2012年12月16日日曜日

高速道トンネル天井落下事故から

高度成長期に建てられてから40年ほどがたち、劣化してきたのだろう、このトンネルの型が古かった、とかを事故原因としてきいていると、マークⅠという旧式欠陥のまま運転してきたことが大惨事のもととなった福島第一原発事故のことをおもいおこしてしまう。というか、その経済成長期の発想で作られてきた制度から現物までもが、ガラガラと音をたてて崩れ始めた、しかも日常生活のすぐ隣で、という進行事態の象徴なのではないかと感じてしまう。この崩壊過程のなかで、今日東京都知事と衆院の選挙があるという。そして、「取り戻そう、日本」を標語にする自民党の単独勝利が予想されている。あの元気だった成長期への懐かしい思いからなのか? 復古など、不可能であると誰もが感ずいているはずだというのに。何を期待して、というのだろう?

この瓦解しはじめた古い本体を、修復するにしろ解体するにしろ、それにはとりあえず金がかかる。金がかかるとはどういうことだろうか?
たとえば、定期点検の検査でさえ、この予算で入札すれば、すぐに何人手間で何日かかる作業かが自動計算される。赤字にならないために、打音検査などはしょれるところははしょる。いやこれは国民の生命のかかった必要不可欠な大事な作業なのだ、省くな、となれば、その負荷を担うのは、単に末端の労働者である。サービス残業でやるのか? やらなきゃ首だと脅されながら? 原発の労働者のことを考えてみればいい。そんな強制などとてもできることではない。私の仕事の公園管理などもうだ。手入れの行き届かない高木は、そろそろ大枝を枯らしはじめている。しかし予算が片手間なら、作業も片手間のことしかできないのである。県道ひとつ隔てて東京都と埼玉県にまたがる森林公園の、埼玉県側の樹上をみあげてみると、人の胴体ほどの太さの枝が中折れてぶらさがり、山桜の立ち枯れの森となっていたりする。その下を、ジョキングや犬の散歩に人々がゆきかっている。現場のことを知っている人は、自分の子供をこんな公園で遊ばせはしないだろう。北風が吹けば、落ちてくる。サービスでできることでもなければ、素人でできることでもない。景気のいいときに乱開発された高層ビルの解体理論はあるだろう。が、金がなければ、その理論は机上のものだ。高速道路にしても、そのうちあちこちで寿命をむかえてくるので、とても予算と人手がまにあわなくなるのでは、と専門家がテレビで発言していた。さもありなん事態である。火事や津波で破壊されることを前提に建てられていた昔の発想のほうが、どれだけ利巧であったことだろう。

しかし、全体では片手間になるといっても、その予算のなかでも、やることはやらねばならない。そうでなければ、単に税金泥棒だ。ところが如何せん、そんな末端作業をやる人たちのなかには、真面目でないものも多い。むろん、ここでいう真面目とは、資本主義的な時間制約のもとで、という意味になるけれども、それさえ誤魔化すのなら、詐欺のようなものになる。私の職場でも、二日酔い、遅刻、さぼり、が多い30代の者が親方から首を宣告されている。「人を減らすぶん、仕事も減らせばいい。また若いものを育てていこう」と、親方は苦渋の選択、腹をくくったようだ。私としては、今さらわかったのか、という感じなのだが、私がノロウィルスにやられて仕事を休んでいるときの成り行きで、カンネンしたらしい。もちろん、首を切るとは、そのものが失業すること、貧困に陥ることである。現在世論では、自由競争的に人を救済しない論と、自由競争自体のシステムを修正して貧困の深刻化にセフティーネットを張ろう、という理論が拮抗しているのかもしれない。その酔っ払いとの仕事で危うく命を落としそうになった自分は、どちらということになるのだろう? 彼は、もともと気の弱い彼は独身ゆえになおさら精神をもちこたえられずに自暴自棄になり、なおさらひどくなっている。私は、身の危険を感じながら、毎日仕事をしなくてはならない。私の本能は、こいつから逃げろ、こんな奴がいる職場から逃げろ、と言っている。しかしここにきて、そいつといつもペアで仕事をすることになる私に、親方のほうから首にしたいと相談してきた。「何かおこされるまえに、きっておきたいんだ」と本能と社会が結びついている親方は言う。私はそれを首肯した。最近も仕事帰りにタクシーに後から突っ込んでいって事故を起こしたのを示談でもみ消している、とちくりながら。首にしたらしたで、私は警戒していなくてはならない。弱い奴は、見かけの暴力的なものにはむかわず、やさしそうなところ、さらにその弱いところをねらってくる。彼は、そんな古典的な犯罪者性格だ。一昔まえなら、下町の長屋倫理で、「酒さえ飲まなければいい人なのに」と庇護されたことだろうに。しかし私は女房にいわねばならない。「子どもが殺されるばあいもあるから、一人のときはぜったいにドアをあけさせるな。チェーンをかけておく癖をつけさせておけ。」と。彼を救うことは、私の身の危険、身内の殺人をも覚悟想定しなくてならないこと。私にとって、私の現場にとって、貧困対策とは、そういうことだ。

そういう現場が、現場の人たちが、日本の天井と地下を支えているのである。支えてきたのである。その支えが、ガラガラと音をたてて崩れ始める。いや崩れているのは構造物だけで、支柱となってきた現場の人間は、その崩壊とも無縁なところに実はいるのかもしれない。私が、そのガラガラという音をきくのも、私が中流階級の意識で育てられてきたインテリ大衆であるからかもしれない。

*ホームページより最新アップ『パパ、せんそうって、わかる?』

2012年12月2日日曜日

戦争を準備する

「一九四一年九月六日の御前会議の際、天皇を説得するときに、軍令部総長がいった言葉を思い出してください(略)。しばしの間の平和の後、手も足も出なくなるよりは、七割から八割は勝利の可能性のある緒戦の大勝に賭けたほうがよいと軍令部総長は述べていました。緒戦というのは、最初の戦い、速戦即決の最初の部分の戦いという意味です。今から考えれば日米の国力差からして非合理的に見えるこの考え方に、どうして当時の政府の政策決定にあたっていた人々は、すっかり囚われてしまったのでしょうか。/ この点を考えるには、軍部が、三七年七月から始まっていた日中戦争の長い戦いの期間を利用して、こっそりと太平洋戦争、つまり、英米を相手とする戦争のためにしっかりと資金を貯め、軍需品を確保していた実態を見なければなりません。同年九月、近衛内閣は帝国議会に、特別会計で「臨時軍事費」を計上します。特別会計というのは、戦争が始まりました、と政府が認定してから(これを開戦日といいます)戦争が終るまで(これは普通、講和条約の締結日で区切ります)を一会計年度とする会計制度です。」(加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 朝日出版社)

上引用にもあるように、戦争とは、そう突発的に起きるものではないらしい。何年もかけて、準備しておく。勝てる、という見込みがたったときに、しかけるもののようだ。それゆえ、冷戦期にソ連を仮想敵として準備していた日本は、中国相手にはしてきてないので、すぐにの開戦にはならないはずだ、という意見も最近の情勢下でいわれてもいる。中東方面では、なにかと突発じみた戦争が起きているようにおもえるけれども、それは仮想敵が持続しているからだろう。どれもみな隣人どうしでだ。というか、考えてれば、常に戦争は隣人同士でおこなわれてきたのではないだろうか? 大陸間弾道ミサイルが開発・所持されないかぎり、遠隔疎遠な地域との戦争は物理的に無理である。そして、内面的にも無理があるのではないだろか? 庶民にとって、なおさらなんで戦争なんかするのか、その動機付けの維持が難しくなる。……と、考えてみれば、戦争を忌避する庶民にとって、戦争を準備する、ということが、いわゆる軍資金や装備を補充する、という物理的な話ではないことが想定できてくるのではないだろうか?
なんで戦争はいやなのだろうか? 古代からある時期までの戦争にあって、まだ自分の名前を敵前で名乗り、自らの名誉と自尊心、そして人間の尊厳的価値を再生産させていくような儀式制度としての面が濃厚であったような時代にあっては、死は、戦争をいやがる理由ではなかっただろう。明治時代はなお西郷さんの戦争までは、生き延びてきた息子に母親が自害を迫る、という気風があったそうだ。しかし無名戦士が普通となった近代戦争下では、表向きは徴兵されていく息子を万歳で見送っても、内面は空々しくぼろぼろだっただろう。だからなおさら戦後、その死を無意味とさせたくない、と取り返しの衝動を維持しなくてはならなくなる。すでにその意味がその時点で充実しているならば、それは私的に抱懐され伝えられることで安定を保つはずである。個人の尊厳が蹂躙されてきた無名の戦争であるがゆえに、その意味の回復=補充が絶えず必要とされることなのだろう。ということは、実はわれわれはなお、古代の精神的構造を形をかえたままひきずっている、ということだろう。つまり、戦争の形はかわっても、その内実にあるものは、変わらない。戦争には、変わらないものがある、ということだ。ということは、戦争をいやだ、という感覚もまた、古代からあった、変わらないものに属しているのではないだろうか? そして、それが「死」ではないとしたら?
戦争を回避するために、戦争を準備していなくてはならない、と私は前回ブログで言った。その準備とは、むろん軍備ということではない。むしろ、ではいま自衛隊もなく、それで戦争が起こりそうだ、さあ戦争に備えなくては、となったら、私たちはにわか軍備にいそしむだろうか? 今からそんなことは無理なのだから、他の対処を考えないだろうか? 考えること、準備することとは、そういうことだ。政府レベルと、個人レベルでは、その具体的対処は違うだろう。何も持っていない者が、戦争を回避するために準備することとは? 一人では実際上の回避にはならないだろうが、それが回避に(論理的に)通じた準備であるかぎり、一人一人が増えてくれば、人間関係(構造)上戦争が不可避であったとしても、その表現が回避され違った表現として現れてくるだろう、ということは、また論理的に言いえることである。
私はその論理を、ラカン経由のフロイト―カントの系譜線に見ていることになるのだが、その人間仮説は、あくまで仮説で、それを保証してくれるものがあるわけはなく、その理論への信仰、つまりその論理がリアルである、とする私の信仰は、単に私の生活実感からくるほかはないものなのだ。

*このブログに関連して、現在WEB絵本『パパ、せんそうって、わかる?』を創作中。

2012年11月2日金曜日

論理と外交と人間と

「イギリスがインド帝国を征服したとき、これはイギリス本国とインドとの対等合併である、インドはイギリスの植民地でなく、イギリス本国とインド人との間には、全く差別はないなんていうことは言わない。言うわけがない。アメリカの白人が、黒人奴隷に対して、われわれは対等である、何の差別もないなんていうことは絶対に言わない。/ そんなこと、あり得るはずがない。だから、そうは言わないのだ。もし、かくのごとく言うことがあるとすれば、それは実現する決意のあるときだけである。ゆえにそれは、植民地なり奴隷なりの解放宣言になる。/ 論理的にはこのとおりであるが、論理音痴の日本人には、どうにも見えてこない。一方においては解放宣言を発しておきながら、他方においては、平然として解放宣言を無視している。ともかくも論理が身についている彼らにとっては何とも腹立たしいかぎりである。/ ここに気づかず、日本人は何回でも論理無視、論理蹂躙を繰り返す。そして、それが善意だと思い込んでいる。これでは、不信は累積されるばかりではないか。その結果、欧米植民帝国主義諸国におけるよりも、はるかに小さい差別でさえも、この不信あるゆえに、拡大鏡にかけられ、途方もなく大きなものに見えてくる。論理を知らないことによる日本人の損失が量り知れないことをお分かりいただけたであろう。」(小室直樹著『数学嫌いな人のための数学』 東洋経済)

朝日新聞によると(10月21朝刊)、すべての役職から引退するつもりであった中国の胡総書記が、軍事委主席の続投を決めたのは、ウロジオ・ストクでのAPEC会場で、野田総理との立ち話に応じて「日本による『島の購入』に断乎反対する。誤った決定をすべきでない」と迫った翌日に野田政権が国有化を決めたからであるという。「絶対に許さない」と。私はこの記事を読んだとき、愕然とした。おそらく野田総理および外務官僚などは、本当に東京都(石原)が島を購入するよりも国が管理したほうが騒ぎも大きくならず他人(中国)のためにもなるだろう、と、善意の心をもって対応したのであろう。自分たちが、いわゆる日本人の習性で――冒頭引用の小室氏の指摘にもあるように――実際を無視した独りよがりな思い込みに陥ってしまったのはしょうがない。が、野田氏は、こちらの善意が相手にはどうも全く通じないらしいぞ、ということは胡総書記の顔を見てわかったはずである。いや気づきもしなかったのか、ということ、あるいは、気づいてもそこで踏みとどまらず官僚の政策にのってながされてしまったということ、そのことに致命的な人間関係(外交)の欠如・欠落を見せつけられるのである。こんなロボットのような人が総理に居座っていることの恐ろしさ。もしそこで野田氏が、官僚の計画を一時停止させ、あとから電話でもいいから、なんで人騒がせで挑発的な都(石原)よりも、冷静的に対処しようとしている国(野田)が管理することのほうは問題なのか、その論理と心情の解明を求める質問でもしていたなら、胡総書記は、野田氏を盟友に値するかもしれない人間であると認めたのではないか? 少なくとも、日本が段どった立ち話に応じてやったことは、自分が組織の一員としてというよりも一人の人間として降りてきた礼儀を示している。しかし野田は、裏切ったのだ。「絶対に許さない」とは、一国の頭首としての怒りというよりは、一個人として、一人の人間としての怒りである。そして、よくいわれるように、中国は「ほう」という人間関係が大切である。小室氏の言葉をまた引用しよう。……<これが、中国人と深い人間関係を結ぶコツ。人間関係の深さに応じて、相手はこちらの要求をきいてくれるようになっていく。深い人間関係には大きな要求。浅い人間関係には小さな要求。人間関係がなければ、要求は少しも通らない。ここのところを理解していないから、日本企業が、「賄賂をタダ取りされた」などと大騒ぎする事件が頻発するのである。/ これが中国における型だから、いくらお金を贈ったからとて、それによって必要な人間関係が樹立されなければ、そのお金は触媒として機能しなかったことにならざるを得ない。つまり、無駄なのである。人間関係が形成されていないから、いくら要求しても少しも通らない。>(『小室直樹の中国原論』 徳間書店)

