2009年12月18日金曜日

ハコからヒトへ、その正当性と危険性

「要するに、死ぬとはいうことは、有機体が複雑になったがゆえに生じた不完全さの結果であるというわけである。生物の中で最高の複雑さを身に付け、最も自然の摂理とかけ離れてしまった人間は、生死を超える完全な統合を、如来の力に頼るしかないのかもしれない。如来とは、真如から来たものという梵語で、真如とは、万物一切の本質で、不変の真理のことである。如来の力に頼るしかないということは、法然や親鸞に言わせれば、南無不可思議光と頼み参らすしかないということになってしまう。しかし、現代人に宗教を説き、信を求める時、この不可思議光が万物一切の本質であり、宇宙の真理であることを、どのように納得させ得るかが、問題なのである。」(青木新門著『納棺夫日記』文春文庫)

「ハコからヒトへ」をモットーのひとつに、民主党の行政刷新会議なるものが公開実演された。鳩山総理が、この国家官僚の公開さらし首のような、あくまで日本的な優しい革命的な事態を、どう受理していくかはわからないが、土建業にいることになるのかもしれない私としては、たとえ会議を運営した議員らの個別判断に、事後的には間違いが散見されることがわかってきたとしても、その熱意と趣旨には共感しうる。このモットーを正確に言い直すなら、ハコを作ってきたヒトから一生懸命なる社会的弱者に税金を使う、ということになろう。いわば、ヤクザもん的な連中よりは本当になぐられて立ち直れない被害者に、ともいえよう。ここには、偏見があると同時に真実がある、というよりむしろ、その偏見の中に真実があるのではないか、と私はおもう。自分でも、仕事は仲良く楽しくなどとほざいて苦労して覚えようともせず口先だけは達者な職人まがいのチンピラ作業員には、民主党路線を説きたくなる。ヒトや世の中を甘く見るなよ、おまえが先輩に楯突き口先でどうごまかそうと、客や第三者がカーテン越しにちゃんと見ている、「あんな人に庭の手入れをやって欲しくなかった。みんなあなたにしてもらいたかった」、「あれもこれもやっているあなたに言うのはなんだけど、あんな人に税金つぎ込んで公共事業やるよりも、五体不満足でも一生懸命生きようとしている障害者の福祉にお金を使うべきじゃないですか?」……馬鹿にそんな事実発言を突きつけて説法しても酒のつまみとして未消化排泄されるだけである。ほんとに仕事中、なんかいウンチをしにいけばいいのだ? しかしこうしたぐうたら作業員、体を使うことを嫌う現場の浮浪者のような者への説教の内には、暗黙的に、資本主義社会での生存競争が前提とされてくる。もしその浮浪者の抱く夢、仕事は業者の垣根を越えて仲良く楽しくと、物事に真剣ではなくテキトーな取り組みですませるというユートピアが前提であるのなら、彼のような者こそ人間的、他人おもいな心優しき人、という話になるだろう(――むろん、ここでは、競争社会などとは関係なく、真面目に取り組んでくれる人のほうこそを世間は評価(選択)する傾向がある、というような人間的事態は省く。また、そうした怠業者こそ、金と権力に巻かれやすい、という言行不一致な一般的な事態も省く)。そして実際、この怠け者の浮浪者には、その個人の人格を超えて、どうも国家(権力)以前的な非資本(金)主義社会的な遺伝子が家系されてきているのかもしれないのである。私がそう想像したくなるのは、彼のあまりな「言行不一致」、身体と頭の酩酊的な分裂、乖離、癒着…は、不可思議だからなのである。文字通り現社会のイデオロギーを、長いものに巻かれろ式に脳髄が従おうとしていても、体は言うことをきかずに未熟な不器用さにあがき、その頭と身体の分裂の苦痛は自棄酒をあおらせ、文字通りな酔っ払いの千鳥足となり、かと思うと次ぎには気持ちよく饒舌となった口先だけはその不恰好さを自身で裏切っているイデオロギーで自己正当化するに達者で、つまりは、言行不一致な乖離はユーフォリックな癒着に帰結する。この苦痛を快楽に変換してしまうマゾヒスティックな魔術は、目に見えているものだけではわからない、その一世代個人を超えた昔の残響や深層なりで補って理解したくなるのである。それがいつまでも未熟な足取りなのは、昔の伝統に足を絡め取られているからなのではないか、と。ではどれほどの昔なのか?

