2013年4月29日月曜日

日本文化とゴール

「日本の文化は「道」。これで終わりというゴールがない。僕が20代を過ごした欧州では、なにかを習得するのは目的を果たすため、という考え方だった。物を作る時も同じで、作るのは使ってもらう、つまり売るという目的がある。日本の場合はその目的がはっきりしない。だからPRや競争が苦手なんだと思う。」「日本のサッカーの良さは、決められたことを丁寧に遂行できるところ。ただ、競争に勝ち抜くという意識は弱い。だから相手を出し抜くような創造的なプレーがうまくない。それを生み出すのは技術ではなくて「間」や「タイミング」。相手がこうするからこうしようではなくて、相手のプレーを自分たちが意図した方へ仕向けないといけない。この課題を克服すれば日本はもっと強くなる。」(中田英寿発言「サッカー日本代表へ」 朝日新聞朝刊2013/4/29)

職場に、新しい人がはいってきた。30歳後半で、それまで私塾を開いて先生をやっていたそうだ。だからというか、一服のときに、子どもの勉強の話になってきた。「今でしょ」と、お笑いの一発芸になっている塾講師のいる東進予備校は、コマーシャルをみていると、他の先生の言うこともちょっとちがうね、いいね、と私が言うと、もともとその予備校は、これまでの詰め込み式の教育に反発する講師たちが集まって作った予備校なのだそうだ。その教育の過程で頭のおかしくなったような子が自分の塾にやってきていたのだという。勉強させるというよりも、もっとそれ以前のことからはじめなくてはならなくなると。学生の頃は、中東や北アフリカの方をひとりでまわってきた経験もしているそうだから、現況批判的な眼識があるのだろう。東進予備校で講師もしている出口汪氏の論理ドリルの話になって、論理というけど、それは言葉のうわっつらのつながりのことじゃなくて、一神教的な宗教のようなものだから、ドリルじゃどうしょうもないところはあるね、と私がいうと相槌をうち、「信仰みたいなものですからね」と返答してくる。そんな彼、すでに子どもはいないが結婚生活をしている彼が、まだ給与も安いだろう植木職の世界に、会社のホームページでの応募を見て、初心からはじめてみる決意をしたということになる。奥さんもまずはたまげて、だいぶ話し合い、了解してもらった、ということだった。
私は町の植木屋が、職安やホームページで勤務者を募集しはじめた、という話を親方の息子からきいたとき、いわばその判断は、地域や私人的な関係を切り捨てより匿名的な一般・抽象関係にはいっていくことを是とする、つまり資本主義的な構造が強いてくる力に押し流されていくほうを選択したのだな、とある意味批判的な問題意識をもたされた。実際、3代目になる息子は、知っている人とやっていると疲れる、とその具体性のある関係から逃げたい、という思いを吐露していた。なりゆきから敷衍すると、よそ者の他人だったら、もっと気遣いなく傍若無人に扱えて楽になるな、ということになる。知らない者のことなど考えなくてすむ、自分のこと、その利害だけを心配していればいい、と居直れるようになる。現時代趨勢の、自己責任という欺瞞に依拠した新自由主義的な資本イデオロギーに暗黙にのっかっていこう、という態度である。しかも、本人は世襲制という非自由主義的な旧体制に安住しているのだから、その自己欺瞞はなおさらだ。しかし、そうしてなんだか変な単独人が職場にはいってきてみると、やはりその趨勢におされた判断はよかったのかな、とも思い直されてくる。いわばネットという新テクノロジーを介して、単独的であったよそ者たちが編集されてくる、という感じだ。その職場でのという具体的結びつきが、より横断的になれば、たとえば他の植木屋や産業でも、批判問題意識をもった人たちが渡り合えるような世界として世の中が再編されてくれば、だいぶ日本の閉鎖的な社会も風通しのいい見晴らしのきく世の中にかわっていくだろうと。
が、肉体労働をしてこなかった人にとって、やはり植木屋さんはきつい。剪定された枝をダンプに積み込む作業をしていても、、その束を三回ほど肩にかついで運んだだけで、息切れがしてくるようだ。そして、頭で批判的な意識を抱いていても、体はやはり言われたことにハイハイ即答して動いてしまう、という日本人の習性が身についてしまっている。いわば会社人間だ。私自身もそうだが、反射的に、せかせかと動かされてしまう。そうすると、その視野の狭くなる動きは、自身のケガや第三者への事故へと現場作業は結びついてしまう。「慣れるまで、急いじゃだめですよ。早くしろ、といわれても、ゆっくりやって怒られているくらいじゃないと」と言い聞かせるようになる。しかも彼は、一つ一つ新聞記者のようにメモをとりながら仕事を覚えようとしている。書いて覚えるのは覚えたことにならないからそれじゃだめなんだけど、とアドバイスしたくもなるが、いまはまだ好きにさせている。が、親方の息子と一緒に仕事をするようになれば、そうした個々人の身体(くせ)を拘束させるような、きつい言葉が一言で飛ぶだろう。その罵声や批判の内には、せっぱつまったところでこそ成立する技術、という職人現場で継承されてきた態度要請というものが詰まってはいるのだが、親方ではなくその息子が無邪気にいうとき、その批判の意味は逆転して、人の自由度を奪う、という字義通りの実践結果しかうまないのである。一挙手一投足、その職の全体性が要請してくる体の動きに個々人をあてはまらせる、そんな社会・人間関係にはもはやいない、というまさに職の全体性を意識しなおせている、年の功ある親方とちがって、若い息子は全体がみえず、その場の効率性だけでしかものが言いえていない。だから、イントネーションがちがうのである。その含蓄を欠いた若造の言葉を、妻をもつ大人の人間が、耐えていけるだろうか? あるいは、その関係をうまく変えて、見晴らしのいいものに作っていくことができるだろうか? 親方と私は、そうやって、関係を作り直してきたものとおもう。親方はだいぶ若造だったインテリの私から、学んできたはずだ。
それは、ユダヤ人の教えにあるような実践だった。最大の復讐は誠実であるということである、というような。あるいは、イロニーの最終形態は真面目である、という哲学の箴言にあるような。つまり、私にとって、怒られ嫌味を言われてもどこふく風とニコニコしていたのは、ソクラテスやイエスのような世の中を変えていく復讐実践だったのである。
彼に、そんな息の長い知的体力があるだろうか? そして私は、どう支援していくべきなのだろうか?