都知事を辞任した石原氏は、作家から政治家にデビューするまえ、文芸批評家の小林秀雄との対談で、「政治にでる」と表明すると、小林氏から次のように質問されている。――「あなたのために命をさしだしてくれる人を何人もっていますか?」と。石原氏は、3・4人いる、と答えていたとおもう。それに小林氏は、「ならやりなさい。」と。私は、石原氏が、本当にそうした<人間関係>を知っているか、そこにいたことがあるか、は疑わしいとおもっている。それは単純に、初期の『太陽の季節』や『処刑の部屋』などの作品からの印象でもある。おそらく、そうありたいというキザな思い込みであろう。小林氏は、その作品から政治家としての資質に懐疑的であったので問いただす意味でそういう質問がでてきたのではないか、と今さらにおもう。しかし、小林氏の洞察や、石原氏が願望している人間関係にこそ外交の根幹がある、人間関係の原型がある、と基本認識するのは現代でもなお確かなのだ、と私はおもう。いやむしろ、暴力団に対する取締りといやがらせがせり出してきているご時世の向こうには、「命」をやりとりできる根源的な人間関係が問われる局面があちこちにでてくるのではないか、と私は予想している。

2012年9月30日日曜日

「安全神話」と「平和神話」

「第一に、日清戦争のころの中国は、もともと大国である上に、アヘン戦争以後の軍近代化を経て、日本には大変な脅威でした。つぎに、日清戦争の直接の原因は、朝鮮王朝における、日本側に立って開国しよとする派と、清朝側にたって鎖国を維持する派の対立です。つぎに、台湾は、日清戦争のあと、清朝が賠償として日本に与えたものです。それらに加えて、この時期、ハワイ王国を滅ぼし、太平洋を越えて東アジアに登場した米国を見落としてはなりません。米国は日本と手を結んでいました。たとえば、日露戦争後には、日本が朝鮮を領有し米国がフィリピンを領有するという秘密協定がなされたのです。/ 以上の点で、現在の東アジアの地政学構造が反復的であることは明らかです。われわれは今、東アジアにおいて、日清戦争の前夜に近い状況にあります。日本では、中国、北朝鮮、韓国との対立を煽り立てるメディアの風潮が強いですが、現在の状況が明治二〇年代に類似することを知っておくべきです。それは、日米が対立し、中国が植民地化され分裂していた第二次大戦前の状況とはまるで違います。…」(柄谷行人著「秋幸または幸徳秋水」『文学界』10月号)

今回の尖閣諸島をめぐるニュースをみていて、以前の前原外相時、中国の漁船長を逮捕したときの様子とはちょっと違うな、このまま紛争・戦争になってしまうのかな、と心配になってきたのは少数者ではないだろう。一般メディアをみていると、つけあがらせるなやっちまえ、というような風潮だが、私には、大多数の本心は、戦争だけはやめてくれよ、なのではないかと想像する。千隻の漁船団や反日デモを統制できている中国政府らしいが、すぐさま首席が中国発の空母の除幕式だかに登壇したり、正常化40周年式典のキャンセルの陰で招待していた政治家や財界人を成田空港で待機させていたのは「天津上空での軍事演習」のためと説明してきている等の記事(毎日・9/27・夕)をみていると、俺たちがやるとしたら素人集団をだしにしてではなく、戦闘機を使ってやるぞ、とメッセージを伝えてきているのかとも勘ぐってしまう。他の人はどう考えているのかな、とネットで閲覧してみた。

おおまかには、これまでの慣習をやぶってしかけたのは日本の方からだ、ということになるようだ。前原外相のときもそうだったが、アメリカに陰でそそのかされて強気になり、「粛々と」相手の手の内で踊らされている。田中宇氏や、植草一秀氏がそういう前提だ。田中氏によれば、国境近辺の領土帰属の件を敢えて曖昧にしておくことで、事あるごとにそこで問題を起こし介入する・調停する、そのことで権益保持を図っておく、というのは国際協定上よくあるしかけで、アメリカとの同盟にそういう仕掛けがすでに内臓されていたのだとなる。佐藤優氏の外交文書調査によると、「中国漁船を取り締まることができない」日中の協定もあるという(毎日・9/26・朝)。9/25日の毎日・朝刊では、台湾の漁業組合理事長が、接続水域での操業支障はないという台日協議(口約束)を日本は破って追い出しわれわれはだまされた、と訴えている。……

しかし、そうした政治状況を発生させている世界史的構造が反復されているのだと説くのが、冒頭引用の柄谷氏の認識である。その認識自体は最近になって主張されはじめたわけではないが、8月始めの中上健次氏をめぐる講演での上の再説は事前的にタイムリーになっているのでびっくりする。その文章をふまえて、文芸評論家として柄谷氏から認めれデビューした山崎行太郎氏は、ゆえに(構造的に)、戦争は不可避なのだから、日本は核武装も辞さず戦争の準備をし、そのことで戦争を回避するよう意志をもつべきだ、と発言している((9/19のブログ等)。私は、日本が核を、つまりはウラン燃料の原子力発電所をそのまま所持しつづけるのならば、現今のイランのようにあらぬ疑いをかけられて国際社会から孤立してしまう道にはいるのではないか、という田中宇氏の意見に傾くが、不可避な戦争に準備せよ、という山崎氏の態度には賛成である。その準備がないと、その発生を最小限にとどめえない。まさかまた「想定外」でした、などという、「安全神話」ならぬ「平和神話」に安住しないために。もはや、私たちにはそんな態度は許されないのではないだろうか?
では、どうするというのだ? そういう具体的な点で、副島氏は自分の対策を呈示している(重たい掲示板N.1089・ 9/19)。実際の政治でそこまで相手にゆずる、というのは難しそうだが、戦争を回避するとはこういうことだ、という見通しを素人目にもわかるようみせてくれている。

柄谷氏は、先の講演で、――<一般に、戦争状態において、国家は革命運動に対して過敏になります。実際、日本軍がロシアに革命を起こるのを期待し、そのために革命運動を支援する工作をしたことは有名です。しかし、それは、逆にいえば、日本のなかで革命運動が起こるのを極度に恐れることになる。たとえば、幸徳秋水のように戦争中に非戦論を唱えるようなことは、危険な利敵行為になるわけです。>と述べている。柄谷氏は、かつて、すでに都知事であった石原慎太郎氏との対談で、自衛権は憲法(9条)を超えた国際法的な自然権なのだ、と発言していた。それに「そうだ」と相槌をうっていた石原氏の方策で火に油を注がれた今回の国境問題……私たちが、戦後の「平和神話」をこえてゆくような行動を組み立てられるだろうか?

2012年9月16日日曜日

一緒くたの最中から

「教育の基本は民族教育にあり。/ この原則を徹底させているのが、アメリカである。/ そもそもアメリカは移民の国家である。そこに暮らす人たちのルーツも違えば、肌の色も違う。さらに自由競争を国是としているから、貧富の差はあまりにも大きい。ビル・ゲイツのような超大金持ちもいれば、日本人の感覚からすれば、信じられないようなあばら屋や壊れかけたトレーラー・ハウス(車輪付きの移動住宅)に暮らしている人もいる。/そのような国家において、民族教育を怠ればどうなるか。/ 言うまでもない。アメリカ合衆国はたちまちに解体してしまうであろう。…(略)…したがって、アメリカの学校では徹底的に民族教育を施す。/ ことに初等教育においては、この大目的がすべてに優先する。/ アメリカの大学の教科名を見て、日本人が仰天するのは大学に英語の初級コースがあるということ。大学に入っても英語、つまり母国語がきちんと読み書きできないなんて!…(略)…まあ、最近では学力低下で日本でもそういう状況になりつつあるが、アメリカは昔からこれが当たり前。/ なぜ、こんなことが起きるのか。/ その最大の理由は、学校教育が「アメリカ人になること」を最優先にしているからである。この目的を達成するためには、読み書きソロバンなんてできなくなっても大したことじゃない。そう確信しているから平気の平左なのだ。/ では、いったい小学校時代に何を教えているのか。/ まずアメリカの小学校で優先されるのは、他人とのコミュニケーションのトレーニングである。自分と違った意見を持った人たちを理解し、自分の意見を相手に伝える。そのためのコミュニケート能力や討論能力を養う。/ これは、もちろんアメリカという国が異文化、異民族の寄せ集め国家であるからに他ならない。/ このような社会においては、他人を理解し、自分を理解してもらう努力をしなければ、国そのものが成り立ち得ない。また個人においても、この努力がなければ、一人前のアメリカ人になり得ない。社会に適合できない。」(小室直樹著『日本国憲法の問題点』 集英社インターナショナル)

結局、仕事も暇で長い夏休みだったにもかかわらず、旅行などそれらしい過ごしかたもしなかったので、三連休になる昨夜、Jリーグは横浜マリノスvs浦和レッズを日産スタジアムまでみにいってきた。その日中、宿題の漢字ドリルを息子がやるさい、女房と息子とのヒステリー・バトルがはじまる。漢字の書き順や線が出るのでないのと、まさに蹴りあい叩きあい押しくりあいをした怒鳴りあい合戦になる。宿題をおえてやってきた近所の子が、そのやりとりにちょっかいをだす。子どもの宿題など一人でやらせとけばそのうち集中ということを覚えて学習していくだろうに、目先の監視で人間を小さくさせていったら本末転倒だろう、と思うのだが、もうこっちは女房に懲りて、一希の反発・言い返し能力の訓練だとおもいなおしている。があまりにうるさいので、「静にしろ!」と、同じ食卓の端の席に座って本を読みながら、こちらも参入するはめになる。そしてそのまま午前がすぎて昼食時になると、冷やし中華をみて、「こんなの食べない。ごちそさま!」と麺の上のキュウリをちょいとつまんで一希はふてくされる。「食べるものがあるだけいんだよ。食べないと、サッカー見にいけないよ。」と、漢字の書き順よりこっちのほうがよっぽど重要な教育だろ、と思いながらも、飯を食わない食べ残すというわがままだけには子どもを許さずぶんなぐった、という大工の親方の言葉を振り返り、自分はそこまで自信を持って言えないな、ほんとにうまくないしな、と口を濁らした物言いになる。が、一希は「こんちきしょう」とばかりに食いついて食べ始める。それだけ試合を見て見たい、ということかもしれず、また、まわりの子どもたちやその親から一目は置かれるようになってきたサッカー・コーチの発言であるからかもしれない。……「サッカーの経験あるなしは関係ないんですよ。はっきりしてないと、子どもが不安になるんですね。あなたはやったほうがいいですよ。」と、社会人チームでもサッカーを続けている父兄コーチからそう言われている。夏休みのバーベキュー大会でも、べつに教えているわけでもない上級生の親からも、「うちの子はスズキ・コーチを崇拝しているんですよ」とか、下級生の親からも、「いいコーチにめぐりあえてよかった」とかも声をかけられる。たしかに、一希世代の3年生は結果がではじめている。がそれよりも、練習や普段では穏やかな私の、試合中でのエキサインティングな采配、ミーティングでの子どもを説得していく言葉を聞いてそう言うのだろう。だが私の内心は、これは私の教養というよりも、まだ父親と一対一で野球をやっていた自身の子供の頃の習性がでてしまっている傾向が強く、もっと違うようになりたい、と思うのだった。ならば、どんなふうに? 何をめざして?

浦和レッズの応援は面白い。通念イメージ的には滅茶苦茶だ。日の丸とチェ・ゲバラが同列に掲げられている。どちらも”赤”だからか? 旧海軍だかの朝日の出イメージの旗もある、ナチスをイメージさせる横断幕もある。が確か、アメリカのイラク侵攻には反対だと、率先して政治声明をだしたこともあったような。……
しかし私が、日の丸とゲバラの一緒くたに連想したのは、反原発デモと領土問題で喚起されてきつつあるナショナリズムとの一体化だ。最初は辺境の領土問題になど、原発反対者は無関心で結合などありえないのではないのかな、と思ったのだが、通う床屋の奥さんが、一緒くたに反発しているので、これはありえることなのか、と思いなおした。サヨク運動家に近いものたちは、その二つの区別を、教条主義的に、記号的に理解するだろうが、「反」なのか「脱」なのかのためにデモをしているフツーの人たちには、デモ(ゲバラ)と領土(日の丸)が同居することに、なんら葛藤を覚えない、知らないのかもしれない。ならば、やはりスガ氏が指摘しているような、ナショナリズムな、排他的な平和運動という、戦後サヨクの潮流(習性)の繰り返し、という傾向が強くなる、ということだろうか?

