあるのか? 俺が雌になるよ、今度は俺が戦ってくるよ、って? そうじゃあない、男女の性差とは両極の磁力であって、人はこの間を生態環境的に揺れ動く、どんな人間もこの両極の磁力の影響のもとにある、LGBTとはその力の差配のことであって、それは絶えず振動している。生きるに必要なのは自己の同一性を確立することではなく、その振動のエネルギーに身を任せることで世界に参加していく意志と、その技術を身につけることである! ……じゃあなんで、王殺しが必要だったんだっけ? あいつは、そそのかし、あいつは、島原は、なんで親父をやる必要があったんだ? それは、主体的な実践ではないのか? 世の中騒がせて、何をたくらんでいるんだ? 男たちの間で、なんで騒いでいるんだ? ……焼き鳥屋での乱痴気騒ぎが思い返されてきた。時枝や島原の議論に弟の正岐が巻き込まれているなか、がらっと開いた店のドアから、がたいのいい男たちがどやどやと入ってきたのだった。

2024年3月24日日曜日

お彼岸

 


妹さんにもラインで報告したのだが、いく子が、18日の朝、やってきたようだ。

前の日の日曜日、一緒に手伝い仕事をしている植木屋親方の奥さんから線香をいただいたので、簡易仏壇にしている椅子の下にしまってある一式をとりだして、供えてみた。香典としてもらった線香も色々あるのだが、その老舗の店の、昔ながらのものという、普通のより長い素朴な色の、匂いもあまりでないというものに一本、火を灯した。

翌朝、5時過ぎに目がさめた。まだ早いので、二度寝をはじめた。夢をみはじめていた。と突然、いく子の画像が割り込んできた。右目だけを大きく開けて、口を半開きにした、どこか驚いているような表情だった。髪は長く、五十過ぎくらいの年齢かとおもったが、初めて顔をあわした四十過ぎの頃に似ているように思えてきた。静止画だ。私もびっくりして、目を覚ました。

2024年3月16日土曜日

山田いく子リバイバル(15)


 VHS形式のものではなく、結婚してから撮ったビデオカメラのテープも出てきたので、のぞいてみた。「テロリストになる代わりに」とそのダンス・タイトルしか記憶になかったものが、残っていた。

テロリストになる代わりに(ゲネ)

 ヤフー・ジオシティーズで公開していたホームページの紹介文章に、いく子はこう書いている。

 *****

「テロリストになる代わりにアーティストになった」 ニキ・ド・サンファル

 「われは知るテロリストの悲しき心を」 石川啄木

 テロリストという言葉はまがまがしいのですが、メッセージ(言葉)を直接に持たないダンスの現場で何ができるのか、を思います。無力だとさえ思えます。

 やれることが、事実に少ないのです。

 過剰にだけやってきた頃を過ぎ、若くはない女性たちです。シンプルでも美しいお人形でもありません。澱のように溜まったものをもちます。が、ここに立つ、ことを思います。

 ヤマダは、この作品のための集結をお願いしました。持続可能なダンスを、YESをと、わけのわからない説明をし、コミュニケーション衰弱ぎりぎりです。

 個人的なことですが、9ヶ月前に出産し赤ん坊をかかえています。身体能力がどうなっているのか、わからないところにいます。作品をつくる時間も手間も、変えざるをえません。

 それでも、ダンスしかないのだと思います。そんなダンスプロレタリアートを自認します。*****

 

この文章を読んで、Youtubeにアップする録画には、ゲネ(本番前のリハーサル)の方をすることにした。現場で生きる女性たちの、ドキュメンタリーな姿が見られたほうがよいのでは、と考えた。本番は、1時間20分にもおよぶ長さである。汗だくである。ダンスという表現が、女性たちの間に現れるとき、それが何を意味してこようとしてくるのか、を考えさせられた。ダンスは「身体」として一概に抽象化されてしまうが、そういう男性画一的な見方では把握できないのではないか、という点は、別のブログでのダンス(身体)メモとして記述しよう。

 

この作品は、いく子の佐賀町ホーソーでの『事件、あるいは出来事』の次、ということを連想させてきた。私はその前作を、「ホロコースト」として読んだ。(その翌年2001年の大阪パフォーマンスで使った背景朗読は、トリスタラン・ツァラではなく、パウル・ツェランだった。となれば、なおさらユダヤ人へのホロコーストを意識していたものだ、と言えるだろう。)

 

しかしこの作品は、そうした現代の苦悩から「テロ」へと向かうのか、という物語文脈を誘発させながら、表現されてくるものは、アルカイック、古代的な雰囲気・印象をもたせてくる。いく子は、舞台道具として、黄色い紙で作った輪っかを鎖のようにつなげたものを、大量に用意した。それが二部屋にまたがる舞台のあちこちに運ばれ、積まれ、黄色い小山ができあがる。舞台進行は、それらを、焚火、炎、燔祭のための火、のごとく見せ始める。いく子の振りは、トランスに入るためのシャーマンの反復儀式のようである。以前のダンスでもみせた、壁から壁へとただ走ることを繰り返す姿が、近代的な自己における葛藤表現といった趣を呈していたのに、ここでは、ただ陸上競技的に走るのではなく、どこか志村けんのひげダンスのステップのごとく、そのお笑いに収斂していく意味をはぎとってただ真剣過酷な様で迫ってくる。『エンジェル アット マイ テーブル』でみせた、自分の体をただひっぱたく行為の反復も(ゲネではみられなく本番のみ)、近代社会的な自傷行為に見えていたものが、より超越的なものへと自己超脱していくためのシャーマン的行為に見えてくるのだ。ジョン・レノンの「イマジン」の曲のあとでか、仙田みつおの、あげた顔の上で両手を振って見せるお笑い芸のような振りも、その仕草のあとで、しゃがんで両足首をもってちょこまかアヒル歩きをする、ということの繰り返しが、深刻な謎として喚起されてくる。いく子のひげダンス振りスキップの間、パントマイムのさくらさんが、何かを食べる仕草を繰り返しはじめるのだが、それは、カニバリズムを想起させる。たしかまたその間、ひはるさんの、あげた両手を大地に叩く身振りは、大地をなだめるかのようである。その身振りは順番に三人によって繰り返され、最後は、いく子が、その大地パフォーマンスをやるのだが、大阪ツェラン(そのパフォーマンスのタイトルは「HOPE」だったのだが)で炸裂した怒りの身振りは、大地への祈りに変わっているのだ。

 

このいく子の祈りのような身振りが、部屋の端から端へとゆっくりと進行する間、残りの二人のダンサーによって、炎としてあった黄色い山は崩され、床へと一列一列、並べられていく。鎖が、蛇の漸進のように、あちこちで線を描きはじめるのだが、それが床を覆いはじめると、まるでその風景は、古代の遺跡のようである。私は、ナスカの地上絵を思い起こした。なんのために、何を伝えようと、こんな大きな絵を、文字を、大地に刻んだのか? その古代となった謎が、現代に迫ってくる。そして彼女たちの振りのひとつひとつが、身体という抽象性、微分された身体の動きとしてではなく、意味解読を迫る古代の象形文字のような具象性をもって重ね合わされ、振り返られてくるのだ。

 

いく子の顔は、すさまじい。その素顔自体が、いれずみを入れた古代の顔のようである。古代文字のようである。私は、この謎を、どう解けばいいのだろうか? 彼女たちの「テロ」は、どこからやってくるのだろう?

2024年3月6日水曜日

性をめぐるメモ

 


私における、ここ数年の思考の流れは、中上健次→量子論→遺伝子・細胞→LGBT(性差グラデーション)、とおおまかに追及されてきたようにおもう。そしてその一環として、古井由吉を読みかえしているときに、妻・いく子が亡くなったのだった。彼女の死と、30歳過ぎくらいからのダンス制作ノートの類のもの、24歳からの親しい友人との文通を整理したノートの類を読んでいると(18歳からの日記の類は、今のメンタル状態ではとても読めない)、その思考過程がさらに推進されていく。

 

いく子は、女はセックスで感じてるのか? と問うていた。それはジュリア・クリステヴァの『サムライたち』の読後感想としてなのだが、その著書自体は、むしろ感じているという女性の作品で、その感じに、文化・地政学的な複雑さが反映されていると洞察・認識しているように思えるものだ。しかしいく子は、それでも、感じてない女性を読んだのだろうか?

 

いく子の手紙には、「レズビアン的男性嫌悪」という言葉もでてくる。「シャイで繊細」とおもっていた男が、実は他の女性との間で子供を作っていたようで、台湾旅行のあとなどに、その幼い子を連れてアパートに押しかけてきたので、「そんな話はきいていない」と別れるようになったようである。私と結婚する数年前だ。

 

が、「感じる」とはなんだろう? 男でも、射精をするのは感じるからか、と自問してみれば、とてもそんな話ではないことがわかる。あんなものは単に生理的な現象で、物理処理でもすまされるような感じではないか。だから、と男として私は逆に推論した、性交中に女性の乳首が立ったり潮を吹いたからといって、「感じてる」ことにはならないのではないか? と。

 いく子が好きだったという小倉千加子を読みかえしてみた。

最近は何をやっているのだろうかと調べると、幼稚園の先生だ。もともと両親が幼稚園の経営者だったらしいので、引き継いだのだろうか。私も庭管理仕事で、よく公立の幼稚園の樹木手入れにいったが、50歳過ぎのベテランの園長先生は、その経験値と実践的な引き出しの多さ、落ち着きと判断の適格な速さに、驚かされてきたものだ(最近は30過ぎぐらいの女性が園長をまかされ、すぐパニックになってしまう状況もあるようだが)。小倉千加子の『セックス神話解体新書』は、その思考の根拠として提示される科学的事実に、現在からみれば修正が必要な部分がたぶんに出てくるようだが、その原則的な趣意と主張は変える必要はないだろう。しかしその初期作品のものよりも、園経営の経験を積んでから書いた『草むらにハイヒール――内から外への欲求』(いそっぷ社)での、科学的根拠なきアフォリズム断片(洞察)の方が、説得力がある。しかも男女差別状況は、以前よりもっとひどくなったままそれが自然・自明化されてきているので、母批判をしてきた彼女も、現今の若い母たちに同情せざるを得なくなっている、のがスマホで見られるインタビューでも知れる。

 

いく子は読んでいなかったが、大塚英志の『「彼女たち」の連合赤軍』も読みかえしてみた(生前、小倉千加子や大塚英志を話題にしたことがあった)。

永田洋子は、自ら(の世代)に芽生え始めた女性性、それは「ミーハー」的な現象としても現れるものであったが、それを自身にも他女性にも、容認できなかった。永田は<資本主義の「ブルジョワ性」の単純な否定によって、自由で自主的な欲求を持たず、近代的自我や女性自覚を抑圧する男(夫、父)第一の家父長的な“封建制”を受け入れる古さを持っていたことによると思う>(永田著『十六の墓標』 大塚著からの孫引き引用)と内省した。

 

<八〇年代社会を生きた女性たちが消費による自己実現に奔走した一方で、出生率の低下に端的に現れていたようにその基調には実は女性性――特に「母性」への密やかな嫌悪があった。このことは「24年組」の少女まんがにも色濃く現れている。八〇年代消費社会における「自己実現」とは「母」を巧妙に忌避し続けることで成り立っている。八〇年代の消費社会が女性たちに与えた「女性性」の輪郭は、「自己嫌悪の裏返し」と「キラキラ光り輝くもの」、の二つであった。>(大塚『「彼女たち」の連合赤軍』 文藝春秋)

 

私はこの認識に、もう少し、突っ込みをいれたい。

 

なんで彼女たち(この1960年前後に生まれた女子世代のことを、荻尾望都のまんがタイトルからとって、「イグアナの娘」たち、と呼びえるらしい。が、長女長男と次女次男以下では変わって来るとおもう)は、「自己嫌悪」や「自己実現」、つまりは、「ミーハー」になろうとしたのか? その発生はどうしてなのか?

