2010年12月25日土曜日

大事なもの

「サッカーを教えているだけでは、選手は育たない。教えるよりも「気付かせる」ことです。選手自身の口から、答えを言わせること。指導者が言ってはいけない。気付かせれば脳細胞が増えて、「こういう場面はこうしよう」と自分で判断するようになる。/プジョールのような選手を育てていかなければ、彼のような謙虚さや優しさがなければ、世界チャンピオンにはなれない。戦術を植えつけるだけではない。もっと大事なものがある。/問われるのは人間としての芯の強さ。いまここで、何をするべきかを感じ取る力。サッカーを教えているだけでは勝てない場所なんです。」(山本昌邦・戸塚敬著 『世界基準サッカーの戦術と技術』 新星出版社)

公園サッカーを卒業し、地元に根付いたクラブチームへと入部した一希。地区のフットサルに近い大会でさっそく2年生にまじってプレーし、6試合4ゴールを決めて準優勝。それでも悔し涙を浮かべて泣きじゃくるのにびっくりする。そして今朝も、「サンタさんが来なかった!」と、泣きわめいていたのを後に、私は仕事へと向ったのだった。「いっちゃんには、サンタさんは来ないといったでしょ。だって、もう知り合いのじいちゃんからメッシのユニホームを買ってもらって、夢がかなったじゃないか? サンタさんは、世界中をまわって忙しいんだよ。おもちゃをもらえない貧しい人から平等に配っていくんだよ。」と、適当なストーリーを言い置いて。「こんなユニホームなんかいらない! ぼくは、人生ゲームがほしいんだよ! きょうのサッカーになんかいかない!」、と叫んでいた一希の具合がどうなっていったのかは知らないが、どうにかじいちゃんに買ってもらったバルセロナの10番を身につけて、河川敷の練習場には向ったようだ。というのも、子供の報告では、ママが練習中にあれこれと声をはりあげて指示をだすので、コーチから黙るようにとイエローカードをもらったということだから。そのうち、レッドカードにかわるだろう。

しかし、人のことはともかく、私はどうするか? 「いまここで、何をするべきかを感じ取る力」をもっているか? いや、感じ取ってはいるだろう。具体的なアイデアもある。仕事(サッカー)よりも、「もっと大事なものがある。」とは、w杯解説者だった山本氏の言うとおりである。あとは、人を説得し、勇気をだして実践にうつすことなのかもしれない。自分の認識が、間違っているかもしれない。他の人は、そう揚げ足をとって保守するだろう。自分の想像(創造)は、単に前方への保守であり、作家の村上龍氏ふうにいうならば、「成功のためではなく、生き延びるため」の方策なのだが、それが前方に投げかけられるかぎり、生活を変える変革としてうつるだろう。いや具体的に、子供を犠牲にしてしまうことになったら? まあもうっちょっと、一希が大人に近づけば、というところだろうか? サッカーの試合をみていても、2年生にもなると、試合の流れをみて、ポジショニングや攻守の切り替え判断ができるようになるらしい。一希はそんな先輩からストライカーとして認められて、ボールだけを見た連動で前線に飛び込んでいくけれど、来年には全体的な判断力が培われるようになるだろう。女房が、黙っていれば。……

2010年11月23日火曜日

戦争(死刑)と取り違えの論理


「都市の出現や国家や王、さらには文字の出現に文明の誕生をもとめる文明史観ではもはや二一世紀の人類の未来は切り開きえない状況に追い込まれつつある。さらに、現代文明の危機そのものが、じつは都市や王あるいは高等宗教や文字・金属器の出現に文明の誕生をもとめる文明概念から発しているといっても過言ではないのである。いま問われているのは、文明の価値観の転換であり、新しい文明概念の創造なのである。」(安田善憲著『縄文文明の環境』)
北朝鮮と韓国との間での砲撃事件と、石巻で殺傷事件を犯した当時18歳だった少年に対する死刑判決の報道が、ひきつづいてテレビニュースで流れた。それを見ていた七歳になったばかりの一希が、なんで戦争しているの、なんで死刑にするの? と聞いてくる。子供の「なんで」には答えられないので、韓国では「もう我慢できない」報復すべきだ、という国民の意見の高まりと、自分の子供が殺された親は犯人に死刑という復讐を望む人が多いのだ、という状況説明を付け加える。それでも、子供が怪訝な様子をしているので、人は戦争がしたいのだし、死刑もやったほうがいいとおもっているってことだよ、と率直に言い換えてみせる。「なんで?」と子供はまたきいてくる。「じゃあ、いっちゃんは、」とたとえ話をしてみせる。「いっちゃんが殺されたら、いっちゃんは、パパとママに犯人を殺してもらいたくおもうかい?」一希は首をふる。「殺さなくていいよ。」「じゃあどうする?」「ずっと牢屋にいる、というのはありかなあ……」
戦争も死刑も、何か根本的なところを取り違えた大人(権力者)の、思い込み的な思いやり(復讐)、ということで同じ態度、論理なのかもしれない。北朝鮮への拉致被害者の親の会の言動を見聞きしていても、拉致された当人(子供)がいきなり日本へ連れ戻されたり、親がそれを強烈に願う運動をしていることをどう思うだろうか? と考えてしまう。むしろ困惑するだろう、自分の人生が否定されたような気がするだろう、たとえ無理やり連れ去られたとしても、もう相応な月日がたっている、いや年月になど関係なく、子供は「復讐」など望んでいない。親(国民)の怒りは、もう取り違えなのだ。ならば、我々がまずすべきこと、試みることは、怒りを慎むこと、そして、あくまで親が子を見守るような態度を保とうとすることではないだろうか?
この根本にある取り違えに、最近流布するエコロジーだの、生物多様性だの、森の保全だの、といった言説態度が、有効になりえる論理たりえているのだろうか、と考える。それらはどうみても、経済的に調整させること、つまりあくまで根本はそのままで、利害がなければ人は動かないからそれに乗じることで以前より数値的にましになってくれれば儲けものだ、ということのように覗える。しかしそう考えること事態に取り違えがある、ということだろう。経済(利害)的なやりとりだけが、人の動機ではない、ということを子供たちは訴えているのだから。いやどうも、いわゆる世界史では常識な、世界四大の古代文明でさえ、すでにの取り違え、ということになってきつつあるらしい。100年後の世界史の教科書は、根本から刷新されてくる可能性さえあるようだ。冒頭および、以下の引用を参照。
=====     =====     =====     =====
「しかしそれだけではなく、縄文人は農耕社会へ突入することを意識的にさけていたようなきらいさえある。富を貯蔵し、貧富の差を生み出し、その富を背景とした権力者が、貧しき人々を搾取するそのような社会に突入することをさけていたように思えるのである。」「一方、日本の縄文文明は、三000年前頃の気候の寒冷化のなか、大陸から稲作という生産様式に立脚した、まったく新しい文明システムを持った人々の渡来の中で終末をむかえた。しかし、その自然=人間循環系の文明原理は、その後の弥生時代から歴史時代に入っても受け継がれてきた。そして、高度経済成長期以前の日本の山村には、いまだ縄文時代以来の伝統が残存していた。トチモチやドングリ団子など縄文時代の人々が作ったのと同じ方法で作る食物まで残存していた。山村の人々の暮らしは、まさに自然と人間が季節を媒介として循環的に営まれた縄文時代の人々の暮らしの延長線上にあった。」(安田喜憲著『縄文文明の環境』 吉川弘文館)

「ラスラップのアマゾン「文明」の根本概念は「家の庭」仮説に象徴されている。「家の庭」仮説とは、古代アマゾン人が社会を建設する際に、アマゾンの自然を大規模に切り開いて開発するのではなく、緩やかに「半」人工化して自然と共生する方法を選んだというものである。半人工化にはさまざまな方法があるようだが、最も単純な方法は、原生林から生活に役に立ちそうな木、あるいは植物を住居の周りに移植して小規模な果樹園、菜園を造園することである。そこで自生の樹木、草木を人工的に栽培して、人間の手を入れて生活に役立つよう改善してゆくのである。この方法は現在のアマゾン先住民の間でも使われているが、自然の生態系を一部切り取って、小規模な人口生態系を創る試みである。一見日本の里山を思わせる発想であるが、ラスラップは、古代アマゾン人はアマゾンの自然を半人工化することで資源として活用し、環境的に永続できる文明社会を構想したと考えた。(実松克義著『アマゾン文明の研究』

2010年10月31日日曜日

自然と理論――『世界史の構造』をめぐって


「この問題は「人間と自然」の関係にかかわっている。ここまでこの側面を捨象してきたのは、「人間と自然」の関係は、人間と人間の交換様式を通してのみ実現されるからだ。「人間と自然」の関係は根本的である。しかし、それを強調することによって「人間と人間の関係」を忘却させるイデオロギーに注意すべきである。一般に、それは、工業社会批判、テクノロジー批判といった文明批判のかたちであらわれる。それは概ね、ロマン主義的な近代文明批判の型を踏襲している。だが、環境破壊をたんに「人間と自然の関係」という観点だけから見ることはできない。なぜなら、環境の破壊=自然の搾取は、人間が人間を搾取する社会において生じるからだ。」(柄谷行人著『世界史の構造』 岩波書店)
久しぶりに、かつて社会運動を一緒にやっていた仲間数人と顔をあわせて話す機会をもった。当時二十歳まえだったような少年も、もう三十歳の青年となる。会社をやめて、中国への旅行から帰ってきたばかりで、またネパールへ旅するという。彼は運動創設者の近著『世界史の構造』など読んでいなかったが、世の情勢に左右されまいとする個人のそんな単独行動(自由)がなかったら、そもそも社会運動など生まれもしなければ必要もないだろう。むしろ、かつての会員らが集まってまた読書会をはじめたというそんな動きのほうが、私には怪訝におもわれる。そこで、その久しぶりの話あいで知ることになった、その著作出版にともなう文学系雑誌での座談会を読んでみて、やはり運動解散後に感じたことを、ここでもう一度確認して書き付けておこうと考えた。すでに何回となく、このテーマパークでも指摘したことなのではあるが。

私の見立てでは、柄谷行人氏がNAM運動後に自分の考えを明確にさせるとっかかりとして使ったのは、その運動プロジェクトとしてあったRAM、というか、その芸術系企画の引率者岡崎乾二郎氏の言説である。柄谷氏は、岡崎氏のNAM原理批判としてあったかもしれぬ「贈与(ハウ)」という観念、柄谷氏が忌み嫌ったムラビトを連想させもする観念を、自分の思想の中で受け入れてみせることで、その概念を批判的に差異(区別)化してみせたのである。言いたい問題点はわかるが、そんなのではだめだ、と。

『文学界』10月号、もうひとかた大澤真幸氏を交えた対談「ありうべき世界同時革命」では、この差異(区別)が衝突することからはじまっている。岡崎氏は、まず「贈与」によって生ずる返礼への「ハウ(呪力)」を、『世界史の構造』の文脈に沿って読み替えてみせるのだが、そこを柄谷氏は「おっしゃる意味がわかりませんが」と切り替えしている。そして、「先ほどの、交換様式Dを最初に想定する意見だとしたら、僕は賛成できない。」と岡崎氏に否定的に釘を刺す。私の判断では、一般的、悟性的理解では、岡崎氏の意見の方が正しい。それが先に(前提として)あるとするから「構造」なのだから。しかし柄谷氏の方が、「専門的用語や概念を正確に理解」しようとはしない、実践的用法として、つまり単なる比喩と開き直って「構造」という言葉を使っているのかもしれない。自分は「門外漢」だとまずは岡崎氏は自分にとみせかけて柄谷氏のそんな言葉への非厳密さに釘を刺してみせたのかもしれないのだが、それが方向(意味)を屈折させて自分のほうに向けられてきたような感じである。しかしそうなると、一般的な理解をまずはしなくてはならない読者としては、柄谷氏の意見は理解困難になるのである。つまりそれ(構造)は、先(無意識)として前提的なのか、後(意識)から作りだしていくものとして考えられているのか? 柄谷氏本人はどうも後者だと言いたいらしいのだが、そんな「構造」というものがあるのだろうか?

