2010年10月31日日曜日

自然と理論――『世界史の構造』をめぐって


「この問題は「人間と自然」の関係にかかわっている。ここまでこの側面を捨象してきたのは、「人間と自然」の関係は、人間と人間の交換様式を通してのみ実現されるからだ。「人間と自然」の関係は根本的である。しかし、それを強調することによって「人間と人間の関係」を忘却させるイデオロギーに注意すべきである。一般に、それは、工業社会批判、テクノロジー批判といった文明批判のかたちであらわれる。それは概ね、ロマン主義的な近代文明批判の型を踏襲している。だが、環境破壊をたんに「人間と自然の関係」という観点だけから見ることはできない。なぜなら、環境の破壊=自然の搾取は、人間が人間を搾取する社会において生じるからだ。」(柄谷行人著『世界史の構造』 岩波書店)
久しぶりに、かつて社会運動を一緒にやっていた仲間数人と顔をあわせて話す機会をもった。当時二十歳まえだったような少年も、もう三十歳の青年となる。会社をやめて、中国への旅行から帰ってきたばかりで、またネパールへ旅するという。彼は運動創設者の近著『世界史の構造』など読んでいなかったが、世の情勢に左右されまいとする個人のそんな単独行動(自由)がなかったら、そもそも社会運動など生まれもしなければ必要もないだろう。むしろ、かつての会員らが集まってまた読書会をはじめたというそんな動きのほうが、私には怪訝におもわれる。そこで、その久しぶりの話あいで知ることになった、その著作出版にともなう文学系雑誌での座談会を読んでみて、やはり運動解散後に感じたことを、ここでもう一度確認して書き付けておこうと考えた。すでに何回となく、このテーマパークでも指摘したことなのではあるが。

私の見立てでは、柄谷行人氏がNAM運動後に自分の考えを明確にさせるとっかかりとして使ったのは、その運動プロジェクトとしてあったRAM、というか、その芸術系企画の引率者岡崎乾二郎氏の言説である。柄谷氏は、岡崎氏のNAM原理批判としてあったかもしれぬ「贈与(ハウ)」という観念、柄谷氏が忌み嫌ったムラビトを連想させもする観念を、自分の思想の中で受け入れてみせることで、その概念を批判的に差異(区別)化してみせたのである。言いたい問題点はわかるが、そんなのではだめだ、と。

『文学界』10月号、もうひとかた大澤真幸氏を交えた対談「ありうべき世界同時革命」では、この差異(区別)が衝突することからはじまっている。岡崎氏は、まず「贈与」によって生ずる返礼への「ハウ(呪力)」を、『世界史の構造』の文脈に沿って読み替えてみせるのだが、そこを柄谷氏は「おっしゃる意味がわかりませんが」と切り替えしている。そして、「先ほどの、交換様式Dを最初に想定する意見だとしたら、僕は賛成できない。」と岡崎氏に否定的に釘を刺す。私の判断では、一般的、悟性的理解では、岡崎氏の意見の方が正しい。それが先に(前提として)あるとするから「構造」なのだから。しかし柄谷氏の方が、「専門的用語や概念を正確に理解」しようとはしない、実践的用法として、つまり単なる比喩と開き直って「構造」という言葉を使っているのかもしれない。自分は「門外漢」だとまずは岡崎氏は自分にとみせかけて柄谷氏のそんな言葉への非厳密さに釘を刺してみせたのかもしれないのだが、それが方向(意味)を屈折させて自分のほうに向けられてきたような感じである。しかしそうなると、一般的な理解をまずはしなくてはならない読者としては、柄谷氏の意見は理解困難になるのである。つまりそれ(構造)は、先(無意識)として前提的なのか、後(意識)から作りだしていくものとして考えられているのか? 柄谷氏本人はどうも後者だと言いたいらしいのだが、そんな「構造」というものがあるのだろうか?