 

社会現象としての、大塚の認識解釈は、説得力がある。がそもそも、なんでそう現象が発生したのか? 大塚は、江藤淳の「母の崩壊」という認識を前提している。社会学的には、GHQ政策による、産婆(家)での出産から病院施設での出産に転換されたことが大きい、と指摘される。がそもそも、少女まんが的な幻想の核の発生には、父権制的なるものの存在が前提とされる。そうでなければ、永田の内省は、意味をなさない。母は崩壊していても、父が健在でなければ、ありえない。

 

そういう点で、心理学から入っている小倉千加子は、その幻想の核は、反動形成なんだと認識している。

 

<抑圧されている内的人格は必ず外に出たがります。これはフロイトのいう無意識のもつ不死身の恐るべき力を連想させますが、女性のなかにあるアニムス欲求は一般的には「投影」という形で解消されます。/女性は自分のなかにある男性らしさというものを、自分が持っているのではなく身近にいる男性がもっていると勘違いするのです。あるいは男性は、身近にいる女性に男性自身のなかにある女らしさというものの影を投げかけて見てしまうのです。相手の実体とは別に、自分のなかの理想的なより純化しているものを他人に見てしまうのです。あるいは人は自分の投影を許してくれる他人を恋人にしてきたと考えられるわけです。ですから投影を断念しなければならなくなることは非常につらい体験です。これは「失恋」であったり、相手に「飽きがきた」ことを意味します。>(小倉『セックス神話解体新書』 学陽書房)

 

少女まんがの幻想の核にも、具体的な父をとおした「男らしさ」をめぐる葛藤がある。

 

が、ここで私は、もう少し、突っ込みをいれたい。

 

「飽きがきたら」男を変えられる恋愛社会とは、つまり「投影」が成立する社会とは、エマニュエル・トッドのいう核家族の関係の残存が主要な社会において、ということなのではないか? 夫婦喧嘩でさえ、文明(ユーラシア)の中心国では、成立しがたいまま、なのが現状なようである(これは柄谷行人も指摘している)。そこから推論されることとは、軍事的政権下で日本では稀な父権的な地層が強固されたが、戦後それが希薄(もとの地に戻っていくこと)になっていった過渡期として、女性的なるものの復活と葛藤が芽生え始めたのが、1960年代前後、ということだったのではないか? と。

 

いく子は、私の著作など読んだこともなかったし、私がこのブログで、夫婦喧嘩をだしに何やら書いていることは知っていたので、なおさら私の意見になど耳をかさなかった。けれど、最期になった、ひと月以上の入院中、暇なので、何か本を送ってくれ、と言ってきたので、私は、息子の勉強机にあった、村上春樹訳のサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』をおくった。そしてついでに、私の電子本『中上健次ノート』のアドレスをラインで送った。いく子の手紙を見てから気づいたこととして、サリンジャーは、彼女には特別な作家だった。私は友達からすすめられて息子が買ってみたのかな、と思ったが、そうではなく、勉強のできない落ちこぼれだろうといく子には思われた息子に、自身で買い与えたものだったのだろう。が、息子も、入院中のいく子も、それを読んだ形跡はなかった。息子は、自分が落ちこぼれなどという自意識は抱え込んでいないぐらいエリート意識は希薄なので、主人公のようなイロニーや社会反抗はない。だから、読んだとしても、何も共感できないだろう。そしていく子も、もはや、そんな斜に構えた態度は卒業していた。しかし、私の中上論は読んだ。中上の私小説性を苦手と受け入れられなかった彼女は、「私小説」がより広く理解できることを知ってはっとさせられたようだ。がそうしたこと以上に、その中上ノートで補説として書いた唯川恵著『100万回の言い訳』(新潮文庫)をめぐる私の読解に、内省を迫られたはずである。なぜなら、そこで、「ミーハー」という言葉を使ってはいないが、そうしたトレンド(ノートでは「トレンディー・ドラマ」という用語で、私はそれを「俗」としてネガティブに提示したわけだ)に、若いころの自分がいたことを、思い当たらせただろうからである(恋愛ごっこも含む)。

 

いく子の年代では、そもそも大卒女子は希少すぎる。だから高卒でも、弁護士事務所、県庁、パルコ、などに就職はできたのである。つまり、トレンディーなOL稼業のもと、「自己実現」として消費をおう歌できたのだ。(ただし、大塚が指摘しているように、実は、名前だけの格好良さで、正社員にはなれない被搾取対象者だった。いく子はそれに気づき、労働運動もしてきたのだけれど。そして30半ばを過ぎると、時代の要請するIT技術習得がなかったので、もうそんな就職口はなくなった。)

 

しかし今は、私は、そこにも、突っ込みをいれる。

 

むしろ、永田洋子の内省の方が、正しかったのではないか? と。女性の「消費」と、「ブルジョワ」とは、その社会とは、出自が、文脈(関係構造)が、違うのではないか? と。永田はだから、「消費」に結びつく女性性を、「ブルジョワ性として単純な否定」をしてはいけないと言ったのではないか? と。

 

いく子もふくめて、女性は、「消費」と「贈与」が結びついている。とにかく、こんなつまらないものを、というような品を交換しあう。私もよく、よそのお宅へもっていかされた。だからそれを、「交換A」として氏族(サムライ)社会の制度枠でいっしょくたに理解してしまうのは、間違いなのではないか? あるいは交換Cとして形式的にとらえていいのか? いく子が遺した品物の数々、「消費」されてきたモノは、そんな消費交換によるのか?

 

遺品を手に取ってみる、何を、感じるだろうか? 

 

いく子が好きだったという小倉千加子経由の読書で、森岡正博の著作を読みはじめている。彼が提出したという、「草食系男子」という言葉を知ってはいたが、それだけだった。が、男が「感じる」ってなんだ? といく子の手紙を読んで、考えさせられた。森岡正博は、まさに、そこを問題にしている。

 

<『風と木の詩』は(引用者註―竹宮恵子作。いく子の蔵書には、荻尾だけでなく、この人の自伝もある。)、女性読者にとって一種のポルノとして消費された面があると推測される。インターネットに散見される、「どきどきしながら読んだ」「隠れてこっそり読んだ」というコメントはそれを示唆している。だが、家族による暴力的な近親姦が描かれているという点を忘れてはならない。父親に性的虐待を受けたことのある男性がこれを読んだら、フラッシュバックなどの大きな心理的ダメージを受けることだろう。ペドファイル(児童性愛者)による犠牲者の多くが少年であることを考えると、父親に性的虐待を受けた男性も、相当数いると推測される。…(略)…次に、『感じない男』の著者として言わせてもらえば、このマンガの男性同性愛には、決定的な点が描かれていない。すなわち、性交の終着点で生じる「射精」が、まったく描かれていないのである。私や、私のような男たちにとって、「射精」はそれまでの性的な興奮が一気に醒め、暗く空虚な気持ちに墜落する決定的な瞬間である。いくら同性愛であれ、とくに挿入する側の男性の射精は、異性間のセックスにおける射精と同様であるはずだ。>(森岡「<私>にとって男とは何か」『思想の身体 性の巻』所収 春秋社)

 

何度も続けて性交したり、射精のあとに歌を歌いながらシャワーを浴びに行ったり、あるいは猿にマスタベーション教えると死ぬまでやってるとか……とても、私にはできるふるまいではない。二日酔いと同じで、もう二度とアルコールは飲まんぞ、と思うような感じになる。が世の中の表向きでは、その勇ましさが、いいらしい。それは左翼集団でも同様らしく、NAMにいたころ、団塊世代のメンバーが、同性愛を名乗る者に向けてか、まだ若い私たち世代に向けてかは忘れたが、「おまえ(ら)チンポコ立つのかよ!」と批判していたのを思い出す。なんともまあ、どの世もおなじこと、いやそれで「革命」だの「実践」だのと言ってたのだから、私には、意味がわからないが。

 

大塚英志は、「イグアナの娘」たち世代が(その少女まんが家たちが)、結婚して子供を産むと、それまでの「自己実現」へ向けての葛藤(問題)を捨象してしまったように、「母性」を肯定してしまった事態を「転向」として批判している。私にも、妻・いく子に関し、そう思ったことがある。彼女は、妊娠するまえかどうかは忘れてしまったが、「子供は嫌いだ」、と言っていたのである。がそれが溺愛を通り越していくような事態に変転していくと私には思われたころ、その発言はどうなっているのだ、と問うたことがあるのだが、そんなことは言っていない、という返事だった。どころか、幼稚園の先生になろうかと、試験勉強まではじめてみたのである。

しかし、やはり、子供は苦手なままだったろう。あくまで、息子を通して、その友人たちと深い絆を結んできたのである。千葉にきて、近所の幼い子供たちに、その息子媒介の態度のまま接して、子供を泣かせてしまって、その親が庭手入れのお客さんでもあったから、私に釈明みたいなことをはじめたことがある。

 

しかし、この男の論理にとっての、「飛躍(転向)」と見える過程こそ、もっと相手の文脈で考えてやらなくてはならない現実があるのだと、いく子の死を通して、私は学んだ。お互いの盲目性を理解しないことには、すれちがうばかりだ。

 

<この世が究極には楽なところであり、まずまず楽しいところであると思わなければ、女性は正気を保って生きていくことはできない。>(小倉千加子『草むらにハイヒール』)

2024年2月20日火曜日

トイレ


  横になっていた。体がほてっているのは、銭湯帰りのままいつのまにか、寝込んでしまったからなのかもしれない。ということは、体が冷えずにいたということだから、夏なのかもしれない。だけど、暑く感じているわけでもないことを思えば、春や秋なのかもしれない。時間が、ゆっくりと過ぎていた。薄暗い部屋が、上京してから住み込んだアパートだとはわかっていた。足元向うの押し入れがあいていて、暗い穴が、祠のようにひっそりとしている。よく近所の猫が、知らない間に入っていて、隠れていた。正岐の頭の向う、横にと、仰向いて眠っていた自分の顔をのぞいていた。布団をかけていたときは、胸の上にも、まるまって寝ているのもいた。もう十年近く、布団は干していない。ということは、もう学生時代のことではなく、フリーターとなって、アルバイトで生活をしていたころのことなのかもしれない。布団を干そうにも、どこに? 狭い路地道に面した窓をあけて、さびれた金網にかけてみることはできる。部屋の出入口は、その金網が切れた、路地道がT字路にあたるところにある。扉を開け放すと、銭湯や、さらにはコンクリで固められ堀の深い細長い川へとつづく商店街を抜ける路地道がくだっていて、買い物客や、川向うの高台には、大学のキャンパスもあるから、ここを抜け道として使う学生たちが、のぞいてくるかもしれない。しかし部屋は薄暗いのだから、もうじき、夜なのかもしれない。しんとしていた。押し入れの隣の、ちょっとした台所流しの窓も、破れた緑色のカーテンを暗くしていて、明るい気配がない。体が、軽くなってくる。起きようか、起きまいか、迷っていると、体が浮いた。いや、目を持った魂が抜け出たみたいに、すっと視界が上昇して、天井の高さにまでくると、見下ろしてきた。住み始めるまえから置きっぱなしの、タンスのような、勉強机がある。寝ていた頭上のあたりには、ミニコンポがある。かけっぱなしにしたままのラジオから、荘重な音楽が流れ続けていて、昭和天皇の最期を伝えていたと気づかされたこともあった。枕元の電灯の横、部屋の角には、小さな冷蔵庫がある。突き当りの、薄汚れて煤けているようになった壁。その真ん中を、引き戸がふさいでいる。視界が、その戸の方へとズームしてゆく。戸を開ければ、隣の部屋のものと共有するコンクリの土間があって、そこにスリッパを置いていたはず。右手側にまたドアがあって、トイレになっている。トイレに入れば、また、ドアがあった。それは、外の通りへと通じていた。日曜日の朝、大家さんが自転車でやってきて、外から入って、掃除をしてゆく。たまに、かちあってしまう。開けられては困るので、ドアノブをおさえて、トントンと、ノックをする。そんなときの、恐怖心のようなものが、こみあげてきた。トイレへと導くドアを、視界があけた。

 正岐は、また横になっていた。天井をみている。あの時も、天井をみていたのだとおもった。父が階段をのぼってやってきて、上京するまでは兄が使っていたこの子供部屋にはいってきた。「どうして、学校にいかないんだ?」父は聞いていきて、あの時は、狂っていたのに、もう狂っていないんだな、といぶかしがると、天井がひっくり返って、壁になった。細かい銀紙のようなものがちりばめられていて、ピカピカしているから、幼稚園児くらいの子供のころ、この二階家が増改築されるまえの、平屋建ての頃のことなのだろう。「誰も信じてくれない」正岐は、その壁の方を向いて、体を丸めて、泣いていた。二段ベッドのはしごに足をかけて、顔をだした父が、「だいじょうぶだよ、そんなことないよ」と、やさしい声をかけてきた。「誰も信じてくれない」、正岐は、泣き続けたままだった。何を信じてくれというのだろう? 次男坊だった正岐は、初めての赤ん坊として溺愛された長男と、甘やかされた末っ子の間にはさまれて、母から、邪見に扱われたことがあったのだろうか? おもちゃが欲しいって、わんわん泣いて、お店の床に大の字になって動かないんだから、大変だったのよ、と言った母はそのとき、どうしたのだろうか? 男ばかり三人兄弟のなかで、正岐は、女の子がわりとなった。いつも、母について、買い物にでかけ、ご飯を作るのを手伝った。ピアノの稽古を受けた。母も、買い物でよその奥さんに出会わしたとき、この子が女の子がわりなんですよ、と話し込んでいた。その母を、殺したのだと、正岐は思い出した。父は、もういなかった。

 ベッドのはしごを降りて、戸の方へへと向かった。ということは、父は、戸を閉めていってくれたんだな、と思い、一度は兄が鍵をとりつけてもいた引き戸を開けた。隣の畳敷きの子供部屋とをつなげる踊り場にでて、まだ弟は寝ているのだな、と思った。二人でその部屋で眠っていた時、夜中に目覚めた正岐は、寝入った弟のまぶたを無理やりあけてみた。眼球が、ぎょろぎょろと動いていた。白、黒、と繰り返された。今はそんな時ではないだろうと、正岐は、階段下を覗き込んだ。ほの明るい暗闇のなかで、階段の底には、ほの暖かい日だまりがあるようにみえる。正岐は、す~っと降りてゆく。そうだ、あの時も、こうやって、降りて行った。降りて、どこへゆこうか? 箱のような黒いピアノが、部屋の闇の底で、輝いている。もうやなんだ、ぼくは男の子だよ! 泣きながら、ピアノを弾いていた。近所の女の子と、連弾をやる。発表会。クリスマスには、とんがり帽子をかぶって、輪になったみんながプレゼントをぐるぐると渡してまわす。ぼくのは誰のものだろう? おしっこが近くなる。リビングを仕切るドアがみえる。またす~っと、その扉を開いた。この向うに、母がいるはずだ。暗い廊下。明かりはないのに、廊下の床にならんだ板の長方形が浮き出て見える。あの時も、こうして、向かったんだ。母は、まだいるだろうか? 突き当りの洗面台の鏡は、何も映していないままだった。そこを左に折れると、左側のドアがお風呂場で、右側のドアがトイレ。母は、お風呂にいるはずだ。あの時も、そうだった。す~っとまた、トイレのドアをくぐった。和式の便器の白い底に、黄色のような、茶褐色の、粘土で作ったような大きなうんちが横たわっている。「誰がしたんだよ! もう飯なんか食ってられねえよ! こんな仕事なんかやだよ!」夜勤の荷物担ぎをしていたとき、夜の食堂に入ってきた、よその組で班長をやっている若者が叫んだ。正岐はそこで、やっていいものか迷ってきた。もう深い穴は糞尿でいっぱいで、便器の下まできていた。汲み取り屋さんにはまだ頼んでいないんだな、と思いながら、前にあったタンクのレバーを引いて、水を流した。茶色く濁った水が、底の方からどっと流れてきて、便器からあふれだしてきた。それは洪水のようになって、正岐の方に迫ってきた。