この不可解さは、『群像』11月号での対談「世界同時革命――その可能性の中心」でも、島田雅彦氏によってやりとりされている。島田氏はそこで、「抑圧されたものとして回帰」されてくる「構造(無意識)」は、いわば「プログラムされている」ということではないか、と理解しようとする。が柄谷氏は、「違います」と返答する。またむしろ、その「反復(回帰)」が無意識的に再起してくるとする「自然の狡知」という理解、そういう「自然」の概念をもちだしたくない、と付け足す。私の立場(実践)では、この「自然」の区別、その理論的差異はどうでもいいので、<自然が復讐してくる>、と単に互酬的に言っていればよいのだが、柄谷氏はそういう植木職人的、あるいはかつての柄谷氏の江戸研究の用語でいえば陽明学的な自然理解という非厳密さはいやだと言うのである。では、人為的な構造、先にある、のではなく、後から来る、という構造とはどんなものなのか?
*『中央公論』2011.1月号での佐藤優氏との対談「国境を越える革命と宗教」でも、佐藤氏から類比的な突っ込みをなされている。――<柄谷 …だからこそ、構造論的な視点が必要なのではありませんか。前にお話ししたとき、佐藤さんは、右翼の前で、「高天原というのは『統制的理念』である」というと、理解してくれるといっていました。それなら、高天原は交換様式Dだ、といってもいいわけですね。その場合、高天原の意味が変わる。たんに高天原という固有名詞でやっていると、右翼的になる。しかし、本当に目指しているものが交換様式Dだといえば、ほかの者とも連帯できるはずです。佐藤 その考え方ができるのはわかります。そうすると、そこで出てくる数学的なるものは、これもまた変な言葉を使いますけども、リアルなものなのでしょうか。柄谷 それは、まさに普遍論争みたいな話です。佐藤 普遍論争に引きずり込みたいので、こういう問いかけをしたのです。柄谷 簡単にいうと、形而上学というのは、「物があること」と「物の関係があること」の違いを見出したところから始まったと思います。そのとき、二つの世界があるかのように考えられた。物が存在するフィジカルな世界と、関係が存在するイデア界。佐藤 その両者とも、ものごとを観察するという発想から出てきていますよ。柄谷 それはそうですが、われわれは一定の関係をあらかじめ把握していないと、物を観察しても物が見えない。実験は仮説にもとづいておこなわれます。それがないと、実際に物を見ても見えない。佐藤 でも逆に、実際の物を見て、何も悪いことをしていないように私には見えるけれども、国後島にディーゼル発電所をつくるときには賄賂を受け取ったんじゃないかと、検察官の心眼では見えるというふうになるわけです。だから、仮説というのは怖いのです。>

柄谷氏はこの疑問へ、具体的な用法・用例によってイメージ化させているようにみえる。つまり、理論化としてではなく。

<……自然状態というより、たんに「戦争状態」といったほうがいいわけですが。その場合、ホッブズは戦争状態を脱して平和状態を創設するためには、国家を設立するしかないと考えたのですが、彼は明らかにまちがっていた。たとえば、氏族社会には平和状態があった。イロクォイ族の部族連合体が一例です。これは、ホッブズのような「社会契約」でなく、贈与の互酬性による「社会契約」にもとづいていた。>(『文学界』10月号前掲書)

<クラ交易のようなものは、それ自体が交易なのではなく、贈与によって、平和状態、友好的な関係を創りだすためのものですね。そのあとで交易する。だから、このような贈与は「贈与への衝動」というよりも、むしろ、自然状態への恐怖、そこから出たいという衝動、と見るべきだと思います。/ホッブズは、自然状態からの脱出を、全員が一者(レヴァイアサン)に服従するような形態、つまり、国家に見いだした。それが「社会契約」と呼ばれています。しかし、そうでない平和の創出がある。つまり、暴力にもとづくのではないような「社会契約」がある。それは贈与の互酬にもとづくものです。…(略)…つまり、カントのいう「永遠平和」を実現するためには、そのような贈与の互酬性にもとづく社会契約に鍵を見いだすということです。それは、交換様式Aの「高次元での回復」ということになります。>(『群像』11月号前掲書)

上のような言述から言えることは、それが<ヒトの「知恵」>、と呼べるようなものだ、ということだ。この洞察認識前提から、日本国憲法9条による軍備放棄という世界史への贈与実践、という実例、提議案がでてくる。つまり知恵とはある先にある認識が前提とされる意識的な実践だが、それが後知恵とならないためにも、先に提示しておくべきだ、という発想である。だから、自動(自然)的に、次の世界戦争の次に世界同時革命が起こる、というロシア革命時のような期待は批判される。後からくるかもしれない「抑圧されたものの回帰(無意識)」は、意識的に先に「回復」されなくてはならないのである。しかし理論レベルでいえば、この発想は、論理として筋が通っているのだろうか? 私には不透明である。

*憲法9条による軍備放棄ということに関し、私は、それを日本サムライの切腹という贈与儀式の実践として、伝統的に提示した。その提言は、ドストエフスキーの『白痴』』にみられる世界的作者の切腹への共感、あるいは、トムクルーズの『ラスト・サムライ』にみられたインディアン(=縄文人、狩猟採集民的、恥と名誉の倫理)にみられる世界史的類似構造性、ということにも結びつけられた。私は「門外漢」な素人なので、まったく理論的ではないとしても、私の現場では、とくに右翼的な現場では、こちらのほうが説得力をもつだろう。国連重視の柄谷氏の発言自体は、すでに他の運動家でも言っていたことではあったろう。が、氏の発言がある種の説得力を持つとしたら、心情的、信念的、根拠なき運動家の意見とちがって、そんなことをいうのは「なぜ」か、という「ヒトの欲求」に答えられるような文脈、背景をふまえて意味づけられているからだろう。しかしならば、なおさら氏の理論化しようとする「知恵」が、論理的に提示されているのか、提示されることが可能なのか、を問うこと、つまり、その原理の根幹を明確にしようとすることは、必要な原理論作業の一つかもしれない。

悟性重視にみえる岡崎氏は、論理推論的に、原子力や情報テクノロジーのカタストロフに言及する。それは一見、安易な取り込みにみえるけれども、氏の現場と結びついた事例である。その思考が論理に厳密たろうとするのは、氏に実践があるからで、逆に、柄谷氏の理論が非論理な実践性を提示しているのは、氏の立場が理論家である、ということからきているのかもしれない。岡崎氏の批判が正当であるようでも、柄谷氏のほうに説得力が感じられてしまう<ねじれ>にこそ、原理論の難点、盲点、アポリアがあるということだろうか? つまり、あくまでその内容如何ではなく、原理発想の出所において。出所の論理の理論的不明瞭さは、実践上の具体的現場において、当思想家本人の判断や嗜好の恣意性に左右される。あるいは一般会員をしてふりまわされているように感じさせる。ならば、この新しい著作をいくら読書したとて、同じ過ちが繰り返されるだろう。ネットで調べてみると、読書といっても、岡崎氏のように自らの現場からどう読む=使うか、という実践性によってではなく、あくまで哲学・文学史的な教養文脈の延長によって支持者に解説されようとしている。しかし、そんな文脈は、現実のどこにもなく、あるとしたら、かつての大学の体系の中においてだけだろう。
われわれNAM残党は、同じ過ちを繰り返さないためにも、柄谷のことなど知ったことかと、自らの現場の単独(固有)性こそをまずはより自立すべく努めるべきである。それなくして、連帯(連合)などない。

2010年10月22日金曜日

野球、サッカー、そしてダンス


桑田 そうですね。ぼくが飛田穂洲の思想を表現するにあたって「絶対服従」という言葉を使ったのには、理由があります。野球は監督の指示に従ってプレーしますから、絶対服従のスポーツではあるのですが、じつは試合で絶対服従がどれだけ生きるかというと、生きないんです。言われたことしかやらない、言われたこと以外をやると怒られるわけですが、じつはそれでは勝てないんです。
 なぜなら野球では、1球1球状況が違って、飛んでくるボールの速さや角度も違えば、風もあり、打順、点差、さまざまな要因で、なにもかもが変わってくる。だから本当は、自分で考えて動ける選手じゃないと、首脳陣からの信頼は得られないんですよ。でも、練習では絶対服従で、自分の言うことをきく選手をつくっているわけだから、試合に勝てるわけがない。勝てないから猛練習をする。また勝てない。これは悪循環ですよね。」(桑田真澄 平田竹男著『野球を学問する』 新潮社)

野球界が抱える問題を根底から考えてみたいと早稲田大学の大学院で研究し、首席で卒業したという元巨人軍の桑田真澄選手。私と同世代の桑田氏によれば、その研究の端緒とは、先輩や指導者からの「いじめ、体罰、無意味な長時間練習」という体験であり、いわば「悪しき精神主義、根性主義」がどうして成立していったのか問うことだったという。私はまず桑田氏のその態度に敬服する。同時に、父親当人は野球などしたこともないのに、ジャイアンツのV9に感化され、長嶋選手にあこがれ、漫画『巨人の星』の一徹親子よろしく、我が子とマンツーマンで野球と取っ組みあう父子関係をもった最後の世代であるかもしれないながら、少年時代には清原選手のように、封建的というよりはより民主的な『ドカベン』を面白くテレビ観賞してきたわれわれ世代だからこそ、問いかけはじめられた疑問なのではないか、とも思う。そう私が振り返るのは、高校での野球生活で、私自身が桑田氏のような疑問に苛まれ、はややる気が崩壊していた、という経験があるからである。高校の頃の私は、昼に起きて登校し、部活の野球だけをやって帰宅し、夜には漠然と芽生えた疑問がなんなのかと、哲学書や文学書などを朝方まで読み続ける、という生活を続けたのである。いや夜学の早稲田文学部にいき、卒業後も夜勤務などをしてしのいでいた私は、27歳ぐらいまで、そんな昼夜逆転の回り道生活をしていたのだ。まがりなりにも疑問をはらすのに、10年近くの歳月がかかったのだ。ただ私に懐疑を抱かせたのは、桑田氏が体験した「絶対服従」的な部活生活ということではなく、あくまで、それと戦後(?)民主主義的な在り方への落差においてであった。つまり、軍隊生活的な中学の野球部から、私はその数年前に甲子園に初出場して世間を騒がせた公立の進学校の野球部にはいったわけだが(山際淳司著『スローカーブを、もう一球』角川文庫、のモデル高校)、そこはすでに、桑田氏がPL学園で自ら勝ち取っていった練習のような、民主的な自主トレだったのである。(…しかしそれは、甲子園出場をなしえた監督のなせる方針だったかもしれない。きくところによると、いまは猛練習だという)――なんだこの生ぬるい練習は、と先輩たちをみておもいながらも、先輩たちは強かった。入部してすぐの関東大会では、横浜のY高をやぶり、東京の創価を破り、そして決勝では、同じ群馬代表の、いまはプロ野球西部ライオンズの監督をしている渡辺投手ひきいる前橋工に1-0でおしくも負けた。その後、打倒渡辺対策のバッティングピッチャーにかりだされた私は、肩を壊したが……。しかし、おそらく桑田氏も、その野球体験はただ封建社会的なものだけだったわけではもはやなかっただろう、とおもう。いわば、われわれは、『巨人の星』と『ドカベン』を、「一身にして二世を経る」(福沢諭吉の言葉、だと思うが…)、ような体験として出くわしたのである。