2013年4月21日日曜日

子どもとゴール

「今の子どもが二十歳を迎えるころ、この日本は、世界はどのようになっているでしょうか?/ かつてはいかに速く正確に計算ができ、いかに記憶ができるかが、優秀な人間とされてきました。でも、今やそれらはコンピューターの仕事となり、人間はコンピューターのできない仕事を受け持つようになるのです。その時必要な能力が、自分でものを考え、他者とコミュニケーションを取ることができる力です。グローバル社会においても何よりも大切なのが論理力です。」(『出口汪の日本語論理トレーニング』出口汪著 小学館)
「いま、東京大学が九月入学制に変えようという動きを進めています。これは、東京大学の当事者がどれくらい意識しているかは別として、教育を新・帝国主義の現代に適応させようとする動きなのです。/ これまでの日本の教育システムは、非常に特殊でした。端的に述べると、後進国型の教育システムをとっていました。後進国というのは、なるべく早く外国語のわかる外交官を育て上げて外交交渉をしないといけない。また、なるべく早く税務署長をつくって国の税収を上げないといけない。そのために国家はどうするか。記憶力のいい若者を集めてくるのです。そして促成栽培で、事の本質を理解しなくてもいいからともかく暗記させる。暗記したことを再現できる官僚を養成する。明治以来、東京大学を頂点とする日本の教育システムは、そういう後進型の詰め込み式で、それは戦後になっても変わっていません。その結果、いま日本の官僚が恐ろしく低学歴になっている。」(『人間の叡智』佐藤優著 文春新書)