 

 酔いが、まだ残っていた。後味の悪さを覚えながら、閉めた扉むこうの、トイレの水の流れる音を聞いた。もう昼近くになっているのだろう。寝床に使っている畳敷きの部屋には戻らず、隣の台所のあるリビングを過ぎて、奥の、勉強机や本棚を置いた部屋のカーテンを開けた。11階建ての団地の6階からなので、青空が大きく広がって見える。ベランダのベージュ色のペンキを塗られた鉄製の手すりの少し上だけ、駅に続くマンションや駅前の高層タワーの頂上が連なっている。何年かまえまでは、ここから富士山も大きく見えた。がいまは駅前開発でできたタワーマンションがさえぎって、その裾の部分だけが、滑り台の端のように降りているのがみえるだけ。息を深く吸って、胸のむかつきを調整してみる。この後味の悪さは、昨夜、草野球仲間たちと久しぶりに飲んだアルコールのせいだけでもなく、繰り返されるというよりは、ぶりかえされてくる夢をまた見ることになったからなのだろう。

 洪水の夢、竜巻に追いかけられる夢、熊に追われる夢、そして、トイレにあふれる大便の夢。いつから、そんな夢を繰り返すことになったのだろう? 山手線か何かの電車に乗って、ぐるぐると迷って、あげくは東京駅に近いと感覚されるいつもと同じ駅で慌てて降りて、そこから違う電車に乗り換えて、行き過ぎてしまったとまた草地が道端に生える郊外で降りて、田舎道から大通りへと出て、行き交う自動車の間を抜けて、混雑する人々の、買い物客であふれたビル街の中の路地道へと入る。そうだ、ここからならわかると、どうも池袋のサンシャインタワーへの街路を連想させる高層ビルの間を縫って、さびれた飲み街のような場所に迷い込んで、一軒の引き戸をあけると、そこが、上京してから一番最初に住んだアパートだったりするのだった。さっきの夢も、もしかして、そうやってたどり着いたのかもしれなかった。

 正岐は、台所にもどって、コーヒーをいれようと思う。それとも、カップラーメンにしておこうか。とりあえず、ヤカンに水をいれて、お湯をたくことにする。ひとりで住むには広い2LDKの物件だった。本を読むので、たまってくると、置き所がなくなってくる。寝床と書斎が一緒になってくるのも、どこか耐えられなくなっていた。本棚や、床に積み置かれた書籍のビルのような連なりは、どこか、夢のつづきのような、洪水があふれてくるイメージを呼び起こした。それでは、寝ても覚めても、同じ世界にいるみたい。世俗の、実際の世界にいることが正岐は嫌だった。その世界を成立させているそもそもの世間が、なお正岐には嫌だった。世間は、男と女でもつれあっている。なんで談合ってあるんですかね? 正岐は、植木職人の世界に入る前は、営業をやっていて、よく仕事上の話し合いの場所を設けていたという年上の職人にきいてみた。草野球も一緒にやっている彼は、「それは女が好きだからだよ」、と端的に答える。「銀座とかでよくやったな。」と、懐かし気に付け加える。

 草野球のチーム自体が、男の品定めのような場所になっていた。チームメイトの恋人なり奥さんが、年頃のまだ若い女友達をときおり連れてきて、応援にやってきた。がそれは、お見合い相手を探す一環でもあるらしいとわかってくる。そしてどうも、女の子たちは、みな正岐を指名しているらしいのだった。「いや彼は別口なんだ」と、ひそひそ声で説明しているチームメイトの声が聞こえる。ヤンキー的な若者たちが多い中で、律儀そうな正岐の姿は、目立つのかもしれない。仕事でも、自分ほどのベテランで、現場をまかされていると、接待のゴルフや酒の付き合いに巻き込まれていてもおかしくない。が正岐は別格で、いわば超然としているのだろう。みなを公平にあつかって、つるまない。作業能率が桁違いなので、不平を言ってやめられても困るからか、付き合いが悪くても、そのまま通ってきたのだった。

 もしかしたら、直希も、そういうことで独り身でいるのだろうか? 正岐は、カップラーメンにお湯をつぎながら、考え始める。中学生の時から、バレンタインデーのチョコレートをけっこうもらってたから、もてないわけじゃないだろう。むしろ、一番最初に結婚してもよい感じだったのに。いつだったか、兄の慎吾に、その件を聞いてみたことがあった。「まわりの女が尻軽で、ふしだらだから、面倒になったみたいだよ。」知ったように言われたその返事は、以外な感じがした。高卒でできる仕事につく人たちの世界は、モラル的な抑制も弱いから、そんな周りになるのかな、と思ったが、大学に進学した正岐の学生時代も、実はそういう周りだったのかな、と振り返られた。まだバブル時代だった。男の方がすぐに誰と寝たと言いふらすし、女性の態度も変わるので、それはすぐにわかるけれど、正岐には気にするどころではなかった。自分のことで、精一杯だった。どうして、母を、殺してしまったのだろう?

 草野球の応援にくる女の子たちも、いろいろな経験を積んでいるだろうけれど、ふしだらな感じはしない。男女まじった酒の席では、パンツをおろした男のペニスを、みなのまえで食いつく女の話もきく。芸能界にかかわっている若い衆もいるから、一度、ドラマや映画、コマーシャルでもいくつも起用されている女優がグランドにやってきたこともあった。いろいろ週刊誌で取り沙汰されるけれど、ふしだら、という感じを受けるということは、どういうことなのだろう? 

 しかしまだ、素人の世界のことだからマシなのかもしれない。野球仲間には、やくざ者もいた。性的にもアピールのある女性がくれば、明白なターゲットとなった。銀座のキャバレーに勤めているという若い女性がやってきた。サラリーマンの営業時代の接待で、その界隈に詳しいあの職人さんが、その勤め先の町名を聞くだけで、そこ三流じゃん、と挑発し、彼女もそれを自覚しているからか、口ごもってうつむく。やくざ者二人が、男どうしの打ち合わせを始める。後日、ひいひい言ってたよ、と酒の席で報告がはいる。3人でやったらしかった。そんな話の数日後、その男二人のうちの一人と、彼女が街を歩いているのにでくわした。男の方と目が合ったので、正岐は自転車を止めて、挨拶をした。彼は組員ではなく、ハンサムな遊び人で、娘ばかりの子供を5人くらいもった妻帯者だった。大きな目をした彼女が、ちらっとこちらを見上げた。ふたことみこと、何か彼と話して、「じゃあいきますね」と、団地の方へ自転車を走らせた。「え~っつ!」という叫びのような声が、後ろから聞こえた。その日以来、彼女は2度と、草野球の応援に来ることはなかった。

 洗脳のためのアンカーを打つように、男根を使うようだった。彼女だけではなく、他にも幾人か見てきた。目が、もうおかしくなる。中毒者になってしまうようだった。いやでいやでしょうがないのに、逃げられなくなる。その嫌な男をみると、体の芯が抜けてしまう。頭では嫌なのに、体が欲してしまって、言うことを聞かない。男の方は、それが狙いらしかった。「あなたのことは嫌いでしょうがないのに、体がだめなのよ、そう女に言わせなくてちゃだめさ」。

 正岐には、遠い世界だった。しかしその世界への嫌悪は、青春時、それ以前の世界と直面した時の嫌だな、入っていきたくないな、という感じを上書きしただけだった。高校は、県下でも一番の進学校で、男子校だった。その要領のいい官僚予備軍のような世俗社会と、やくざ者や草野球の世界でみられた世間は、直結しているというか、同じ重なりに感じられた。大学になどはいれば、なおさらだった。どこもかしこも、同じだった。気味が悪かった。もしかして、そんな感じが、あの糞尿の姿となって、夢に現れてくるのかもしれなかった。

しかし気味が悪いからといって、その当人である男や女たちを、ふしだらとは受け止められなかった。嫌なのは、その個別なことではなく、それらが織り成す相のようなもので、見えてくる印象に近いものだった。世相、という言葉もある。だから、それら個別の人々と、正岐は普通には付き合えているのだし、それを成立させているものがふしだらな素材であっても、その組み合わせ次第では、もっと違った印象を与える形になるのかもしれなかった。ただそうだとしても、正岐には、そこに参加していく意欲はわかなかった。欲望自体が、空々しかった。女性を性的な眼差しでみてみても、そう見るのが普通だからと強制されているようでいて、嘘くさかった。たぶん、自分はもっと無邪気な目で、男を、女を、世間を見ていた。がその無邪気さは、許されていない。正岐には心地よい無邪気さを守るために、青春時に止まってしまった時計をそのままにして、世界から距離を置いているのかもしれない。仕事やなんやで時間をとられるほど、正岐は独りになる時間が欲しくなった。欲しいというより、本当に、頭がおかしくなってきそうで、じっくりとクールダウンしないことには、逆に病気になってしまいそうだった。そういう意味では、参加しないのではなく、参加できないのだろう。そして参加できない自分は、「え~っつ!」と叫ぶ女の子たちに、どうしようもなかった。そして男たちも、こいつはそういう奴だとわかっていて、だから、「あいつは別格だから」と言うのだろう。ペルーの友人たちの付き合いで、六本木の夜の街のなかで、歌舞伎町のやくざな世界の中で、そうやって、自分は知り合う男たちから守られてきたような気がする。「あいつは、本当に悪い奴だからつきあうな、ほっとけ」と、正岐に話しかけてくる男をマリオたちはどけた。そしてマリオたちの店をつぶしにはいったやくざ者たちもが、正岐の前でおどおどし、手を出さなかったのは、正岐が世界から距離をもった存在であることを了解してしまったからなのかもしれなかった。一緒につるまないこと、つるめないことを自覚して、世界をいつも同じ距離から、遠くから、無邪気に、無関心に、だからこその公平な近さであることは、逆に男たちを、その世界を脅かし、暴力をおさめさせ、平和へとなだめていくようだった。

正岐は、そのことをも、自覚しているのかもしれなかった。世の仕事など、する気もなかった。まだ時間があるから、暇があるから、空いた時間があるから、やっているにすぎなかった。部屋にこもり、本を読み、考えたことを書き留めている。いつかそれを、書き得る時がやって来たら、一つの形に造りあげたい。集めた材料をくねりあわせ、組固めて、彫刻を象るように、人々の思考や夢を刷新していかせる壮大な形を目に見えるようにしたい。そうすれば、ふしだらな素材たちではあっても、世界を変えていかせる印象に、衝撃になるのではなかろうか?

 

 食卓の椅子に座って、カップラーメンをすする。昨夜の、焼き鳥屋のとんちゃんで食べたものの消化しきれていない残りが、胃の中で、また暖かいものに触れて、動き始めるような感じがする。食うことが嫌なら、食を減らせばよい、世間が嫌なら、付き合いを減らせばよい。そうやってでも、生きていかなければならない。もう五十を半ばになって、耐えていけるのだろうか? いや今まで、ここまで生きていられているのは、どうしてだろう? そっちのほうが不思議ではないか? 嫌悪、嫌悪、嫌悪……吐き気、吐き気、吐き気、…憎悪。この世界とのそんな感触が、自分の自殺をふせいできているのだろうか?

2024年2月11日日曜日

山田いく子リバイバル(11)ー2

 


「ガーベラは・と言った」の2000年黄色バージョンが、カメラ屋から、仕上がってきた。

 

2000.3.24山田いく子「ガーベラは・と言った」 (youtube.com)

 

いく子は、この私小説的な試みになってしまったソロダンスが、評価されたということに、とまどう手紙を書いていたわけだ。たしかに、ここには、まず自己分裂がある。心の奥に潜めた黄色く輝く世界、そして、表向きの、戦い、倒れ、嘆く自分、といった世界。心に仕舞いこまれて積み重なった、ひとつひとつの記憶の断片のようなものは、表の世界へと少しずつ運ばれ、整理されるかのようであるが、うまくはいかない。いく子は、ノスタルジーをかきたてる日本語の歌を背景に、うまく整理はできない断想の中を、力つきていくように、たちあがろうとしては、たおれ、ころげまわる。最後は、疲れたように、缶ビールを飲み干す。夢からさめるように、日常の世界につきもどされたように、ひとりの中年の女にかえったように、この非整理なままの世界で生きていくことしかないと覚悟をしたように。いく子はこの後、とにかく、外へ向けて、飛び出していく、そういう舞台を作っていく。

2024年2月8日木曜日

山田いく子リバイバル(補足)


いく子の、まだバレエダンス・スクール通い時代のビデオ録画がでてきたので、バックアップ。

1988年6月の、発表会の模様らしい。

1988.6「海底の幻の花」in 博品館 山田いく子バレエ時代 (youtube.com)

能登半島地震から


千葉の造園家の、高田宏臣さんが、能登の地震現場から、問題提起をしている。

私は、ズームでの支援会議に参加することしかできないが、幅広い人に通知してほしいということなので、このブログでも、そのYouTubeにアップされた討議の録画にリンクをはっておこう。

(3) 令和6年能登半島地震 被災地調査報告と災害復旧を考える 地球守ラジオ - YouTube


そのズーム会議をする前の当日早朝になるのか、大竹まことのラジオ番組で、中島岳志が、その高田さんの論点の要旨を解説している。

‎大竹紳士交遊録 - 大竹まことゴールデンラジオ!:Apple Podcast内の2024年1月23日 中島岳志(コメンテーター)


現代のコンクリートで地中を根切り固めていくという技術が、本来液状化などおこらない場所にも、被害を発生させ、拡大している、という話。

風水、という言葉があり、今年の干支にちなめば、竜神、ということになるのだろうか。その通り道をふさいだら、大変になるということだろう。

生活クラブの映画会でも、「原発をとめた裁判長」というのをみてきたけれど、現代の科学技術の浅はかさは、こわいものである。しかしその生活に埋没している私たちが、その本当のところに気づいて、改めていくのは、これまた大変だろうが、鯰も龍も、そんな猶予もあたえず、人には理不尽とおもわれる大暴れをするのだろうから、こちらも気づかないうちに、対応をしていくことになるのだろう。もちろんそこで生き残っていく対応が、今の科学技術の延長のものになるとは、私には、とても思えないが。