私はいやだった、封建社会も、民主主義も。その絶対服従も、要領のよさも。世間も、官僚も。

桑田氏の対談相手であり、サッカーJリーグの創設にも携わったという平田氏は、「おそらくサッカー界は、野球の軍国主義的なやり方をすごく否定してきた」のであり、「言ってみれば、野球を反面教師にがんばってきたつもり」なのだという。しかしその過程で捨ててきてしまったものがあり、「絶対服従はいけないが、礼儀正しさとか、丁寧さとか、日本人として守らなければならないものまで捨ててはいけない」、と。

作家の村上龍氏がインタビュアーになるテレビ番組「カンブリア宮殿」で、元サッカー日本代表監督の岡田氏は、リスク(責任)を負って監督から言われたこと以外の個人判断を選手に実践させていく、その苦労のことにふれられていた。日本は文化伝統的に、個人が大人しくなってしまう、という話のなかで。対して村上氏は、松井選手の切り替えしセンタリングを落ち着き払ってシュートを決めた本田選手をほめ、しかし勝敗を決めるのは、そのような個人の才能だったり、経験だったり、ひらめきだったりするんですね、と返答していたようにおもう。私も、あのゴール前であわてずにきちんとボールを「止めて、蹴る」、という基本を実行できた本田選手に新しさを見出したが、しかしそれは、今までだったらあわててはずしてたんですが、と村上氏も伝統(個人のひ弱さ)をふまえて前置きしたように、私はむしろ、今まで(伝統)があったからこそ、あの個人が生まれたのだ、と理解する。城選手の急いたボレーシュートの失敗があったからこそ、本田選手の基本技が新しい伝統として創造されてくるのだ。つまりまた、そのように個人の緊張がなければ、伝統は継承されないのだ、と。

一人親方として仕事をすることが多い植木屋の技術とてそうである。系列にはいって言われた仕事だけをこなしているのならば楽だが、状況の変化に弱くなる、つまり個人でどう動くか、という鍛錬を積むことができていなければ、単に倒産してしまう。かといって、そこに入らなければ、選ばれなければ、信用を得なければ、年を越せる仕事量にありつけない。つまりやはり失業してしまう。この個人と組織集団(系列)の緊張の中でこそ、技術が生き、生きた個人の間にだけそれは継承される。

歴史とは、固有名の連続、持続、ということではないだろうか?

岡崎 ……ピナやマースといった固有名が消えたあとも、それが継承できる形式になりえていたかどうか。もしそれが、既成のジャンルには回収されえないようなものであったならば、むしろ、それが固有の形式をもっていたかどうか、本当に表現ジャンルとして(本人なしでも)自律していたかどうかが問われる。亡くなってしまうとはっきりわかりますね。確かにそれは影響を与えただろうけれど、本人たちがもっていた過激さは失われてしまう。回収できる影響しか残らないということがある。>(「ピナ・バウシュ追悼・身体技法の継承と制度化」 浅田彰+岡崎乾二郎+渡邊守章 『表象04』所収)

伝統あるヨーロッパや南米のサッカーチームが強いのは、かの地の子供たちが草サッカーで名前を引き合いにだし、成りきって実演するための固有名を幾人も抱え込んでいる、ということではないだろうか? カズ、ナカヤマ、ナカタ、……この連なりが多くなるほど、逆にいえば、そこに名を残そうとする個人が持続的に発生し、積み重なればなるほど、日本サッカーの伝統が反復創造されてくる、ということではないのだろうか?

2010年9月16日木曜日

政(まつりごと)と果実


「したがって、『人間学』は文化の歴史でもなければ、文化の諸形態の分析でもなく、あらかじめ有無を言わせぬかたちで与えられている文化の実践となる。この実践は人間に対して、自分たちの文化そのものに世界の学校を認めるよう教えるのだ。」(ミシェル・フーコー著『カントの人間学』 王寺賢太訳 新潮社)

カブトムシの幼虫が育ったあとの、糞だらけの培養土をただ捨てるには忍びないと、ベランダ菜園をはじめてみた今年。とりあえずはトマトとナスとシシトウ。この土再利用のアイデアは面白いと自惚れながらも、野菜を育ててみる土にしてはカブトの糞がでかすぎなのではないのか、糞が多すぎで果実の味がおかしくなるのではないか、と心配していたのだが、ちゃんと結実し、食べてみても問題はなかったのでひと安心。ただ普通のミニトマトとシシトウは、次から次へと果実を得ることはできるが、、ちょっと高価なシュガートマトだの、ナスだのは、一度採れると土の栄養が切れるのか、もう終わってしまう。やはり追肥が必要なのかな、と思うのだが、土にはなおたくさんの幼虫カブトの糞が残存している。女房は、有機肥料などと呑気なことをいってないで、液肥を買ってプランターにさしこんでいればいいのよ、と息巻くのだが、金かけてやるようなものじゃない。米のとぎ汁をとっておいてよ、といってもいまなお協力の気配なし。でもまあ、やはり野菜は土作りから、と実感できただけでもやらないよりはやったほうがましだったとおもう。6階に住んでいると、植木鉢には雑草も生えにくい。たまに生えてくるクローバーを、女房が根こそぎ抜いてしまうので、マメ科は窒素を固定化するから養分蓄積にはいいんだから抜くなよ、としかる。が逆に、土の中での微生物も寄生しにくいらしく、さなぎや成虫になってから死んだカブトムシの死骸が、プランターの土の上にいつまでもその原型のまま残存している。金魚の死骸と一緒に。アブラムシやイモムシに葉を食われる心配もそうしなくてもよさそうだが、だからこそ土作りをきちんとやらないとかんのだな、と考える。じゃあ今度ははコンポなんとかという腐葉土作りの入れ物を残材で作って、そこにカブトムシの幼虫の糞交じりの培養土をいれ、ミミズを捕まえてきていれ、ベランダに飛んでくるケヤキの枯れ葉をいれ、残飯をいれ、たまに米のとぎ汁をかけて栄養価たっぷりの土をつくってやろう、それでうまくいったら、次には収穫物から種を採取してそこから育ててみよう、と実践欲が湧いてくるのだった。
とまあ、私が試みる実践などとはこんな程度のことになる。庶民の度素人な自己流趣味だ。それは、世の中を変えることとは関係がないかもしれない。しかし、私がここのベランダに立っているのは、青年時の引きこもり登校拒否からフリーター、植木屋になって三十歳半ばをすぎて結婚し一児の父になるまでの過程があってこそ、である。その試行錯誤自体が、ベランダ菜園という試行錯誤を産出している。その実践は、山に登り、子供と田植えをし、といった観念への渇望を生み出すことにつながっている。この夏の異常な暑さで、ぎっくり腰がなおったとおもったら日射病にやられて、田植えした里山への稲刈りには参加できなかたったが、たまたまこの団地の会が、親睦交流を結んでいる群馬赤城山麓への稲刈り体験を募集している。私の地元群馬県の高校の同期会にいけば州県制の話であり、中学の同期会にいけば市町村合併の話だった。私の軌跡と、身近な実践と、観念と、現状は、からまりあっている。おそらく私にできることは、そのそれぞれの糸を私の身近において編んでいくことなのだろう。
民主党選挙では小沢氏が負け、菅氏が勝った。一般的には、インテリ層が小沢氏支持で、大衆層が菅氏の支持であったと見受けられる。しかし新聞で報道する傾向とは違って、一人一票の得票率では大差はなかった、と私は受けとめる。小沢氏自身、党員・サポーター票が9万対13万という結果だったことに、そう認め、おそらく次の戦略の具体性を思い浮かべてきただろう。選挙前の世論調査という新聞報道自体が世論(特には態度曖昧な国会議員への)操作だとか、アメリカと対等に付き合おうとする小沢派と、対米追従の財政をとろうとする菅および官僚側という対外的闘争が、「政治とカネ」という偽装された内輪問題でごまかされた、という意見もある。その通りだとしても、こうした大きな政(まつりごと)は、なぜかもはや私の身体には反応してこない。むしろ、その世間的には意義ある真剣さだったかもしれぬ祭りは、ゆえに国家の権能を一層神秘化させることになったのではないか、その目に見える一契機だったようにおもえる。つまり、日常的にも、目に見えた動きが、緩慢だった日本(アジア)でも見えてくる。サプライズといわれた選挙後の政府・日銀による市場介入は、そうした国家の神権化の趨勢の成り行きだったのではないか? 小沢氏は介入すべきと選挙ではいっていたが、それに反対ではあった菅氏でも準備するはめになったのは、政治家個人の力量を超えた波に流され始めたからではないのか? 
ベランダのプランターに実るミニトマトは、大きな政とは関係ない実践果実かもしれない。けれども、そのささいな出来を注視する日常・庶民的な注意を忘れることは、実際の実に繋がっているかもしれないより糸を、選挙された国家神秘主義(ファシズム)という魔法の一手で、一挙両断されてしまうかもしれない。

2010年8月6日金曜日

サッカーと構造


「ここまでは、いわばサッカーの準備期間と考えていい。テクニックのベースができて、その使い方も覚えた子供たちは、次のステップを踏み出すことが可能になる。それは「サッカーを読む」というトレーニングである。もちろんFCバルセロナ(バルサ)のカンテラ(下部組織)時代にも、テクニックを磨くトレーニングがなかったわけではない。しかしそれはウォームアップの段階や、トレーニングの最後に組み込む程度で、あくまで重きを置いたのは「プレーを読む」、つまり状況判断を磨くことだった。」(『史上最強バルセロナ 世界最高の育成メソッド』 ジョアン・サルバンス著 小学館101新書)

たいがいの植木屋さんは、剪定残材をトラックに積むのに、荷台にコンパネを立て、箱のように囲いを作ることで対処している。そのコンパネを縦に使うか横に使うかはまちまちだが、縦使用は荷重に押されてコンパネが倒れてくるのを防ぐためにロープで巻いたり、その高さのために後からしか積めなくなるという面倒がある。横に使う場合、ゴミの集積状況に応じて、コンパネを上にスライドさせていかせることになり、状況判断を怠ってそのままにしていると、荷の圧迫でもうコンパネがあがらない。律儀な職人さんは、そうあがらなくなるまでよく残材を踏圧したほうがたくさん積み込めるのだ、と無理やり若い人にさとしたりしているが、あげてから踏んでもかわらないだろうに。いつもうんうんうなって苦労してあげさせている。私は馬鹿馬鹿しいので、若者には、早めにあげておけ、というのだが、むしろ若者はそのちょこまかな判断が面倒なので、コンパネをあげるのを怠って作業を続けてしまう。すると、もうあがらない。黙ってそのまま仕事をつづけている。そのままではろくな分量が積み込めずにゴミが溢れてしまうので、自分が荷台にのってこの野郎とばかりにコンパネを引き上げようとすると、バキッっと、腰のほうが折れる音。そのまま残材の上に仰向けに倒れて、身動き不能になってしまった。