日本政府は、「2030年代」での原発ゼロの方針を示したという。といことは、40年まで、ということでもあり、さらに、野田総理は、未来のことは確定的に言えないのだから明確には言わない含みをもたして、と断り書きを述べている。しかし今、問題として突きつけられているのは、未来のことではなく、今、われわれがどんな意志をもつか、ということではかったか。そんな一見冷静もっともな「大局」的観点の話ではない。要するにその態度は、機会主義、これからも都合よくころころ変えていきます、自分の習性を変えないために、ということだ。領土問題で中国、日本という両国家がお互いに呼びかけている「大局」「冷静」とは、<居直り>、といっているだけだ。政府は、外国への核技術の輸出、施工着手した原発の肯定、と現状容認を宣言している。その間に、甲状腺の検査を受けた子どもたち3万8千人のうちの35.8%の1万3千人あまりに嚢胞やしこりがみられたという。医者にいってそんなものが発見されたのなら今後も定期検査で注意していきましょう、という話になるのだが、政府は、それが異常かどうかは事故影響のない地域の健全な子どもたちの診察統計をとらないと比較できないので、結論(態度)は先延ばし、だという。いったい誰が自分の子をそんな検査にボランティアで連れていくというのか? ゆえに結果などいつまでもでない。さらに、そう検査結果が出たということは、異常の潜在・潜伏性が本当にあったとわかってしまったということなので、子どもたちには結婚とうの差別が現実的につきまとうことになる、というのが人文科学的な見解だろう。この科学に、現日本政府は立ち向かっていく意志をもたない。

私は、認識の型では、新しい教科書を作る会に親近していくのかもしれない、冒頭引用の小室氏に賛成である。が、その中身において、私は、うなずくことができない。それはたとえば、私が教育したいのは、戦前の理想像、二宮金次郎ではあるまい、ということである。が、私は何を意志するのか、そのイメージは、父親としてはなさけないながらも、いまだはっきりしないのである。しかしそのイメージは、ゆえに、日の丸とゲバラが同列に置かれる一般大衆の近傍から出てくるのではないか、と予想される。ナショナリズムに回収しきれないものを、綱渡りしながら抽出してくる、生きてみせてみる、ということかもしれない。いや小室氏がその著作で、日本国憲法で一番重要だといった13条にいう「生命」という概念それ自体のうちに、私には釈然としないものがありそうだ。国家主義者のいう生命と、過激サヨクのういう生命とは、どうも出自がちがうような気がしてならない。その生命の腑分け作業が開始だということだろうか? となれば、むろん、いわゆるサヨクが嫌う憲法改正などは前提的である。しかし、そうした原理自体の書き換えこそが、今私たちに問いつけられていることなのではないだろうか?

2012年8月13日月曜日

生態と胆(共同体と個人)――柄谷行人と渡辺京二


「なぜなら前五世紀の前半を通じて「思想家」たちが生まれ生きたのは、アテナイではなく他の都市だったからである。この新しい人間タイプができあがったのはアテナイ以外の都市においてなのだ。この新しいタイプの人間と、彼が住んでいた都市とのあいだの関係はどのようなものであったのか、われわれにはとんと思い浮かばない。ただ、前四世紀以来「思想家」とアテナイとの関係が示しているものとはまったく別のものではないかと疑わせるだけのわずかな根拠はある。われわれが手にしているのはきわめてわずかな情報だが、その大部分が、こちらの都市からあちらの都市へと移動したり、あるいは政治闘争に介入している思想家の姿を描いているという事実は、それ以外には解釈できないのである。このことは、前四〇〇年以後、哲学者たちが圧倒的にアテナイに定住したことと対照的である。/ つまりわれわれは、まさに「思想家」の社会的な姿が形成された六〇年間に関して、何も知らないのだ。こうした無知は、ただ一つの情報の光に浴した都市であるアテナイが、こと「思想」に関するかぎりギリシア世界の周辺より遅れた都市であったという事実に帰せられる。思想がその教説の糸を織りはじめてから一世紀半が経過したが、アテナイの人々は「思想家」の経験をいまだに持っていなかったのである。そのためには、前四六〇年ごろ、すべての善き貴族が持つ善良なる俗物根性に動かされて、ペリクレスがアナクサゴラスをアテナイに呼び寄せる必要があった。それから少し後の前四四〇ねんごろには、事態はすでにじゅうぶんはっきりしてきて、われわれの前に思想家が社会的姿をまとって、つまり人民(demos)が見、認める新しいタイプの人間として登場してくる。しかしだからと言って、彼らの見方が適切なものだったというわけではない。そんなことはありえない。/ ところでそうした体験は、アテナイの人々のように根っから反動的で、伝統的信念にしがみついている「人民」がくぐり抜けるには、実に不快な体験であった。」(『哲学の起源』 ホセ・オルテガ・イ・ガセット著 佐々木孝訳 法政大学出版局)

文芸誌誌上で連載していた柄谷行人氏の「哲学の起源」という論考が、上引用のオルテガの問題提起を受け継ぐように書かれているのは、その同名のタイトルからして推し量られる。その哲学史の古典的な本道を刷新するような批評を書くこと事態になんらかの学問的野心があったとしても、その実際的文脈を、われわれは推論的になぞってみることができる。単独者という構えに傾きすぎたきらいのあったは氏は、NAM失敗後、むしろ共同体(封建)的な在り方を再考することに重点をおきはじめたが、最近になって、また単独者(個人)の方をもやはり握持しておかなくてはならない、とおもいなおしたかのようだ。と、朝日新聞などの書評等を読むと、推論したくなる。震災後の状況(相互扶助ユートピア)から、原発事故後の成り行き(アナーキックな、個人自然発生的な大衆運動としてのデモ)が、極左主義者や芸術家といった活動的「思想家」の評価への態度へと変転していったと。以前はそうした活動家を馬鹿にしていたわけだから、状況への対応によって自身の言説が再編成される、といったインテリ的態度に、私はあまり興味がない。どういうことかというと……
たとえば、学生の頃、文芸批評家の渡辺直己の授業で、美人批判というものがあった。美人がおとしめられている、というのである。私はいったいどこの話のことなのかとおもった。まわりの男の間で、そんなことはまったくない。やはりおとしめられているのはブスである。なのに、なんで美人を批判する論を批判する構えというのが成立するのか? 要は、左翼運動失墜後、そういう平等的な正義を背景にしたような言説がジャーナリズム界で支配的な前提になっていて、それに対してなのだ。つまり、あくまで美人をもちあげている世の中そのものに対峙しているわけではないのである。柄谷氏の『日本近代文学の起源』なども、そのような言説世界に対するインテリ的対応である。そのように、一部の言葉世界を操作することによって自身のポジションを定立しようと試みるインテリ世界とは別の次元で言葉を発してきた渡辺京二氏は、どのような対応を、たとえばこの震災・原発事故にみせただろうか? 近世社会の生態をみつめ、水俣病患者と長年共闘してきた氏には、強いて言うこともなく、むしろジャーナリズム世界の言説にはうんざりしているようだ。
渡辺氏のポストモダン批判の言葉を読むと、柄谷氏の、外国人固有名と引用だらけの文体を徹底的に嫌悪している様がみてとれる。が、氏の文章のなかで、私の知る限り一度、柄谷氏の「日本近代文学の起源」を肯定的に引用している箇所がある。その文を読む限り、渡辺氏は、柄谷氏の知性に一目おいていることが見て取れる。私の感性では、両氏の洞察の仕方に、どこか類似性があるのである。それは、実は身近な日常的な場所から普遍的な考察がはじめられていることだ。柄谷氏の引用だらけの文章のなかで、一番面白いのは、そのわかりやすいアフォリズム的な比喩である。イエスの麦種のたとえ話のような。それと、両者の思考の根幹にあるのが、人間(自己)を突き放したところにある、ユーモアある生態的な構造的見方だ。柄谷氏は自身の「構造」を数学的な厳密さと重ねあわせたりもしているが、私には、そうはなっていないとおもう。
たとえば現進行している反原発デモについて、柄谷氏は「ゴキブリ」の比喩をもちだして発言している。一匹いるということは、見えないところ(デモにでてこないところ)に千匹いるのだ、というような。渡辺氏が大衆と知識人の区別を、生態的な構造に起因するとしているのは、以前のブログで引用したとおりだ。率先的な個人と潜在的な個人予備軍としての大衆、という生態的な関係? 自助と相互扶助との、単独者と共同体との自然構造的な関係? そんな図式的な理解でおさまる事態ではないとおもうが、そう比喩的にとらえてみるとして、その実体の、内実の在り方は具体的にどいうことだろうか?

木から落ちての骨折がなおり復帰した仕事で、自分の住む団地の欅を切ることになったことは以前に言った。この団地の管理をずっと請け負ってきた会社の親方が、その半年後の街路樹剪定で、木から落ちて亡くなったことも。その70歳近くになる親方を知る年上の職人や、長いつきあいだという団地の緑化委員の者たちは、その原因を、若い職人にめぐまれなかったから、育たなかったから、といっている。安全帯をつけてなかったのかどうか、などと調査しはじめる官僚とはまったく違う見方だ。私は、当初その会社が団地の欅を剪定する作業を請け負っているさい、その大木にハシゴをかけ、木の下で円陣を組んでいる姿を思い出す。車椅子の私は、6階のベランダから、いったいこの欅を彼らはどうやって切るのかな、と見下ろしていた。円陣の真ん中では、社長らしき人物が、若い職人たちを前に話し込んでいる。30分以上そうしていて、とうとう作業ははじまらなかった。できなかったのだろう。それゆえ、その仕事は再見積もりで私のいる会社にまわってきたのだった。他の業者の職人がさっさとやってのけたことに、その親方はどうおもっただろう? 社長の昔の気質を知る緑化委員によれば、若いものに怒って、いざ大きめな街路樹の剪定をするさいに、若者に気概を教えるために、自らの体を奮い起こしてのぼっていったのだろうという。素人の委員がそう見立てられるのであれば、談合とうで地域仕事を仕切っている業者のボス会社にもわかっていたはずだ。原因は、徒弟制的な技術伝承を疎外する役所の仕事形態にあるのである。そんな奴らが、安全帯を二つつけさせて作業させようなどととんちんかんな官僚手続きを提案するのなら、なんでどやしつけにいかないのか? 結局、親分会社といっても、利害関係しかないのだろう。人は歩けばつまづく。どんなに注意しても、その確率からのがれられない生態的、自然関係の中で生きている。一昔まえのような、建築現場で安全帯をつける手すりも足場につけておらず、ヘルメットもかぶらず男気を強制されるような現場ではない。役人がそうした安全対策の手抜きを監視するのは無論だが、それが完璧だったとしても、ある一定の確率で人がつまづくように事故が起きるのは自然的現実なのだ。そこにおいてできることは、事故を隠さず、きちんと人を保障することだ。しかしこの保障とは、金銭関係的な近代システムのことをいっているのではない。われわれがこの自然のなかで、胆をすえているか、腹をすえているか、つまり、自然から人為的に逃避せず、それを受け入れたところで思考しているか、ということなのだ。
この心臓からは、たとえ自身がデモに参加する少数の率先的なインテリに当っていたとしても、まさにそれは偶然当っている、自然構造から割り振りられているだけで、そこに人間の気概や尊厳があるのではない、と受けとめる図太さやユーモアがにじみでるだろう。それは、参加していない人と同等な、自然的な構造としてあるのである。そう自己を突き放したとろこにしか、人間の気概や尊厳は発生しない、と私は考える。つまり、個人と共同体との関係も、役人的にびびった反応としてのシステムにではなく、それが逃れられない自然の受苦として胆をすえるとき、目に見える世界をこえた、見えない連帯としての信頼が出来してくるのである。
私には、柄谷氏も渡辺氏も、思想的な立場はちがっても、この胆の据え方において同型のものがあるようにみえる。

2012年7月21日土曜日

いじめと反原発運動

「ともあれ、私たちは「外国人化」している、あるいは「女性化」しているという事態は、ずっと以前からそうだったんです。ただし、一〇年前、フリーター労組を準備していたころは、このことの意味の全体がまだよくわかっていなかったのかもしれない。…(略)…いまようやくそのことの肯定的な側面、積極的な意義が、見えてきたような気がします。私自身がそれを確信できたということです。/ 「三・一ニ」を考えるとき、私がある意味でとても解放的な気分になっているとすれば、それは、「日本人ではない者になる」ということの肯定的な力を感じているからだと思います。この力が、あの日私の背中を押して、被曝被害から護ってくれたのです。」(矢部史郎著『3・12の思想』 以文社)
「しかしこれはすでに私たち日本人の”自尊心”の問題なのだ。今後ふたたび私たちが、ずるずると原発への依存に戻るようなことになれば、私たちはもはや「日本人であること」を誇りに思うことはできなくなる。…(略)…要するに、核のトラウマが一国の防衛戦略を決定づけているわけで、自由主義的な立場からすればこれほど非合理的でセンチメンタルな判断もないだろう。しかし私は、これを矜持ある選択と考える。軍備の放棄と核の拒否こそは、「日本人としての私」を思うとき、そのプライドの中核をなすものだ。」(「斉藤環の東北」毎日新聞・夕刊2012.7.18)