2024年2月6日火曜日

山田いく子リバイバル(14)


(1)2002年3月3日 「トランスアヴァンギャルド」山田GO子&菅原正樹 カフェスロー

 NAMの地域通貨プロジェクトであった、Qイベントでの一幕。辻信一やナマケモノ倶楽部が運営協力していた国分寺のカフェスローでおこなった。

 2002.3.13「トランスアバンギャルド」山田GO子&菅原正樹 カフェスロー (youtube.com)

     音声はVHSが古いからか、録音されていない。

・いく子は、芸名を、「いくこ」から「GO子」と表記変更している。おそらく、彼女の反応には、意識などしていないだろうが、正当な反射神経があったとおもう。

いく子は、ピナ・バウシュに傾倒していた。97年には、香港にまで行って、その公演をみている。いく子のノートには、1995年『ユリイカ』「ピナ・バウシュの世界」特集号のなかの、渡辺守章・浅田彰・石光奏夫による対談「ピナ・バウシュの強度」がはさまれている。いく子が傍線を引いていたところではないが、私は、いく子は、私との出会いで、次のような浅田彰の発言に対応するような応答をみせたのだ。

 

<浅田 (略)ここでとつぜん関西人として断言すると、ぼくは吉本が分からなければピナ・バウシュは分からないと思う――もちろん吉本隆明じゃなくて吉本興業のほうですよ(笑)>

 

いく子は、私との関係のなかに、自分だけでは引けない線を見つけ出したが、それは、「ギャグ」だったのだ。このカフェスローの公演で、コントラバスを引いている方は、たしかタチバナさんと言って、すでに著名な方だったと記憶する。机の上にのぼったいく子は、自らギャクを演じるように、後ろからマジでひっくり返る。最後私がいく子をみあげて、笑いながら何か言っているが、机がぐらぐらして字が読めないよ、と言ったのだとおもう。私たちの次は、学生系の代表をする関本さんが、ギターをもっての引き語りだ。このイベントを主催した蛭田さんからは、なんでこんなことをやるんだ、と顰蹙を買ったが。しかし、「切断」倫理=身振りのやり合いで解散へと突入していく線しかなかったような上世代のなかで(柄谷自身はギャグを意識していたと私には思えたが)、実質的な中心であったろう私と同じ当時30代前後の世代には、「ギャグ」モラルがあった。両者の中間世代にあたるいく子は、その後の付き合いからしても、熊野大学経由の世代よりも、一回り若い世代に呼応している(葬儀には、当時10代ではなかったかと思う関口くんがかけつけてくれた)。頭の中で思想内容をくるくる「転回」させるより、自らの身体の扱いを変化させるほうを選んだのだ。そこには、アーティストとしての、彼女の感性の発揮があっただろう。結婚後、夫婦喧嘩の最中に、いく子がよく私に言い返した文句は、「あなた見てると、(マンガの)こち亀の両さん思い出す。ほんとにそっくり!」 私は、今でも「両さん」であるだろう。植木屋として独立したそのチラシ広告に、「千葉市は都町の植木屋さん」と表記したが、東京の感覚でなら、「大手町の植木屋さん」と言った時のニュアンスが、千葉市の中央区近辺ではつく。しかしソクラテスも、両さん、ひとつのギャクだったはずである。哲学的には無知の知のイロニーとして形式化されるが、実際には、街で見かけられたソクラテスは、笑い者であったろうし、そこに、ソクラテスの根源的な政治性があっただろう。

 

     いく子に関わることとして、また浅田彰の発言を追記しておく。――<彼女自身、「あれはベルリンの壁の崩壊と重ねて読まれるから、しばらくやりたくない」と言っていた。それくらい無関係なものなんです。とにかく、壁が倒れた後のゴミだらけの廃墟の空間で、身体がいかに残酷にして甘味な自由を生きられるかということだけが問題なんです。/しかしまた、ベルリンの壁が崩れることではなく、それこそが本当の<政治>なんだとも言える。人々が身体的なレヴェルでどういうふうに動いているか。カンパニーの中でも、一応コレオグラファーである自分とパフォーマーたちとの身体を通じた関係こそが<政治>なんで、それ以外の政治というのはないと思うね。>

 

(2)2002421日 「トランスアヴァンギャルド 野蛮ギャルドの巻」山田GO子&菅原正樹 ギャラリーシエスタ

 

2002.4.21「トランスアバンギャルド 野蛮ギャルドの巻」山田GO子&菅原正樹 ギャラリーシエスタ - YouTube

 

・まるでいく子は、ノラ猫である。よくブロック塀の上に座りこんで、じっと通行人を見ているネコに出会わすが、そんな感じであろうか。私は、まったく覚えていないが、最後、二人で、私が読んでいたコピーをとりあうようになった、その時のイメージは残っている。がまるで、他人をみるようである。タイトルに、なんかとの<巻>までついている。

 

(3)2003年6月29日 「トランスアヴァンギャルド 愛についての巻」 ダンスパスにて

 

・録画もあるが、割愛する。この年の4月に、私たちは役所にいって籍を入れた。NAMは2002年の末から2003年にかけて、解散手続きに入り、解散している。

 

(4)2003年9月15日 「トランスアヴァンギャルド 希望の変」 ダンスパスにて

 

2003.9.15「トランスアバンギャルド 希望の変」山田GO子&菅原正樹 (youtube.com)

 

・肩の力が抜けて、幸せそうに踊るいく子。幸せのあまり、泣いてしまったのだろう。私は、まったく覚えていない。出産一月前の公演である。カメラ手前で赤いスボンをはいて腰かけている観客は、摂津さんだ。

 

このダンスパスを運営する長谷川六さんにはじめてあったとき(六さんも去年亡くなった。その姿が映像で伺える)、私はいきなり言われたものだ。「なんでこんな女と結婚したの?」「波長があったんだとおもいます」「すぐ離婚するよ。」――いく子は、NAMの運動の高揚のなかで、仕事をやめていた。組織が解散し、メンタリティー的な拠りどころも、なくしてしまった。彼女は、またもやのどん底のなか、ほんとうに「保険のおばさん」をやりはじめた。私のところへも、自動車保険の話にきた。たぶんそのとき、この女性のことが、本当に心配になってきた覚えがある。いく子が13歳でなら、私は16歳で、人生の時計はストップした感覚があったので、感情的な想いは遠くなってしまうのだが、だいじょうぶなのかな、と言葉では思わなかったが、そう感覚が発生していた気がする。そしておそらく、この年の春先だろう、切羽詰まったように取り乱した電話が突然かかってきた。私を非難しているようにも聞こえたろうか。そんな話というか、聞き役のなかで、私が突然言ったのだ、「結婚すればいいんじゃないの?」 いく子は絶句し、また何かわあわあ言っていたと思う。がたぶん翌日にも、東中野の私のアパートにやってきて、一緒に暮らしはじめた。私が日給で生きる、日雇いみたいな者だったので、「二人で、マンションの住み込みの管理人でもやりましょうよ。」とも言われたが、当時すでに年収500万くらいは稼いでいたから、この大家さんの敷地にある、家賃の安い長屋住まいみたいなところにいるぶんには、別段いく子が働かなくてもだいじょうぶだった。そこに、京都から、コンピューター系に所属し、京都事務局も手伝っていた渡辺さんがやってきて、しばらく三人で暮らしもした。岡崎乾二郎の軽井沢での展示会を見に行く前日なのか、NAMセンターの事務局長をやった倉数さんや摂津さんも、一晩とまっていったことがあるような気もするが、もう記憶も曖昧だ。いく子と私は、つきあいはじめて半年もたたず、たぶんダンスの公演を何度かみにいったことしかなかったとおもうが、結婚したのだ。そしてその後で、もう何年もたってからだが、あの突然の電話で泣きついてきたのは、彼女は自分が妊娠したことに気づいたからなのだと気づいた。いく子は45歳になっていた(私は年齢も気にしてなかったので、知らなかったけれど)。

 

いく子にとって、私は、小柄谷として現れたことだろう。10歳近く年下の私は、彼女の幻想の核である、同性愛に通じる少年愛的な慰撫を壊すものではなかった、同時に、自分よりかは知的な蓄積のある私を、畏怖すべき父としての像ともみることができただろう。しかし結婚すれば、そんな幻想は崩れる。「違う!」と、まるで中上の「秋幸」のように、畳の上に座りこんだいく子が見上げて言ったその抑揚と顔を、私は思い出すことができる。が、その違いの中でも、リアルな性愛は成立する。そして子供が親離れし、私たちがいっそうの歳を経れば、いたわりあいのようなものに移行する。大西巨人は、歳とともに性愛はよくなっていくこともあるのではないかと、エセーに綴ったが、理想的なものとはほど遠くとも、そのような成り行きを私たちも歩んだような気もする。亡くなる十日ほどまえだろうか、心内膜炎で一月半もの入院をやっと終えてまだ半月しかたっていないとき、私はシグナルというか、気配を感じた。それから数日後の朝方、私は、いく子の布団に潜り込んだ。もう定番なように、髪をなで、おでこに長いキスをするところからはじめる。いく子は、ぐったりとした。胸に張りが出てきて乳首が立ってくるのとは逆に、蛸のような軟体状態だった。今からおもえば、もしかして、彼女は、失神していたかのかもしれない。

 

息子が生まれ、体が落ち着いてから、いく子はダンス活動を再開した。最後のものが、葬儀の時に流した「あいさつ」とタイトルされたものである。おそらく、この三部構成は、私小説的な文脈にあるものではない。あの佐賀町のソーホーでの、ホロコーストでバラバラになって崩れ落ちていった個人の、その後の世界の立て直しへの模索として、反応したのではないかと思う。「友達屋~、ともだちはいらんか~」と叫び、狂ったように笑い歩く終幕は、苦渋にみちている。しかしそれが、次の世界へむけての、「あいさつ」だったのだろう。

 

いく子のたどった軌跡は、彼女に特有のものというより、女性一般が追い込まれる現実であるようにも思う。男は、ドロップアウトできる、しかし女性は、はじめからアウトな位置にいたら、そこに入っていく努力を強いられる。息子が小学四年になって、ちょうど東中野の長屋アパートから、公営団地に移ったころから、子供への教育過程で、虐待に近いところまでいった。もう手がかからなくなったのだから、もっと自分のこと、踊ればいいのに、と私は思った。「あのさ、もしピースってアートしているオノ・ヨーコが息子をぶん殴っていたら、そのアートは嘘だよね?」と言う私の言葉に、いく子は、「わからない」と首を振った。当初は、わかりたくないという否認の身振りなのかな、と思ったが、その心底わからないという表情が、記憶に刻まれて、私は、ずっと考えていた。そして、彼女の最期をみとることになったとき、私は、葬儀の喪主の挨拶でも述べたように、自分が間違っているとの認識がやってきた。ピースと虐待は矛盾しない、それを矛盾とするのは、男の論理を成立させる公理系でであって、たぶん、それを矛盾とさせない別の公理系が存在するのだ。その公理の現実性を理解できないと、いつまでたっても、男の論理で戦争を繰り返すのだろうな、と。

 

もしかして、古井由吉は、その公理系を手繰ろうとしていたのかもしれない。

 

いく子が、私に残してくれた宿題は、まだまだあるだろう。がとりあえず、山田いく子リバイバルとされたこの覚え書きは、ここで終える。

2024年2月4日日曜日

山田いく子リバイバル(13)

 


(1)2001年2月15日 「(エハラ版)くるみ割り人形」)に出演。

 

・ネズミ役。一定の役割や性格をもたされることに抵抗している。これが、もう江原公演にでるのは最後だと手紙に書いたりしているが、次の、もう一公演参加することになる。ネズミは一匹なので、ソロ役にも近い。堂々とした、ドブネズミ、である。


※ この前年2000年冬に、すでに紹介した「小ダンスだより 冬」を催した。

(2)2001年3月17日  大阪スタジオパフォーマンス

 

2001.3.17山田いく子「ツェラン」(仮題)大阪スタジオ (youtube.com)

 

NAMの創立場所となった大阪スペースAKと関係しているのかはわからない。すでに前年11月に柄谷行人の『NAM原理』は太田出版からでており、東京のほうでもすでに活動ははじまっていたろう。いく子は大阪で活動するダンスグループの誘いにのって、このパウル・ツェランの詩朗読の声をバックにしたダンスを作ったと思われる。

 

織の中のライオンのように、客の前をいったりきたりするのが印象的だ。

 

(3)2001年7月29日 「小ダンスだより 夏」を、仲間とともに、たぶん、銀座の画廊を使ってなのではないかとおもうが、各ソロ舞台の小さな公演を催している。

 

2001.7.29山田いく子「小ダンスだより 夏」spacis33 (youtube.com)

 

(4)2002年2月16日 「(エハラ版)ピカソ考」に出演

 

・これが、江原組での、最後の共演となった。私は、この舞台を、客席でみた覚えがある。いく子とのつきあいがはじまっていたわけではない(それは、解散してからだったろう)。たぶん、NAM東京ではすでに知り合って、見に来てくれ、と言われたのだろう。客席まで案内された記憶がある。

 

そしてこの舞台からひと月もたたない3月3日、東京国分寺はカフェスローでの地域通貨イベントにおいて、私といく子の初めての共演がおこなわれた。

 

このような人生と思想的な軌跡を背景にした女性の前に、私はどんな意味をもって、あらわれたのだろうか?