このぎっくり腰のおかげで、しかしW杯のテレビ観戦はよくできた。仕事は休めないというので、明日仕事でも、横になって寝ると、起き上がれなくなるので、一週間、椅子に座って寝た。寝れないので、テレビをつけて、深夜や早朝のサッカーを観ることになる。パラグアイやウルグアイの試合をみていると、夏の甲子園みたいで、選手の必死さがよく伝わってきて、面白い。がスペインの試合となると、眠くなってきてしょうがない。弱者がカウンターの一瞬にかけるのは素人目にもわかりやすいし、物語性があって興奮もするが、パスサッカーとなると、とにかく単調で、ハイになる場面が素人目にはつかみにくい。もともと、点取りゲームとはなりにくいサッカーはそうなのかもしれない。私が中学生の頃だったか、東京12チャンネルで、週に一度の夕刻、ヨーロッパのサッカーを一時間ばかり放映していた時期があった。あの緑の柴の上を、ボールがゆったりとあっちへいき、こっちへいき、スタジアムでは、当時もブブセラの音だったのだろうか、眠気を誘うを間延びした笛の音が響いていた。それは不思議な感覚だった。退屈なのだが、言い知れぬ快楽がある。

「サッカーしているのに、どうして戦争があるの?」と、W杯での日本の活躍に、少しづつサッカー小僧的な熱意を示しはじめてきた息子の一希は、そう尋ねてくる。戦争していて、サッカーの試合にでれなくなる場合もあるんだよ、と状況証拠的な解説しかできない自分がいる。サッカーをみていると、どうしてもローマ時代のコロッセウム、パンと見世物、というヨーロッパの歴史を思い起こしてしまう。実際、チームは大金持ちの所有物であったりする。選手が、スタジアムで闘わされる妾にもみえてきてしまう。カメルーン出身のエトーは、財団を作って地元の貧しい子供たちを支援している。メッシも、難病を抱えた子供たちを助ける財団を作っている。日本の中田氏も、団体を作って世界中の貧しい子供たちにサッカーボールを配りながらその地域の活動を助けている。私には、氏がブランド品を身につけた格好で、さっそうと被支援者のもとへ赴く姿は、ほんとうに偉いことなのかと疑問もわくし、マイクロソフト社のビル・ゲイツの、資本構造に寄生した慈善的偽善のようなことを、オーナーにかわってサッカー選手個人が代理しているような構図だな、とも思うのだけれど、個人の活動を構造に還元してもしょうがない。その個々人の純真さがなかったら、構造も変えられないだろうから。

腰が治ってくると、仕事もなくなってきて、今度は休んでいい、となる。ずいぶんと都合のいい話だが、そういう構造にのっかっているのだから、そこでジタバタしてもしょうがない。むしろこの時を有意義に使って、構造から出られる次の領域へ繋げていこうとすることだ。若い人は早まって、早急な判断をくだすかもしれない。中田氏がスペインのシャビ選手を評価していったように、「(周囲をみるための)首を振るタイミングがいいんですよ。疲れてくると、まわりをみなくなったりするんですが…」――そのちょこまかした動きをつづけ判断を怠ることを自制できるのがベテランの技なのかもしれない。私はどうも、もう若い人を気にかける余裕がなくなってきている、というより、どこか見限っている判断をくだしはじめているのかもしれない。

が、子供たちは別だ。バルサのカンテラのコーチだったサルバンス氏は、日本のスカウトができがった人材を探して「補強」しようとしているのに対し、ヨーロッパのスカウトは、公園で草サッカーをしている子供たちをみつけ育てることを目指している、という。できあがった人を変えるのは無理だ、そしてできあがった構造を変えていくには、まだできあがっていない子供たちを育てていくのが、回り道なようで近道なのではないだろうか? つまり、「サッカーしているのになんで戦争がおきるのか?」、そんな子供の疑問に、こちらもが一緒に考えていけるような共存条件を作り、維持していくことではないだろうか? そうでなければ、子供はいつしか自分のような大人になり、大人の自分は相変わらず、のままだろうから。

2010年7月23日金曜日

庭から森

ホームページ<ダンス&パンセ>のテーマパークでは、特集《庭から森》と題して、エセーを掲載しました。



そちらをごらんください。

2010年6月26日土曜日

W杯、理想と現実


「例えば野球ではWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)において、日本はアメリカに勝利した。私にとっては、これは想像を絶する結果だった。しかし、サッカーでは、日本人の成長は停滞気味で緩やかである。それが彼らを悩ませている。まだ、バスケットボールの世界でもNBAに肩を並べるほど強くなることは難しいようだが、サッカーでならば、日本人は野球と同じようにできるはずなのだ。(イビチャ・オシム著『考えよ!――なぜ日本人はリスクを冒さないのか?』 角川oneテーマ21)

「ゴールまえで立ってるのよ。もっと守らないとだめでしょ。」と女房、子どものサッカー練習を見ていて一希をそうなじりはじめる。小学生のグループに入りはじめて、6年生をおさえて6試合で5得点と得点王、ゴールの味を覚えたのか、走ることが少なくなる。私が見ていたときもそんな様子だったが、先輩たちもストライカーとして信頼しているのか、「イッキ!」とパスをだしてくる。その横で、ああだこうだと女房が騒いでいるので、私はうんざりしてくるのだが……。まず、自分で考えること、幼児の頃のボールにわあ~っと集まっていくだけの動きとは変わってきたのはその証拠だ。ここにいれば、一番シュートできる確立がたかい、と自分で発見していったのだろう。それは、ゴールする喜びを覚えたからだ。そこから逆算して論理的に演繹しはじめている、ということだ。そういうサッカーには特に必要な論理思考を自己訓練しはじめてきているのに、いきなりああやれこうやれと指図するのは、それこそオシムが日本サッカーに求めた、「考えて走る」力を削いでしまうことになる。そのうち、そんなオフサイド(待ち伏せ)攻撃でもゴールを決められなくなるに決まっている、そのときどうするのか、と自分でまず考えさせることが重要なのだ。ゴールが目標(論理の帰結)なのだから、まずその喜びを知らなければ、そこに展開させていかせるイメージ力がはじまらない。周りの親たちのまえで自分の息子が楽していることに親が耐え切れず子どもをなじり、いい子にさせていかせようとするのは、それこそ日本サッカーが反省し、なんとかこの文化的癖を是正していかせようとしている方針に逆行していくことだろう。
最近の朝日新聞のアンケートでも、日本のサッカーにストライカーがいない、とか、決定力がない、とか見られるものを、自己主張しない、とか、出る杭は打たれる、ような日本の文化的な習性からきている、とみている人たちが多い、と知られる。私もとりあえずはその前提認識を共有するが、だから無理、諦める、という話になるとは思っていない。オシムは、なんで日本のプロ野球が世界一になったのかは「想像を絶する結果」だと述べているが、まさに封建的に愚直な野球界のほうが、サムライ魂が濃厚だからだ、というのが私の見解だった。しかし、それは本当の強さだろうか? 岡田監督自身が、野球部にある、先輩に対する問答無用な緊張感、その厳しさに耐え切れないでサッカー部に転向したとしても、その弱さから少しづつ強くなっていくという民主的な手続きと緩慢さにおいて、本当の強さが培われるものではないのか? と野球部での私は反省した。だから息子には、自分のような「奴隷根性」を身体化させられるのではなく、自分で考え意見を言える強い大人になってほしく、日本ではまだましなサッカーを選んでほしい、ということなのだった。そして、今回のW杯、日本チームを見ていて、そんな強さへの進歩が見られたことが、私にはなによりもうれしかったのだ。そこには、封建的な伝統ではなく、民主的な伝統が作られはじめている。カメルーン戦での解説者の山本氏は、これまでの蓄積がこの結果を生んだことを強調していたが、私も同感だ。サッカー自体は、決して強くはなっていないだろう(まるで優勝したかのような選手とサポーターというか国民の喜びようをみていると、次のパラグアイ戦でそれが証明されてしまいそうだが……)。しかし、これまでのW杯での負けが、サッカーを知っている、という経験知的な領域にフィードバックされているようにおもう。

稲本「役割分担が明確だから、みんな落ち着いていた。見る方は冷や冷やだったでしょうけど」
遠藤「カメルーン戦は、球を奪っても焦って縦にけり返すばかりだった、もっと落ち着いてパスをつなぐことも必要だった。オランダ戦に向けた修正点になる」

今ちょうど、決勝トーナメントに進出した韓国がウルグアイに2-1で負けた。対アルゼンチン戦をみてもおもったことだが、技術的に両者にそんな開きがあるようにはみえない、が、サッカーを知っている、というレベルにおいて、質的な差があるのではないかと思えた。野球でならば、それを知っているチームとそうでないチームとの差は、端的には走塁に現れる。リードの仕方ひとつでプレスをかけてくる。隙あらば走ってくる。そうやってミスを誘うのだ。プロともあらば守備側もそれに対応しているとおもわれるが、5月の日本プロ野球交流戦、ヤクルト対ソフトバンクを神宮球場でみていたら、ヤクルトのセカンドがずれていた。盗塁で二塁に進塁したランナーを背負って、バッターは一打席目に本塁打を打っている4番打者。遊撃手の宮本は、芝生の切れ目を越えた深い位置についている。ランナーを牽制するのはセカンドの役割、とはっきりさせるのはいい、が、その二塁手の守備位置が、半歩一塁よりすぎるのだ。せっかくシフトをしいて打者にプレスをかけようとしているのに、それでは半端になってしまう。だから、最初は小さいリードのランナーが、ピッチャーが投げようとするタイミングを見計らってさっと大きくとる。集中の切れる投手はカウントを悪くして、ノーツーから一打席目と同じ放物線を描いた逆転のツーランを打たれてしまう。原因は、セカンドの位置取り半歩不足と、それを見逃さなかったランナーのプレスの技術である。つまりそういうところに、野球を知っているかどうか、という差がみえてくる。韓国のサッカーは(日本をふくめて)、この意識的な微妙さを欠いたマニュアル的な攻撃にみえてしまうのだ。それに比べ、アルゼンチンは臨機応変に多彩であり、ウルグアイは明確だった。この差はどこからでてくるのだろう? 幼少の頃からボールを扱っている条件は変わらないだろうから、いわゆるボールコントロールの技術の差ではない。ではなにか? 私は、伝統(経験知、モデル)のあるなし、だとおもえた。ジダンは子どものころ、団地の空地での草サッカーで、単にゴールを目指してボールを蹴っていたわけではなかった。「俺はトッティだ」とか、フランスのヒーロー選手に皆が振り分けられなりきって、その役割をなぞるようにフォーメーションを組んで遊んでいたのだ。私は、この遊び方の違いが、サッカーを知っている、という微妙な態度技術に刷り込まれていくのだとおもう。スペインのバルセロナの指導方針でも、この実践的な技術を意識的にトレーニングさせているようだ。それに比べ日本の練習は分割的であり、子どもの頃から役割(大人)的にやらせると、女房のように、不平等感に苛まれて、親から文句がくるかもしれない。しかし、このワールドカップで、本田が、遠藤がみせた。子どもたちは、「俺は本田だ! 遠藤だ!」とその役割になりきってボールを蹴り始めるかもしれない。そうした経験が、重要なのではなかろうか? そして実際、中山を尊敬する岡崎の対デンマーク戦三点目は、中山のW杯初ゴールにどこか似ていた。しかし、カメルーン戦後の遠藤が自省するように、あるいはオシム氏が指摘したように、決して質のいいサッカーではなかったろう。本番前テストマッチの対イングランド戦でも、解説者のセルジオ越後氏はなんでここで後にパスをだすのかと、遠藤の選択を疑問視していたが、なお無理だったのだ。世界の強豪相手には、中学生レベルのクリアでしかピンチをしのげないサッカーの程度なのだ。岡田監督の後退した決断は正しかったことになるだろう。おそらくその壁を超えるには、遠藤のマイペースを取りもどす選択(鍛錬)よりも、それで試合の流れを変えられる程度の差ではないのだから、むしろ相手の流れの中にとびこんで、がむしゃらに泳ぎきっていくしかないのではないか? 海外でプレーする選手にはそれがみえているようにおもえる。私は、日本から出ていない遠藤や、日本サッカーのエリートコース出身第一号とされる阿部選手の活躍を面白くおもうけれど、なお理想とするサッカーをやれる現実的条件を勝ち得ているようにはみえない。

