2014年10月21日火曜日

女房の病気

「この事件で、当然のこながら、私の自宅がガサ入れ(家宅捜索)された。家には、妻と子供がいた。妻は、早稲田大学在学中に知り合った民青の女性で、秋田県横手出身のお嬢さんであった。要するに、私は、マドンナ系の女と結婚していたわけである。良家の子女として育ってきた、このマドンナには、夫が恐喝や詐欺の容疑を受けて家宅捜索されるなんて、許しがたいことだったのだ。彼女は、私の母親にかみついた。
「なぜ私たち家族にこんな迷惑をかけるようなことをするんですか」
「それが学の仕事や。パクられて、どうふるまうか、みんな見ている。どういう男か試されているんや。支えてやらにゃならん」
「家族を守れないで、何が男ですか」
 妻と母親は、まったくかみあわなかった。
 この妻の対応こそが市民社会の「つれなさ」を示すものであった。
「清く、正しく、美しく」を押し通して、私のような者を見捨てていく薄情な市民社会の心性、「濁って、まちがいだらけで、汚く」見えるけれど、情の濃やかな共同体の心性――そのどちらを取るか、という選択を私は迫られることになったのである。
 私はいったん、市民社会のほうを取って、そこから社会を変革することで、共同体を救い出そうとした。しかし、それができない相談だったことを悟ったのである。どちらかを取らなければならない。私は、市民社会を捨てて、共同体を取った。このあと、寺村建産倒産後に、妻とは離婚し、裏社会に潜ることになったのである。(宮崎学著『突破者外伝』 祥伝社)

女房の病気が再発した。潰瘍性大腸炎とかいう、難病指定の病気だ。だからこの病気の場合、「再発」というのではなく、「再燃」というのだそうだ。かつて安倍総理がこの病気になって、辞任することになった。下血とウンチがとまらなくなるような症状らしい。薬で抑え込むことができるようだが、治すことは無理だということだ。女房がその病気を発症させたのが安倍がやめるちょっと前だったので、今回も、そのうち安倍総理が「再燃」して、辞任するようになるのではないか、と勘繰ったりしている。同時に、私の身の回りに、どんな事態が呼び寄せられているのか、と。
そう憂慮していたところで、今度は私がスズメバチにさされた。もはや家主のいなくなった家の庭の手入れで、二階屋根にまでのびひろがったツタを下からひっぱってとっていたときだ。そのツタに巣を作っていたのだ。おそらく、ひと抜き目で地面に落としていたのだが、ツタがかぶさって、ハチのほうもそうすぐには脱出できなかったのだろう。ツタを引っ張ると頭上からの落葉がひどいので、私はヘルメットをとりにもどった。フェンスと家の壁との狭い隙間に再びもぐりこんだとき、地鳴りのような音がきこえる。水道管が破裂しているのか、地下鉄の音がここまで聞こえるのかな、とか疑心暗鬼になりながらも作業をつづけて、突如、それは来た。おそらく、心のどこかではスズメバチかもしれない、とこの季節の用心としておもっていたのだろう、姿を一匹もみずとも、わあ~っと幽霊かなにかに襲われるような感覚に、「ぎゃあ!」とか悲鳴をあげて咄嗟にフェンスをベリーロールで飛び越え道路に転がり落ちるようして走る。目の前を一匹おそってくるので、やっぱりそうか、とおもいながらも、すぐ後ろを追いかけてきているような気配がするので、振り返りもせずに、そのまま20メートル近くをダッシュ。足をとめたところで、目の上、眉毛のへんが熱いことにきづく。一発さされたな、だけどそれだけですんだか、と安堵しながら、作業していた場所へもどってみると、屋根の上にいた職人さんのほうへ、積乱雲がもくもくと高くなっていくように、スズメバチの群れが飛び交っているのだった。危うく、巣をヘディングするところだったかとおもうと、ぞっとする。結局その日、親方も二発、もう一人の職人さんも一発、さされたのだった。

そのもう一人の職人さん、団塊世代の生まれで、私が木から落ちて入院している間に、腰痛の悪化で仕事をやめたような形になっていたのだった。仕事が暇にもなってきたので、親方が、ではこのさいに、と手術を受けさせたら、他の体調もふくめ、悪化してしまったのだった。またもともと、団塊世代より少し若い親方と職人さんには、いろいろ確執もあったかもしれない。が、とりあえず体調の安定した職人さんが、シルバー人材で働きだしたことを知って、親方が声をかけたのだ。おそらく、これまで30年以上と一緒に仕事をして、番頭としてただひとり育ててきた職人を、そのまま暗黙に首を切ったようなつれないままの関係で自身の生涯が終わってしまうことに、死んでも死にきれない、というおもいだったのかもしれない。また、2児の父親になった自身の息子に、金銭的な合理的な理由だけではなく、不合理でも人間的な関係こそを重視するのが職人の世界の筋なのだ、ということを教育してみせたかったのかもしれない。もちろん、そうは昔のように忙しくなく、かといって若い衆が自分の息子との関係で根付いてもくれないので、自分の付き合いで育てた老体が週四日で働いてくれる程度が、いまの経営規模ではちょうどいい、とかも折込済みの暗黙判断だったかもしれない。

その団塊世代の職人さんのほうには、1児の父になる息子がいる。以前は、親方の息子とともに、またお互いが中卒でこの世界に入って来た者同士として、働いていた。結婚をさかいに、女房のほうの実家近くの植木屋へ転職したのである。がいまは、その生産中心の植木屋から、高木専門の空師のもとについて一緒に仕事をしているという。植木生産の現場は、ゼネコンの現場への搬出などが多く、朝が早いなど労働条件が過酷で、ひとり、またひとりとやめていって、女房の父親のツテではいった自分だけが残っていたのだが、とうとうやめることになったのだという。しかし、空師仕事とは……親は、自分の息子がそんな日々の危険と向いあう仕事についていることに、どうおもうのだろう? 気が気でないのでは……。だけど、腹はすわっているはずだ、腹をくくっているはずだ、すでに、自分もそうなのだから。そうあってきたのだから。

植木職人の世界にいるとはそういうことであり、そういうところから、女房の子ども教育を牽制し、サッカーをめぐっての、世の中をめぐっての発言をしている、夫婦喧嘩をしている、そのことが、良家のお嬢さんたる女房にわかっているだろうか? 自分がどこにいるのか、誰と結婚しているのか、そのことがわからないで「清く、正しく、美しい」文句を並べることなど、単にイデイロギーにしかならず、論理(筋)にはならないのである。