2014年11月25日火曜日

ホーム、ということ


「日本では巧い選手がプロになるが、スペインではサッカーを知っている選手であれば巧くなくともプロになる」(『フットボール批評 2014.02』「サッカーを知らない日本人」)

結局、女房は入院し、息子は新宿区のサッカー代表チームへの選出が決まった。朝練習もあるので、朝ごはん作りに弁当、洗濯と忙しくなるが、頭の中での段取り作りは職業がら慣れているので、週末の練習試合に夕刻6時に帰宅でも、七時半には、風呂洗濯炊事朝弁当への仕出しと、すべてを終えて寝床に入っている。試合では私自身が主審もやったりするので、足が棒になってつる寸前、体を横にする必要があるのだ。息子の一希も、代表コーチからサッカー以外の躾けをいわれていることもあるが、いま家庭がどういう事態になっているのか理解しているのだろう、洗濯や風呂焚きを手伝ってくれる。練習量が増えて、5年生になってからの太り気味の体格が直ってくるかとおもいきや、腹が減って余計に食べるぶん、なおさらメタボのようになってしまった。
それでも、新チーム結成当初は、サブプレーヤー扱いだったが、足の速いサイドブレーヤーが腹痛で控えにまわって代わりにでたさい、きっちりと得点を決めゲームメイクのできるセンスをみせたからか、それ以来先発陣として起用されはじめている。ベンチでは、父兄たちから「応援団長」ともよばれていた性格がプレーヤーとしても発揮されて、一希がフィールドに入るとゲームが活気づき泥臭くなる、ゴールへむかってどんな道筋を開拓していけばいいのかが見えてくるようになる。それまでは、運動能力の高いいい子たちのパス回し、きれいなサッカーに終始ししてしまうという印象で、なんだか日本代表のサッカーのひな形をみているような感じだった。そしてこういう傾向は、他のそれなりの実力のあるチームにはみられるものであるようにおもう。

では、なぜなのか?

私がパパコーチとして手伝っているコーチ陣の飲み会でも話がでたことなのだが、やはり基本的な方針として、勝ちを目指すチーム作りか、育成を重視するチーム作りか、という論点の裏にその原因がみえてくるのではないか、と私は推論している。青年時にブラジルへのサッカー留学もしたことのあるコーチの主張は、やる気のある上手な子の先発陣の固定化で戦うべき、というもの。しかし、それでも勝てるわけではないのだから、本当に勝ちたいのなら、現時点でやる気がなさそうでも、またへたくそでも、その子たちを含めて全員の底上げを目指して采配をふるうべきだ、というのが私の意見。もちろん、全員を平等な時間試合にださせてといった、形式的なやり方ではなく、その底上げの中には、あえて今は出さない、あるいは逆に、下手でも乗ってきている練習があるからあえて先発で起用する、とかいった、コーチの洞察とチーム構築に向けた手腕によって、その実践の具体処置がかわるけれど、と。「そうできればいいですけどね。」と、ブラジル帰りのコーチはいう。「まあ野球でもなんでも、いまはエリート教育ですよね。才能のある子を優先させる。だけど、そうやってきて、日本代表のユースチームとか、世界で勝ててますか?」と私。「う~ん、それが勝ててないんだよなあ」……そのコーチがいうのは、サッカーは結局はネイマールなんだという。個人の力なんだという。「だけど、ヨーロッパの有名チームのコーチが日本にきて、小学生年代のサッカーをみていうのは、テクニックがあるけど、戦術的理解がない、と指摘しますよね。ということは……」「いや、戦術は中学生からでも教えられる。」――そう突っ込まれて、サッカーをやってなかった私は考え込み、そこでの話はそのまま尻切れトンボになってしまったのだった。

改めてここで、私がいいたかったことを整理してみると、こういうことだ。

日本人は世界的にみて、テクニックはある、なのになぜ、その日本人からメッシやネイマールのような個人技に秀でた選手が出てこないのか? それは矛盾した事態ではないか? 私の推論では、それは、日本人が、まだサッカーを知らないからだ。私がやっていた野球で、野球を知っているとは、<捕れて(止めて)、投げれる(蹴れる)>といった個人テクニックのレベルにおいて現れ見えてくるのではない。それは、抜け目ない走塁にうかがわれてくるのだ。強いチームとやっていやなのは、ランナーを塁にだすと、もう気を許せなくなるので、そのプレッシャーに耐えられなくなってミスを誘発されてしまう、ということなのだ。プロ野球日本代表チームがかかげる「スモールベースボール」とは、そういうことだろう。サッカーには、その知っていることからくる抜け目なさ、がない。それが、今回のワールドカップでも、代表チームの必死さのなさ、とみえてきてしまう。きれいにやろうとしているようにみえてしまう。しかし、では、この抜け目ない必死さをうみだしているもの、そのメンタルの強さをうみだしているものとはなにか? 私の推論では、それは、<ホーム>という意識・無意識なのだ。それは、国家という抽象的なものではなくて、具体的に誰それのため、という顔のみえる意識、想いである。ヨーロッパのクラブチームでは、強豪でも、小学生年代では、地元の子以外を入部させない。単に、勝てばいい、という方針でやっているのではない。メッシでも、バルサに入れたのは、中学生からだった。いま日本人の小学生の子供が入っているけれど、それはおそらく、母親かだれかがスペインに同居できて、子供のホームシックが防げると了解しているからだろう。小学生年代で、このホーム、心のよりどころをしっかりと身につけさせないと、結局はシビアな試合になればなるほど力を発揮できないで、ミスに負けてしまうチームや選手になってしまう、ということではないだろうか? ヨーロッパには、そうした人間的ノウハウが、歴史的に蓄積されているのではないだろうか? しかしいま日本の子どもたちは、その時点で上手な子ほど、親のいわれるがままに、まるでプロ選手のように、強いチームへと移動・移籍していく。私たちのチームにいた〇〇くんも、いまはそうやって埼玉の強豪チームに自動車で1時間かけて通っているけれど、それでも、地元のサッカー大会に暇があれば友達の応援にかけつけてくれるのは、やはり、淋しいからではないのか? 私のいまのこの考えは、その子のどこか淋しげな様子をみて洞察されてきたものなのである。目先の結果(利益)だけを求めて、移転先をさがす、これは、資本主義の論理そのものだ。が、ヨーロッパは、それではだめだと、その主義思想を生み出した文化国家だけに、知っているのではないか? バルセロナのパスサッカーは、バルセロナに建設中の、ガウディのサグラダ・ファミリアと結びついていないか? 百年過ぎても、その理念、目標、ゴールへ向けてなお建築中なのだ。それは、たとえ負けつづけても、自分たちのポゼッション・サッカーをやめなかった精神と結びついている。それが、今回のブラジル・ワールドカップで負けると、日本は今度はカウンター・サッカーだとなるのだろうか? かつての、全体主義から民主主義へと早変わりしたように。そんな目先の結果追求のために、日本人の、ホームという意識・無意識が、崩れていってしまっているのではないか? そんな子供たちに、日本人に、危機をはねのけていかせる底力が発揮できるだろうか? 若い年代にゆくほど、サッカー日本代表チームがうまくても勝てないひ弱さをみせているのは、そのためではないのか?