だから、国民が終わってもいない大会にはしゃぎすぎるのはどんなものかとおもう。日露戦争に勝った日本が現実を見失って妄想の世界に突き進んでいったように、勝利が歪曲された習性を、似非文化や似非伝統を身に染み込ませることもあるのである。

2010年5月15日土曜日

森と生きる力


「今日の里山の多くは、うっそうと木が生い茂る森になっている。しかし、かつて里山は、うっそうと茂った森林では決してなく、伐採跡地や、草山(萱場、まぐさ場)がいたるところにあった。里山がこれほど豊かな自然の状態になったのは、有史以来ほとんどはじめての出来事だろう。人が自然と関わらなくなるという、いまだかつて体験したことがない時代に、里山は今後どう変化していくのだろうか。」(渡辺一夫著『イタヤカエデはなぜ自ら幹を枯らすのか』 築地書館)


さて森林インストラクターの勉強とはどんなものなのかな、と調べてみると、試験問題集はこっちの財団法人、参考書はあっちの社団法人と、素人目にはなんともおかしな区分けというか、利益分与がなされているのに、改めてうんざりする。造園管理技士(国土交通省)もそうだったが、ここでもこんな公益法人が、といった感じだ。もともと、こんな国家のペーパー試験に合格してみたところで、とても山で生活している人の経験には及ばないのだが、ともすると、民衆は国家資格のある人を信用してしまうかもしれない、というか、そういう誘導がなされてしまう、ということで、その制度自体が必要悪というものかもしれない。すでに経験豊富な無資格者が、それだけで信用がおけないと一目おかれなくなってしまう。行政刷新会議では、まだ対象にはなっていないようだが、ほんとうはなくても困らない資格制度なのではないか? とはいえ、官僚が把握した現実問題と、そこから掲げられた理念が間違っているというわけではないだろう。実践的には、国家官僚の天下り先確保など、下世話なことにしかつながらない制度枠組み下の活動にしかならないだろう、ということだ。しかも手遅れなあと知恵だ。森林ボランティアが、実際には地元民にいっそうのボランタリーなお世話を負担させてしまうのだと指摘する田中敦夫氏がいうように(『日本の森はなぜ危機なのか」平凡社新書)、森林問題の解決にも、「政治的手法から経済的手法に移行する」自覚ある態度が必要なのだろう。もし人が、生活の安定と成長を、つまり幸福をのぞむとするならば。

しかし、民活重視の経済的再生なり活性化が、山なり森なりと人間との健全な関係を回復するのだろうか? むしろその成功は、よりいっそうの息苦しさや逃げ場のなさを、つまり都市問題を拡散させていかせないだろうか? 都市の空気は自由にする、という言葉があるように、山も実は、幸福よりは自由のためにあった空間だったのではないだろうか? 都市の自由が勝者の行き場だったなら、山は敗者のそれであったかもしれない。かつて、サンカと呼ばれた放浪の山の民が、平家や源氏の落人だとかする説はきいたことはないけれど、人目を避けて日本列島の奥深い山を縦断していたという様には、そのような想像をひきおこさせる。明治以降の近代化の過程で、山をめぐる法体系もかわり、戦時中にはそのような住所不定の人々にも赤紙がいって徴兵されたという。もはや逃げる場所もないのだ。そしていまも、山や森は所有と国家の法体系によって囲繞されている。山から都市へと出てきた出稼ぎ労働者が、経済構造の再転換によってはじきだされ、公園の中にブルーシートを張って野宿をする。そしてそこからも追い出されるとしたら、どこにいけばよいのだろうか? 青い住まいが設けられるのは、そこでも芝生の広がりの中ではなく、木の下林の中にである。テントを地面につなげる用具は使い捨てられたビニール傘の取ってであったりするけれども、樹木が林立つし茂れる空間は、雨や日をさえぎってくれるだけではなく、生活に必要とされてくる用具の発明と発見の、つまり知恵を活性化させてくれる偶発的な事物の宝庫だからではないか? そしてそのひらめきの実践が、自由を実証実感させてくるのではないだろうか? 自分が生きていることの、生き生きとした生を。都市の幸福の中で、若い世代が沈潜していった虚脱と無気力、剥奪館とは、この生=自由のことだったのではないか?

<上原さんは、森での遊びが偶発的な状況の連続であること、それに即して子どもたちが遊びを生み出すこと、その中では子ども同士が相互に働きかける機会がとても多いことを主な理由として説明してくれた。
 たとえば、幼い身に余る大きい落ち枝を扱おうとしたら、自分だけでは持てないので、誰かに手伝ってもらわなければならない。何をしたいのか、その意図を相手に理解してもらわなければならない。それが発話も他者への働きかけも促すことになる。そう説明されると、なるほど、と膝を打つように納得できた。森は、いつもの園のいつもの遊具、というほぼ固定された環境と比べると、突発的・偶発的な機会が爆発的に多い。というよりも、その連続と言っていい。自分が森ですごす場面を思いおこしてみて、上原さんの話は十分想像がついたからだ。>(浜田久美子著『森の力――育む、癒す、地域をつくる』 岩波新書)

私が息子の一希を、田舎に連れ出して田植えをさせ、山に登らせるのは、子ども(人間)が本来的に持っているだろう、この生=自由の発動を維持反復させていかせるため、触れ始めたカードゲームや携帯ゲームのような遊びで抑制された都会っ子になることを防ぐため、そしてなによりも、サバイバルな感覚を植えつけておきたいからだ。子どもの頃、そのように山で育ったからといって、そのまま大人につながっていくような社会ではもはやないだろう。しかし、子供の頃、それが痕跡されていれば、苦境の中で、生きる力を自らの内に発見していく契機にはなるだろうと願っている。国家や資本が重箱の隅をほじくるように山の端まで掌握している世界で、縦横無尽な生きる力こそが、必要な出発点になってくるだろうと。

2010年4月12日月曜日

文学から庭、そして森へのパラダイム

「小熊 おっしゃる通り、豊かな経済大国日本が貧しい従軍慰安婦を搾取しているという言い方に対して、それより俺たちプレカリアートのほうが恵まれていない、という言い方が出てきちゃったということに対しては、やっぱりマジョリティーは恵まれているから問題がないんだという形で処置してきた問題というのが、ここに来て噴き出してきてしまったというときに、今現在どういう語り方をするかというのは、非常に難しい問題になってますね。…(略)…しかも、その出方というのが、昔だったら、「貧乏で汚い朝鮮人帰れ」みたいな言い方だったかもしれないのが、現在は、「在日は日本の行政から与えられた特権を持っているから」という言い方になってきているというのは、非常に興味深いですね。つまり、われわれの側のほうが恵まれてないと。

高橋 だから、貧しい、少数派の日本人が豊かなマイノリティーを攻撃するという構図になってきたわけですね。誰もそんな立場を見たことがなかったので、絶句してしまう。

小熊 まあ、実際に豊かなのかどうかは別問題として、でも、やっぱりナチスが出てきたときってそうですからね。超インフレ下の当時のドイツで、ユダヤ人は金持ちでけしからんという言い方をしてね。…(略)…豊かさの中の精神的貧しさという言い方が、何年か前まではいちばんいい表現形態だったんでしょうけれども、もうその言い方は今現在は不適切になってしまった。ただ、単純に『蟹工船』の時代に戻ったのかということになると、貧乏だけで語られるものではないと思います。とりあえず食えることは食えているが、剥奪感が大きいということですから。」(『文学界』2010.5月号 小熊英二×高橋源一郎「1968から2010へ」)

これら研究者と作家の対談からも、私がこれまでのテーマパークで提出してきた問題が共有されていることがわかる。この現状認識から、では次にどうするか、「新しいパラダイムをどう提示していくか」、という問題提起で両者の対談は締めくくられるのだが、同月の『群像』という文芸誌でも、学者兼批評家の蓮見重彦氏と作家の阿部和重氏の対談で、認識から小説の形式(フォルム)という切り口から言及されていた。小説家とは、その認識内容(素材)の事実性以上に、それをどう扱うかの形式にこそ現実性を残余させてしまうものなのだと。つまり政治的な言い回しでは、それをそうさせていく枠組み(パラダイム)、制度の方から、という話になるだろうか? このテーマパークの前回からの言葉で言えば、個人よりもまず共同体の形成をという内田氏の提言や、その共同体運動への国連という自然史的制度の意義といった柄谷氏の言述ということになるだろう。あるいは建築界でも、最近は建築家という個人の力量よりも、地域としての建築を作っていくという、認識のシフト転換をめざす雑誌特集も組まれているようだ。では、文学あがりの植木屋さんである私は、どうだろうか? と自問してみる。

<――近ごろのお母さんお父さんは自分の子さえ良ければいいというのが増えています。運動会なんかでも自分の子だけビデオで撮ってる人が多くて。

 これは生物はみんなそうやけど、自分の子が良く育つには、いい群れの中でなければ育たないんです。まわりの子が良くならなくて自分の子だけ良く育つということはあらへん。…(略)…最近、樹木医というのがおってね、古い木を診断して、あれこれやって治す、もたせるということやって、古い木を大切にするのもええことなんやけど、あれで本当に木が丈夫になるとは私には思えない。延命治療のようなことをやっても、やはり木には寿命があるのです。どうせ古い木は枯れる。だから森林を永続させるには若木を植え育てないといけないわけですね。人間もそう。その努力が足りないんじゃないかな。子どもは大人みたいに票を持ってないし、ゲートボール場つくってくれと集団で陳情したりしないしねぇ。それは大人がしてやるべきことやと思いますよ。それもきれいなととのった公園じゃなく、広い荒地の方が子供も遊びやすいのだから。(『森の人 四出井綱英の九十年』森まゆみ著 晶文社)>

庭木の手入れにしても、その技術が、「木を切ってはならない、かつ切らなくてはならない」という自然と人間との二律背反的な現実への解法として読みえるとしても、あるいは、「にわ」という語意が、漁場や山という、自然と人間の境域に対する、日和(天気)見という切迫した空間の営みからきているとしても、その世界への切り口、考え方は、あまりにミクロ、つまり狭すぎる。四出井氏のように、造園的観点だけではなく、いやそれ以上に森林生態的観点が必要だ、というのが最近の私の考えである。どうせ勉強がだぶるのならと、仕事に必要な国土交通省の造園管理の資格よりも、ボランティアでしかいかせないような、農水省と環境省推奨の森林インストラクターの国家資格試験の勉強も開始している。植木への関心にしても、その庭木としの美醜という感性的視点からよりも、どう食えるか使えるかという、実用経済的な、そしてこれまでの山での具体的な知恵、に移行している。それはまた、経済的に豊かになったから里山(田園)で余暇と余生を、といった余裕ある態度によってではなく、土建業衰退の歴史のなかで反復させるサバイバルになってくる、はずだ。つまり将来の生活(仕事)は、ボランティアをとおってくる。そしてそれが、近代化や高度成長期で失われた「剥奪感」、心の充溢を再構築してこないだろうか? 家族や共同体とともに? ……とりあえずそうしたことが、いまの私のパラダイムへむけた実践活動である。