 

     なお、手元の記録には残っていない舞台もあるようである。二人で作ったジオシティーズのHPでの、いく子紹介ページにて、2000年6月に「スーラ」を、なんらかの発表会で、振り付けを踊る、とある。また2001年10月には、「青空」、という自分の舞台を作っている。「ここに、立つほかありません」、といく子は紹介文を書きつけている。

2024年2月3日土曜日

山田いく子リバイバル(12)

 


200092日 「事件、あるいは出来事」 佐賀町エキシビットスペースにて公演。

 

2000.9.2山田いく子「事件、あるいは出来事」佐賀町エキシビットスペース (youtube.com)

 

徳島県での酒倉公演と同じタイトルものを、大幅にコンセプトを改変し、江原先生以下仲間6人とともに舞台を作っている。一時間二十分を超える大作である。

 

徳島での舞台が、どこかシンボリックな有機的な統合を感じさせるなら、これはアレゴリックな無機質性で分散されている、といえるだろうか。おそらく、そこの場所の差異を、いく子は感じ取って、反応したのではないかと思われる。

 

東京江東区の場所は、ソーホーと呼ばれるところ、いわば、倉庫あとを再利用したものなのであろうか。地方の酒倉と東京の倉庫、その空間の質が、いく子の想像力と構想力を呼びおこした。そしてこの東京での「事件、あるいは出来事」は、想起的であると同時に、予感的である。

 

冒頭、窓辺に1人の女性が、窓の外を見ながら立ち尽くしている。(いく子ではない。)

いく子の日記のような友人へあてた手紙などを読んできている者としては、この窓辺の風景は、いく子がメンタル的な危機を発症させた‘91年、トルコヘ、ニューヨークへと飛び立った当時の心境と重ねあわさざるをえない。いく子は、ニューヨークから書き送る。

 

<何をさがしているの?

ジムジャームッシュが好き 大竹伸郎が好き(NYにこのあいだまで住んでいたはず)。スティングのEnglish in NY。それから……

そんなもん 1週間で 見つかるわけないのにね。

美術館のこと。メトロポリタン美術館より、近代美術館MOMAがいい。すごくいいコレクション。アメリカは19C以降のコレクションにはすぐれています。同封の写真はマチスの絵。タイトルは読んでない。

タイトルは「窓の見える窓」。今年の発表会の私の作品名。

窓の外には車のうずがみえ、人の往来が見える。窓の外にはたぶん出会いがあり、出来事がおこっている。なのに、私には 何も おこらない。>’91.9.24

 

しかしこの危機のほぼ10年後、「出来事」は起こっていた。いく子は、江原先生からか、「単独リサイタル」をやるべきとすすめられている。慕ってくる仲間もいる。だけど、一公演100万円はかかるのだ。いく子の預金の流れをみれば、30万くらいの間をいったりきたりしていて、綱渡り人生である。自分には客はつく。だけどそれは、「保険のおばさん」のようになって、友人や知り合いに声をかけ、チラシを配り、公演後はお礼の電話をかけてきたからだ。知り合いからお金をとってやることは、いいことなのか、と疑問に感じ始めていた。この40歳を過ぎて起きた出会い、事件、出来事を、どうしていったらいいのか?

 

いく子は、窓の外を見る女性に、もはや少女ではない、いい歳をむかえた女性の目を通して、まだ若い頃の、どん底の連続な人生、自分の人生のピークは13歳までであり、それ以降は、文字どおり嵐に見舞われてゆくような軌跡をたどった、人前ではニコニコして弱みを決して見せない「強い姉」を演じていても、その内側は、ぼろぼろだった、拒食症で死んでゆくのだろうとも書きつける。そんな自分は、これから、どこへ行けばよいのか?

 

しかし、彼女が「窓の外」に透視したものは、そんな私小説的な「こと」ではなかった。いく子は、この大きな窓の連なる倉庫あとの空間に、人類の苦難を、ホロコーストを、全体主義を、官僚の世界を、そしてその世界の崩壊とともにズタズタにされて孤立してゆく、人間の世界を見てしまったのだ。

 

ドイツ語の抑揚に似た音声が流れる。まるで、栄養失調でやっと歩けるような男がゆっくりと現れてくる。どこか、ジャコメッティの彫刻「歩く人」を想起させる。三々五々集められた人々が、意味のわからぬまま動く。かとおもうと、集合し、整列し、軍隊のように走りはじめる。ソーホーの空間は、カフカの「審判」のような様を呈してくる。ドイツ語のような抑揚は、フランス語の音声に変わり、恋人との関係や日常生活での風景を前景化させてゆく。女たちが、まるでキャバレーでのように、お客を挑発する。がそんな日常がすすめば進むほど、一人一人が、自己に閉じた世界へと追い込まれてゆく。最初は、ポスター大の紙を、どう工夫すれば遊べるかのような楽しいものだった。しかしそんな個々人の創意工夫で案出されたモナドな世界は、その黒い枠の中へと一人一人を閉じ込めてゆく。もう、この黒い境界から、足を踏み出すことは許されない。この狭い領分から世界とつながり、自由を享受していかねばらない。しかし、そんな世界からも、ひとり、もうひとりと、暗い穴へと落ちてゆく。残された男女は、まるでホロコーストの生き残りのように、自らがこもった黒い狭隘な領分の中へとゆっくり、崩れ落ちてゆく。そして、闇が、やってくる。……

 

これが、いく子の到達したダンスの地点である。もう、未来はなかった。江原先生の公演も、次のもので最後になるだろうと友達に書き送っている。そして、彼女の手紙も、そこで終わる。世界は、インターネットの世界に入っていた。手書きではなく、キーボードからのメール交換へと、いく子も移行したのだろう。そして交換の相手は、もはやダンスの世界の者たちが主要ではなくなっていったろう。いく子は、大阪におもむく。大阪では、NAM創立へ向けての準備がすすめられはじめていたのかもしれない。彼女は大阪のスタジオで、パウル・ツェランの声を導入し、たった一人で立ち、あのあげた両手を大地に叩きつけるパフォーマンスを炸裂させる。

2024年2月2日金曜日

山田いく子リバイバル(11)

 


2000年3月 「ガーベラは・と言った」(黄色バージョン、と呼んでおく。)を発表。

 2000.3.24山田いく子「ガーベラは・と言った」 (youtube.com)

・VHSビデオを、カメラ屋にだしてデジタルデータ化をしてみたもの。DVDでみると、ノイズも除去されちて、けっこう、きれいに復元されている。が、また、著作権にひっかるかもしれない。

 

深谷正子先生の92年公演で発表したものを、改変し、ソロ演出でリバイバルしたものとなる。満身創痍なように、包帯のようなものをいくつも両脚に巻いてつま先で立ち尽くす演技ではじまるこの舞台で、いく子は何を、訴えたかったのだろう?

 

この「発表会」をめぐり、手紙がある。全文、引用する。

 

2000/6/30 <発表会は終わり、行くことあたわずの案内です。

3月のソロダンスの前から、先生から楽しみですね、と言われておりました。それは発表会は鍛えるゾと申し渡されていたのです。

テクニックのチェックだと。それはなるほどという教育指導で、私のこの時期に必要なものであることも納得できますし、ともかく来る日も来る日もテクニックと言われて練習したのでございますよ。江原は練習の好きな人で、それに裏付けられないものには怒って対応する。おかしいくらい。私はこれを全面的に首肯するわけではありませんが、それもよいと思います。少なくとも合理的です。

 

3月の舞台は当てましたよ。

そしてよいと言われたことで、方向修正がなされることになったことを話そうと思う。

自分なんか探究したってしょうがないというのが、私のソロダンスのみきわめでした。次の可能性としては柄谷行人「可能なるコミュニズム」を舞台において終わっています。そう気どったわけです。

ソロダンスが誰にも頼らず一人でやるというだけの意味なら、グループダンスより圧倒的に楽だ。一人でやれるかどうかには、多少のボーダーラインはあるけれどたいしたレベルの問題じゃない。それがクリアできれば、一人でやった方が楽。人との接触が段ちがいに少ないですから。人と争わずにすみますし、アツレキもケンカもない。

ケンカが好きなわけじゃないですが、それじゃあんまり簡単で予想がついちゃう。面白くないと思うわけです。何が起こるかわからないから、面白いと考えるわけです。

 

ソロダンスはやれた。そこには探究すべきことが少ないと思った。だからもうこの方法はとらない。

が、ガーベラは良いと言われたのです。

私はソロダンスが嫌いです。がいくつか波紋がありました。

私のことを踊ること。私小説的方法は嫌いだし、消したいんだ。だからソロダンスが嫌いなのだけど、これはソロダンスであるかどうかの問題ではないのかもしれません。

私はやみくもにやってきたら「私」を踊っていたのであるけれど、私なんか嫌いなんだということで、グループダンスまたは振付をするなど人を通せば私小説的傾向はカン和されるのではないか。が私は「私」に戻らなければならないことを要請されていたと思う。

洗練された美しく調和のとれた完璧な世界には居場所がなかったどころか、そこをのぞき見たことさえ友人たちは沈黙する。しょうがない。汗と涙と汚濁の中に立って全世界を敵にまわして闘ってやる。

またブーイングを出し、いやだわからないと言われるものをやらなければならない。私の友人=天使のためにと。(デモコレが最後。コレデ終ワリト思ッタンダ。)

 

ガーベラは、わからないとは言われなかったのです。

 

私小説的方法。

中上健次「化粧」(講談社学芸文庫)の後書きに柄谷行人が書いてます。

  中上健次がリアリズム的な設定を捨てないことに注目すべき

中上健次は苦手なんだ。何が苦手かを言い当てられず私はつき合うはめになり、大阪アソシエに行く。旅行であり、大阪であり、そうでもしないと勉強しない私だからです。

私小説的方法、これでいいのだなと思う。現象学的還元。

 

「事件、あるいは出来事」

92日(土)。佐賀町エキスビットスペース(江東区のソーホー)で東京バーションの再演をかけます。

 

柄谷行人「倫理21」

カント的タイトル。この人は何故この本を書いたのだろうと思う。どん臭い。

これについてはインタビューがありますので、おってメイルします。

柄谷さんと沼先生(註―若い頃教わった法律の先生)はまったくよく似てると思います。原理的→柄谷使用 理念的→沼使用

自由について書かれています   >

2024年2月1日木曜日

山田いく子リバイバル(10)

 


1999911日 江原朋子「孫悟空(エハラ版)」シアターX に出演している。

 

そして、

 

1999116日 <ダンス in 酒蔵 「事件、あるいは出来事」>を発表する。

 

(2) 1999.11.6 山田いく子ダンスin酒蔵「事件、あるいは出来事」 - YouTube

 

これは、いく子自身が、徳島県で暮らす友人のもとで、その協力のもと、企画プロデュースし、実現させたものである。江原先生をはじめ、総勢9人での、大舞台である。一時間を超える大作になる。公演は、大成功だったのではないか、と、動画をみるかぎり想像する。これも、私には、奇蹟的な公演のように見える。まさに、「出来事」だ。

※ 音楽は、音楽界の前衛として活躍している千野秀一の即興のようである。江原先生の音楽も担当していたが、いく子のダンスをみて、自らかって出てくれたのである。

 

が、1年あまりはかけて構想されたこの企画は、一筋縄ではいかなかった。同時に、いく子の、なんで自分がダンスをするのか、という“政治性”が、この企画議論の過程で、よりいく子自身に意識化されることにもなっていったように思われる。

 

いく子は、まずひとつはそれを、個が気兼ねなく存在しえる「東京」と、根回しが必要な「田舎」、という言葉で表明する。「田舎」といっても差別の意図なんかではないのだ、と釈明しながら。都市と地方、とも言い換えている。そして、自分には、そうした「気をつかう」ことはできないのだと。そしてそれは、自分の性格の問題ではあるけれど、それでは済まない問題なのだと、そこの曖昧さに彼女はこだわり、葛藤し、公演の三カ月前でも、やめるというのならやめてもいい、と腹を決めている。

 

この問題は、いく子にあって、そのまま、生徒と先生、稽古と舞台の現場での闘争に直結している。そして、彼女が考える「ダンス」の技術、「ダンス」への志向、思想と重なっている。彼女は、先生であっても妥協しない。上手い下手が問題とされる技術を前提とするところにダンスはない、ならば、先生と生徒とのヒエラルキーがなんで成立するのか、あるのは、個と個の関係性であり、身体という現場であり、そこをどうするのか、を考えて実践していくのが「ダンス」なのだ、というのが、いく子の言いたいことであったろう。だから、徳島の友だちから、「気をつかう」のがいやならソロでいいのではないのか、と提案があったようである。それに、いく子は答える。

 

<一人でもやる。その決意はできた。でも思うんだ。私が踊る理由って。私がみて欲しいものは、私の持ちえるもの、もちえたこと(この「こと」は傍点で強調されている。おそらく、これがタイトルの由来であろう。)、人との関係。>

 

いく子はこの頃、参加していた伊藤キムというダンサーのワークショップに出入り禁止を食らったり、地元の県立美術館の学芸員と解説や批評という問題をめぐっていざこざをおこしたりしている。自身のダンスの評判は、賛否がわかれながらも、江原先生をはじめ、いく子のダンスなら参加してもいい、参加したいというダンサーたちの声も集りはじめている。が、その調子に乗ればのるほど、ハイな緊張になればなるほど、彼女は孤立していっているようにみえる。

 

この頃、中上健次の熊野大学で知り合った、柄谷行人のNAMの創生に関わるコアなメンバーとの関係もより密になりはじめている。その一人から、パソコンを買え、メールを使え、とすすめられている。彼女と友人との文通も、メールを介在したものもでてきたようである。いく子はもしかして、自分が、自分のダンスに近づくために、関係を作り「こと」を起こして来たダンス界から離れ、違った逃走=闘争線を引きはじめることを、予感していたかもしれない。いく子はこの時点ですでに、柄谷の「可能なるコミュニズム」を読み、それは自分がすでにダンスの現場で、実践してきたものだ、と認識している。

 