この不可解さは、『群像』11月号での対談「世界同時革命――その可能性の中心」でも、島田雅彦氏によってやりとりされている。島田氏はそこで、「抑圧されたものとして回帰」されてくる「構造(無意識)」は、いわば「プログラムされている」ということではないか、と理解しようとする。が柄谷氏は、「違います」と返答する。またむしろ、その「反復(回帰)」が無意識的に再起してくるとする「自然の狡知」という理解、そういう「自然」の概念をもちだしたくない、と付け足す。私の立場(実践)では、この「自然」の区別、その理論的差異はどうでもいいので、<自然が復讐してくる>、と単に互酬的に言っていればよいのだが、柄谷氏はそういう植木職人的、あるいはかつての柄谷氏の江戸研究の用語でいえば陽明学的な自然理解という非厳密さはいやだと言うのである。では、人為的な構造、先にある、のではなく、後から来る、という構造とはどんなものなのか?
*『中央公論』2011.1月号での佐藤優氏との対談「国境を越える革命と宗教」でも、佐藤氏から類比的な突っ込みをなされている。――<柄谷 …だからこそ、構造論的な視点が必要なのではありませんか。前にお話ししたとき、佐藤さんは、右翼の前で、「高天原というのは『統制的理念』である」というと、理解してくれるといっていました。それなら、高天原は交換様式Dだ、といってもいいわけですね。その場合、高天原の意味が変わる。たんに高天原という固有名詞でやっていると、右翼的になる。しかし、本当に目指しているものが交換様式Dだといえば、ほかの者とも連帯できるはずです。佐藤 その考え方ができるのはわかります。そうすると、そこで出てくる数学的なるものは、これもまた変な言葉を使いますけども、リアルなものなのでしょうか。柄谷 それは、まさに普遍論争みたいな話です。佐藤 普遍論争に引きずり込みたいので、こういう問いかけをしたのです。柄谷 簡単にいうと、形而上学というのは、「物があること」と「物の関係があること」の違いを見出したところから始まったと思います。そのとき、二つの世界があるかのように考えられた。物が存在するフィジカルな世界と、関係が存在するイデア界。佐藤 その両者とも、ものごとを観察するという発想から出てきていますよ。柄谷 それはそうですが、われわれは一定の関係をあらかじめ把握していないと、物を観察しても物が見えない。実験は仮説にもとづいておこなわれます。それがないと、実際に物を見ても見えない。佐藤 でも逆に、実際の物を見て、何も悪いことをしていないように私には見えるけれども、国後島にディーゼル発電所をつくるときには賄賂を受け取ったんじゃないかと、検察官の心眼では見えるというふうになるわけです。だから、仮説というのは怖いのです。>

柄谷氏はこの疑問へ、具体的な用法・用例によってイメージ化させているようにみえる。つまり、理論化としてではなく。

<……自然状態というより、たんに「戦争状態」といったほうがいいわけですが。その場合、ホッブズは戦争状態を脱して平和状態を創設するためには、国家を設立するしかないと考えたのですが、彼は明らかにまちがっていた。たとえば、氏族社会には平和状態があった。イロクォイ族の部族連合体が一例です。これは、ホッブズのような「社会契約」でなく、贈与の互酬性による「社会契約」にもとづいていた。>(『文学界』10月号前掲書)

<クラ交易のようなものは、それ自体が交易なのではなく、贈与によって、平和状態、友好的な関係を創りだすためのものですね。そのあとで交易する。だから、このような贈与は「贈与への衝動」というよりも、むしろ、自然状態への恐怖、そこから出たいという衝動、と見るべきだと思います。/ホッブズは、自然状態からの脱出を、全員が一者(レヴァイアサン)に服従するような形態、つまり、国家に見いだした。それが「社会契約」と呼ばれています。しかし、そうでない平和の創出がある。つまり、暴力にもとづくのではないような「社会契約」がある。それは贈与の互酬にもとづくものです。…(略)…つまり、カントのいう「永遠平和」を実現するためには、そのような贈与の互酬性にもとづく社会契約に鍵を見いだすということです。それは、交換様式Aの「高次元での回復」ということになります。>(『群像』11月号前掲書)

上のような言述から言えることは、それが<ヒトの「知恵」>、と呼べるようなものだ、ということだ。この洞察認識前提から、日本国憲法9条による軍備放棄という世界史への贈与実践、という実例、提議案がでてくる。つまり知恵とはある先にある認識が前提とされる意識的な実践だが、それが後知恵とならないためにも、先に提示しておくべきだ、という発想である。だから、自動(自然)的に、次の世界戦争の次に世界同時革命が起こる、というロシア革命時のような期待は批判される。後からくるかもしれない「抑圧されたものの回帰(無意識)」は、意識的に先に「回復」されなくてはならないのである。しかし理論レベルでいえば、この発想は、論理として筋が通っているのだろうか? 私には不透明である。

*憲法9条による軍備放棄ということに関し、私は、それを日本サムライの切腹という贈与儀式の実践として、伝統的に提示した。その提言は、ドストエフスキーの『白痴』』にみられる世界的作者の切腹への共感、あるいは、トムクルーズの『ラスト・サムライ』にみられたインディアン(=縄文人、狩猟採集民的、恥と名誉の倫理)にみられる世界史的類似構造性、ということにも結びつけられた。私は「門外漢」な素人なので、まったく理論的ではないとしても、私の現場では、とくに右翼的な現場では、こちらのほうが説得力をもつだろう。国連重視の柄谷氏の発言自体は、すでに他の運動家でも言っていたことではあったろう。が、氏の発言がある種の説得力を持つとしたら、心情的、信念的、根拠なき運動家の意見とちがって、そんなことをいうのは「なぜ」か、という「ヒトの欲求」に答えられるような文脈、背景をふまえて意味づけられているからだろう。しかしならば、なおさら氏の理論化しようとする「知恵」が、論理的に提示されているのか、提示されることが可能なのか、を問うこと、つまり、その原理の根幹を明確にしようとすることは、必要な原理論作業の一つかもしれない。