2010年3月10日水曜日

トヨタの合理性と人類の自然性


「韓国ドラマを観ていて、ときどき「あれっ、どこかで観た場面だな」と思うことがある。それは、現実にあった何かの現象だったり、他のドラマや映画のシーンだったりする場合もあるのだが、北朝鮮で見た映画やドラマとダブるときも少なくない。同じ民族だから、生活様式や習慣で相通じるところがあるのは当然だが、思想や理念においても、似た場面が出てくるとつい驚いてしまう。たとえば、『太王四神記』や『朱蒙』で主人公が臣下との間につくる人間関係は、北朝鮮の金日成の活動を描いた『革命映画』における指導者と部下との関係とまったく同じといってよかった。たとえば、戦争で勝つためには、兵士のなかで多少の犠牲者が出るのはやむを得ないといって無謀な戦いを挑もうとする指揮官に対し、タムドクは兵士一人ひとりの命を大切にしなければならないことを厳しく諭す。また、朱蒙は行軍途中、兵士たちの前で部下と親しげにシルム(相撲)を取って士気を高め、偶然そこにいた敵までも感動させてしまう。このように指導者がいつも部下を大切にし、苦労を共にする場面は、北朝鮮の映画やドラマ……」(蓮池薫著『私が見た、「韓国歴史ドラマ」の舞台と今』講談社)


冒頭引用のような蓮池氏の感想を、私も韓国歴史ドラマをみて思ったものである。むろん、私はそのドラマと、北朝鮮の社会とを連想比較するのではなく、自分が仕事としてやっている職人世界の社会に見られる様とを重ねてしまうのである。では、そのような社会から、トヨタのアメリカでのリコール問題に発する社長自らのアメリカ議会での公聴会に連なる模様を眺めていると、そのトヨタが従い従おうとしている合理性が、人間的に片手おちの疑わしいものに思えてくる。あのJapan as No.1のバブル時代のとき、トヨタの吹聴するカンバン方式なるものが世界的にも参照されはじめていた。郵政民営化にともなって、民間の合理性を取り入れて不合理に肥大した組織人員を矯正するのだと、トヨタの管理者が派遣されたりもした。そしてそこでは、勤務者の座る机から出入り口までの歩き方までが統制され、無駄なく最短コースでゆくのだと、床にテープをはりはじめた、とかの記事が紹介されもした。要するにこれは、アメリカでテーラーシステムとしてはじまった流れ機械化作業を、愚直なまでに下請けや末端の労働者へと推し進めたものにみえる。まったく日本人はまじめな優等生である、ということか? しかしおそらく、その公式(――外からみたら、それは学ぶべき公式にみえてしまう……)を自ら作った本場のアメリカでは、古風な職人意識や人間関係が残っていて、あるいはそんなに糞真面にやってなくて、その両者の齟齬が、公式の根拠(安全安心)は不在であるというゲーデルの数学的証明のように、今回露呈してしまったのではないか? 「いつあなたはその問題を知ったのか?」と公聴会で議員から豊田社長は問われ、「12月末ごろに、アメリカの運輸局の人が来たいう報告はあったのでしっていたが、その内容は知らなかった」と発言し、議員は「それは組織が縦割りだからなのではないのか?」と問い返した。この「縦割り」と翻訳されてきた言葉の意味がよくわからないのだが、会社組織自体が部分に分割された流れ作業、と解すれば、たしかに全体を判断する視点を欠いた官僚的な(無)責任組織、となってくる。どうして、豊田社長は、「何しにきたんだ?」と部下に質問しなかったのだろうか? 自分の所にきたのではないので、我関せず、現場(その部署、部分)に任せよう、という判断だったのだろうか? あるいは現場の当事者は、どうしてそんな重大事を、トップに知らせようとしなかったのだろう? 彼が、重大ではない、と認識することは、これぐらいの組織であるなら、そんな無能な人は出世していないだろうからありえない。政治家の秘書のように、自分が罪をふっかぶるようにボスには知らせない、というような事柄でもあるまい。あるいは自分の不埒がばれて困る、というような事柄でもないだろう、それは技術的な問題であって、管理者の一人(責任者)だけが問題とされてくるわけでもないだろうから。この事件が、日米の政治的なかけひきで、相当にでっちあげられた問題なのかもしれない(だとしたら、トヨタ管理者側にスパイがいるのだろう)。しかしだとしても、その過程で浮きあがってきたのは、流れ(分割)作業に象徴されるような官僚的な合理性の脆弱さである。つまりそれは、外から社会や産業のあり方を公式として学んだ日本人においては、民間企業においてもなおよりその公式(縦割り官僚組織)の根拠のもろさが、まるで数学の例題のごとく露見してくるのだ。公式の本場では、実際には、官僚よりも議員(政治家・人格)のほうが強いらしいのに。

端的に、歩き方まで管理するのは卑しいことである。有能な職人は、自然そうなり、そうするけれども、他人になど強制しない。馬鹿は馬鹿でいることが、むしろ組織としては多様な適応力をもってくると、全体的な認識判断を、自ら行なう部分作業において意識化できる、生活の連綿さを生きてきているからである。ゆえに職人集団が実践するのは、分割作業ではなく、人それぞれの能力に応じた分担作業である。しかしそれはそのように平等(親切)的ではあるが、近代的な意味では、平等ではない。普通の人には登れない木に登り枝を下ろす、危険作業を引き受ける職人や、人心を掌握して判断が的確な頭(かしら)はまわりから尊敬されるだろう。「後片付けはわたしたちがやるから」と、木の下で枝処理をしている手元の人たちは、無事生還できたことにほっとしている職人にいってくれるだろう。しかしもしそれが、まだ勤務時間中だからおまえも片付けを手伝えと、労働者としては平等(当たり前)のようなことを言われたら、その人の尊厳は傷つけられるだろう。しかしまた、俺は偉いんだ、と謙虚さがないと知られれば、周りの人たちは手伝わなくなるだろう。縄文時代ぐらいまでの狩猟民の世界では、そうして人心を失った狩猟者は、それでも自らの尊厳と名誉を守るために、一人で敵にむかい殺されていったのだそうだ。だから、インディアンをはじめ、その世界の髪型は、取られた首が持ちやすいようにと上で編んであるのだという。武士のチョンマゲもその名残だろうといわれている。私が「韓国歴史ドラマ」に覚える共感には、そんな古くからの人間社会の倫理が反映されている、ということになるのかもしれない。……「狩人としての始祖王の表象は、実に古代日本に限られていない。ことに注目すべきは、高句麗、百済両国の始祖である朱蒙はすぐれた狩人であり、かつ朱蒙という名自体が「善射者」を意味していた。そして興味深いことに、朱蒙の後裔たる高句麗、百済の王たちは、しばしば狩猟をおこなったのに反し、朱蒙系ではない新羅の王たちが、狩猟したことは、ほとんど記録されていないのである。ここで日本の場合も、『日本書紀』によると、天皇の狩猟は、ことにいわゆる応神王朝の天皇たち(応神、履中、允恭、雄略)に集中していることが注目される。これは、いわゆる応神王朝と、高句麗、百済系の王権との関連を示唆するものかも知れない。また、これら王者の狩猟活動に、後にはたんなる娯楽になってしまったであろうが、元来は、狩人としての始祖王の行為の儀礼的反復という性格をもっていたのであろう。」(「日本の狩猟・漁撈の系統」『狩猟と漁労 日本文化の源流をさぐる』所収 雄山閣出版)

この倫理、というか古代の人間観の巻き返しは、世俗的には、郵政改革をめぐってみえてきたドタバタ劇のようなものとして、表象されるのかもしれない。そこでは、近代的な個人・合理主義を貫徹させようとする小泉グループと、それに反対を唱えたことでいったんは下野したが、政権交代によって返り咲いた反動的な人たち、という往還運動として立ち現れた。しかしこの反復現象は、たとえば佐藤優氏が、「復古」として呼称するような、歴史的な時間軸によって捉えられるだけではない、というのが、ポストモダンと称される思想を通した昨今の基調的な考え方であろうか? つまり、その反復を、むしろ空間的な、普遍的な構造として把握してみ、それを現在から未来への指針として考察していく、という考え方である。新しい人類学を提唱する中沢新一氏の言い方でいえば……「しかし、洞窟的実践の背後には、男性結社性が隠されています。そこは戦争機械の温床でもあるからです。それが政治権力を掌握していくとき、日常生活者の世界は根底から破壊されていくことになります。…(略)…私たちの思考のあらゆる領域に、「洞窟的=映画的」なものと「テラス的=テレビ的」なものとの、緊張をはらんだ関係は潜在しています。それを生み出すおおもとが、ホモサピエンスである私たちの「心」のトポロジー構造の中に実在しているからです。私たちに求められているのは、この二つの構造の間に、今日のテクノロジーとそれがもたらしつつある社会形態にふさわしい、真に新しい絶妙なバランスを再構築することではないでしょうか。」(中沢新一著『狩猟と編み籠 対称性人類学Ⅱ』講談社)――そして、この反復劇を、「心」の問題(位相)ではなく、あくまで唯物論的な装置(制度)の問題として捉えてみせるのが、柄谷行人氏の「世界共和国へ」という提言になるだろうか? ……「各地のさまざまな運動は自然発生的にグローバルなつながりをもつようになっている。しかし、それはいつも諸国家によって分断される恐れがある。だからといって、「インターナショナル」のような組織を形成することはできないし、そうする意味はまったくない。つまり、国連と別の国際組織を創る必要はない。そのような組織ができても、国家を抑える力をもたない。われわれがなすべきなのは、世界各地のさまざまな運動を、国連を軸にして結合することである。国連はたんなる人間の思いつきではない。人間的自然(人間性)がもたらした遺産である。」(「atプラス」03号太田出版)――で、この雑誌の特集「生きるためのアート」冒頭には、内田樹氏へのインタビューがあり、氏の作る「麻雀連盟」という共同体の話がでてくる。そして、「資本主義についてマルクスが告げたのは「資本主義を倒せ」ではなく、「共同体を作れ」なんです。」との発言で締めくくられている。資本主義的な自由の蹂躙から、国家権力支配への反動という世俗的情勢に対し、いかにそれらとは別個の「結社(共同体)」をつくっていくべきか、が実践的な問題として集約されてきているのだ。ならば、これらの思潮から導きだされる結論の例とは、「麻雀連盟」のような同好会も国家につぶされないために、国連に参加し、その後ろ盾をもらって連帯の力をつけるべし! ということなのだろうか?