いく子にとって、柄谷行人という記号は、特別なものになりつつあった。友人に誘われてはじめて熊野大学に参加したとき、そこで柄谷の涙をみ、そこに「軟弱な」少年の姿を投影したが、その日の質問で、中上には熊野があったが自分の千葉には何もない、歴史がない、と中上の地元へのこだわりと自分との差異のようなものをふまえて発言した。彼女はよほど緊張したようで、何いったかが思い出せないんだ、と当時の手紙に書いている。「関係ありません」と、冷たく突き放された柄谷の返事だけは、明確に記憶されながら。つまり、いく子はこの時、「少年」とは別の、超越的な畏怖を喚起させる父性的位相としても、柄谷の像を作っていたことだろう。

 

柄谷は、個と個の「関係」を、「身体」と呼ぶことはない。それを、「交通」なり、「交換」と呼ぶ。『批評空間』から、「身体論」を説く市川浩を遠ざけもするようになるだろう。いく子は、柄谷の次なる代表をくじ引きで選出するさい、執拗にその方策に反対し、柄谷が代表にとどまるべきだと言い張った。(これは、NAM解散への伏線となる。)しかしそれは、柄谷への心理的投影の問題ばかりではない。彼女のダンス実践からくる経験値からだったと、考えられる。彼女にとって、そもそも「代表」なるものは、大き目の個、でしかありえなかった。しかしだからこそ、彼女には小さ目の個としてみえるものには我慢できなかった。なぜなら、衝突の度合いが、組織の、関係の力が弱くなるからである。いく子にとって、NAMにおける「代表制」は、個と個との衝突の場として志向=思考されているのである。つまり、それこそが、いく子の、ダンスの現場だったのである。

 

いく子は、その現場へ向けて、自分を破綻させていくことになるその思想の現場へ向けて、さらなる舞台を提出していく。

2024年1月31日水曜日

山田いく子リバイバル(9)

 


1993.9.21 <「クリステヴァ サムライたち」に目を通しながら、フランス思想界の特徴的な雰囲気が鼻につき(それは読みとばし)ながらも、女の人がこんな風にフィジカルに性を話してくれればって思ってた。愛や気持ちじゃなく、女の人が女の人をフィジカルに語っているのって少ないと思う。女の人ってSEXを感じてるのかな。>

 

(1)1998421日 「バレエモダンダンス スプリングコンサート」 ティアラこうとう大ホール

 ・「練習問題」に出演。群舞。

・「逃走する」に出演……おそらく、この仲間4人との演舞のタイトルと振付は、いく子が、浅田彰の『逃走論』を読んでの影響で、制作したものなのだろう。

 1998.8.4 山田いく子他「逃走する」バレエモダンダンス スプリングコンサート ティアラこうとう大ホール (youtube.com)

 ・「月下の円舞」。群舞に出演。

 

(2)1998124日 江原朋子「ガリヴァ旅行記」に出演。

 1998.12.4江原朋子「ガリヴァー旅行記」より抜粋 (youtube.com)

      この公演の、江原先生単独での演舞を抜粋する。にこやかな少女の仮面の裏に、どんな本心、苦渋で女性たちが生きているのか、あからさまに告発してくるような構成である。

 

(3)19994月 江原朋子「WELCOME TO TRICKSTER」に出演。前回ブログで言及した四人の舞台。

 1999.4江原朋子他「WELCOME TO TRICKSTER」 (youtube.com)

 追記;この作品は、いく子の制作であるとわかった。いくつもの演舞を紹介する公演のなかでのものなので、ある意味安定したものになったのだろう。この頃から、江原先生から、「単独リサイタル」を試みるべきだと言われたり、先生の音楽担当の方が、いく子のための音源の相談に自らのりはじめている。


江原先生にとっては、珍しいと思われる、抽象性を志向した作品である。が、椅子4つを、平行に並べる、という冒頭や、ダンサーの配置などにも、壊していくことを配慮する、安定的な秩序が志向されている。おそらくこの場所は、長谷川六さんが主宰していたダンスパス会場なのだが、それでも、無意識なものとして抑制がきく。観客を呼ばなくてならない、会場を埋めなくてはならない、自分を見に来てくれる常連の客の期待を裏切るわけにはいかない、といった、大会場の規範からは解放される条件だとしても、歴史の切れ目や断層に逃走線を引くという思想は、あらわれないのだ。それは、いい悪いの問題ではない。ひとつの時代と、もうひとつの時代がぶつかりだした。先生は、いく子や、ほかの若い世代の生徒との間で、感づいていたこととおもう。

 が、新しい時代と意識に引き裂かれ始めた自分たちが生き延びていくための逃走(闘争)線の引き方は、いく子のような、内省的な批評意識から認識されてくる、外へと出ていこうとする態度や思想ばかりではない、ということを、この江原先生の「WELCOME TO TRICKSTER」が、示唆というか、露呈してしまった。もしかして、このタイトル自体が、先生が、自分とは違う可能性で動き出した、若いダンサーたちへむけて、「WELCOME」、と言ったのかもしれない。

いく子も出演してるようだが、私が「ようだ」とためらわずにはいられないくらい、与えられた振付や枠の中では、彼女の存在感は消される。

が、そんな枠の中でも、それを突き破っていけるということを突き付けたダンサーがいたのだ。いく子の、性格が正反対なのに、大の友人であるのだろう、「ひはる」さんである。マチネ(昼)の部では、まだお客の入りがないからか、集中力は発揮されなかったのだろう。が、夜の、ソワレというのか、の舞台では、江原先生をこえて、舞台を占拠してしまった。おそらく、カメラマンも、その演舞の迫力に引き込まれて、主役が先生ではなく、この生徒であることと思い直してしまったのかのように、その姿を追い始めた。

 いく子が、飛び出していく思想だとしたら、ひはるさんは、飛び抜けていく思想、になるのであろう。いわば、群れから飛び抜けた技術と才能をもっているのだが、それは、振付の熟練の披露というのにはとどまらない射程で突き抜けるのだ。

 私は、いく子のダンスは、自分の教養枠で把握することができる。が、ひはるさんのは、なお把握していくための言語を知らない。比喩的にいえば、巫女的、ということになるが、その言葉の含意が、集団憑依や、無意識的な世界の露呈ということであるならば、彼女の技術は正反対のものであるだろう。相当、理性的に統制されている。イチローの、バットさばきのようなものに近い。ボールのちょっとした変化に瞬時にこちらの引き出しの中からそれに対応できるものを引き出し改変し、応答する。イチローはそうやって、そのままならセンターライナーになるからと、ポテンヒットへと、ボールを芯ではなくグリップに近いほうに打点をずらして対処していく。ひはるさんのも、そういうことを、まわりのダンサーや場の雰囲気、力のみなぎりの流れ、エネルギーの気流を計算的に読み込みながら、その場に連動し、さらに、より気力がみなぎりその効果が発揮されるよう、場を組織し作り直していく。無意識的な憑依にはみえない。場に呼応できるダンサーはいるだろう。がそこを、理性的なように更新していくのは、並大抵ではないのではないか? 彼女は、孤立していない。性格的にも、人の意見を、いつも静かに聞いている。おそらく、口うるさいいく子も、彼女には頭があがらなかったろう。

 身体は、近代にあたって、ナショナリティックに編成されていった。もちろん、体が、そんな百年や二百年の人為的な試みで、矯正しきれるものではないだろう。もうそんな矯正に従って生きることはできない、がならば、もう一度なように、その矯正の立て直しを破り、超え、新しく自分たちの身体を、自分たちの方向=意味へと、この体の中にある地層群を統制していくためには、どうしたらいいのか? イチローは、打つという目的、塁に出るという目的、試合の流れを読んで、ゲームに勝つという目的の下で、自己の技術を統制できた。が、われわれは、ダンサーは? 目的ってなんだ? ただ情念を、地層の亀裂からの噴出を発散させるヒステリー的な自由だけで、いいわけがない。ならば、拘束の向こうに、私たちは、何を夢見るべきなのか?

 

(4) 舞踏作家協会 ティアラこうとう 江原朋子「和」、に出演している。

 

1999.5.1江原朋子他「和」ティアラこうとう (youtube.com)

 

     この作品のタイトルは、イロニーであろう。日本の伝統やイデオロギーを喚起させる「和」。が、そこに、女性はいるのだろうか、入っているのだろうか? 女性も、子供も、入っていける、新しい和を作ろうよ、と、笑える演出で、会場ロビーで、ゲリラ的におこなったのだろう。

山田いく子リバイバル(8)ー2

 


いく子の「エンジェル アット マイ テーブル」は、賛否がわかれたようである。

昼の部では酷評され、夜の部では、賞賛されたと、友達に報告している。

昼の部では、美術を担当している人は、日中は用があったのだろう、参加していない。その代わりなように、朗読をしていた男性が、壁にポスター大の紙を壁に貼り付けてゆくようなことをやったのだろう。そしてビラを客席に配るのだから、どこか、まだ立て看板がキャンパスにあったときのような、学生運動の雰囲気がでていたのだ。だからなのか、この作品は、「60年代、70年代を思わせる」と批評され、「過剰である」という言葉で評価を受けたということである。

しかし、どこかアングラ芸術をたしかに思い起こさせながらも、それとは質も思想も違うだろう。いく子は、「権力への抗議」をすることによる「連帯」など思いもしない、と言っている。ただ、「アンチ主流派のダンス」として「押し切った」だけだと。そしてその年代と「共通項」があるしたら、「言葉を武器にしたってこと」だと言う。

 

男性の朗読はいらなかったのではないか、と共演した他の二人、詩穂さんとさくらさんは言ったそうである。いく子はこの意見に組しない。私の印象でも、朗読がなかったら、ちょっと拍子抜けした部分が目立つことになったとおもう。が、それ以上に重要なのは、やはり、夜の部、ソワレでは出演できた平野美智子さんの、美術制作の現場の背景があることだ。鮮やかに赤く伸びる布、山のように積まれる黄色いリボン、こうしたきらびやかな趣味に、いく子のミーハー的な、芸術鑑賞好きな志向がでている。それこそが、たとえば民俗学者の大塚英志が『彼女たちの連合赤軍』で抽出してみせた、そこに参加した女性たちに芽生えていた女性意識であり、彼女らを惨殺してしまった永田洋子自身にも萌芽し、自己抑制したものであったろう。いく子はその無意識な時代の重なりと感触を、小倉千加子の本から感じとっていただろう(若い頃の日記では、この「ミーハー」という言葉をめぐり、妹と言い合っうときもあったようだ)。そしていく子の時代では、もうそんな女性意識は、抑制すべきものではなかった。むしろそれこそを、「権力」ではなく、より内在し無意識に制度化・身体化された「システム」(いく子はこの言葉を使う。たぶん、村上龍系譜だとおもわれる。)への抵抗の基点としたのである。

 

<私は女子供の世界というところに足がかりをとっている。男性を起用したって愛だの恋だのなんてやる気はない。死んだってやらない。(もっとも振り付けられたら喜んでやっちゃうけど。)女子供の世界に押し込められている女性の現状っていうことをこの人どう思っているのだろう。年齢を重ねることの良さって、この人はダンサーの若さ美しさと活筋性をみてるってことの裏返しで、これはそのまま女性のステレオタイプな見方にすぎない。>――いく子のの舞台を評した批評家に対していった言葉である。

 

この舞台には、深谷先生や江原先生も来ていた。いく子は、そんな批評家たちの言葉ではなく、江原先生や(長谷川)六さんが自分を認めてくれた、その一事で頑張れてるのだと、友達に訴えている。

 

おそらく、江原先生は、このいく子の葛藤を理解していたと思う。江原先生は、まるでこの直情的ないく子の思想に、翌年、応答するような、ベタな振付、舞台で、女性の現状を告発しているからだ。

2024年1月30日火曜日

山田いく子リバイバル(8)

 


(1)1998年2月1日 舞踏家協会 ティアラこうとう連続公演

 そのうちの、江原朋子先生の舞台「キャンプ 青白い月の光がてらしてる」、に主演している。

 

(2)1998年2月6日 「エンジェル アット マイ テーブル」と題して、仲間とともに振り付けし、自らのダンスを披露している。

 

1998.2.6 山田いく子他「エンジェル アット マイ テーブル」 (youtube.com)


※ これも、音楽が著作権にひっかかって、閲覧できなくなったようである。

 

いく子は、自分の本領を発揮しはじめた。がそのことが、「モダンダンス」を呼称する、江原先生との差異を、意識させられはじめることになった。そのことが、ほんの五日の間しかおかれていない二つの公演の比較において、歴然としてくる。そして翌年の公演において、おそらく決定的になったとおもわれる。

 

世代の差なのかもしれないが、江原先生には、核となる幻想、幼少期に夢見られるようなファンタジーが生きられ、反復される。98’21日「キャンプ」の舞台想定は、ヘンゼルとグレーテルや、赤ずきんちゃんをおもわせる、ドイツの森の中、夜、であろう。いわば、閉じた空間である。最後の場面、赤い炎とも血ともおもえる光の中で、ダンサーたちは、痙攣のような動きをつづけ、細い長い綱に赤い三角の旗のようなものを、江原先生が袖から、いかにも重そうに引いてあらわれて、終幕へとむかう。これは、江原先生の幻想が、揺らいでいる、それは自己の核としての夢であり、創造力の源泉なのだが、自分を重くし、ひきつけをもおこさせるものであることを、先生は感じ取っている。が、そこから、出る、という発想はない。あくまで、そこを表現する、という枠の中にとどまっており、それ以外の発想を、知らないようでもある。

 

が、より若い世代のいく子は違ったのだ。彼女の幻想の核は、引き裂かれており、社会の外へとひきずりだされているのだ、そのことを、意識として、突きつけられていることを、感じざるを得なくなっているのだ。