一希が同級生をいじめているのを、たまたま早く帰宅したさいに目撃することになったので、最近のその話題にふれてみたいとおもう。
当初は、こう考えていた。団地に遊びにくる子供世界をみてみると、ドラエモン世界でのジャイアンのような、古典的なボスがいるわけではない。むしろ、いじめる側といじめられる側がころころ反転する。これは、たとえば、あるものがあるオモチャをもっていると、その子がボスになり、ちがうオモチャではまた違う子がえばりだし、「貸してあげない」と持たざるをものをいじめだす。たとえ流行のおもちゃがあるとしても、それぞれが面白いおもちゃをもっているので、ころころボスがかわる。つまり、なお中流的な階層社会とテクノロジーの進展状況が、不透明ないじめ世界を作っているのだろう。携帯やネット世界に子どもたちが参加してくれば、単一メディアから支配的な影響を受けるというあり方でもなくなるので、親が何を言ってもつうじなくなるエイリアンのような存在になるのかな、と。ただ大枠の流れは、1980年代に経済力を謳歌した日本体制化で発生した「校内暴力」、その封じ込め抑圧の結果としての「いじめ」への転換、潜伏化、という情勢はかわっていないのだろうな、と。が、実際に自分の子がいじめているのをみて、そんな認識ではすまなくなった。父親としてだからどうするのか、と実践を突きつけられるからである。私は学校の先生や教育委員会の者たちのように、見て見ぬ振りをしなかっただろうか? 私が、あれはいじめだったのだ、と気づいた、あるいは、考えなおしたのは、翌日になってからである。集団で下校した子どもたちから少し離れて、二人の男の子がいた。ひとりのその仕草から、私は彼がそれまでもうひとりの子の首根っこあたりをつかんでふりまわしていたのだろうと推論した。みな同じ学帽なので誰かはわからなかったが、私はある一希の友人にみえた。その数日前、保護者会の席上、クラスの足の悪い子がいじめにあっているという報告を受けたと女房がいい、それが誰かと一希に尋ねると、その友人の名前があがったのを耳にしていたので、そう先入観したのかもしれない。が、次の瞬間、その子が一希であるとわかったのである。そのときはもう、二人は仲良しのような振舞いにもどっていた。私は息子を目にしたうれしさに自転車の呼び鈴をならしたが、一希は気づかなかった。私は「いじめ」という連想のことなど忘れて、コンビニによった。そして団地のエレベーターに乗る際、二人にまたおいついたのだった。一希はその、運動より勉強ができそうで、大人しいが女の子にもてるという友達をエレベータにのせまいと通せんぼしていた。「パパがのれないよ」というと、さえぎる手をおろして中にいれ、こういうのだった。「きみは自殺しそうな人、だいじょうぶか!」額に粒汗をいくつもかいている彼は、いかにも苦しそうか、苦しそうなふりをしていた。「この暑さじゃな」と、私は、暑くて死にそう、というやりとりを二人はしたんだな、と思った。先の階でエレベータを降りる私は、その子の頭をなでて、息子と外にでた。
が翌日の仕事中、何をきっかけにかは忘れたが、ふとその時のこと、エレベータを降りるときのその子の目の表情を思い出し、あれは「いじめ」だったんだな、暑くてかいた汗じゃない、いじめられるのが嫌で冷や汗をかいていたんだ、いじめられているのが見つかったかもしれない恥ずかしさ、気後れと、気づいてくれとあきらめながらも訴えてくる葛藤をもった目だ。おそらく一希は、弱々しいが、バレンタインのチョコレートをクラスで一番もらうというその友達に、嫉妬のような気持ちを抱いているのだろう。そして私は、それが「いじめ」だと瞬時には認識しながら、ゆえに見たくないと否認の作業を無意識にも続けてきたのだ。今はっきりとわかった以上、このまま黙って見すごすのは学校側や教育委員会のものたちと同じになってしまう。しかし、どう息子に話かけたらいい?
……いじめ自体は、子どもの世界でも大人の世界でも、人の集まるところなら自然発生的に生じずる事象にすぎないだろう。しかしここでいう自然とは幼児、ということと同義になり、大人はその社会的意味、効果を前もって了解し、それでもやるぞと責任主体的な残酷さに自覚的だろう。だから問題なのは、そのまま大人、というより、中・高生になってしまうことにある。幼児のまま、面白おかしくすごしていいればいい、それが生きることの普通だ、という意識のままに、である。まがりなりにも、真剣という理念的切断線が生に介入している運動部のシメ、それに近いジャイアンのような古典的ボスの暴力とも違う。人間的に小さいままの、幼いままのふるまい。一希が、夕食まえ、小鳥のピータをつかまえていやがって鳴くにまかせている時をとらえて、「おまえきのう〇〇くんをいじめていただろう」ときりだす。「おまえは、自分がいじめていることを知っていて、だからいじめられるものは自殺するというニュースのまねをして、〇〇くんは自殺するんだ、といったんだろ?」一希は否定して、はぐらかすようにふざけはじめるが、どういえば実践的な説得力をもつのだろうか? 私は、一希が磔にされたイエスに興味をもって、ほんとうにこんな神さまいるの? と問うてくる力を信じて付け足す。「汝の欲せざるところを人にほどこすことなかれ。自分がいやがることを他のひとにやってはいけない、というのがイエスの教えだよ。自分がそうでないとおもっても、相手がいやがっているなら、それはいじめなんだよ。人間はピータ君じゃない。ほんとに死んじゃったら、どうする? いっちゃんは、牢屋にはいるんだからね。」……私は、自分が「リトル・ピープル」になったような気がした。いまはとにかくも、「いじめ」を認識した、という一事を、女房ともに、家庭内で共有してみるだけでよいだろう。問題がもう少し大きくなったとしたら、そのときは担任クラス側と共有していく手立てを試みればいいだろう。しかしその時でも、なんと力のない言葉であるだろう。父親的な権威がまるでない。いやあるのだが、やはり一希は女房をしかりとばす私をおそれて恐縮するのだが、説得的な力がない、というか、その論理が自分でも空々しい。イエスの力を借りるとは! だからその現実的な効能(牢屋)のことを付け足すのだが、私は、宮台氏の、「良いことはもうかる」という世俗論理が説得力をもつとはおもっていない。そんな言葉に説得される人間など信用できるのか? 自分の息子に、そんな人間になってほしくない。

が、父親権威的な論理力の幼児(母子)関係への介入・切断の希薄さ、その歴史的・時代情勢的言説の布置が、自然をのさばらせている、幼児のいじめのまま、中・高生へと、果ては大人になってからの幼児虐待への心情へとつながっているのではないか? ――そして、反原発運動の一面の潮流として、そのような自然ののざばり、ゆきすぎた自然を感じるのである。冒頭で引用した二つのもののうち、私の心情に近いのは斎藤氏のほうである。”恥じをしれ!” それが、厚顔無恥な総理官邸への私の抗議の言葉だ。そしてそういう日本人としての一面もが、官邸前でのデモにも集結していることを私は推論している。

2012年7月8日日曜日

「愚民」の在り方(3)――渡辺京二ノート

「異邦人たちが予感し、やがて全体的関連としての有機的生命、すなわち古き日本の死は、個々の制度や文物や景観の消滅にとどまらぬ、ひとつの全体的関連としての有機的生命、すなわちひとつの個性をもった文明の滅亡であった。…(略)…問題は個々の事象ではなく、それらの事象を関連させる意味の総体なのだ。そして文明とはそういう意味の総体的な枠組みを指す以上、たとえ超高層ビルの屋上に稲荷が続けられようとも、また茶の湯・生花の家元が不滅の生命を誇ろうとも、それらの事象はチェンバレンが「若き日本」と呼ぶ新たな文化複合、つまり新たな寄木細工の一部分として、現代文明的な意味関連のうちに存在せしめられているに過ぎない。文化は生き残るが、文明は死ぬ。かつて存在していた羽根つきは今も正月に見られる羽根つきではなく、かつて江戸の空に舞っていた凧はいまも東京の空を舞うことのある凧とおなじではない。それらの事物に意味を生じさせる関連、つまりは寄木細工の表す図柄がまったく変化しているのだ。新たな図柄の一部分として組み替えられた古い断片の残存を伝統と呼ぶのは、なんとむなしい錯覚だろう。…(略)…死んだのは文明であり、それが培った心性である。民族の特性は新たな文明の装いをつけて性懲りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性はふたたび戻っては来ない。たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去ったのである。」(『逝きし世の面影  日本近代素描Ⅰ』 葦書房)

「忠教がここで説いているのは「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」という隷従的忠誠であるかに見えるし、彼自身、主人にそむけば七逆罪を負うて地獄に堕ちるとも言っている。しかしそれはそういう恐怖心に前近代人忠教がかられることもあったというだけのことで、彼の真意は、主人が主従間の相互敬愛という暗黙の合意を破り棄てていても、いや破り棄てているからこそ、従者たるわれらがその合意にあくまで忠実であることが、主人が不正、われらが正義という顕然たる事実を公示することになるのだというにあった。/ つまり、主人がいかに不当な仕打ちをしても、われら従者の義務を守るというのは、主人に対する強烈な面当てでありいや味であって、そういう主人であっても機嫌よく奉公するのが彼の誇りであり強情であった。主人が主人らしくしてくれないので、徳川家を去るというのでは話は帳消しである。主人の咎は従者の離反によって相殺されてしまう。…(略)…再び言う。にもかかわらず忠節を尽くせと言うのは、忠教の徳川家に対する奴隷的服従を示すのではなく、まさにその反対である主に対する自尊の気概のあらわれであった。この自尊の気概に屈折が秘められているのは否定できない。…(略)…しかし、そういう屈折を通してさえ表現されるものは、日本の主従制を貫徹する相互的誠実という暗黙の合意だった。暗黙の合意など情緒的で低級であり、契約であればこそ理性的で高級だなどというのは、人間のことも世の中のこともわからずに、頭脳に詰めこんだ出来合いの「近代的」観念で物事を裁断するある種の「研究者」だけが信じている妄念といわねばならない。(『日本近世の起源  戦国乱世から徳川の平和へ』 洋泉社)

「北が土俗的な思想家であったか、それとも土俗的なものを否定する近代的な思想家であったかという、論者の見解が従来まったく対立して来た問題についても、いまやわれわれは正確な断案をくだすことができる。彼はその思考の論理性において、疑いもなく土俗的なものを拒否する思想家であった。彼が天皇制共同体主義的な思考に生理的な不快を感じないではいられなかったこと、村落共同体の低部にひそむ伝統的心性に一度も関心をそそられなかったことなどを見ても、彼と土俗との関係はあきらかである。彼の社会主義とは、すでに見たように一面においては、個人のあらゆる可能性の無限の羽ばたきを求める近代主義的志向の表現であった。/ ところがいっぽう、社会主義とは彼にとって、<共同社会>主義を意味した。そしてこの、西欧型市民社会は人間にとってのわざわいである、人間の住みうる社会は共同社会であるべきだという感覚から逃れえなかった点、いや逃れえなかったどころか、その感覚を核心として全政治思想を組み立てざるをえなかった点で、彼はまぎれもない土俗的な思想家であった。いうなれば、彼は日本の土俗の深奥から発する主題に、もっとも近代的な手法で解決を与えようとした思想家であったろう。つまりそれは、土俗のただなかから発する欲求の未開な土俗性をそぎとって、その普遍性を最高に近代的なものとして実現させようとする作業といってよい。日本基礎民の反市民社会的な心性を社会主義革命に導く戦略は、そういう彼の、土俗的要求を人類史的普遍性の回路に組みこもうとする捨て身の戦略なのであった。」(『北一輝』 ちくま学芸文庫)

「この個の意味を、当時の思想家や批評家はほとんど誤読した。彼らはそれを近代的な主体意識をもった人民(あるいは市民)とか、知識人的な個我とかいったふうに読み、見当ちがいな批判をなげつけたのである。だがその後の吉本氏の思想の展開に照らしてみれば、このような独占社会に実存する個とは、政治行動のレヴェルに登場するときかならずその時の政治的イデオローグの虜囚とならずにはおかない法則的必然から生活大衆をどこで断ち切るかという、要の一点をおさえたときに生まれたイメージであって、このとき想定されていた個とは、知識的に上昇する自然過程のなかにあるような近代的な個我ではなく、逆に独占状況のなかで自己の生活の根拠へのみ突きかえされざるをえないような、もっとも基底的な生活民の存在のしかたを表象していたのである。そしてそれが個としてイメージされるのは、国家権力に対して真に倒立するのは、労働者階級とか農村部落民とかいった「共同幻想」的なレヴェルの集団ではなく、生活者としての個だけであるという、氏の特異な、そして今日の思想にとって本質的な意味を持つ理解にもとづいていたのである。…(略)…これは古典的な階級闘争論を転倒するまったく異端的な見解であって、労働者の闘争だから価値があり、小市民の闘争だから劣っているといった先験的な常識はここではまったく排除されている。つまりこのような見かたからすれば、労働者であれ農民であれ小市民学生であれ、階層としては等価であり、それらの闘争の優劣はただそれぞれの生活の根拠に立って現実にどのように自力で闘ってみせるかということにおいてしか判定されないということになる。ブントは自分の小市民学生的根拠において倒れるまで闘っているからいいのであり、自分自身を労働者階級を指導する前衛などと錯覚しないところが相対的に評価できるのだ、と吉本氏は考えたのである。そして、ブントが闘って力尽き革共同の古典的な批判に屈して分解をとげたとき、氏はその共闘を解除して単独者の位相にもどった。」(「六〇年安保と吉本隆明・谷川雁」 『民衆という幻像』所収 ちくま学芸文庫)

「チッソのいいぶんを成心なく検討してみれば、彼らは被害者に対して、「被害はお気の毒に思う。何とかしたいとも思う。しかし、被害者に対する企業の責任・補償ということになれば、資本制における利害観念と法体系によって処理しないわけにはいかない。したがって、補償は一種の商取引、交渉ごとである」といっているのであることがわかる。資本制社会において、当然の常識である。水俣漁民のこの世の人間的道理が対立している相手は、チッソ資本の悪逆ではなく、近代資本制社会を組織している論理そのものなのである。その論理からすれば、水俣漁民のこの世の人間的道理とは、近代市民社会の組織法則からとりのこされた封建的遺民の世迷い言にすぎない。/ 水俣漁民にとって、人間的道理は実在する。自分の息子がとなりの息子にけがを負わせれば、自分は何もかも打ち棄てて、とりあえず詫びと見舞いにかけつけねばならぬのである。日常の生活圏ではそうあるものが、話が経済とか社会とか政治とかいう上位構造に移れば、なぜそうでありえないのか。水俣病患者・家族は、その理由を絶対に理解することはできない。近代市民社会が、その制度のなかに生活民、ことに下層民を統合しえなかったという歴史的事実が、ここに横たわっている。その非力を補って生活民を統合したのは、天皇制である。そして、生活民が近代市民社会の論理によっては統合されず、天皇制によってはじめて国家に統合されたという事実は、これまで戦後民主主義のイデオローグたちの嘆きと軽蔑の的となってきた。水俣病患者・家族の人間的道理とは、彼らにとっては痛烈な皮肉でなければならないが、まさに近代市民社会の論理によって統合されない「前近代的」生活意識の表現であった。それは言葉をかえれば、村共同体の論理と心情といってよい。そこでは共同体の利益は相互扶助によって維持され、共同体に災いをもたらしたものは罰せられ、追放される。チッソは当然罰せられ、災いは償われるべきである。患者はこの村共同体権利の回復を、公権力たる裁判所に求めたともいえる。もちろん、裁判所がチッソをさばくのは、そういう論理によってではない。患者は裁判のそもそもの第一回から、自分たちの欲求がけっして裁判によっては表現されぬことを直観した。裁判は彼らの仮装形態にすぎない。真の欲望の表現形態を求めて、にじり寄る一歩にすぎない。…(略)…この世の常ならぬ苦しみをうけた彼らは、どこへ向って血路を開けばよいのか。「銭は一銭もいらん。会社のえらか順から、死人の数だけ有機水銀ば飲んでくれれば、それでよか」。この有名な言葉は結局は言葉である。怨といい、呪殺といい、何かおどろおどろしい地獄絵的な様相で、患者の欲求を描きあげようというのは、その当人の好みではあっても、真実には遠い。前掲の言葉は、ひくにひけぬ断崖に追いつめられた下層民の腹のすわりを示したものである。孤立の中で放った「勝負!」のひと声である。そう読むべきである。良識とか秩序とか共同社会の利益とかにからめて、圧服させようとするものに対し、こちらはそういうものによって無拘束であること、勝負はどちらかが倒れるまでの真剣勝負であることを言い切ったものである。すなわち、抑圧された下層生活民のアナーキーな情念が噴出しているのだ。/ 村共同体は、患者を出した家をきびしく差別した。相互扶助の生活規範は、患者の家には適用されなかったのである。村共同体の本質は、このとき、患者には明らかになったといっていい。人間的道理といい、ふつうの人間のつきあいといい、きわめて容易に解体される性質のものであった。人間が人間に対して狼にならない世界は、単なる村共同体の倫理によって、保証することはできない。彼らが裁判において表現したかった欲求は、村共同体の倫理に基底をおきながらも、結局はそれらを止揚する方向に向わざるをえない。彼らの欲求は、ひとつの仮装からもうひとつの仮装へと試行を続けつつ、真の表現を求め続けているのだ。」(「現実と幻のはざまで」『民主という幻像』所収 ちくま学芸文庫)