残念ながら、一希は4年生トレセンからもれてしまった。技術的には第二グループの10人目前後くらいに位置しているかな、とみえていたので、私としてもちょっとショックだった。親バカの目だったのかな、ともおもうが、監督や、すでに自分の息子が上級の代表選手に選ばれていた親からも「大丈夫」と言われていたので、今でもそれがなぜなのか、サッカー経験のない私には、ボールタッチの妙技や微妙さのことはわからないので、理解できない。おそらく、各チームの中心選手で落ちたのは一希だけだろう。モチベーションの高い子たちと一緒に練習することで、もうひとつ上の真剣さをしってもらいたいと考えていた私には、本当に残念だった。
が、私自身が、テストが終わった直後に一希に言ったことはこんなことだった。「おまえ、下が人工芝で気持ちがよかったから、たおれてもすぐに起き上がらなかっただろう。あんなとこをテストコーチにみられたら、二度とおまえのほうをみてくれないよ。一度でバッテンつけられておわりだ。一次テストの試合でも、点をとられて『どんまい!』と仲間に声をかけるのはおかしくないかい? なんで、自分でゴール前に猛然と防ぎにいかなかったんだ? まるでひとごとじゃないか? そんなやる気があるのかどうかわからない選手を、わざわざ代表を選んでいくセンターの練習に参加させるとおもうかい? 元気にやるのと、真剣にやるのとはちがうんだぞ。……」

実際、ちょうど落選の結果がわかった練習日、こんなことがあった。練習途中、校庭の遊具周辺が新しい人工芝に変えられているのを上級生が発見した。おそらく一希はそこによっていく6年生をみて、「新しくかわったんだ」とみなを誘うような声をあげた。私はその様を背中で聞いていて、次にどんなことが起こるか想像していた。するとまだ2年生、この4月からは3年生になる男の子が、自分の友達の名をコーチには気づかれないように低いがしっかりした声でよびつけた。「〇〇、いくな!」それを聞いて、コーチが皆を呼びつけて言う。「△△が面白いこといったから許してやるよ。まだ2年生だぞ。おまら、わかるか?」 友の名を呼んだ彼は、入団テストのある他の区の強豪チームにも入っていた。ボールさばきは、もう上級生なみだ。彼は、いわばサッカーを選択した子だった。だから、下級生の練習が終わったあとも、私から上級生の練習にも参加していいといわれていたので、そのまま居残っていたのである。去年の今ごろ、一希もコーチからそう言われたが、一希は友達と公園へ遊びにいくことを選んだのだった。その選択の差は、技術的な面だけではなく、それを支える精神面にこそあらわれていた。一番最初に校庭の人工芝に近づいた6年生は、テクニックと視野の確保に優秀さがみられる子だが、区代表にあたる6年トレセンにはもれてしまっていた。一希も、落選の判定は、そういうところにあったのかもしれない。

しかしそこで、やはりインテリの私は迷ってしまうのだった。「いくな!」と友の名を呼ぶその選手の様には、もう子どもらしさがないというか、その目的に即した”賢さ”はいいのだろうか、とおもったのだった。練習がおわったあと、あの6年生は、待ってましたとばかりに、人工芝に飛び込んで寝ころび、その感触を味わった(コーチからはあきれられた)。そうした、目的に拘束されない逸脱した、発散した好奇心を、抑えつけていくことが、果たしてよいことなのだろうか? 一希は、なお通学や行楽でも、寄り道がおおく、目的地にはなかなかつかない。大人の私は、怒鳴ってばかりである。そして怒鳴りながらも、迷っている。サッカーがいくら視野を広くとって情報処理をするスポーツだといっても、それはゴールという目的にそくした論理の中に拘束されている。しかし生きるとは、そのゴール自体を自分で見つけ、あるいは作り、そして変えていくものなのではないだろうか? 実際、優秀なサッカー選手が、この世界や現実上で、目的を見出しあるいは創造し、視野を広くもち情報をとってこられる応用力をもてるかどうかは怪しい。しかし親としは、というか私としては、あくまで現実や世界で生きていくための縮約モデルテストとして、子どもにサッカーを、あるいは一希がサッカーを選んでくれたことをまだよしとし、そのサッカーを通して、その論理力、情報処理能力を養ってもらいたいと考えるのである。ならば、サッカー自体が目的と限定されてしまうとき、子どもがそう選択し真剣になってしまうとき、本末転倒が発生するだろう。サッカー・ゴールしかみえなくなってしまえば、多様な世界が消されてしまう。しかも、このブログでも指摘してきたように、サッカーとは、現在の資本論理世界の中で、一番の大衆集約力を持つ領域なのである。それを鵜呑みにすることは、それしか見ない、見えない人間になってしまうとは、資本主義の論理以外を知らない、他の世界を想像できなくなってしまう大人に育ってしまうことである。それは、私がサッカーをやらせる、それを通して子ども(たち)に知ってもらいたい、培ってもらいたい事柄、能力とは正反対のものである。

