2014年12月16日火曜日

選挙結果からおもうこと

「微積分は,時間と運動と変化にかんするゼノンのパラドックスとともに始まった。なかでも有名なのは「アキレスと亀」という名で知られているパラドックスだ。偉大な戦士アキレスとちっぽけな亀がかけっこをすることになった。亀はハンデをもらい、いくらか前方からスタートする。アキレスが亀のスタート地点に着くまでに、亀はのろのろとほんの少し先へ進んでいる。アキレスがそこに着くまでに、亀はもう少しだけ先に進んでいる。アキレスがそこに着くまでに、亀はもう少しだけ先に進んでいるので、やはりアキレスをリードしている。このように、いくら俊足のアキレスでものろまの亀には決して追いつかない。常識はこれに反しているので、ゼノンは常識のほうがまちがっていると結論した。変化は幻想にすぎない、信ずるべきは自分の頭脳であり、他のものを信じてはならない、と。
 ほとんどの数学者はこれについて、ゼノンは無限級数について混乱していたんだよ、と言うだろう。今では誰もが微積分を知っているので、もはやゼノンに出番はないように思われる。それでもぼくは、彼が何に頭を悩ませていたのか、なんとなくわかるような気がするのだ。ジョフとやりとりした古い手紙を順番に読んでいると、過去が現在に追いついてくる、歳月が背後から駆け足で迫ってくるという痛烈な感覚に襲われる。ジョフとぼくは亀のようにのろのろ動く現在にいて、早足の時間から追いかけられているのだ。」(『ふたりの微積分』 スティーヴン・ストロガック著・南條郁子訳 岩波書店)

なんとも微妙な結果なようにみえる。今回の選挙結果のことである。300を優に超えると騒がれた自民党は、以前より3議席減らして快勝と豪語でき、同時に民主も議席は増やしたが党首落選、共産党が躍進と湛えられる。アベノミクスがどうのこうのというよりも、安倍政権への批判は、その右翼的な、翼賛体制的なものへの現実化路線が危惧されてくるから、というのが左翼的な立場のひとたちの主張だったことをおもえば、結果はその思想立場の分裂そのままの反映として、わかりやすいものだ。しかし、アメリカの言う事もきかずに平気で靖国参拝して、つまりヒトラーの墓参りをしたようなものなのだから、そういう人が国際社会で「積極的平和」を訴えても、口先だけのこととして相手にされないのは当たり前だから、安倍の経済政策など国際的に孤立するか利用されるだけが落ちというのも政治的に明白なのだから、アベと名付けられる政治経済策への批判自体が、現実的になってくるともおもわれない。おそらく、失脚させられる、とする知見のほうが当たってくるだろうと私も予測する。が、そんな人の政権を、国民がまたもや支持してしまったような結果になってしまった、というところに、だから微妙なものがかかわってくることになる。(だからそう簡単には、諸外国勢力もつぶせはしないだろう。)以上の当為からして、国民は、安倍の経済策や政治を支持してしまうことにならないからだ。それは、世界では意味をもてないのである。ならば、何が支持された結果になるのか? 強いて言えば、自民党を支持した、その昔からの支持層が反復された、ということにはなるかもしれない。それは自民党の選挙戦略、無党派層を取り込むとかではなく、地元の基盤を固める路線として意識されたものでもあったろう。だから論理的に整合していえば、安倍の顔が象徴するような自民党がもう一度反復された、というようなことになろう。どんな顔か? 単純に、それは二世だの三世だのの、世間知らずであるがゆえに純粋に血統物語を体現しているような面相、ということだろう。群馬で「ユウコちゃん」が圧勝したようなのが、国民の指示内容なのだ。その支持者は、自分が外の世界からだまされていることを承知しているはずである。むしろそれゆえに、その不安ゆえに、なおさら強固に支持して自我を持ちこたえさすのだろう。それは、オレオレ詐欺の被害者に似ている。だまされたくもあるのだから。そんなじいさんばあさんに、真実を語る左翼言説が、実践的になりうるだろうか? なりうるわけがないだろう、というのが今回の結果である。私も、ファシズムを防げ、みたいなのは、お互いの仲間内では確認事項としていいとしても、それをそのままだしてすましていられるナイーブさ自体が、2世3世と同じだろうとおもわれた。そんな左右の絡み合いが、結果の微妙さ、真偽不確かさをうみだしている。安倍(日本)のファシズムは、世界が防ぐだろう。まえみたいに。しかしそんな以前の結果を期待して、共産党に入れたわけではないだろう。日本人が日本からファシズム反対しても、世界では意味をもてないのは、安倍を支持する人の側と同じである。逆に言えば、支持者・非支持者の意図に反して、世界を、つまりは詐欺にあってもいいよ、ということを意味=支持させられてしまう。インテリの普遍的立場として、そのネットワークの確認として、不変的なことを反復する必要もあるのかもしれないが、それは「ことば」(=思想)ではないだろう。人の心に届かないのだから。人を、動かせないのだから。

では、どんなことばなら届くのか? 少なくとも、警察や銀行の窓口では、じいさんばあさんが詐欺にあわないように、いろいろノウハウが積み立てられてはいるだろう。もちろん、じいさんばあさん相手だけの話ではない。若い人にだって、どうその心に言葉をとどけられるのか、実践的には難しいだろう。徴兵されるぞ、という言葉が真実だとしても、ゆえにだからこそ、反発したくなるだろう。

サッカー界でも、世界で勝てない事態から、Jリーグのなかに、マンUやバイエルンをまねて、常勝するチームを作って軸をもたせたほうがいいのではないか、という意見がでている。前回のブログの続きでいえば、息子のサッカーチームのコーチ会でも、ブラジル帰りのコーチはその話に言及していた。しかし日本では、そういう方針の意図に反して、かつてのV9時代の読売巨人軍の茶番劇的な反復になってしまうだろう。つまり、世界的な意味をもてないのである。その自覚ゆえに、<それ>を追い出して、Jリーグがはじまったのではなかったか? 今負けていることに、何が不安なのだろう? 子供たちは、そうやって勝っていくことを、本当に望んでいるだろうか? 私のみるかぎり、彼らは、やはり仲間とともに勝ち、負けたいのである。だから、詐欺にあうことも辞さないのだ。仲間が死んで、自分が生き残れば、負い目をおうのである。そして、それが人間の存在条件にあるとしたら? というのが、ハイデガーからアガンベンにいくような洞察の哲学が証明してみせていることではないか? 自民党を支持した国民をアホだとみくびるものは、実は、自分が人間から見捨てられているのである。自分が支持者でもあってしまうことを、忘れていられるのである。