「西欧的理解における政治が、貴族の民主主義的伝統にもとづく、利害の調整の体系だとするならば、東洋的理解における政治は、郷村の共同体的伝統にもとづく、夢と欲望の体系と規定できる。それゆえに、東洋では、政治は徒党の非行という性格を帯びるのだともいえる。…(略)…郷村的日常において、人びとは義務と慣行に縛られ、家主となり子を生み、老いて死んで行く。徒党の情念的共同とか夢とかは、若衆組の時期に仮に許される道楽にすぎない。その道楽に固執するものは、政治あるいは宗教として、日常に縁のない上層へ疎外される。しかし、郷村的日常で生を終える人びとに、情念的共同の夢がないのではない。道楽としての夢想的共同への指向を生み落したのは、ほかならぬ郷村の生活原理としての日常的共同なのだから。彼らは日常を破壊する夢想を、政治として日常の圏内から逐いやる。だが、逐いやられたものは、彼の魂の亡霊である。専制政治の織りなす諸事件を、一遍の劇のごとくに娯しみ喝采するのは彼らである。だからこそ、郷村は専制権力の鏡なのだ。/ 西欧的近代は、郷村の共同を分断してマスとしての個の世界をつくりだした。情念的共同を求める衝迫の根拠をとりはらった。政治は徒党の非行ではなく、個別利害の集合を管理する技術となった。だが、その世界でも、人びとは日常の理法に縛られ、親となり、老いて死んで行く。そのなかで感情の飢えは、ことに人と人とをつなぐ感情の飢えは、声もあげずにどこへ消え去るのか。/ 在る生きかたの夢、人間の或るありかたの夢を全社会的に拡張しようとする集団は、いかなる思想や倫理を掲げようとも徒党である。私は彼らの行動を非行としての政治と要約した。ひとが言葉と感情の通じる相手を見いだしたとき、それが徒党の始まりであるのはかなしいことだ。徒党から非行としての政治への回路はどこで絶たるべきなのか。ピョートルの事績はそう、われわれに問うているように見える。」(「非行としての政治」『民衆という幻像』 ちくま学芸文庫)

「学問には方法が必要だろう。だが私には、方法など何の必要もなかったのである。私にはただ解かねばならぬ課題があり、それに経験が強いた志向をもって立ち向っただけだった。私は昭和維新の雰囲気のうちに育った少年であり、中学三年のとき異郷大連で敗戦を迎え、引揚げ後昭和二十三年には共産党に入った。十七歳であった。昭和三十一年、党から離れたとき私は、昭和初期のユートピズムが戦後革命の衝迫に変形された「物語」の意味を、自分なりに読み解かねばならず、その読解の方向を見出す手がかりをはっきり自覚するには、なお十年の月日を要した。/ その方向とは要するに、従来蒙昧ないし狂乱の発作とみなされてきた大衆の右翼的情念を、究極的な共同性の夢ににじりよる革命的衝迫として読みとこうとするものだった。ただし、私はそれを単純に肯定したのではない。私の視線はアンビヴァレントですらあった。にもかかわらず、私は魅入られるようにその主題に関わらずにはおれなかった。前途の私の思想史的な仕事は、いささかも”研究”の意味を吹くむものではなく、自分が生きのびるための思想的根拠を、文章の形で探りかつ確かめようとしたものにほかならない。/ その種の私の文章はすべて二十年前の所産である。そしてこの二十年のうちに、私たちをとり巻く社会と思想の文脈は根本的に変質した。情念的な大衆など、どこへ行けばお目にかかれるというのか。共同性への夢がカラオケとオウムに化けたなどと言っても、しゃれにもならない。/ 私はそういう時代の崩壊のかたちを予感していた気がする。その予感にせかれて、ある種の共同性の幻を追わずにおれなかったこの国の民の悲しい衝迫を、書きとどめておきたかったのかもしれない。だが、この国の民は滅びた。民などもはやこの国にはいない。」(「日本近代思想史と私」『民衆という幻像』所収 ちくま学芸文庫)

ユーロ・サッカーから――世界とコーチング


おしゃべりが多いと、その日のサッカーの練習を中止された一希たち。若いコーチが一人にディヘエンスのやり方を教えている間、ボールに腰掛けた一希が仲間と気ままに話しはじめたのをみて、中年コーチが切れたのだった。それは個人的に突発的な怒りであっても、人間的な倫理から発したものだったろう。しかしそこであそこまで怒鳴り散らすのには、まだ理解できない子どもたちなのだった。コーチも説教をしながら、あまりにきょとんと無邪気な表情を目の当たりにしてそのことに気づく。おそらく、まだ親が死んでもその葬式でふざけていられる年齢なのだ。自転車に乗っていても、交差点を右左もみずにすーっと走っていく。死が恐いという社会的観念が希薄なので、<真剣>にやれといっても、自分の態度になお区別が生じていないのだ。3年生も終わりごろになれば、自然成長的に解消されるだろう。だから私は特別に問題ではない、とおもっていた。しかし母親たちがそうはいかない。この一事を伝え聞いて、メールで話し合い、「しめてください」と過剰な反応をしめしはじめる。コーチ会のほうでも、父兄の話をないがしろにするわけにもいかないので、「ふざけは怪我のもとだから」と話をずらしてかわす対応をしたようだ。しかし若いヘッドコーチがまたなにかのさいに、40分間の説教をしたときくと、「この暑い時期に給水もさせずにそんな長時間も」という異議が父兄会の部長から申し出される。「そんな話は通用しないからほっとけ」と私がいっても、部長の異議自体に批判的な女房はなおごちゃごちゃやりたがる。意見内容がちがっても、ヒステリックに騒ぐこと自体が問題をこじらせるのだ。20年やっているクラブ組織にとって、こんなことぐらいは経験ずみなはずだ。若いコーチも、10年子どもたちをみてきているのだから。しかし、原発事故後の世評をみてみても、そんな真っ当な意見は神経質な声に掻き消される。女たちの場当たり的な反応を、世論やメディアが後押ししているような状況なので、彼女たちは強気なのだ。大塚英志氏は特に放射能におびえたこの母親たちの対応を「ファシズム」の発生と類比的に捉えているが(『愚民社会』)、そういう徴候もあろうかとおもう。

ユーロ・サッカーをみていて、イタリア代表のストライカー、バロッテリについて、「成長中」という解説がなされるのが気になった。それはサッカーの経験知とかいうことではなく、試合中に人の悪口をいわないとか、喧嘩しないとか、裸にならないとか、そういった話なのだった。おそらく我々日本人としては、二十一歳にもなる男にまだそんな「成長」が許容されていることに驚くというより、あきれてしまだろう。ならば、日本でならどうなるのか? おそらく、そんなサッカー選手は追い出されてフィールド上にはいないだろう。ならば、笑われているのは、我々のほうなのではないだろうか? 彼は、移民の子だ。その家庭内は、荒れていたかもしれない。そういうところで育った子どもは、容易には精神的に安定しないだろう。大人になるには、それだけの時間差があるのだ。それを受け入れること。サッカーに参加するとは、そうした世界の多様性、内に発生する他なる現実との共存の意志と理念をもつ、ということではないだろうか。よく日本の理想とするサッカーとして、正々堂々とフェアに美しく戦うことだというふうなモデルが呈示されたりするが、その純粋道徳とが、ひとりよがりな暴力に反転すること、したということは、世界史の中での日本国家自体が証明してしまったことではないだろうか? フィジカルが強い、当たりが強いこと、そのほかの文化圏では当たり前なサッカーが卑怯なのではなくて、その在り方自体が多様な世界を、他者の存在を許容している対応であり、共存の平和性を担保・実証しているものなのではないか?

「しめて、ほんとうにおとなしくなったら、終わりですよ。」と、一希たちが怒られた次の週にあった試合前、ベンチ監督と話し合う。かといって、そのコーチは子どもたちに優しくすればいいというのではない。むしろ逆で、厳しく突き放せ、といっているのである。「だいじょうぶです。子どもたちは、わかりますよ。ついてきますよ。」と、新宿の選抜チームに何人もの選手を送りだしているクラブの監督は保証する。試合での選手起用をみていても、騒いでいるような子でも、積極的な子、能力を示す子を活用する。覇気のない子、訴えてこない子はベンチのままだ。おかげで、一希は全試合ワントップをはらしてもらっているのだが、4年生相手に、当初は体を当てられて可愛そうなくらいくるくるとまわされて倒されていた。私がベンチコーチだったら、もっと皆平等に近い形での選手起用になり、覇気のない子でもなんとか励ましてモチベーションを高めてやって、とかおもうのだが。それが、甘いということなのだろう。実際、私は中学部活動の野球で、そんなエリート主義的な伝統を変革したことがある。気質的に、結果よりも過程を重視する性向があり、弱いもの、いま在るものでどう強者をいびっていくかの創意工夫のほうがおもしろい。どこか美学的な態度の方が好きなのだろう。楠正成をはやす判官びいきな日本的感性?

一希はとにかく、数少ないチャンスのなかで、1点はとってくる。フォワードしかできないような性格だ。私ではなく、女房似なのだろう。今日も練習を放り出して、女房と雨のなか虫取り講習にいっている。気まぐれ、気分や、というのは、子どもだからというより性格だろう。私はいちおうコーチなので、自分の子どもがいなくても、練習にいくのだが。これは、「やりたくなければやめろ!」と突き放しているのだか、成長の遅れを許容しているのだか。あちこちのイベントに子どもを連れ出しては自分が楽しんでいる女房は、それでも「選抜チーム」に入らなければいかん、と口をとがらせている。そんな都合のいい話が通用するわけがない。技術や仕事をなめてるんじゃないか! と怒鳴りたくなる。一人での練習ができず、仲間と騒いでいないと退屈してやりすごせないものに、専門的な技術が身に付くわけもないだろう。アスリート向きじゃないな、と私はおもっている。だから、サッカー以外の興味も失わないよう許しているのだ。しかし、真剣に、一生懸命やったあとの水はおいしい。このありふれた、うまみもない退屈な日常にこそ「喜び」があるということを知らなければ、どんな商品物資や物語にも充足できず、本当の世界で世界終末(ハルマゲドン)を実現させて精神の満足を試みたバブル期の新興宗教が繰り返されてしまう事態になるだろう。裸足でボロキレを蹴飛ばしているアフリカをはじめ他の世界の子どもたちは、ボールひとつのプレゼントで喜ぶだろう。一希はそのことを理解できるだろうか? 喜びを知っているだろうか? 自己満足ではない、他者と共存しているという喜びである。それは真剣に、一生懸命に渡り合えてこそ見出し得るささいな日常の世界に在るのだ。

2012年6月22日金曜日

「愚民」の在り方(2)


大塚 ただぼくは「土人」を「動員」してまで自分の理想とする「良い社会」をつくろうとは思わないのです。「土人」は考えなくてもいい、システムを改変し、考えなくても自然によりマシなほうに行く社会設計してあげるって、本当は一番ナメた話でしょう。まあ、でもたいていの「土人」はそのほうがいいて思うでしょうね、楽だから。だから「近代」をやり直すチャンスをまたスルーすることに絶望を通り越してあきれている。…(略)…
宮台 大塚さんが土人とおっしゃるのは、僕がよくいう「依存体質」にあたります。詳しくいえば「よく分からない大きなものに平気で依存する習慣」「全体性に無関心なまま平気で依存を継続する習性」です。こうした<心の習慣>は短期的にはどうにもなりません。単に、大塚さんがいわれたように、土人としての自画像を見せることができるだけです。(『愚民社会』 大塚英志 宮台真司著 太田出版)

図書館から上記の『愚民社会』を借りて、最近の対談だけ読んでみる。案の定、浅田彰氏の「土人」(私は「野蛮人」と記憶しているのだが…)発言が言及され、その日本人認識の共有前提の上に議論が組み立てられている。ジャーナリズム的、社会表層的には私も二人と現状認識共有できるところが多々あるけれど、その基本的、前提的な認識、人間や自然に対する理解や信頼といった根源的な認識において、やはり違いがあるのだろうな、と感じる。現在も読み続けている渡辺京二氏の言葉に、次のようなものがあるのだが、むしろ私は渡辺氏の理解に共感する。