タイトルは、ニュージーランドの女性監督が作った映画からとられている。その映画の内容自体が、精神病院におくられる女性作家の話である。いく子は、もはや社会意識と作品と、自らの生き方を、要領よく振り分けて処世していくことはできない。彼女は、この自己分裂を、もう二人の個人として生きる女性ダンサーと組み、自分たちの個をぶつけあわせることで、その分裂した個々の衝突が垣間見せる、「リアル」な手ごたえ、生きた実感をつかもうとあがいているのだ。この「リアル」とは、いく子の言葉である。いく子は、すでに深谷正子先生の舞台に、こう疑問を呈してしる。<リアリティーって具象のことかな。抽象的なリアルって矛盾してるかな。>

 

いく子は、自分が何をはじめているのか、何をやっているのか、わからなかった。ただ、先生たちのいう「モダンダンス」とはずれていた。もはや、そこにはいっていくことも、とどまることもできなくなりつつあった。浅田彰や柄谷行人を読みはじめ、「ポスト・モダンって言いきれる人はうらやましい」とももらす。いく子には、そう言い切ることもできない幻想があり、自己が引き裂かれていた。いく子を評価した長谷川六氏には、それが見えていた。が、いまもなお、この亀裂からくるリアルをつかもうとするあがきを、ダンスの文脈においてうまく把握できている言説はないのではないかとおもう。長谷川氏は、柄谷行人や浅田彰がはじめた『批評空間』の前身である『季刊思潮』の創刊号に、ダンス批評を掲載した。が、彼女の言説では、この日本の思想ジャーナリズム界でも新しく台頭しはじめた言論空間に参入していくには、文脈の洗練さや、概念をつきつめるダンス界の批評の練度がたりなかった。だから、いく子は、もっと、自分を意識化してくれる、よその批評の言葉を欲したのである。それが、彼女がNAMにいく伏線だった。そして、江原先生や、その舞台にも参加してくれた、年上のおそらくはやさしい男性との別れの伏線でもあった。その二つの別れは、彼女にとって、思想的には同じことであった。父性的な抱擁さのなかにとどまり、自分をおしとやかにならしていくことは、ひとつの規範、モダンなるものを受け入れ、あきらめることにしか、彼女にはならなかった。もう、退行ができないところまで、彼女は歩みをはじめだしたのだ。

しかし、なおこの年、翌年は、葛藤の中であったろう。おそらく、彼女の方から、よりをもどそうと、花束をもって男のもとへ訪れたかもしれない。江原組の演舞にさそって、一緒に公演したかもしれない。二人で、舞台を作ったかもしれない。が、いく子は、あともどりできなかった、しないことを選んだ、ということになるのだろう。

彼女は自分のことを、「自己不確定性精神病者」と呼んでいる。

 

この舞台は、相当な強度と抽象度をもった、奇跡的な傑作である。江原先生の舞台を超えてしまっている。江原先生が、この一年程のち、まるでこの舞台の影響を受けたかのように、四人のダンサーを使う(いく子もふくまれる)抽象的な作品を作っている。がやはりそれは、具象的なストーリー性に回収されてしまう、安定的な調和、各人の対称性を保持している。(が、その枠を踏襲しながら内側から破っていく回路もがあることを、そこに参加する一人のダンサー、ひはるさんの演技が示唆するのだが、それは次のブログでの解説になるだろう。)

 

みんなすごいな、と思ってみていたら、あれ、このパントマイム、さくらさんじゃないか、あれ、この黒いダンサー、詩穂さんじゃないか、と気づいた。どちらも、付き合いが長くつづいて、私が知っている人たちだった。さくらさんは、今でも現役。詩穂さんは、交通事故にあってダンスはできなくなったが、岡山県で和紙職人のところへおもむき修行、3年目で独自の創作和紙を生みだし、現在も工房で活躍中だ。それと、朗読をしている男性。すでに当時アニメの「ドクタースランプ」の声優として採用されていて、のちに、「ドラゴンボール」などでも役をもらったらしい。いまは、ブックオフのベテラン店長であることが、スマホ検索から知れる。配布されたチラシには、ローリー・アンダーソンの「ストレンジ エンジェル」が翻訳されているが、その翻訳者を含めて、みないく子の友人・知人たちである。

 

「エンジェル アット マイ テーブル

  振付・出演 星野詩穂 山本さくら 山田いくこ

  朗読    吉本収一郎

  美術    平野美智子

 

ストレンジ エンジェル

  歌詞  ローリー アンダーソン

  訳   久喜はるみ

 

天国はTVみたいだという

小さな、完全な、世界

そこではあなたはそんなに必要とされていない

そこにあるものはすべて光でできている

日時は過ぎ去りつづける

ほら天使たちがやってきた 天使たちがやってきた

ほら天使たちがやってきた

 

運が悪いのを拡大したみたいな日

友達が夕食にやってきて

その夜は冷蔵庫を空っぽにし

またたくまにすべて食べつくした

そして居間でずっとおきていて

夜じゅう叫んでいた。

 

ストレンジ  エンジェル ― 私だけのために歌っている

昔の話 ― 頭から離れない

これは全然

私の願っているものではない

 

私は4つのドアの、外に、中に、いた

羽毛の上着を着て

見上げると、そこに天使たちがいた

何百万もの小さな涙

ほんのちょっと、そこでためらって

私は笑っていいのか泣けばいいのかわからない

それで自分にこう言った

次の大きな空は?

 

ストレンジ エンジェル ― 私だけのために歌っている

天使たちが動くとその一片一片が

私の上着にふりそそぐ

雨のようにふりそそぐ

ストレンジ エンジェル ― 私だけのために歌っている

昔の話 ― 頭から離れない

何かが大きく変わろうとしている

ほら天使たちがやってきた

ほら天使たちがやってきた       」

 

2024年1月29日月曜日

旅行

 


 ゆっくりと、母は入ってきた。

 手にした杖が、自動ドアのレールにかかった加減なのか、よろめきそうなのを見て、持っていたバックをいったん絨毯の上に置いて、母のもとへともどった。少し元気がでて、ひとりで歩けることに支障がなくなってきたとはいえ、もう、以前の、父が亡くなるまえの状態にはならないのかもしれない。あれから、半年余りがたった。その間、もはや自力での生活は、外見でも無理そうにみえるから、介護認定の検査をしてもらった。もしかして、長男の慎吾が家にいるから、それも難しくなるのか、とも危惧したが、要介護1の認定がでた。兄自身が、障害者の二級の身だから、だいじょうぶだったのだろう。

週に二日ほど、母は、デイサービスに通うことになった。認定検査を受けること自体をいやがっていたほどだから、ほんとうに通ってくれるのか、心配だったのだが、行ってみれば、けっこう楽しんでいるようだった。だいぶ以前から、風呂にはいる数もめっきり減って、むしろめったに入れなくなっていたろうから、毎週ごとに、体をお湯で温められるだけでも、生き返ったような心地がするのだろう。けれど、その道の専門職の自分には、母の靴下を履かせてやるときに目にする足の指先や、その間に、垢や埃がこびりついていることが、すぐに目についてしまう。限られた時間のなかで職務をこなしていくのだから、それは、しょうがないことだったろう。しかしその積もっていく光景は、少しずつ、心の重しになってくる。機会があれば、母を、旅行につれて、自分が風呂に入れて、体をきれにしてあげたかった。

母が、姉に会いに行きたい、と言ったのだ。実家で姉と同居し、面倒をみてくれていた独身の弟が、癌で先になくなってしまって、独り暮らしになることは無理だろうと、もう二人いるうちの弟の一人が、遠方から宮城の多賀城まで車で通いながら、いろいろ手配をしてくれた。姉と同居していた弟は、工場勤めをしていたからか、共産党員で、自分の死後のことを、党員の友人なのか、仲間に頼んでいた。なお身内が生きているうちの処置を他人に任せるのは不安だと、手続きにあたった弟は交渉し、あちこちと奔走した。まず、祖先から引き継いだ墓じまいをしなくてはならなかった。もう誰も、そこを見にゆける者はいない。檀家から抜ける、そう申し出ても、寺の住職は了承しなかった。母の何代か前には、日露戦争で活躍して、海軍の中将にまで出世したものがいた。兄の慎吾が、自分の精神のバランスをとるためなのか、いろいろ調べ上げて、親戚訪問などもしていたようである。ああ、永子の息子か、と、なお権威ある仕事などについているのだろうか、そう代を継承している親戚筋の者は言ったそうだ。母の実家は、当初は、仙台市のほうで、自転車屋を営んでいた。世界恐慌が来るまでは、裕福だったという。当時は、珍しく高級な乗り物だったのかもしれない。それが突然、貧乏になった。戦争が起きると、多賀城市の方へ疎開した。母は、小学校がかわり、そこではじめて鼻を垂らした同級生がいるのをみて、びっくりしたそうである。

手配の労苦を引き受けてくれていた弟の妻が、突然、泣き出したのだ。お姉さんがかわいそうだ! 先祖のひとたちに申し訳ない、ああ! わんわんと泣いた。住職は折れた。墓は、その弟夫婦の近くの墓地に移動することになった。母は、ほんとに演技がじょうずだったわよね、とのちに、回想した。

実家は取り壊され、更地にされた。売却し、入ってきた幾百万円かのお金は、兄弟姉妹で分割された。一番奔走した弟は、俺はいらないんだよ、もう使えきれないほどあるんだから、と言ったそうである。子供のころの記憶では、サラ金の取り立てみたいな仕事をしていて、自分にはあわない仕事でもういやだと言っている、という話を、聞いたことがあるような気がした。

姉も、千万円単位の預金があった。なので、それをもとに、専用の施設へと入居できることができたのだった。父が亡くなる、何年まえのことであったか。母は、その姉と、もう最後になるだろうから、会いたい、と言ったのだった。

ロビーの受付で手続きをすませると、ラウンジのソファに腰掛けさせていた、母のもとへともどった。母は、海に面した、大きなガラス窓の向うを眺めていた。雲のとぎれから、青空がところどころ覗いている下で、青くなりきれていない白い海が、おだやかに広がっていて、その広がりを、緑色の島が、あちこちと、まるで停泊する船のように、足を止めていた。ホテルの庭の垣根が、こちらに広がってくる波の静かな連なりを四角く区切って、その内側に、刈り込まれたばかりの芝が、苔のように覆っているのが見下ろせた。モスグリーンのゆるやかな起伏ある丘には、幾本もの松の木が散在していて、中央に、赤い屋根をもった東屋があった。大きなほんものの海とそこに浮かぶ島と、手前の、小さな、海を模した自然な風景は、どこか不均衡な二つの重なりをせりあがらせて、ここに立つ自分の場所が、まさに人工的に堅固なものであることを思い起こさせてくるようだった。階下から伸びた園路が、子供が砂場で作る細長い水路のように、微妙なくねりをみせて、東屋へと続いていた。

「津波は、その庭のところまでですんだのですよ。」

 いつのまにか、部屋へと案内してくれるのだろう女性が、背後に立っていて、少し事務的なニュアンスを感じさせて、言ってきた。

「島がたくさんあるから、だいじょうぶだったのですかね。」 直希は、人の気配を感じるだけにまかせて、海の方を向いたまま応じた。そうかもしれませんね、と女性は答えながら背をかがめて、絨毯上のバックに手をのばした。母の実家のほうでは、まえの道路ひとつ向うまで、津波が押し寄せて、危なかったそうである。

 エレベーターで何階か上の方へ昇ってから、部屋に通された。一通りの説明をして、女性はでていった。何をするでもなかった、風呂に、母をいれてあげればよかった。もちろん、男湯と女湯とに分かれた浴場になどは、連れていかれない。このホテルの一室の、狭い浴槽が使えればよかった。母は、畳に置かれた机の前で、背もたれのある座椅子に身を預けている。広がった窓からは、やはり海が見えた。向きが違うのか、先ほどのロビーからのものよりも、うかがえる島の塊が一方に偏っている。だから、半分、海が広く続く方向がある。日の出は、どちらからなのだろう。背の低い防潮堤が、浮かぶ島の手前に、くの字を描いている。漁船が走っている。庭が見えないからなのか、そこは、人の住む場所なような気がしてくる。

 夕食の時間までにもなお間がありすぎるから、テレビのスイッチをいれて、お茶をいれた。ここまでくる間、とくべつに観光名所をめぐって、お土産屋によってなどしていないから、口にするものもなかった。袋にはいった名物の笹蒲鉾が、お茶菓子がわりなように、人の数だけ皿に置いてある。母にとっては、それが食べなれたものなのかどうかはわからないが、子供のころ、家で作った味噌汁は、赤味噌だったとは思うが、世間でいわれるような、辛口であったようには思えない。ほとんど、外食などせず、母の作ってくれた食事だけをした。コロッケやハンバーグなど、子供向けの、地方色などないような献立ばかりだったと思うが、母は、料理は上手だった。ポテトサラダなども、食べやすく、食がすすんだ。群馬の山村の地主の息子だった父とは、この母の生まれた地方で知り合ったのだ。父は、自衛隊の事務職についていた。母は、仕事ができたので、そこへ派遣されていったのだという。着物をきて、大勢の人に囲われた、神社のまえでの結婚式の集合写真が残っているが、母の話だと、その日まで、式場に払うお金はなかったのだそうだ。参加してくれる知り合いのお祝いを当てにして、集まったお金を父とその友人たちが数え、その場で決済したのだともらしていた。母は、生い立ちはそれなりの裕福さを持ったのだろうが、テレビドラマの「おしん」を自分と重ね合わせてみているところがあったかもしれない。たしかに、働きづめだった。たぶん、結婚してほぼすぐになるのだろう、父の群馬の平野部の方で、長屋のようなアパートを借りて、そこで、三人の子供たちを産んだのだった。父は、地元の高校の、簿記の教師をしはじめていた。稼いだ金の半分以上が、仲間との付き合いや酒に消えていって、わたされる生活費では、どうにもならなかったのだろう。