いまの私はそれを、縄文時代、と答えたくなるのだ。いわば、国家権力が統一された弥生時代以前の、氏族社会の精神構造。その時系列が家という空間において残影されているのではないか、と。それが東国からあがった武士の精神や、トムクルーズが『ラストサムライ』でアメリカインディアンと照応させた、武士の最後としての薩摩藩士の意気に連綿としてゆく。いまはそれが、土建業のチンピラ作業員に家系されている、と。(――ちなみに、私の念頭にある私の後輩は、白川郷のさらに裏にある、古民家部落としての観光地にもなっている地域が両親の実家だ。東京に出てきた父親は染物職人、母親は行商をやっていて若くして亡くなっている。)そしてこの世界では、いまだに親分―子分の関係が葛藤され、若者への酒や女を通じた通過儀礼が強請され、性と暴力の放埓があり、むしろその仲間内の現実が、現今世代の空虚さへの不適応(不器用)を惹起させているのだ。いや日本のあちこちの地域で、中上建次の故郷新宮の「火祭り」のような、形式的な残存だけでは危険すぎてありえない、男の活力と連係が実質継承されていなくては担ぎあげられない祭り(御輿)が、神が生きている。

<もう少し厳密にいうならば、縄文人はおたまじゃくしを信仰の対象にしているのではない。おたまじゃくしのお腹には「月の子」が入っている。月の子こそ人間のいのち・魂なのであり、おたまじゃくしは月から月の子をこの世に運ぶために使わされたいわば「使者」。縄文人の信仰の対象は月なのである。…(略)…月が人間にも蝦蟇にも等しくいのち・魂をもたらし、生と死を司る地母神として考えられていることがわかる。…>(宮坂静生著『季語の誕生』岩波新書)

教養のない彼らが歌うのは月並みな歌謡曲かもしれない。が、教養としての季語に空疎化されない生き生きした生と死の世界になお隣接している。ならば、民主党の路線がつぶそうとし、救おうとしているのはどんな世界ということになるのだろうか? 空虚を読めない野暮な土建業のチンピラ作業員と、空虚を読めてしまう粋な製造業中心の真面目派遣労働者(コンベアー流れ作業は真面目でないと勤まらない)。お金ではなく、生き生きとしたものこそ回復しなければ人は生きていけないということが空虚(バブル)の最中にわかってきたことなのに、果たして民主党が救おうとしている後者から、何かが生まれてくるのだろうか?

<このことは、今日ではもはや経験は存在しないということを意味しているわけではない。しかし、それらの経験は、いまでは人間の外で遂行されている。しかも、奇妙なことに、人間はそれらの経験を安堵の念とともに眺めようとしているのだ。博物館や観光名所への訪問が、この観点からは、とりわけ示唆的である。この地上における最も偉大な驚異(たとえば、アルハンブラ宮殿にある「獅子の中庭」)を眼前にして、今日、人類の圧倒的多数はそれを〔じかに自分の目で〕経験することを拒絶している。〔自分の目で経験するのではなくて〕写真機がそれを経験してくれることのほうを好むのである。いうまでもなく、ここでは、この現実を嘆こうというのではない。ただ、心にとめておこうというにすぎない。なぜなら、おそらく、この外見のかぎりでは狂気じみてみえる拒絶の根底には、知恵のちいさな種が隠されているのではないかとかんがえられるからである。そして、その知恵の種のうちに、わたしたちは未来の経験のいまはまだ冬眠中の芽が胚胎しているのを占うことができるのである。>(『幼児期と歴史』ジョルジョ・アガンベン著 上村忠男訳 岩波書店)