<つまり人間には、ものごとのイニシャティヴをとる奴ととらぬ奴とがいる。ことに任ずる少数の人間と、人まかせのほうが気楽という大多数とがいる。これは人間の気質にそういう二種類があって、その結果そういう分岐が生じるのではなくて、もともと集団というものに、そういう役割のちがいを生み出す構造が内包されている、と考えたほうがいい。人が交わって存在せねばならぬ領域すなわち社会は、ひとつの文化制度である。国家は人為的制度だが社会はそうでないと説く学説は、観察の一貫性を欠いている。国家はただ抽象のレヴェルの高い制度というにすぎない。人の交わりが処理せねばならぬ業務を生むかぎり、その交わりは制度としてあらわれる。なぜなら、共同ということからあらわれる業務すなわち運営責任は、ひとつの安定的な様式をとらねばならぬからである。つまり、役割の分化のない集団はない。制度とはその役割の分化のことである。何らかの集団があれば、かならず運営の責任を担うものとそれを人まかせにするものとが生まれるのは、人にそもそも集団から免れたい衝動があるからである。/ 人が集団に属するのは、かならずしも好んでのことではない。それでいて集団の運営にイニシャティヴをとるとすれば、それなりの理由がなければならぬ。それが利得であるか支配欲であるか責任感であるか、それはこの場合、問題ではない。いずれにせよ、それにうながされて責任を引受けるものがあれば、他の成員は心労を免れてよい。集団にはそもそもそういう構造があって、一同を抜かりなく見渡しているものと、何となく窓の外を見ているものとの区別が生じるのである。>(「大衆の起源」『民衆という幻像』 ちくま学芸文庫)

渡辺氏は、旅行先での日常的な人間関係から上のような普遍的認識を導き出す。いわば、働き蟻の生態――3割の真面目蟻をどけても、残りの怠け蟻から3割の真面目蟻が出現する――に似た、類的な人間としての構造を予感するのである。たとえば、現場責任者として作業量も質も高い私が仕事を休んでも、現場は成立する。この「成立」のうちには、作業量や質が落ちる、ということも内包されている。しかしだからといって、その”違い”から私をエリートとして定立し、馬鹿を疎外し、選抜者の社会支配を維持しようとする実践前提は間違いなのである。類的人間個人倫理として。私が現場でどれほど馬鹿を馬鹿扱いしても、それでも「社会」は成立すると信頼している。たしかに、その”違い”のために――馬鹿はその違いを認識できず、というか、これ以上馬鹿扱いされたくないのでその差異はないと言い張って自分を慰めようとする卑小なことしかできない――「客ばなれ」が生じて会社に損害がでるかもしれない。(が、誰でも雇うような小さな庶民経営では、そのこと事態が織り込み済みの、寛容というか、諦めた経営者態度になっている。あるいは、馬鹿の方が支配しやすいので、会社は縮小しても経営者の自己は保てるので、そっちのほうがよい。)…しかしそれでも、残る客もいるほど社会には弾力性があるのだ。ましてや、私個人の人生を超えて長期的にみれば、そんな”違い”は何ほどでもない。10年に一人の天才プレーヤー、100年に一人の天才アーティストが出現したとしても、その五十歩百歩な能力差が意味を持つのは、あくまで短期的・微視的な視野においてである。メッシやイチローの記録が千年後にどう評価されるのか? われわれは、当時としては著名だったかもしれぬ者に彫られたミロのヴィーナスとギリシャ古代の他の発掘物たる皿や壺に、その”違い”に、意味を見出すだろうか? ラスコーの壁画から個人差を認識しようとするか? しかしわれわれは、それを差異なくして受け入れているではないか? その類としての信頼。

渡辺氏が面白いのは、その構造に孕まれる時間差を「大衆の起源」と見つめた上で、将来の時間をも観念してみせることだ。

<戦後のわが国の「大衆」についていえば、私は、彼らが民主的参加なり知的自己啓発なりの方向で、社会の運営・管理にあずかることに希望を見出したことは一度もない。私はただ戦後の過程を、「大衆」が個となる方向でのみ理解している。だが、この過程について考えるとき、私の眼の前に現れるのは「大衆」ではなく、私をふくめての日本人である。そして、現代の日本人を考えるとき私の関心は、彼らの特徴とされる個人主義やら、あるいは個人主義の浸透にもかかわらず根強いとされる共同体指向、いいかえれば他者への「あまえ」やらの表層的な社会心理ではなく、自分のなかの個の深まりへのみ向かう。この個の深化こそ、私にとっての「大衆」問題なのである。私はひとりになりたいからこそ共同的なものを求める。日本の「大衆」もまったく同様だと私は信じる。>(前掲書)

2012年5月15日火曜日

「愚民」の在り方……渡辺京二氏からのノート

ゴールデンウィークに実家に帰って、砕石敷いて駐車場がわりにしている裏の自動車の乗り入れ口を平板とモルタルで整備していると、隣家のおじさんがやってくる。そしてコテを手にして手伝ってくれる。おそらく、地元の進学校をでて上京していったお隣の優等生がなんでこんなことができるかのか、何を東京でしているのか興味をもって近づいてきたのだろう。こちらも自分が何者であるか説明しないと居心地がわるいので、「向こうで植木屋を二十年やっているので、まあプロなんですけどね。」と、まるきりよそ者みたい自己紹介する。おじさんは驚いたが、そのうち砂が一袋100円でこちらは安いが東京は高いだの、生垣作りもするのでホームセンターで買ってきた支柱丸太が600円もして高いねえ、とかお互いうなずきあっているうちに、私は育った地元ではじめて隣人と打ち解けた契機を持てた気がしたのだった。後で鎌を使って雑草取りをしている母は、私が自分の職業を自分からばらしてしまったことを、恐縮したように背中で聞き耳をたてているのがわかる。顔をだした父の話といえば、この連休中に近所で起きた高速バスの事故にふれて、自分も大型の免許を持っている、それは学生を送迎するためだったが、との自慢話。かとおもいきや、事故がなかったのはほんとに幸いだったと脈絡もなく謙虚になる。歳からくる耄碌というよりも、「先生」と呼ばれてきた優越的立場が許していた恣意的な論理ぐせを、隣のおじさんは相手にしない、というより、こういう階層の人はそういうもんだと無言の忍耐で相槌をうって返している。工場勤めだった人だ。家のブロック積みも、川から砂をとってきて、自分で施工したという。近所の多く、私が一緒に野球をしていた友達の父親たちは、そうした町工場の労働者や石屋や農家の人たちだったのである。おそらく子どもの私も、浮いていただろう。いま私は、「人民の中へ」とはいっているかもしれない。しかしそれは、渡辺氏が批判するような左翼知識人というわけからではない。――<民衆をたえず自己のコンプレックスとその倒影としての幻想とのかかわりでしか見れなかった左翼知識人は、こういう部落的共同性への嫌悪を倫理的な悪ないし原罪とみなし、知識人がそういう孤立的な感覚を克服して、民衆の共同性の「やさしさ」と合体することがコミューンの創造につながる、といったふうにストレートに錯覚する。>(「民衆論の回路」『日本コミューン主義の系譜』葦書房)……私は意志的には、むしろプチブルに居直った知識人であろう。が、上のような人民への認識感覚は、内に折り返しておかなくてはならない前提であると考える。ゆえに、自らの上面の観念性に気づかず上辺の居直りしかできそうもないインテリたちには、「下放」を命じたくもなるだろう。
私は、戦前大連で生まれ熊本で在野する渡辺氏の作品を読み知ったのは、前回ブログで引用したものがはじめてである。今回、区立の図書館よりその著作を借りて読むにつき、私の思考を刺激してきたので、その箇所いくつかノートとして書き留めておくことにした。そして次回のブログでは、プチブルジョワインテリへの居直り(ブント)思想家としての、柄谷行人氏の「哲学の起源」問題へと、接続の端緒を随想できたら、と考えている。

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「伝統的風土と反権力の思想のかかわりを考える場合、もっとも注目すべきなのは、この村落共同体、あるいはその亜種としての都市の下町的共同体の住民である。彼らの意識の中核をなしている自然観、人間観、ないしは価値意識は、西欧市民社会を貫徹する論理と決定的に異質だった。だから彼らは、明治新政府が導入した市民社会的諸体系(法や社会制度)を、まったく理解不可能なものとみなし、もしそれとかかわりをもたねばならぬことがあれば、天災のような災厄とあきらめ、出来うることなら、一生それとは無関係に、伝統的な共同体的倫理にしたがって生を終えることを望んだ。/ 彼らのそういう生きかたからすれば、権力の思想と反権力の思想の区別は無意味だった。なぜならそれは、共同体の圏外の住人である特権的エリートの思想分裂であって、共同体内でまどろむような生活が続けられるかぎり、エリートたちの抗争は、彼らの生活に何ら具体的な作用をもたなかったからである。彼らには法とか政治とかの言語を必要としない、いわば自然の言語に属する生活があって、そのなかから追い立てられぬかぎり、政治社会で何ごとが起っていようとも、それは湖底から見た水面のさざなみにすぎなかった。…(略)/ 昭和初期の政治的激動のもつ意味は、このような基底生活民が、その共同体内でのまどろみから揺り立てられて、市民社会の進展する現実と直面させられたことにある。大正中期からはじまった社会の地殻変動は、いわば彼らを包んでいた繭を決定的に破壊したのである。血盟団のテロリストたちの出現は、そのような共同体民の、政治舞台への登場の象徴であった。そしてこのとき彼らが、西欧的革命思想への反対者としてのみでなく、同時に反権力的革命者として現れたことは、革命と風土の関係を考える場合、何よりもまして重要な事実であったように思われる。/ 彼ら右翼的な下層青年たちは、たんに伝統思想の立場から、ヨーロッパ進歩思想を敵視しただけなのではない。彼らはもはや共同体に安住することのできなくなった若者たちであり、彼らを深部で動かしていた衝動は、まぎれもない個への自覚であった。にもかかわらず彼らが、当時支配的であった移入思想としてのデモクラシー、ないし社会主義に同調できなかったのは、そのようなイデオロギーの担い手である都市知識人が、社会的に特権エリートとして存在し、下層青年たちの個への自覚が同時に、共同的なものの再建への熱望であることを、まったく理解しようとしなかったからである。/ 彼らの政治思想的な自覚は、だから本質的は反権力的なものでありながら、権力の国家主義思想のえじきとなるほかはなかった。この悲劇は、日本共同体民の伝統的心性が、反権力の思想回路を設定しそこなったまことに痛恨すべき事例として、今日のわれわれにも示唆的である。戦後市民社会は、明治以来の懸案であった全国民の近代市民的統合を、一見みごとになしとげたように見えながら、深部においては、伝統的な心性がもっともラディカルな革命への衝迫をさそい出すという、矛盾をなおたたえ続けているからである。(渡辺京二著 「風土と反権力」『日本コミューン主義の系譜』 葦書房)

「だがわが国民の庶民たちはもともと、このような分立競合する利害の合理的調整体系としての市民社会的現実に適合的な心的構造をそなえていたわけではけっしてない。「悪事のあらん限りを尽くさざれば一生の損だぞ」というのは、そういう現実に元来は不適合である彼らの悲鳴であった。ながいあいだ共同的小社会の伝統のなかで生きて来た彼らにとって、市民社会のなかで個として漂流しなければならぬというのは恐怖以外の何ものでもなかった。国家を家族として擬制し、天皇を全家族の保護的な家長に比定する天皇制イデオロギーは、このような伝統的な庶民の心性と、結局は彼らがその成員として統合されねばならぬ市民社会的現実とのあいだにおかれた、一種の緩衝装置として機能したということができる。」(「ニ・二六叛乱覚え書」 前掲書)

「しかし彼らの”愛国的”熱狂はなぜ、近代ナショナリズムというよりむしろスパルタ風な古拙なパトリオティズムに似ていたのか。宮武二等卒が「世間に顔出し出来ぬ」という思いで腹を切ったのであることは一点の疑いもない。佐喜が「世間に顔出し出来ぬ」と口に出し、宮武藤吾が同じ思いで腹を切ったとき、彼らを拘束し駆りたてていたものは、近代ナショナリズムなどというのには遠い、部落共同体に対する古風な義務感であったということができる。たとえば村落が洪水なら洪水に見舞われて一村水没の危機に遭遇したとき、川堤に俵を積む義務から逃げるものがあればそれは最悪の卑劣漢である。ほかの悪徳は許されてもこの悪徳は許されない。佐喜の怒りはこのような村落共同体の倫理の表明であったというべきである。すなわち彼ら明治の庶民は村落共同体への義務との類推において国民国家への義務を理解したのであって、彼らの古風なスパルタ的献身の出どころはこのような国家と村落共同体とのいたいけな短絡のうちにあったのである。」(「戦争と基礎民」前掲書)

「明治の国家指導者たちが国民に対して、一視同仁の愛を垂れる倫理的裁断者としての天皇というイメージをふりまかねばならなかったのは、彼らにこの国で資本制を建設するうえで深刻な不安があったからである。その不安は何よりも、この国の基礎民の共同体的生活伝統から来た。資本制を建設するというのは、それを社会構成レヴェルでみれば市民社会の諸システムを導入するということである。彼らは明治の最初の十年間のにがい経験によって、市民社会的諸体系がこの国の基礎民には、神も仏もない異様な論理につらぬかれたものに見えることを否応なく学んだ。日本国家は天皇という神のみそなわす共同体国家だという神話は、事実において基礎民を市民社会的論理の支配する資本制社会に追放する代償だったのである。/  だが、天皇制イデオロギーという安全弁的回路を設定したのは、結果から見れば明治の支配者たちの危険な冒険であった。彼らはその危険さをまったくさとることがなかったが、逆流は大正中期に始まった。この逆流は右翼ラディカリズムの形態をとってあらわれたけれども、その実体は端的にいって<共同性への飢渇>と規定することができる。この共同性への飢えは直接わが国の共同体民の伝統的心性から発したものというより、市民社会的現実の進展のただなかに、共同体から駆り立てられ漂流する個の、特殊に昂進した欲求とみるほうが正確である。したがってそれは、近世の村落共同体や下町共同体において保たれていたおだやかな生活感覚とは異質な、過激さと幻想性を特徴としていた。このような病的に近い飢渇感は、かつてこの国の伝統にはなかったものとさえいうことができる。この飢渇は天皇制共同体神話とのあいだに、おそるべき共鳴をひき起こした。昂進は相互的であった。その共鳴から相互昂進にいたる過程の結果について多くをいう必要はない。それは周知の昭和前期の騒乱へ行き着いたのである。」(「戦後天皇制は可能か」前掲書)