私の考えでは、このおかしな総合的な結論は、理論的には正当だが、実際的には諸理論の位相を混同している、ということになる。たしかに、たとえば戦陣中などでは、草野球でさえ国家の統制下におかれたことを考えれば、麻雀同好会もどうなるかわからない緊急事態は考えられるし、そうしたことも柄谷氏の論理には包容されていると思う。が、では本当に具体的な実際として想定してみると、奇妙なおかしさが伴うのは、やはりあくまで氏のいう「われわれ」が、中沢氏のいう「男性結社」的なエリート(秘境)の位相に傾いているからだろう。たしか内田氏自身は、柄谷氏を全面否定する言表をしていたとおもう。つまりあくまで、念頭にあるのが、メジャーな運動なのだ。しかしたとえば部落団体にせよ、女性団体にせよ、在日を中心とした外国人の団体にせよ、それらは「人権」という問題に収斂したうえで、国連にすでに参加し協同で取り組みにあたっているところもあるとおもう。それは、私が参加しているイミグレーションネットワークのMLからも想像できる。ならば、柄谷氏の提言など、いわずもがなな話だろう。まして、氏は自分が言っていることは既定の運動を新しく意味づけなおしていることなのだ、という発言もしているが、当事者たちの「意味」、つまり自分を支えてくれている意味とは、世界史的な意義などという、エリート意識なたいそれたものではないだろう。そんな意味づけは、大きなお世話にしかならないだろう。柄谷氏の構造分析(『世界史の構造』とかと題される本を準備中だそうだが……)は、あくまで念頭においておくだけで、実践的には忘れてしまってかまわない位相、つまり理念的な統制性の話しなのだ。庶民がまともに受けても意味がない。たとえば、派遣切りにあって、秋葉原にレンタカーで突っ込んでいくような青年が、自分を支えるためにアキバ同好会なる「結社(共同体)」をつくったとしよう。それは社会運動的には、部落や女性や外国人といったマイナー問題としてはメジャーな運動でもないので、国連が相手にするまでもない大衆運動にすぎない、と目されるだろう。が、その気味の悪さのためなのか、実際に町内会からは排除されていくし、より大きな弾圧も想定しえないわけではない。そうしたときは、世界的に普及しているアニメ趣味などから、国際的な連携と、それを「労働」問題というより大きな枠組みで収斂させて、国連にも通じていく文脈が形成されるかもしれない。つまりそういうふうには、柄谷氏の理論は論理の道筋を提示してはいるのだ。が、問題なのは、中沢氏の照射するような、「心」の位相ではないのだろうか? 秋葉原に突っ込んでいった若者がみせるのはまずそのレベルの“意味”のことだ。たとえそれが低レベルの話だとしても、類としての人間は、その自然のなかで生きているのである。私はやはり、最期まで馬鹿者たちへ愛着を注いだ中上建次氏の言葉のほうを重用する。――「……謂わばわたしはその間、猛烈な勢いで全力疾走して古代と現代と、神人と人間と、熊野と大和・京都、縄文と弥生、アイヌ文化と古朝鮮を経巡ったのである。元気はいや増しに増さざるを得ない。」(『君は弥生人か縄文人か』梅原猛+中上建次著 朝日出版社)しかし、今また改めて似たような問題が反復されてきているときに、中上氏のいう「元気」が増すことができるのだろうか? というか、それがありうるということ、あったということが、念頭においておくべき統制的な「理念」となりうるのである。

2010年2月12日金曜日

土建業と犯罪事件から


「すなわち、沖縄本島側の文化は九州の縄文につながるが、先島諸島の下田原式土器(約三○○○年前)は南方起源のものと考えられている。両地域のつながりが強くなるのは歴史時代になってからだといわれている。もっとも、大陸側をまわれば沖縄と先島はつながらないわけではない。しかし、山立て航海の障壁は縄文時代には歴然と存在したのである。」(小山修三著『縄文学への道』 日本放送出版会)

仕事と遊びの区別をつけない、だったか、区別がつかない、だったかは忘れたけれど、人類学者の中沢新一氏が、「仕事術」とかいうどこかの新聞特集記事で、日本人の特性としてそう述べていた。その区別のないところに、日本人の古代文化からの習性の残存がうかがえるのだというような。それは、「労働条件(時間)」のことなど意に介せず、仕事中毒と呼ばれてしまうくらい熱心に仕事をする人の在り方を念頭において、それへの近代的な批判評価を反転させていく、積極的な介入の見方、だったかもしれない。だとすれば彼ら労働者は、その区別「を」つけない意識的な人たち、ということかもしれない。がそのへん、私が土建業という仕事柄、常に念頭においてしまうのは、その区別「が」つかない、遊び熱心なほうの、いわば無意識的な人たちである。たまに解体現場などで、迷彩服のような作業着で、ケラケラ笑いながらやっている若い衆たちがいる。どこかの右翼団体系列の下っ端なんだろうか? 街路樹の剪定作業現場でも、ダンプの荷台に仲良く三人が並んで腰掛けて、足をぶらぶらさせながら談笑し、そのまま大通りを移動していくのをみかけたことがある。「あれでとおるんだ、いいなあ」とは、わが社の馬鹿者だが、「あんなんになってほしくねえな」とは、その仕事してるんだか遊んでるんだかわからない現場の若者たちをみて、私が入りたてのころ、親方がもらした言葉であるのだけど。現場監督や責任者がそんなんだと大変になる。平然と、夕刻の5時直前に大仕事をやろうといいだす。その時刻まで、段取りがあわず仕事が暇なようにぶらぶらさせていたのにである。ならばなんではじめから今日それをこなすような段取りをつけててきぱきこなしていかせなかったのか?「おもしろくなくちゃ、仕事なんかやってられねえだろ?」こっちはだからこそ、さっさとやって帰りたいんだが……。が、要領を考えない、いやそれが遊ぶほうへ逆転している馬鹿者たちには、そんなダラダラした残業時間が貴重な仲間との時間なようなのだ。そしてほんとうに、そういう価値に無意識に生きている者たちは、そんな「仲間」のために人生や命をもさしだすのだ。そういう世界というか社会に今もって生きているのである。
一昨日だかのニュースでも、宮城県の石巻市で、18歳の若者が、年下の仲間を連れて、元恋人の家に押し入り彼女の家族や友人を殺す、という事件がおきている。テレビのニュースで、その若者の携帯ブログが映されていたが、そこには天皇マークの中に「大和魂」という文字の入ったロゴがトップに貼り付けられていた。現場へ向う途中のダンプのなかで、その事件を切り出してみると、運転していた団塊世代の職人さんが、被害者の苗字と同じ知り合いが石巻市にいるという。「親類だったら、土建屋だとおもうよ。」と言う。実際今日の新聞をみてみると、首謀者は「解体工」、被害者の若者は「建設作業員」とある。とはいえ、私がこの事件のことを切り出したのは、助手席側に座る二十歳の若者とその仲間たちが、似たような情念と人間関係の世界にいるような気がしたので、反応を確かめようとおもったからなのだった。つい先日も、その若者は、自分の友人と知り合いの女性を結びつけるための仲介者となり、表裏を使い分ける巧みな口さばきをみせていた。でその石巻市の事件から男女のもつれ話になり、口達者という確認のあとで、オレオレ詐欺の新種の手口のことをその若者が切り出し、「おまえやってたろう?」と私が突っ込むと、「いや、ちょっと……」と口をすべらしたのだった。

『沖縄の未来』(芙蓉書房出版)という大田昌秀氏との討論のなかで、佐藤優氏はこの土建業ということに関連し、こう述べている。――「……ところがエリートというのは別の陣営にもいるんです。今日の新聞にも書きましたけれども、土建エリート、建設業、これは実際に金を持ってきて、それを配分して人々の胃袋を満たすことができるわけです。ところがこの構造が続かないというのは十数年前から明らかになっているんです。小泉改革が出てきたのも土建政治と決別しないとならないと、この構造的な要請なんです。」「ですから土建政治、基地依存型の政治から抜け出すことを、これは人が考えてくれないです。自分たちで考えない。そのために今、大田さんが言っていることをどうやって保守陣営の中に仲間をつくって、どうやって土建屋に仲間つくって、沖縄の利権構造をつくるかということです。」「この土建業の転換というのは現実的に考えると土建業者を基盤とする政治家からやっていくことしかできないんです。」……「農業」へと転換できないかと示唆する大田氏は、沖縄(琉球民族)を日本(大和民族)から分離してみるアメリカの見方、「北緯30度の境界線」という見方が、言語学的、生物学的にも指摘されていることをふまえた上で、次のように軍事的観点を強調する。――「……すなわち、日本人の中には朝鮮半島が三十八度線を境に二分されてしまって可哀想だ。しかるに日本は、ドイツや朝鮮半島のように二つの異なった国に分断されずにすんで、幸いだったという人たちがいる。しかし、彼にいわせると、朝鮮半島を南北に二分する線引きをなしたのは、当の日本人に他ならない、というのです。要するに、この三十八度戦自体、戦時中に日本軍部が配下部隊の防衛範囲を定めるために区分したもので、それが、戦後に日本軍を武装解除するために連合軍が「暫定的な境界線」と定めて、三十八度線以北は共産主義の朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)と、以南は民主主義の大韓民国(南朝鮮)に分割して、今日に至っているというわけです。
 そこで私は朝鮮半島の事例にならい、軍事的側面から北緯三十度線についてチェックしてみました。すると、何とさる太平洋戦争では、北緯三十度線以北は「天皇のおわします日本固有の皇土」で、以南はそうではない新付の領域と位置付けられていることが分かりました。すなわち北緯三十度線以北の皇土防衛の担当部隊は「本土防衛軍」と称されていたのに対し、それ以南の防衛部隊は、「南西諸島守備軍」、すなわち「沖縄守備軍」として明確に区分されていたことが判明したのです。
 このような背景もあって、沖縄を占領した歴代の米軍司令官らは、しばしば、「沖縄人は、日本人ではない」と公言するしまつでした。……」

しかし、古代文化的、その精神的価値側面からみると、冒頭引用の小山修三氏の『縄文学への道』から示唆されるように、そう区分できるものでもない、ということになる。このテーマパークの「金魚すくいと義」で紹介した副島隆彦氏も、「沖縄とか、東北の田舎に行けば、まだ、義の思想が、生き残っているかもしれない。」と述べてもいる。いわば、それはあの仕事と遊びの区別がつかない、近代的な見方からすれば、わけのわからないいい加減な世界というか社会の価値である。そしてそれが、オレオレ詐欺のような事件をおこす文化的な伏線にもなっているのかもしれないのである。ならば、たとえば建設業から農業への転換とは、どういうことだろうか? 農作業というものが、コンベアーの流れ作業とは違うが、勤勉でないとできない、というイメージがある。私は実際に農作業をやったことがないのでわからないが、農業に伴う灌漑工事という、土木事業自体が、中央集権的な権力の統制なくして成立しないものでもあるのだから、両者に親近性があるともいえるのかもしれない。が、その権力規制の末端において、それを裏切る犯罪的な価値が社会や世界観としてなお残存しているようなのである。おそらく、こうした価値継承の潜在構造をもみすえないかぎり、世のいわゆる経済的な構造転換なるものも、うまくいかないのではないか、と推論される。

2010年1月17日日曜日

初夢


「真の歴史的連続性は、不連続性の指示記号をおもちゃの国や亡霊の博物館(それらは今日では多くの場合、大学制度という単一の場所が引き受けている)に閉じこめておくことによってその影響から解き放たれることができると信じているような連続性ではなくて、それらと「駆け引き」をすることによって、それらを引き受けることを受諾し、こうして、それらを過去に戻してやるとともに未来へ伝達していくことができるようにするような連続性なのだ。さもないと、文字どおり死者をつくりだしては自分たちのファンタスマを幼児にゆだねようとしており、また幼児を自分たちのファンタスマにゆだねようとしている一部の大人たちの前には、過去の亡霊たちが生き返ってきて幼児たちをむさぼり食ってしまうか、それとも、幼児たちのほうが過去の指示記号どもを破壊してしまうことだろう。」(『幼児期と歴史』ジョルジョ・アガンベン著 上村忠男訳 岩波書店)

