2013年1月4日金曜日

初夢をみれないクリーンな喧騒

「……ところが既存のシステムの中では脱原発指向の受け皿がないから、都市中産階層の、より安全でより快適な生活を手に入れたいという指向性が新自由主義的国家主義に吸収されようとしている。会社で働いている夫たちは旧体制、子供の生育環境を心配している妻たちは新自由主義的な方という分裂になっている。でも、両方とも構図としては、非常に自己中心的な日本内部のものに過ぎないのではないでしょうか。」「別の視点から言うと、なぜ北朝鮮は自力で核開発をすることにこれほど固執するのか。ロシア、中国、日本、そして米軍がみな核を持っている。それらに包囲されている北朝鮮が核を持とうとすると周囲の全員が持つなと圧力を加える。私は、軍事用か「平和利用」かを問わず、誰であれ核をもつべきではないと考えますが、この地域の核をなくすための論理は、このような包囲と圧力の論理ではないと思う。これは戦争の論理であり、日本政府がやっていることも潜在的な戦争の一環なのです。東アジアにおける脱原子力は、地域の諸民族が連帯共助して行う反戦運動として行われなければ成功を望むことはできません。その際に、日本国民に問われていることは、自国が行っている潜在的戦争に反対することができるかどうか、です。」(徐京植インタビュー「「以後」にあらわれる「以前」――フクシマと東アジア――」『批評研究 vol.1』 論創社)

コンプレッサがなければ釘うちができない大工さんがでてきているように、ブローがなければ掃除ができない植木屋さんがでてきているかもしれない。と、若い者たちをみていておもう。どちらの機械も、ガソリンや電気で空気を圧縮し、人力とは別の均一なエネルギーを出力させていくものだ。そこにあるのは、手っ取り早く、つまりは効率的に、均一均質なクリーンな空間を出現させる、という発想をもつ。もちろん自然は、つまり木が生え土のある現場は、そんな機械調節の風で隅々まで処理できない。株立ちの刈り込みものの根っこ近辺にはさまった枯葉は、やはり植え込みに体をかがめて小箒などで掃きかかねばとれず、そんな億劫と手間を省くために、人工風で吹かれた落ち葉はエアコンの室外機の裏などに隠される。きれいになればいいだろう、みえなければいいだろう……と書くと、なんだかそんな最近の植木屋さんの掃除も、原発問題にみえてくる。というか、事故後の言論が露呈させてきたことのひとつの典型が、そんな近代的な発想であり、その世俗版の効率主義である。
しかし、元来、植木職人が引き継いできた<庭掃き>とは、きれいになればいいだろう、といった外在的なものではなく、清める、という内在的行為をはらんでいる。むろん、庭を清めるのは、そこが神という世俗を超えた世界へと通じていく場所だからである。<にわ>という古語自体に、そうした神道的意味が受け継がれている。庭掃除とは、だからクリーンな思想によるのではない。その管理方式は、ダスキンとは相容れない思想性を継承しているのである。そんな価値の話、感覚は、若い世代には抜け落ちる。それはとりあえずどうしようもないことだが、それが「しょうがない」ですむ問題かどうかは、何度も問われなくてはならない歴史の反復作業だろうとおもう。

ヨーロッパでの魔法使いが、箒にのって空を飛ぶのは、その問いが、日本にかぎらない、洋の東西を問わないことを示しているだろう。やればいいだろう、というような世俗の価値とは違う、それを超えた価値とつながっていなければ人間の生はもちこたえられない……そのことは新興宗教に走ってしまう個々人の問題だけではなくて、その目先の効率性や清潔さのために、つまりクリーンな考えのために、人類の文明は滅んだことがあるのではないか、エジプトが砂漠になったのも……とこう書くと、まさに若い世代がはまった終末神話と類比的になってしまうのだが、ブローを嫌い、性懲りもなく棕櫚箒で庭土をみがいている、土俵を作っているような掃除をしながら、この手の動きに、リズムに、文明を守っていく反省と知恵の何万年まえからの模倣を透視しているような気になってくる。

きれいはきたない、きたないはきれい、というシェークスピアのマクベスを引用して、赤軍派の内ゲバ闘争を暗に批判しながら人間が抱え込む形式的現実を洞察提示したのは柄谷氏だったが、その今では経験実証的にも理論的にも自明的なそんな正解が、世の中ではまったく無視されて動いていくものだなあ、と周りを見回しておもう。それは、衆院選後の嘉田氏と小沢氏をめぐる内輪もめから女房との夫婦喧嘩まで、まったく人間の、人類の英知が受け継がれていない。クリーンという世俗のイメージに負けた嘉田氏は原発的なクリーン思想をまったく卒業していないことが明白なように(ある種の左翼的グループの抱擁限界、きたなくなれないこと――)、目前の不安にかられて漢字だローマ字だと性急に子供に詰め込む教育に便乗しさわいで、独りで静かに集中するという形式、それさえ体得していればどんな内容でも代入可能になるだろうような身体と脳のあり方を無視していく母親たち。

そんな世俗の喧騒に巻き込まれてか、今年はおぞましき初夢さえみることがなかった。われわれの狂気は、どこに住処をみだすことができるのだろうか?