「日本人の男たちは、戦前にくらべ見ちがえるほど家庭を大切にするようになった。しかし彼らが家庭にあつい思いを寄せるほど、家庭は彼らを裏切る。…(略)…今日の同人誌のしろうと小説の三大テーマは、マイホーム建設などをめぐる金の話と、子どもの進学問題と、女房の浮気である。夫が家庭に幻影を付託する度合いに応じて、妻と子どもは個としてつつき出されるのだといってよい。しかし、家庭が共同的なものへの欲求をささやかなりと擬似的にみたしているあいだは、日本人が天皇を必要としないことだけはたしかだ。家庭と共同体的天皇がけっして両立しないということは、日本人が戦争から学んだもっとも尊い教訓である。/ おそらく日本人の意識には、幕藩封建社会から明治近代社会への移行のときに匹敵するような大きく深刻な変化が進行中なのだ。私にはそれが、共同的なものへの幻想を次第に剥ぎ取られて個に還元されて行く過程のようにみえる。個に還元されてつくしたとき、日本人の共同的なものへの欲求は、つきものが落ちたようにきれいさっぱり消え去るのであろうか。逆のように私には考えられる。そのときこそ、共同的なものへの飢えという、わが近代史の底流となって来た欲求は、まったく別な次元で思想的課題となりうるはずである。なぜなら人間は、それがよいことか悪いことかは知らぬが、かならず他者との関係で飢えるからである。私は個的現存と共同的現存との統一が、人類史の本質的課題だということを承認する点で、若かったときと同じようにマルクスの生徒だと思っている。ただそれが未知の思想的領域であるとする点で、私はもはやマルクスの生徒ではあるまい。ただその未知の領域でもあきらかなことがひとつある。天皇はふたたびこの領域に出没することはない。」(「戦後天皇制は可能か」前掲書)

「われわれはなるほど資本制的商品社会から逃れることはできませんけれど、われわれの生の基底、生の実質は商品の貫通力に侵されぬものとして厳存しています。存在するのはいわゆる個性ではありません。個です。おもしろおかしく商品化される差異が個の実質を形づくっているのではなく、ともに人間でありうる共通の基底的実質が、他をもって代置しえぬ個、すなわち孤としてあるゆえにこそ、世界全体・人間全体との意味的な統合なしには生きられぬ個、そういう個こそわれわれの真の現存であります。人類史とはまさにそのような、陽気な暮らしの次元では充足できず、「天地生存の感」を自己のうちに抱え込まざるをえない個の、永久に完結しない課題のあらわれであったのです。」(『なぜいま人類史か』 葦書房)

「私は人がかくもサルに似ているということに希望を見出します。といことの意味は、人間がこの地球上に突然出現した怪物じみた欠陥動物ではないということが、私に希望を与えるという意味です。文化にせよ制度にせよ言語にせよ、いずれも前人間的な基礎、つまり生命的連続性のうえに立つ現象であることに、深い救いを覚えるという意味です。文化は生物的進化の法則から離脱した現象だといいますが、それは生物進化をネオダーウィニズムの突然変異と自然選択の組み合わせとしてイメージするからそうなるので、進化がダーウィニズムの総合学説的枠組みのなかで起って来たということは、いまだ立証されざる仮説、今日破綻しつつある独断にすぎません。そのようなネオダーウィニズムのイデオロギーさえはずせば、文化は地球的進化の法則から離脱した現象などではまったくないことになります。若き科学史家の米本昌平さんは、「生命は合目的である。生命の合目的性は進化の結果としてある。生命の合目的性は進化による結果合目的性である。」といわれています。この進化とは、ネオダーウィニズム的枠組みに固定され狭隘化された進化ではないことはもちろんのことです。」(前掲書)

「何が一番いいかというと、ごたごたいわなくて付き合っていける関係ですね。お互い黙って隣にいる、それで満足だ、ましてや議論して言質をとったりしなくていい。そういう感じですね。もちろん学問的思想的な議論は別ですが、要するに黙っていることのできる関係というのが、私の場合一つの理想として考えられております。ただそういう了解性というものには、あらゆるマイナス性がくっついているもので、これは私がことさらいう必要もございません。でなければ、明治から大正にかけて、青年たちが大挙して村から出るはずがないのです。そんな天国のような村なら、そのまま村におれば良かったわけであります。そしてまた、人類はすでに共同体から離脱したのです。人間というものを宇宙の中に神話論的に位置づけて、一つの秩序をもった共同的な関係にしばりつけた、そういう期間はもう過ぎ去ったわけであります。とすると、後に残るのは「個」しかない。ところがその「個」の世界というのは、現代においては資本制という形で実現されているわけであって、それ以外の存在形態を考えるのは非常にむずかしい。ここに難問があります。/ 共同体論について、私の結論的なことを申せば次のようになりましょうか。人間は共同体という古き衣を脱ぎすて、もう返れない「個」の世界に移動したのである。しかし、かつての共同的な了解の世界というのは、人間の心の中の一つの憧憬として、ある時には血みどろな情念としてなお存在し続けている。そういうものを、どう人間のあり方として再建していけるのか。それはいわゆる「社会主義」になればいいというものでもない。ただどうしようもなく「個」の社会の中で漂流しながら、人間の共同的な関係というものはどういうものであるか、それはどうしたら創り上げることができるのか、ということをたえず課題として持たねばならないのです。これについて、簡単な処方箋というものはございません。むしろわれわれは「個」の世界でもちこたえねばならないのだし、そのもちこたえるということのなかには、人類史を理論的につかみ直して、共同性の歴史的根據をさぐるという仕事も含まれていると思います。」(前掲書)

2012年4月23日月曜日

二つの方向(人類叡智と現実)

「ドストエフスキイが批判者の近代的思考を向こうにまわして民衆の熱狂を擁護したのは、「問題を民衆的精神において解決する」という基本的な立場においてであった。…(略)…彼にとって近東戦争が問題なのは、それが民衆の生活の基部から必然的に生成する幻影とかかわるかぎりにおいてなのである。…(略)…彼は、聖地巡礼がロシア民衆の中に長い伝統を持っており、彼ら巡礼者たちに関する物語が広く民衆の間に流布していることを述べたのち、そのような物語には「ロシア民衆の気持ちからいうと、なにかしら懺悔と浄めの力を持ったものが含まれているのだ」という。彼によれば、農奴解放後の彼らの現実、すなわち「飲酒癖の増加、富農の増加と強化、自分たちを取り囲む赤貧、自分自身の体にしばしば現れる野獣の相」に対する彼らの悲哀が、「より善き神聖なものを求める」渇望を育てていた。…(略)…彼は一見ここで伝統の重さとそれへの随順を説いているようであるが、実はそうではなく、政治思想のもっとも根本的な課題は民衆の意識の底に胎まれている夢想と幻影をどのようにして現世的なものとして実現することができるかということだという前提のもとに、その夢の伝統的な形式を看過すべからざる必須の因子としてとり出してみせているのである。その伝統を賛美するつもりはいささかもないといいながら、随所で彼は事実上賛美に走りがちであり、「多くのことを説明し得る事実」としてどころか、彼の言葉を借りればそれを民衆の「善の探求」の唯一の形式として意味づけている。この場合いわれている「善」とは、せまい意味での倫理的価値ではなく、幸福とか充足とか平安とかをふくむもっと広い意味、要するに「夢」という一語でおきかえるほかないような意味であろうと私は理解する。」(渡辺京二著『ドストエフスキイの政治思想』 洋泉社)

東日本が震源の震災と原発事故を一年にして、それを起点とする言説の潮流は、おおざっぱに相反するニ方向に分岐しだしたようにみえる。原子力発電という近代科学技術の象徴的な頂点のあり方を折り返し点に、脱原発的態度は一致しながらも、それをより近代的なあり方の徹底という方向で乗り越えていく考え方と、前近代的なものの見方・あり方を回復させていくことによって、という方向である。これは、戦前の思想界でなされた、「近代の超克」的議論を連想させる。実際、なんらかの反復的な事態なのだろう。その反復自体を批判していく態度もありえるのだろうが、私は今を生きている者のためにも、様相(衣装)を変えてでもこの反復を整理し理解し、少しでも脳味噌の混乱を慎めていく必要があると考える。「技術」という項目のブログを記述した後に、このような思考整理の文章を書き始めている私自身が、まさに反復潮流をなぞっている。脳力弱いなあ、と自省しながらも、いたしかたないことなのである。
というか、そもそも「近代」の夢とが、この人間個人の、神(伝統・共同体)から自立した自身のコントロールというところにあった、ともいえないだろうか? 自然をコントロールする技術と、自分をコントロールする技術……「できたらいいなあ!」と。ということは、その夢の内には、その内実的な現実とは、それができるほど自分が強くないこと、自立するには弱いということが観念され、ゆえに暗黙には、他の者たちへの依存や共同性が願望されているということになる。ならばその夢が、なにかあるたびに、上のようなニ方向になるのは当然といえる。ただし、近代を徹底する方向でそれを乗り越えてゆく考え方の人なら、もしその実現の暁には、人間は違った夢をみれるだろう、ということが仮説されえる。そうした視点からは、この震災後の民衆の有り様を、相も変らぬ「愚民」と呼びつけ、その在り方を「天皇制」というこの国の規範形式として把握し批判する向きもあるようだ。私はその大塚氏と宮台氏の『愚民論』(太田出版)は読んでいないが、そんな言葉使いをされただけで読む気が失せる。自分も愚民だろうなあ、と思うからである。まだ浅田彰氏の「野蛮人」のほうが気分がいい。
しかしそんな私は、天皇制には反対である。日本国憲法に、その「天皇」という言葉を挿入すべきでない、と考える。まず第一に、テレビでみていると、天皇およびその家族が人間(個人)として可愛そうにみえる。その地位を面白くこなしている皇族もいるだろう。がそれが嫌なとき、降りれるのだろうか? そして第二に、やっぱり人間(個人)は強くなければいかん、とおもうからである。はじめから、つまり憲法的な制度で、あるものを生贄の地位に祭り上げておいて自身の安定を担保としているのはよくない、卑怯だ、と感じるからである。努力してだめだったら仕方がない。いやし方がないうちにも、努力をもって生きていくべきだ、と考える。が、学問が教えているのは、何万年と生きてきた人類は、もう仕方がないとあきらめて、ゆえに権威(共同体)と権力(個人)を分けて治める叡智を培ってきたのだと。しかしヨーロッパ発の近代とは、そんな人類(「野蛮人」)の知恵を捨てて、王様(権威)の首を切りもう一度個人権力に権威をとりもどさせる政治体制を作ることだった、ということである。近代化が中途半端だった日本では、あるいはマッカーサーでさえ、日本の王の首を切らず、人類の叡智に従ってしまった。しかしその結果、神に変わって自然(太陽)をコントロールする人間の科学技術を所持することに耐え切れず、今回のような原発惨事を招いてしまった、ということになるのである。われわれがもっと個人的に強ければ、事故が起きてもおろおろせず、むしろ絶対安全などという神話を信じず対策も実験済みであり、ゆえに初動体制で惨事をふせげただろう……こうも、愚民批判者は考えるかもしれない。それゆえにまず、個人が「天皇制」から脱出する必要がある、と。
ほんとうに「天皇」という権威的象徴がいなくなって、日本という共同性は保てるのだろうか? 個人がばらばらになっても、だいじょうぶなんだろうか? 人類の叡智に反することを現代人がやっても、平気なんだろうか? 権威と権力をわけなくても、われわれはもうだいじょうぶ、それぐらいは強くなっているのだろうか?
自己責任論に立脚する近代主義者・小沢一郎氏は、このように言っているという。

<「小沢先生」「なんだ」「日本の政治家として一番やってはいけないことはなんだと思いますか」「そりゃ、天皇制をいじることだ」
 天皇は国家の権威を持っている。日本では権力は政治的指導者にある。アメリカでは大統領が権威と権力を兼ねる。たとえば政治指導者がスキャンダルを起こしたとしよう。アメリカは権威も権力も傷がつくだろう。しかし、日本の場合は権威には及ばない。それが日本国を維持させている政体である。であるからには、天皇制にまつわる問題はなにがなんでも原理原則を崩してはならない。>(石川知裕『悪党 小沢一郎に仕えて』 朝日新聞出版)

私は、小沢氏が、教養的な理解で、人類叡智に従い、天皇制をいじるな、と言っているのではないだろう、と予測する。人類叡智に反して作られた欧米の近代政治体制の現状認識から、実用的に言っているのでもないだろう、と思う。おそらく、飼い犬の鳴き声でその家が自分に投票するかどうかわかる、と言うぐらいの職業政治家として、肌で感じ取っていることなのだろうと考える。この「肌」を信じるならば、わかる事実とは、われわれがなお愚民の夢のなかにいるということである。小沢氏自身、こういう危機のときこそ強いリーダーシップ、個人が必要なのになお日本の民度がひくい、というような発言をしている。ということは、天皇制を信じる民衆はなお崩せないが、個人として強くなるよう努力すべし、私も啓蒙的に戦う、ということなのだろう。むろんこの「肌」の位相からは、われわれが「野蛮人=愚民=人類叡智」をほんとうに超克しえる存在なのかは不明である。わかるのは、あくまで、今は無理、ということ、そしてゆえに、みんなで頑張ろうという共同性と、強い個人の待望は、その相反するニ方向は、「寄らば大樹の陰」として両立するということである。