夢に起こされて、夜半の布団の中で、さかのぼって思い出せたのは……私は、一希(イツキ)をだっこしながら、ガラス戸ごしに外をみている。実家の二階の、私の子供部屋からの光景だ。外は嵐のような雲と雨で、強い風が吹いている。その天気の下、家のまえの道路むこうの、地が一段と高い畑では、農家の人、母と娘らしき人が、黄金色に稔った稲の刈りいれをしている。二人のうちのどちらか、娘さんのほうだろうか、耕運機のような手押しの稲刈り機を押しながら歩いて刈っている。その横顔は、仕事で植木管理に入っている、中学校の主事さん、三十歳なかばすぎくらいの女性に似ている。刈られた稲穂は、こちらに背を向けて座って乗った母親のリアカーの上に積んでいくようだ。彼女たちの頭上の雨雲では、誰かの大きな目が開いて、じっと私をみていた。突然、激しい突風が吹いて、リアカーに積んであった稲の一束が、真横にまっすぐ飛ばされて、娘さんの上を過ぎていった。二人はこの雨じゃ作業は無理だとでも感じたように、娘さんがリアカーを引いて向こう奥の家のほうへ引っ込んでいった。雨雲に覗えたあの目もみえなくなった。私も、これはもう水が家の中に入り込んでくるのではないかと思い、一希を抱きながら階下へ降りた。玄関があけっぱなしになっていて、框のところまで浸水してきていた。水の入り込んだ土間には、錦鯉がたくさんいて、そのいく匹かは口先を框にのりあげて餌を求めるように、口をぱくぱくしている。庭先では、この二階家に改築まえの、幼少の頃のままの門扉があって、その鉄製の重い扉をガラガラとひくためのレールを敷いたコンクリートの盛り上がりを超えて、今にも水がどっとあふれて流れ込んできそうだった。ふと、玄関脇にある、格子風になった目隠しの壁の、その天井へんから、やせ細った腕のような、足のようなものが二本、紐に結ばれてぶらさがっているのに気づいた。日焼けのない白い肌は毛深かった。私は、兄が自殺したんだな、と思った。私は、奥の部屋にいる母を呼び出し、「テルアキ(…私の弟)にはみせないほうがいいから、二階につれていって」と、階段のところで遊んでいると感じられる一希のほうをみていった。玄関どなりの、襖の向こうの日本間に、兄の死体があるような気がした。――そして、目が覚めた。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

子供の頃からか、思春期になってからか、洪水や竜巻や熊から逃げる、という夢を周期的にか、たびたびみることになる。これもそのテーマの変奏だろう。ただ、以前はその襲ってくるものに巻き込まれて苦しみもがくか、あるいは本当に呑み込まれ寸前までいくのだったが(……おそらく、完全に併呑されてしまったときとは、発狂しているときだろう)、今回は、冷静に対処している。こんな自分ははじめてなのではないか? 夢の中では父親が不在なようだが、それは自分が父の役割になっているからで、それは子供の頃、私が弟(テルアキ)の父代わりなように遊んでいた、という<事実/記憶>感情と対応している。つまりいま実際の父親として、子供に接している感情が、子供の頃の弟に接していたときの感情と類比的なのだろう。そして雨(水)とは、あるいは自分を呑み込もうと襲ってくるものどもとは、無意識を、母親からの影響の強いそれを暗喩しているのだろう。つまり幼少の頃の家族関係に規定された枠組みのなかで、現在もが受容されている。この感受性の型は変わらず、身につけられるのは、その変奏だけなのだろうか? この正月に帰省したおり、兄の病状の悪化と、弟の労働条件を心配することがあった。母親は、こっちのことはかまうな、おまえは勝手に生き延びろ、のようなことをいってきたのだが、孫が生まれて、感情も変わってきているだろう。しかし田舎に帰るとは、私を呑み込もうとするあの無意識の世界へ退行していく、ということでもあるのである。私はそこから一希(テルアキ)を守りたい、ということはそれは、そこから逃げる、帰らない、ということなのだろうか? しかし……まず素材に取り上げられた稲刈りとは、最近、退屈を紛らす受動的な遊び場所の多い都会の同質社会に溶け込み始めた息子の一希を、自然という異質な世界に接っしさせてあげるために、知り合いの農作業に参加してみるのはどうかな、と考えはじめているからではないだろうか? つまり、田舎に帰るということ、その退行を対抗に変換できるのか、私は見極めようとしているのか? 女房は東京からでたくないというか、私の実家を嫌がっている、だから、その女房(母)に子供をあずけ避難させ(二階にいかせ)、私ひとりで狂気に立ち向かう、という無意識な覚悟=習性なのか?

夢のなかで、以前よりは強くなったような自分らしいが、目覚めたときに、「(無意識に呑み込まれないで)勝ったぞ、強くなったぞ」というような爽快感はなかった。しんとしている夜だけが、私を静かに冷たくしていくようだった。私は起き上がり、この夢を書き留めておくことでその夜に対処した。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

追記(1/18)……農作業という素材が、子供に異質な時間を出会わせたいという私の願望から呼び起こされてきたものだとしても、それをしているのがどうして<母―娘>であり、その娘が学校の主事さんなのか? と考えているところで、ふと思い起こした。私はその子供に希望する体験を、別に木登りする植木の仕事でもいいのだが、幼児には危険だから駄目だな、と思ってもいたのだった。そして夢をみていたときの気分では、その農作業は、植木屋の作業でもあったのだ、だから、学校で植木屋まがいの作業(葉っぱの掃除や低木の剪定)をする主事さんが、代用されてきたのだ。そしてそれが女性(娘)であるのは、私が幼少のころ、男三人兄弟のなかで、女の子がわりに母親の買い物への付き添いや食事の手伝いをしてきたこと、つまり私が娘であることの隠蔽としての変形(転移)なのだ。その娘(私)が、普段雨天なら中止する農(植木)作業をやっている、子供を抱いた私は感心してみていると同時に、自分がそれほどまでに強くなったような気がしている。そこに、横殴りの突風が現れる。私ははっと気づいたように、階下へといそぐ。……となれば、この行動のパターンが、階下でも繰り返されたことになる。庭先から玄関の中まで浸水していたのに、私はおろおろするどころか、そこに餌を求めるような何匹もの錦鯉を認めている。私は子供と一緒に、幾度も東京の庭園めぐりをしていて、そこの池に集う鯉を心たのしく眺めたりして、子供も餌をやったりしたものだ。そんな積極的な感情が、あの浸水状況のなかであったのである。「鯉だよ!」と子供を呼ぼうとしたのと、子供が階段で遊んでいると感じているのは、おそらく同時・同列的な事態なのだ。が、それは突然、天井からぶらさがった死体の一部への連想で断ち切られる。そして私は、はっとするように、隣の日本間で兄が死んでいることに感づくのだ。

つまり私の現在の幸福が、過去の亡霊によって待ったをかけられるのだ。私が、現在に負い目を感じているということだろうか? しかし、過去の亡霊とはなんだろう? 自殺しそうな兄の状況は、現在なのである。死んでもらったほうが私の楽になる、という願望が無意識にある、ということだろうか? ならば私は、夢で願望が充足されて、満足を覚えて目覚めるはずではないか? 目覚めたあとの感覚は、むしろ逆のことを暗示している。子供にはみせないほうがいいと母に指示する私は、いったいぜんたい、何に直面し、何を抑圧しようとしているのか? 私を目覚めさせた、まだ見ぬ兄の死体とは、なんなのだろうか? やはりそれは現在のもの、というより、それにかこつけた、思い出すことのできない過去の亡霊のような気がするのである。

子を抱くのが母であるのなら、農(植木)作業をやる(見る)娘(私)は母であるということになる。そしてその母が、弟を父親代わりとして世話する父(私)でもあるのだ。つまり私は、母の役割と、父の感情をもって、実家に現れてきている、ということになる。「鯉だよ!」と子供を呼びそうになったときの私の役割と感情は、おそらくすでにその子が腕から離れひとりで遊んでいると感じていることからして、母ではなく、父親的なものだろう。ゆえに、「子供にはみせるな」と母(女房)を呼び出して指示するのだ。となると、これは近親相姦の匂いがする。母の愛を、他の兄弟をどけて私が獲得したことになる。実際、私は女の子がわりをすることによって、母の愛をひそかに受けていた記憶がある。お菓子などをこっそりひとりでもらったのだ。しかしそれは、あとから、のことだと想定する。次男として生まれた私は、長男とも末っ子ともちがう、親からの愛情を、面倒で省かれた孤独感を、記憶にはない幼少の頃、身にしみて育ったと推測する。その孤独感が、女になる、という戦略をあみだしたのではないか? そしてそれは結果的に、遅れてでも結婚し子供をもうけ(他の兄弟は独身のまま)、孫のできた(母)親を喜ばせてまた愛を取り戻す、と現在の人生でも繰り返えされている、ということになる。つまりこのあまりにフロイト的な原罪意識、勝ったものの負い目が、私を責めさいなみ目覚めさせるというのだろうか?

どうもこの推論は、心にしっくりこない。襖むこうに兄の死体があると感じた感覚が、兄の自殺(に暗喩される家庭のことども)を心配する目覚めているときの感情と、あまりに近いからである。だからそこから私が推測するのは、喚起された過去の亡霊に直面して私は目覚めたのではなく、過去の亡霊を裁ききれていない自分の現在に、夢の中で、正確には夢の最後にその現在が登場して、私はそのまま現(うつつ)の世界へと移行したのだ。実際、寝ても覚めても、私が育った過去と、私を育てている現在の問題に頭を悩まされているのだ。おそらく、解決への糸口は(以上のように)見えていると推測されても、実践のとっかかりはまだまだなのだ。それは端的には、女房という他人(現在)を、どううまく実家(過去)に接合するかの腕前にかかってくる、ということなのだ。そしてその現在(女房)にも、やっかいなことには、過去があるのである。――「またママとおばあちゃんは喧嘩するの?」と、正月休み後の週末三連休に、長女である女房の実家に着くや一希は祖母に問いただす。そんな子供の先制攻撃にか、<母―娘>のすさまじい喧嘩は正月早々はおきず、無事東京に戻れたことに女房はご機嫌になったようだ。しかし年末は……仕事納めで飲んで酔っ払って遅く帰り、布団に入ろうとする私に開口一番、「(あなたの)両親が(子供の入学祝いに)もうランドセル買ってるっていうのならばそっちには帰らない!」と、脈絡もなく言い出したのだった。なんでこんな時にそんな妄想を吐き出すんだとぶちきれた私は、真夜中にもかかわらずドアを蹴飛ばし隣近所にも聞こえただろう大声でわめきだし、わき腹にいっぱつ食らわせたような気がする。翌日から、女房がげえげえ吐いて寝込むので、俺のパンチのせいかとおもって「更年期障害か?」ときくと、「食いすぎだ」という。なんとこちらが納会で飲んでいるあいだの夜食に、牛肉を生のままたくさん食って、食あたりを起こしたというのである!