 最初は、プラスチックの小さな部品を、プラモデルを作るときのように枠から外したり、つけたりする、内職と呼ばれるものだったかもしれない。そのクリーム色の部品の光沢の山が、記憶の片隅に積みあげられて、意識の端へと、その微かな光を匂わせてくるような気がする。それから、父が、事務型にうつったための、その補佐の仕事なのか、活字印刷のタイプを打つようになった。機織りものとまではいかなくとも、足押しミシンよりかは大きな、いかめしい鉄の塊が机の上に載っていて、一文字ごとに刻まれた鉄の活字を組みこんで並べた鉄板が、別の棚に積み置かれている。よく使う文字の入った鉄板は、すでに機械の中に挿入されているのだろう、片手で持ったレバーを、その鉄板の上に走らせ、必要な文字の上で押して活字をすくい上げ、それを印字する紙の位置にまで走らせなおし、またレバーを叩くように押して、インクを刻み付ける。ピアノを弾くときに楽譜を読むように、目よりは少し上の位置に開かれ置かれたた原稿を見ながら、一字一字、打ってゆく。挿入された鉄板の中にはない文字に出会うと、その文字が他のどの鉄板にあるかを探し出して、機械の中のものと入れ替える。打ち間違えたら、白い修正液でなおし、打ちなおす。打ち込みが、左の行先から右端の行末まで達したなら、印字の用紙が装着された丸い筒を、また左端の先頭から打ち込めるように、移動させる。ピコタン、ピコタン、ピコタン、ジー、と、その音はつづいた。いつまで続いたのだろう。朝から、中学に入るころ、父が倒れたときも、その音は、続いていただろうか。

 しかしそんな父の仕事の手伝いをしながら、母は、ピアノの先生もしはじめたのだった。母は、高校進学までで、べつだん音楽をやっていたわけではなかった。ただ、あこがれて、できるようになりたかったのだろう。とにかく、ひとつ隣の、町のピアノ教室に通ったのだ。どのくらいの年数を経てなのかはわからない。がベートーベンやショパンが弾けるようになり、家で、子供たちを教えることにしたのだ。次男の正岐までが、稽古をしたことと思う。正岐が小学生は中学年のころだろうか、父の教えていた少年野球に集中するということで、自らの子供たちは、生徒にはいなくなった。それでも、いつも十人近くの生徒を抱えて、週に一度になるのか、教室を開いていた。その中からは、実際に音大に合格する女の子もでてきて、将来はピアノ専門ではなくなったようだが、京都の芸術を教える大学の、古代の遺骨から人相を復元する専門の先生になる女性がでて、結婚した外国の夫をつれて、家に挨拶にきたりもしたのだった。

 まだある。着物の着付け。これも一度先生について、毛筆で大書された木製の板の看板をだした。それから、父が退職し、いったん勤め先の付属の幼稚園の園長になってからは、その幼稚園の先生までした。もちろん、保育士の勉強をし、試験を受け、その資格をとったのである。付属大学の学部増設の任務を終えてから、再雇用ということで引き続き事務にあたっていた父だったが、もう時代遅れな知識になるからか、やはり精神的にまいっていたからか、顔だけの園長職務は、左遷だったのだろうという。そんな父を助けるためなのか、母も、子供たちのあいだに、交じっていったのだ。

 母は、お茶をすするでもなかった。テレビの音にさそわれるように顔をそちらにあげたが、すっと、窓の向うの、海をみた。座った低い位置からは、海というより、空しかみえないかもしれない。背も、まがっている。がまがったその背を起こして、またすっと、立ち上がろうとした。座卓に手をついたところで、バックの整理をしていたのをやめて、その台のまわりをまわって、母のところへ寄った。膝をのばすのが億劫そうだったが、自力で起き上がると、窓のまえに置かれたテーブルの方へゆっくりと歩き、椅子に腰かけた。窓の向うの、海をみた。こんどは、はっきりと、海に浮かぶ島々も目に入っただろう。がすぐに母は、視線を下に向けて、テーブルの上を見つめるようになった。

 このホテルへ乗用車で向かう途中、海岸沿いの道路を走り抜けるとき、ここまで修学旅行で歩いたんだよ、と母はこぼした。幹の太くなった何本もの赤松が、その身をくねらせて、道路に、海の方へとかぶさっていた。小さな山のような島が、その松林の間から見え隠れし、切れ切れとなった海が、穴に蓋をするように盛り上がって見えた。訪れた観光客が、いくつかの塊を作って、芋虫が体をくねらすように、もぞもぞと移動してゆく。大変だったけど、おもしろかったなあ、と、母は、何かを思い出したのかもしれない。

 母は次女だったことになるのに、姉よりも、長女のようにみえた。この松島の湾に流れるいくぶん大きな川の河口先端の、見晴らしのいいホテルに来る前に、姉の入った施設に立ち寄ったのだ。用水路のような川の縁に、何棟かの二階ほどの建物が並んでいた。下火になったとはいえ、まだコロナの対策があるので、施設の中までは入れないということだった。出入口を入った玄関口、車いすでも入れるように広くはなっているので、その受付前の広間で、顔合わせ程度の話はできる、そう訪問まえに言われていた。母は、そこで持ってこられた椅子に座ってまち、しばらくして、姉が、施設の人に連れられて、やってきた。それを見届けて、過密な人の群れになるのは避けた方がいいのだろうと、職業意識が動いて、玄関を外にでた。日差しは強かった。梅雨時なはずなのに、雨は、まったく降ってこなかった。母をみたとき、背の小さな母よりさらに小さく細くなった姉は、はちきれたような笑みを皺の表へとみせた。

 10分もたたなかったのではないだろうか。母は、自動ドアをくぐって、外にでてきた。うれしそうだったねえ、帰るのが、かわいそうになってきたよ。お尻をね、まだ自分でふけるんだって。弟がね、あっちの施設をさがしてひきとってもいいって言ってくれてるんだって、タエさんがね、わざわざここまで言いにきてくれたんだって、どうするんだろうねえ……母は、少し、ゆっくりなしゃべり口だったが、饒舌になった。がまた車の後ろ座席に乗り込むと、引きこもるように、押し黙った。

 姉より勝気そうで、はっきりとものを言いそうな妹の母だった。アルバムで、若いころの写真を目にしたとき、土手の草むらの上に、スカートの裾を茸のように広げて座った母の、目をぱっちりあけて、前方をしかと見つめた眼差しは輝いていると思った。白黒の写真でも、その瞳が生き生きしているのがわかる。ベティーちゃんってあだ名だったのよ、といつだったか、まだ中学生の時分だろうか、教えるような口調で言われたた覚えがある。明るい笑みを浮かべて、そう口にしたのではなかったろうか。しかし、東北人だからなのだろうか、対人関係では控えめだった。子供の少年野球の応援では、他の母親たちの影に隠れるように、息子たちを見守った。かかあ天下といわれる上州育ちの、他の母親たちの間では、気後れしてしまうのだろうか。父の実家を訪れ、父の母や親戚たちの話し合いを目にしたとき、まるで喧嘩をしているのかと思った、という感想も聞いたことがあるような気がする。

 手持ち無沙汰になって、母の座っていた座椅子に腰掛け、お茶を飲んだ。笹蒲鉾の包装紙を引き裂いて、口にしてみる。もう何度も、母を実家に運んだついでに、その一帯にある観光スポットのような場所には立ち寄っていた。いや立ち寄るというか、素通りしながら、目にしていた。武将の勇ましい銅像のあるお城あとの公園、流れる川。思い出はかえらない、と、母が、そんなは流行りの歌を口ずさんでいたことがあったことを思い出したりした。しかし子供のころは、母は、実家にほとんど帰省したことはなかったろう。一度だけだ、思い出に残るのは。まだその頃は、母の父も、母も、健在だった。黒い、着物のような和服を着て、母の母は、笑顔をみせて、話しかけてきた。たぶん、正座をして、こちらを見ていた。が話す言葉が、まったくわからない。母の弟の、自分からすれば叔父さんにあたる者の言葉は、イントネーションがこちらとは違っても、その意味を聞き取ることができた。しかし母の母の言葉は、とっかかりがなかった。おそらく、ぽかんとしていたことだろう。不思議な経験だった。何もわからない。がそのなかから突然、「かつどん」という言葉があらわれた。う~ん、と深くうなずいただろうか。しばらくして、出前で、かつ丼がでてきたからだ。

 母の父は、何故なのだろう、たぶん二階からおりてきて、こちらに顔をだしたのだろうが、すぐに背中を向けて、どこかへいってしまった。記憶の中では、鴨居の下の、部屋の仕切りのところで立ったままの、後ろ姿の細長い背中がみえてくるだけだ。顔を、見た覚えがない。うん、とか、何か返事での受け答えを母との間でしたような気もするが、それきり、消えてしまった。昼についたのだから、夜になって、みなで食事をしたはずなのに、その姿をさがせられない。よみがえってくるのは、家の外の小屋のなかにあるお風呂のことで、五右衛門風呂の釜の姿だった。

 夜が、まるみえだった。小屋の上からさしてくるのか、電灯のオレンジ色のもやのような光の向うに、先ほどでてきた家の引き戸がみえる。まるい鉄の湯舟の底には、簀の子がひいてあって、やけどをしないように、その板の上に両足をそろえて、かがみこむ。それも、不思議な経験だった。湯につかっているというよりかは、やはり、ゆでられているような気がしたろうか。丸く縁どられた黒い水面に、顎から先の顔だけをだして、じっと、夜の向うの家の姿をみている。今から振り返れば、まさにゆでられた蛙のようだが、そのときも実際、蛙のようなぎょろ目で、身動きもせず、湯につかったまま、その開かれた目の玉だけで浮いていたように感じていたはずだ。たぶん、小学生も、中学年のころだ。母と二人で、大宮か上野駅まで電車ででて、乗り換えてまた、鈍行電車で七時間はかけて仙台にまでいったのだ。

 その母と、自分の運転する乗用車で、おそらく最後になるのだろう里帰りをしている。米寿で亡くなった父より二つ年下の母も、再来年には、そのお祝いの節目をむかえる。健康的にはそこまでゆきそうだったが、父が亡くなり、気落ちした状態がつづけば、どう転変するかはわからない。父も、ペットで買っていた犬が死んでしまってから、みるみると老化し、痴呆になり、衰弱していった。

 父が、施設に入ってからは、むしろ元気になった。この家を守らなければならない、と思いはじめたのか、となり近所の人たちと、対立するようになった。女だからって、なめてるんだよ、お父さんが人がよかったから、なめてるんだよ、と強い口調で言うようになった。堺を接したお隣の小屋の屋根のへりが、こちらの金網をこえてかかっていて、雨が激しく降ると、小屋の雨どいから雨水があふれだして、家と一体となったようなこちらの物置の中にまで浸ってくることがあった。といが外れてるんだよ、こっちの敷地の上にといがあるなんて、おかしいじゃない。わたし言ってやったのよ、こちら側につけるのっておかしくないですかって。だけど、何もしないのよ。女だからって、なめてるんだよ。たしかに、水の流れがつかえたように、物置のまえで、水たまりができるようだった。しかしそれは、梅雨時でもないのに激しい雨がつづき、雨どいではさばききれない量の大雨が降るからかもしれなかった。しかし雨どいがはずれていることははずれているので、それは脚立をだして直したが、そのお隣の小屋の雨どいの流れをみると、地面に流し落とすその垂直部分のつなぎに、穴が開いていないのが見えた。旦那さん本人が手作りした、小屋なのだろう。母に報告すると、ねえそうでしょ、おかしいでしょ、黙ってちゃだめなのよ、役所に言って、直させなくちゃだめよ、言ってもきかないんだから。

 越境してくる蜜柑の木のことでもそうだった。これもたしかに、金網をこえて、こちらの駐車場のところにまで、枝の山がこんもりと茂っていた。そのまま実がたくさんつくので、たわんだ下枝が頭の上くらいまで垂れ下がってくる。冬には、葉がたくさん駐車場のコンクリの上に落ちた。掃除にきりがないよ、まったく。実が欲しいものだから、枝を切らないのよ、塵取りの葉っぱをばあってお隣の庭に投げてやるんだから。お隣も、母より若いといっても、老夫婦だった。母がピアノを教えてもいた長女が一緒に暮らしていて、その息子たちが二人、家からどこかの職場に通っていた。車がなければ通勤できないとはいえ、みな、老夫婦をはじめ、一台一台、乗用車を所持していた。家の裏の屑屋の跡地を買い取って更地にし、砂利をひいたあと、息子たちの車をおかしてくれないかと声をかけられ、貸してやっていた。が息子のひとりが、遅く帰ってきて、吸い殻をその砂利の上にばらまいていくという。注意するという猶予もなく、母は、もう車をおかせないと言い張った。畑にするから、もうだめですって、言いにいって。そうして、車止めとチェーンを裏の空き地につけてやったのだ。

 母は、何にたいしても、かりかりするようになった。まるでそれは、これまでドラマのおしんのように我慢していたその蓋が、はち切れて、飛んでいってしまって、抑えていた中身があふれだしてくるようだった。女だからって、なめてるんだよ、口癖のようにそう言うのは、もしかして、東北からこの関東地方へと嫁にきた母が、ずっと抱え込んでいた思いだったのかもしれない。いいかい、こっち側の家との境界はね、金網の外側がそうなの、でこちらの家との境界はね、ブロック塀の真ん中がそうなんだからね、覚えておくのよ。それは、意地になっているように思えた。

 母は、窓のほうの、斜め下あたりを、ぼんやりと見ていた。その視線の先には、窓枠のなかにおさまる風景の端が見えるだろうが、母がいま、その懐かしい海と島の姿に物思いにふけっているようにはみえなかった。力のない瞳は、閉じられているかもしれない。

 父の葬儀にあわせて染めた髪の茶色が、透けたカーテンを通して照れる日の光を受けて、白っぽく反射している。もつれて落ちた髪の先が、耳たぶの上にかかっている。頬の膨らみと、染みのまだら模様の落ち着きには、風格があった。

 直希は、腰をあげて、横顔をみせてうつむく母に声をかける。

「お母さん、お風呂にはいるよ。」