悟性重視にみえる岡崎氏は、論理推論的に、原子力や情報テクノロジーのカタストロフに言及する。それは一見、安易な取り込みにみえるけれども、氏の現場と結びついた事例である。その思考が論理に厳密たろうとするのは、氏に実践があるからで、逆に、柄谷氏の理論が非論理な実践性を提示しているのは、氏の立場が理論家である、ということからきているのかもしれない。岡崎氏の批判が正当であるようでも、柄谷氏のほうに説得力が感じられてしまう<ねじれ>にこそ、原理論の難点、盲点、アポリアがあるということだろうか? つまり、あくまでその内容如何ではなく、原理発想の出所において。出所の論理の理論的不明瞭さは、実践上の具体的現場において、当思想家本人の判断や嗜好の恣意性に左右される。あるいは一般会員をしてふりまわされているように感じさせる。ならば、この新しい著作をいくら読書したとて、同じ過ちが繰り返されるだろう。ネットで調べてみると、読書といっても、岡崎氏のように自らの現場からどう読む=使うか、という実践性によってではなく、あくまで哲学・文学史的な教養文脈の延長によって支持者に解説されようとしている。しかし、そんな文脈は、現実のどこにもなく、あるとしたら、かつての大学の体系の中においてだけだろう。
われわれNAM残党は、同じ過ちを繰り返さないためにも、柄谷のことなど知ったことかと、自らの現場の単独(固有)性こそをまずはより自立すべく努めるべきである。それなくして、連帯(連合)などない。

2010年10月22日金曜日

野球、サッカー、そしてダンス


桑田 そうですね。ぼくが飛田穂洲の思想を表現するにあたって「絶対服従」という言葉を使ったのには、理由があります。野球は監督の指示に従ってプレーしますから、絶対服従のスポーツではあるのですが、じつは試合で絶対服従がどれだけ生きるかというと、生きないんです。言われたことしかやらない、言われたこと以外をやると怒られるわけですが、じつはそれでは勝てないんです。
 なぜなら野球では、1球1球状況が違って、飛んでくるボールの速さや角度も違えば、風もあり、打順、点差、さまざまな要因で、なにもかもが変わってくる。だから本当は、自分で考えて動ける選手じゃないと、首脳陣からの信頼は得られないんですよ。でも、練習では絶対服従で、自分の言うことをきく選手をつくっているわけだから、試合に勝てるわけがない。勝てないから猛練習をする。また勝てない。これは悪循環ですよね。」(桑田真澄 平田竹男著『野球を学問する』 新潮社)

野球界が抱える問題を根底から考えてみたいと早稲田大学の大学院で研究し、首席で卒業したという元巨人軍の桑田真澄選手。私と同世代の桑田氏によれば、その研究の端緒とは、先輩や指導者からの「いじめ、体罰、無意味な長時間練習」という体験であり、いわば「悪しき精神主義、根性主義」がどうして成立していったのか問うことだったという。私はまず桑田氏のその態度に敬服する。同時に、父親当人は野球などしたこともないのに、ジャイアンツのV9に感化され、長嶋選手にあこがれ、漫画『巨人の星』の一徹親子よろしく、我が子とマンツーマンで野球と取っ組みあう父子関係をもった最後の世代であるかもしれないながら、少年時代には清原選手のように、封建的というよりはより民主的な『ドカベン』を面白くテレビ観賞してきたわれわれ世代だからこそ、問いかけはじめられた疑問なのではないか、とも思う。そう私が振り返るのは、高校での野球生活で、私自身が桑田氏のような疑問に苛まれ、はややる気が崩壊していた、という経験があるからである。高校の頃の私は、昼に起きて登校し、部活の野球だけをやって帰宅し、夜には漠然と芽生えた疑問がなんなのかと、哲学書や文学書などを朝方まで読み続ける、という生活を続けたのである。いや夜学の早稲田文学部にいき、卒業後も夜勤務などをしてしのいでいた私は、27歳ぐらいまで、そんな昼夜逆転の回り道生活をしていたのだ。まがりなりにも疑問をはらすのに、10年近くの歳月がかかったのだ。ただ私に懐疑を抱かせたのは、桑田氏が体験した「絶対服従」的な部活生活ということではなく、あくまで、それと戦後(?)民主主義的な在り方への落差においてであった。つまり、軍隊生活的な中学の野球部から、私はその数年前に甲子園に初出場して世間を騒がせた公立の進学校の野球部にはいったわけだが(山際淳司著『スローカーブを、もう一球』角川文庫、のモデル高校)、そこはすでに、桑田氏がPL学園で自ら勝ち取っていった練習のような、民主的な自主トレだったのである。(…しかしそれは、甲子園出場をなしえた監督のなせる方針だったかもしれない。きくところによると、いまは猛練習だという)――なんだこの生ぬるい練習は、と先輩たちをみておもいながらも、先輩たちは強かった。入部してすぐの関東大会では、横浜のY高をやぶり、東京の創価を破り、そして決勝では、同じ群馬代表の、いまはプロ野球西部ライオンズの監督をしている渡辺投手ひきいる前橋工に1-0でおしくも負けた。その後、打倒渡辺対策のバッティングピッチャーにかりだされた私は、肩を壊したが……。しかし、おそらく桑田氏も、その野球体験はただ封建社会的なものだけだったわけではもはやなかっただろう、とおもう。いわば、われわれは、『巨人の星』と『ドカベン』を、「一身にして二世を経る」(福沢諭吉の言葉、だと思うが…)、ような体験として出くわしたのである。