そういう意味では、順調に受かるより、落選したほうがよかったのかな、と思い直している。一希は自分で納得しないことは、やろうとしない。意味がわからなければ、その練習をするのもぐれてしまう。だから、アホなのか、ともみえてしまう。というか、奥手なのだろうと私はおもっている。だから、急がば回れ、で、あちこちに目移りするスキゾ・キッズのままではすまないよう、週に一度は冒頭引用の出口氏の論理ドリルをやらしている。女房の九九・漢字の暗記訓練で泣かされていない時をみつけて、すでに勉強ぎらいになっている息子にやらせるのは難題だ。
トレセンに落ちた一希が、自身でもショックだったのは、一緒に風呂にはいっているとき、「俺、落ちた」と一言いって落とした涙でわかるけれども、そんなことに頓着しないように、相変わらず元気にやっている。このあいだも、全日本予選の6年生大会に、キーパーとして出場し、猛烈なシュートを何度もあびながら、後ろから大声で指示をだしていた。それでいい、とおもうのは、やはり親バカということなのかもしれないが。

*似たようなことを以前書いたなと思い出しふりかえってみたら、「ユーロ・サッカーから――世界とコーチング」という「http://danpance.blogspot.jp/2012/07/blog-post.htmlのブログがあった。その差異とも銘記するよう参照した。

2013年4月7日日曜日

贈る言葉

「サッカーはまた、ルールがアバウトである一方、一度試合が始まってしまうと、監督や選手がタイムを要求するということはできないため、作戦とか監督・コーチの指示といったものが機能する範囲は、きわめて限られる。逆に言うと、選手が自分の判断だけでゲームを動かす度合が非常に高い。…(略)…つまり野球の試合というのは、監督を頂点とする頭脳集団によって動かされており、選手は与えられた役割の中で「いい仕事」をすることを求められるのだと言って過言ではない。ルール上、そのようになっているのだ。/ このことが、集団で規律正しく動くことを好む日本人の感性に合っていたのだ、という見方は、決して皮相ではないであろう。」「このように、リスクを自分で背負い、チャレンジする勇気が、個々の選手に求められるのがサッカーなのであるが、サッカーの持つこうした特性こそ、行き過ぎた集団主義とマニュアル文化に汚染された日本人が、もっとも苦手とする分野ではないだろうか。日本のサッカーがなかなか強くならない原因は、まさにこの点にあるのだ。」(『野球型vs.サッカー型 豊かさへの球技文化論』 林信吾・葛岡智恭著 平凡社新書)