ユダヤ人のアウシュヴィッツでの経験を突き詰めていくことになるアガンベンは上の初期論文で、ナチスの追っ手に逃げ切れぬと自殺したベンヤミンの「来るべき哲学」の遺産を受け継ぐとして、いわば「空虚(非経験)」さを選択している今日的な人たちの知恵のほうにこそ、「未来」が胚胎しているのだと言う。言うならば、派遣社員(フリーター)に軍配をあげている。しかしそれは、弱者救済的な民主党的な路線というよりは、その方針に覗える偏見、チンピラに対する偏見を抉り出すことにおいてである。――<それゆえ、幼児も、生者の世界と死者の世界、通時態と共時態とが不連続であることの触知しうる証拠として、あらゆる瞬間に反対物に転化しうる不安定な指示記号として、中和されなければならない脅威であると同時に、一方の領域から他方の領域へと、両者のあいだの指示記号的差異を廃止することなく移行していくのを可能にしてくれる方便でもあるわけである。そして、亡霊の機能に幼児の機能が対応しているように、葬送儀礼には通過儀礼が対応しているのであって、通過儀礼もこれらの不安定な指示記号を安定した指示記号に変形するためにこそ執り行われるのである。>(前掲書)……アガンベンがこうして記号論的に構造化してみせたのは、チンピラ世界に覗える普遍(不変)的な有り様である。「空気(虚)=時代」を読めてしまった派遣社員に失われたのは、この不変なのだから、修復へとめざされるべきなのは、土建世界の風紀になるのである。しかしそれが普遍的な真実だとしても、もはやそんなものを経験(信仰)する気にならない、俺はいやだと逃げる新人類の知恵にこそ未来があり……これは、言葉遊びな、単なる堂々巡りな論理にすぎないのだろうか?

私は、そうではないのだと思う。信仰しえるような、新しき「葬送儀礼」や「通過儀礼」が世界システムとして実現されうる、その下地となってしまうような世界的な悲惨をわれわれ人類は経験する段階にはいってしまった、アウシュヴィッツの、広島や長崎の原爆の……むろん、沖縄での戦争体験もそのひとつだ。われわれはもう、そんな歴史(儀礼=反復)を経験したくない。ゆえに、私は、民主党の意図に即してかはわからないが、普天間基地移設問題の延期や、在日外国人とされるものへの参政権の付与政策を、支持する。宜野湾市の市長らが明白にしているように、アメリカ合衆国はすでに海兵隊のグアムへの移転計画を実施しているのに、もらえる金はもらっとくためにと騒ぎをおこし、みえみえの嘘をついている(http://www.city.ginowan.okinawa.jp/index.html)。こんな他人を馬鹿(差別)にした話はない。しかし、そうしたアメリカへの追随に利得がある勢力からのやらせなのか、それに呼応しているかのように、右翼まがいの団体が在日の朝鮮人学校を急襲している(http://corea-k.net/date/000.wmv)。このビデオをみてみると、彼らが自分の未熟練な不器用さを、自身では適応できないその社会通念の言葉で自己正当化し、ユーフォリックな癒着に陥っているようにみえる。それは幼児じみているが、人間のよちよち歩きとは似て非なるものの、チンピラ作業員の酔っ払いの千鳥足と同類である(実際映像には、ヘルメットを被った作業員らしきものが出てくる)。

小沢一郎氏は、地方からの陳情を受けて、国民の要望だとして、ガソリン等の暫定税率の維持を要請したようだ。「ハコ(コンクリート)からヒトへ」に逆行すること事態に、その反動の正当性と危険性もが胚胎されてくるのである。