私はいやだった、封建社会も、民主主義も。その絶対服従も、要領のよさも。世間も、官僚も。

桑田氏の対談相手であり、サッカーJリーグの創設にも携わったという平田氏は、「おそらくサッカー界は、野球の軍国主義的なやり方をすごく否定してきた」のであり、「言ってみれば、野球を反面教師にがんばってきたつもり」なのだという。しかしその過程で捨ててきてしまったものがあり、「絶対服従はいけないが、礼儀正しさとか、丁寧さとか、日本人として守らなければならないものまで捨ててはいけない」、と。

作家の村上龍氏がインタビュアーになるテレビ番組「カンブリア宮殿」で、元サッカー日本代表監督の岡田氏は、リスク(責任)を負って監督から言われたこと以外の個人判断を選手に実践させていく、その苦労のことにふれられていた。日本は文化伝統的に、個人が大人しくなってしまう、という話のなかで。対して村上氏は、松井選手の切り替えしセンタリングを落ち着き払ってシュートを決めた本田選手をほめ、しかし勝敗を決めるのは、そのような個人の才能だったり、経験だったり、ひらめきだったりするんですね、と返答していたようにおもう。私も、あのゴール前であわてずにきちんとボールを「止めて、蹴る」、という基本を実行できた本田選手に新しさを見出したが、しかしそれは、今までだったらあわててはずしてたんですが、と村上氏も伝統(個人のひ弱さ)をふまえて前置きしたように、私はむしろ、今まで(伝統)があったからこそ、あの個人が生まれたのだ、と理解する。城選手の急いたボレーシュートの失敗があったからこそ、本田選手の基本技が新しい伝統として創造されてくるのだ。つまりまた、そのように個人の緊張がなければ、伝統は継承されないのだ、と。

一人親方として仕事をすることが多い植木屋の技術とてそうである。系列にはいって言われた仕事だけをこなしているのならば楽だが、状況の変化に弱くなる、つまり個人でどう動くか、という鍛錬を積むことができていなければ、単に倒産してしまう。かといって、そこに入らなければ、選ばれなければ、信用を得なければ、年を越せる仕事量にありつけない。つまりやはり失業してしまう。この個人と組織集団(系列)の緊張の中でこそ、技術が生き、生きた個人の間にだけそれは継承される。

歴史とは、固有名の連続、持続、ということではないだろうか?

岡崎 ……ピナやマースといった固有名が消えたあとも、それが継承できる形式になりえていたかどうか。もしそれが、既成のジャンルには回収されえないようなものであったならば、むしろ、それが固有の形式をもっていたかどうか、本当に表現ジャンルとして(本人なしでも)自律していたかどうかが問われる。亡くなってしまうとはっきりわかりますね。確かにそれは影響を与えただろうけれど、本人たちがもっていた過激さは失われてしまう。回収できる影響しか残らないということがある。>(「ピナ・バウシュ追悼・身体技法の継承と制度化」 浅田彰+岡崎乾二郎+渡邊守章 『表象04』所収)

伝統あるヨーロッパや南米のサッカーチームが強いのは、かの地の子供たちが草サッカーで名前を引き合いにだし、成りきって実演するための固有名を幾人も抱え込んでいる、ということではないだろうか? カズ、ナカヤマ、ナカタ、……この連なりが多くなるほど、逆にいえば、そこに名を残そうとする個人が持続的に発生し、積み重なればなるほど、日本サッカーの伝統が反復創造されてくる、ということではないのだろうか?