父親がアル中のため施設に入院したということで、実家のある田舎へ見舞いにいく。精神障害を抱えた人や、薬物依存になってしまっている人、前科者の更生、とう幅広く受け入れている病院だそうだ。「若い女の子が多いな」、「風呂にはいると、入れ墨をしている人も多いよ」、「いい社会勉強だ」と、もうじき80歳に近くなる父は言う。当初は入院措置をとろうとする母や弟には反対していたが、アルコールをたって血色や肉付きもよくなってきているのをみて、ほっとする。近所の知り合いでも、同じくアル中でその病院に入院措置をとった方がいたのだが、途中で自殺をしてしまったそうだ。私は、父も山に隔離されることで気が持たなくなって、そう追いこまれてしまうのではないかと心配だった。いや、それは心配といえるのだろうか? 田舎から、ふるさとから逃げてきて、その精神分析的な対象になるようなおぞましき世界から脱出している自分が……なお自分は、そこに生還できる気がしない。高校生になって間もなく引きこもり始めた私に、仕事のストレスで気のふれた父が「なんで学校にいかないんだ?」と焦点の飛んだ瞳で子供部屋にまで声をかけにきたとき、「あっちへいけ!」と私をして蹴とばさせた世界は、なお実家に生々しい痕跡を残している。あの家で、父は私に、何を教えてきただろう?
だから逆に、いつまでも東京の両親のもとから仕事場へ通う若い者たちのこともよくわからない。私はまた、職場で一人の従業員となった。一人は酔っぱらってでてきて親方の息子と喧嘩になりやめ、もう一人の若い子は、「あんたにはついていけない」とその息子に言い置いてやめていくことになった。一挙手一投足あげつらわれ個人の尊厳をつぶされ、神経質で陰険な現場のありさまにばかばかしくなり、その師弟関係にストレスがかかっていやになっていく気持ちはわかるが、それを真に受けてしまう自分の感受性が問題ではないのか? やることがあって積極的にやめていくのならともかく、そのままでは、自分も、自分と他人との関係も変えていく試みや技術も知らないままじゃないか? いやそうやって、みなまわりの人は逃げていったのだ、いやなところから。私はいつもとどまっている、取り残されてきた。どこでも。しかしどこに? 私は、逃げてきたのではないだろうか? いつまでもたかの知れた職場に居残っていることこそが野球部仕立ての奴隷根性ではないのか? 私の息子には、そんな根性で苦しんでほしくない。……上手な子は、より強いしっかりした
組織のチームへと地域をこえて移っていく。まるでプロ仕様のように。一希は、残っている。私の判断は、私の退行世界にひきずられているのだろうか?

一希は、トレセンに受かっただろうか? そのサッカー・テストの一問めは、面白い。マーカーまでのドリブル・アップのあとで、コーチは次のような問題をだす。「これからチームごとの競争をします。一人が一度はボールにさわって、マーカーまでいってかえってくること。コーチへの質問はなしだよ。作戦タイムは一分。さあ、スタート!」なりゆきから、競争とはドリブルのリレーであって、作戦とは初対面の子同士で編成されたチーム内での順番を決める、ということだろうとほとんどの子、チームが考えドリブル・リレーを開始したが、一希の所属したオレンジチームだけはちがった。スタート地点にボールを一個をおくと、それをみなで手でタッチし、全員でさっさとマーカーまで走ってかえってきたのだ。私もコーチの話すイントネーションの変化から、これはとんち問題だなと察していたけれど、オレンジチームのアイデア解答は笑えた。一希の話によると、各クラブチームのキャプテンが集まっていたとのことで、だから、自己紹介からはじまってコミュニケーションがとれていたのだそうだ。最後のトレーニング問題は、作戦中、しゃべってはいけない、という条件までついたが。

私は、何を教えられるだろう? 父は、私に何を教えてきただろう? 1対1でやってきた野球をとおして? そこで発せられてきた言葉は、私の心には残っていない、とおもう。いや、反面教師なぐらいだろう。しかし、そんな言葉をこえて、父はやさしかった気がする。黙って私を見守るやさしさだ。そんな包容感が、心というより体の髄に残っているような気がする。
川崎フロンターレの中村憲剛選手は、父から、というより中村家の家訓として、こんな言葉をもらっているそうだ。「感謝、感動、感激を感じる人間になれ」、「感謝、感動、感激を感じてもらえる人間になれ」(『幸せな挑戦―ー今日の一歩、明日への「世界」』 角川oneテーマ21)。
私には、どうも息子に贈れるような言葉はないようだ。しかし、父が無意識のうちにそうしてくれたように、やさしく包まれている、という安心感を息子にあたえられないだろうか? そうありたいと、願っている。