2012年4月8日日曜日

二つの成長

「律令制度の整備にともなって、平城京には古代豪族に代わる官人組織による貴族官僚が形成されていった。新しい知識人たちである。後期万葉はこうした官人たちを中心にした無記名歌に占められるようになる。彼らはしきりに自然を詠んだ。しかし、その自然は太古のままの自然ではない。それは彼らの邸内に移し植えて作られた自然の縮図ともいうべきものだった。つまり、第二の自然と呼ぶべきものだろう。彼らはこの第二の自然に好んで花樹を植えたのだった。彼らの美意識の昇華は花樹愛を核に、次第に文学サロンを形作ってゆく。」「「花は桜木、人は武士」も『忠臣蔵』の台詞として波及していったように「判官切腹の場」で、その死の臨場感を盛り上げるのは、舞台いっぱいに飾られたさくらと、散りゆく花吹雪であった。悲劇はさくらに助けられていっそう悲愴感を演劇空間に盛り上げる。…(略)…その桜観に対して、江戸時代のもはや戦闘の要員ではなくすっかり官僚化した侍たちも積極的に否定する理由もなく、むしろ一種の見栄としてさくらの死という桜観を受け入れた。しかし、その死に臨んで芝居のような訳にはいかなかったのは幕末、戊辰の動乱で露呈された通りだった。」(小川和佑著『桜の文学史』 新春新書)

携帯電話の調子がおかしいので、中野駅前のソフトバンクの支店にいってくる。スピーカーの故障ということで、保険に入っていない私は修理よりも機種交換したほうが安上がりなよう。カメラもレンズが傷だらけで写せない。7万円電話機の2年分割払いも去年終っている、ということで、新しいのに買い換えようとするのだが、店頭にはもう携帯電話はほとんど置いておらず、スマートフォンの時代なのだった。現在一月の電話料金は3千円ほどだが、スマートフォンだと最低は8千円はするという。ディスプレイがむき出しなので、土建仕事ではすぐに汚れ破損してしまうだろう。結局は、在庫であったピンクの電話機を買うことになったのだが。しかし、それを手に入れるのに、4時間近くもかかる。以前よりもカウンター数も店員数も減っていたので、手続きに時間がなおかかるのだ。従業員の質も落ちている。ソフトバンクは、店舗数は増えているように街ではみかける。原発事故以降、政治の時流にうまくのって、この新端末のアメリカ企業からのOS使用許可、国内空き電波への参入獲得、新エネルギー市場への布石準備…とうをみると、なにか裏があるのではないかと勘ぐりたくなるくらいだ。新規に市場参入する新参者のときは規制緩和と叫びながら、自分がそこを独占しはじめる勢いにのると、都合のよい規制を強めてくるだろう、というのが、結局は同じ構造、同じ穴のむじなにすぎない資本下の論理である。この徴候は、すでに末端のサービスに現れている。私は、後輩のときは先輩の悪をあげつらいながら、いざ自分が先輩になると同じことを後輩に繰り返して伝統とやらを受け継いでいった運動部の人間模様を思い出す。脱原発の新エネルギー政策があったとしても、そういうイヤなものの支配下としてある。単に、同じ市場(皿)の中での、もうけ(大きさ)の違うパイの奪い合いをしているにすぎない。その皿を差し出す店が変わらないなら、原発反対を叫ぶよりも、大気圏に精製されていない重油ガスを撒き散らしているという飛行機を飛ばすのをやめよう、といったほうがずっと地球には親切で、資本市場をゆさぶるように思える。

30年ぶりに、母校が甲子園にでた。県立の進学校なので、秀でた選手がいるわけでもないから、まずはミスをなくして四つに組むゲームを作っていくことが大事になる。先制点をとってその流れを序盤では作れたが、4回でのピッチャーの2打者つづけての失投が取り返しのつかないミスとなってしまったようだ。2ストライクと追い込んでからの、高めへのボール球が、中途半端な制球となって強打されたのだ。130km以上のスピードはだせるこの投手は、去年2年生の夏、県予選決勝をかけた試合で、7回に5-0くらいで勝っているときに登板をまかせられたが、ストライクはいらず、押し出しのファーボールをだしたりで逆転を許し、先輩たちを敗退させてしまっている。そんな経験からの成長と、今回甲子園で唯一の明治時代の創立校、そして男子校、そのいかにも時代遅れにもバンカラ古風な応援の様をテレビでみるにつけ、私は複雑な心境になった。この高校生が負けずに成長できたのも、一番は<先輩ー後輩>関係に萎縮されない旧制中学時代のバンカラな自由な校風がなお吹いているからだろう。しかし、こんなガラパコスみたいな時間停止でいいのだろうか? 戦後の運動部で強化された<先輩ー後輩>関係は、軍隊経験によって換骨奪胎された「官僚的」なものである。しかし旧制校から伝承されて残存しているそれとは、「封建的」なものである。後者には、形式的な固形化にはさせない、個人の実力を認める尊厳性が確保されている。年下だからといってそれだけでつぶされない。問答無用ではないのだ。
地元の県からはもう1校甲子園にでて、準決勝までいった高校もある。こちらは私立で、おそらくは学校名を売るために、優秀な選手を集めているところだろう。そのチームの左のエースは、中学まで一緒に野球をやっていた友達の息子だ。今でも、私の父親にその友達から年賀状がとどくのは、母子家庭で生活苦だったその家族を父親が色々と面倒をみてやってからなようだ。子供心での記憶が確かなら、その友達の父親は本物の組員で、抗争事件で殺されたのである。そのため、近所から後指をさされていたときく。校庭グランド横でキャッチボールをしていたのを父親が見て、うまいから入れと誘ったのである。本人は、高校を野球推薦で入ってすぐにベンチ入りし甲子園に出たとおもうが、先輩のいじめにたえられずすぐにやめている(中学時代も、先輩から一番いびられた一人だった)。トラックの運ちゃんをやり、いまは社長だという。数年前、同窓会であったが、肺のひとつをガンで切除しているのに、なお煙草をぷかぷかしている。早死にを厭わないというか、それがどうしたと生きてきたのだろう。だから、父親が生きている間に息子がプロにでもなれればなあ、と旧友のことを思ってしまうのだ。次男のほうは、サッカーをやっているようだ。

サッカーを選んだ一希。というか、私が暗黙に選ばせたのだが。上からの命令ではなく、自らの状況判断で生きていけるように。幼稚園までの公園サッカーを一緒にやっていた年下のうまい子がクラブに入ってきて、チームの力が底上げされた。2年生も3月にはいって、脳神経が少し密になってきたのか成長をみせ、動きが多彩になってきた。3月の新宿区+招待チームの大会では、おしくも予選突破はできなかったが、順当に成長していけば、来年の今頃は優勝争いに参入しているだろう。年下の後輩たちとともに。「この子はね、うまいんだよ。だから試合にだしてよ!」と、先輩たち自らがベンチコーチに入る私に言ってきた。「だけど2年生の大会だから、まず試合に出るのは2年生からだ」と私は答えたが、すぐに先輩のひとりがバテてゴール前でディフェンスの役の振りをして休みはじめたので、そのうまい子に交代させることになる。すでに全体のバランスをみてポジションをとれるので、守備的にも機能し、2試合目では早くもハットトリックを決める。一希も4試合めではハットトリックを決め、チーム内では得点王の実力を発揮する。うまく成長していけば……しかしそれが前提としている社会は、イヤなものは、変わるべきものだろう。子供の成長と、社会(経済)の成長は、どのように交錯しているのだろう? 私はどのように解きほぐし、結びつけていけばいいのだろう?

2012年3月9日金曜日

技術の差異

「おそらく、「疎外」は克服されない。「疎外」は、人間の「手」が歩行の手段という「自然」から解放=疎外され、技術が手の代補であり、原発もその技術の連鎖の果てに出現したものである限り、まぬがれることができないものなのだ。原発だけが特権的に危険なわけではなく、プロメテウスが神から盗んで人間に与えたという火が、すでに「危険」なのである。/それゆえ、農業が危険であれば、自動車も飛行機も危険だろう。それらは、結局、リスクの多寡に還元されてしまう。反原発の思想は、そのことを踏まえて出発しなければならない。」(すが秀美著『反原発の思想史』 筑摩書房)

きちんと体系的な知識教養があるわけではない私は、スガ氏の上のことばを注意深くきいた。ここでいう「注意」とは、その解答が教養理解的に正しいかどうかの真偽、そして、その教養理解の枠を越えて、どれくらい思考を策動させてくれるかという検討、ということである。前者のような他愛ない疑義をもさしはさむ必要があると感じるのは、たとえばスガ氏がベンヤミンの「複製技術」にまつわる「アウラ」という概念を端的に誤読しているという芸術家(たち)からの指摘をきかされたときがあるからである。スガ氏は「複製技術」作品にアウラはないと言っているが、ベンヤミンはあるといっているんだよ、とアーティスト系の会合できかされたのである。そういう間違いが、ここでもあるような匂いがする、ということだ。しかし、教養のない私には、その真偽をここで確認することはできない。それゆえ、後者にうつって考え検討してみる。

上引用の理解が正しいとすると、「日本の大転換」でみせた中沢新一氏のような、生態圏には相容れない放射能物質を発生させるウラン(太陽の破片)を用いた原子力技術と他の技術との差異を考慮する理解前提は、欺瞞的、ということになるだろう。スガ氏の中沢氏への批判は、要はその欺瞞によって(つまり確信犯的に)、「ニューエイジ」的な神秘が、超歴史的な連続性が導入され、神道と仏教を混淆した日本文明の生成と似ている脱原発社会の原理がたてられてしまう、というところにあるのだろう。またそこに差異を認めるか否か、という理解態度の違いは、低線量被曝をめぐって、生命はずっと放射能とつきあってきて免疫機構も培われている、とする科学者と、いや生命はようやくのこと宇宙時間的な放射性物質を生態圏から排除してかろうじて自らの循環構造を保って生き延びているのだ、という科学者、との違い、とも平行しているようにみえる。「手」という人間特異的な技術上の問題(差異)だけでなく、生命という免疫技術の進化(歴史)自体の連続と変化(差異化)をみる立場、ということでである。しかしこの科学的な真偽は、私素人ではなくとも、決着がつけられるような問題ではないのではないか、というのがこのブログでの主張であった。「神秘」というなら、どっちも神秘だ。ならば肝心は、その差異のあるなしが、どのように思考の有意義をみせてくれるか、という注意力だろう、ということだ。そこの技術に差異はないとするより根源的な思考と、そこに差異をみる作為(欺瞞)的な思考の両者は、まず何を明確にしようとし、何を実践させようとしているのか?

とりあえず私は、そこの技術に差異を認める言葉のほうに説得力を感じているので、こちらのほうを考えたい。というか、スガ氏が指摘するような問題は、今回はじめてでくわした、知ったようなものなので、なおよく考えられない。私がこの差異ということで想起するのは、「スコップで掘った土と、ユンボで掘った土は違う」といった中上健次氏の言葉である。植木屋として植え穴を掘っていると、この差異には日々直面する。もちろん「スコップ」も道具だけれども、「手」に近い道具である。ユンボとなると、そうは感じない。なにせ掘りすぎる、余分な土がですぎる、土の塊がでかいので、現場の見た目がまさに荒廃した感じになる、低周波の音がうるさい……こうした差異は、技術のあり方として程度の違いで、考慮する必要もないことなのだろうか? しかし私は、親方やそのほかがすぐに「ユンボ」を導入し、人力での作業を忌避し、それが作業効率も悪いというのを尻目に、密かにスコップ作業で仕上げている。実は、人力を前提にしかるべきときにそれを導入することを段取っておいたほうが効率もいい、早く作業はおわる。最近も、わざわざ親方の息子がレンタルしたユンボをほぼまったく使わずに、計画以上に団地まわりの移植作業をおわしてきた。「ユンボ、ユンボ」と口だけ達者なもう一人の作業員を相手にせず、ただひたすら一人で穴をほり、植えてきた。体力も能力もない口先連中、職人などではぜんぜんない。……私がこの例でいいたいのは、同じ人間の技術でも、その延長に理論原理的にはあるとしても、そこには差異がある、ということはこういうことだ、こういうふうに存在していることがありうる、ということである。だから、原発とそれ以外の差異、ということも、ありうる、説得的、と感じている、ということである。

スコップでの土堀りは、腰痛にいい。木にばかりのぼっていると、おそらくその微妙なバランスのとり方が姿勢に負担をかけて、腰にくるようだ。人には尻尾がないからだろう、と今ではおもっている。サルは、尻尾を上手に枝に巻きつけて、木上でエサをとったりしている。尻尾のない人には、もはや無理がたたるのかもしれない。決して重いものをもつから、というわけではない。しかし、「手」が解放されて土の上を直立歩行するようになった人間は、重い脳髄を骨盤で支えなくてはならない。それ(立つ、歩く)だけで、すでに無理な姿勢なのかもしれない。スコップでの穴掘り、足の裏を痛めないように角を丸めたスコップの尻に片足を乗せて土に刺す、蹴る、という人体への余分な負荷は、ぎっくり腰で力が抜けたような状態を、しゃきんとさせてくる。スコップで足を蹴るとき、人体はどうしても垂直的な姿勢になって重力を利用した力の入れようになるからかもしれない。無理(姿勢)を正す筋肉が補強されてくるからだろうか? ……しかし私はこの腰痛(日常)が、骨折という事故(震災・原発災害)よりもより根源的ではないのか、と前回ブログで述べた。それらに差異はない、もっと根本的に問うてみる必要がある、ということも可能(説得文脈をもつ)かもしれないが、そこにある差異から、後者(ユンボ、原発)を嫌悪してもいいのではないのか? いやそれは嫌悪という趣味の問題であって、思想ではない、とスガ氏は言っているのだろうか?……そうした錯綜を、スガ氏の『反原発の思想史』を読みながら、近いうちに整理してみたいとおもっている。日本の事情にも教養の不足しすぎている私には、自分の言葉がどこからきているのか、その見当と検討をしていくためにも、スガ氏の作業は、とても役に立つのではないかと思っている。

2012年2月23日木曜日

腰痛とともに

「本書の一番はじめに、「寝相」について触れました。寝相にも人それぞれに「癖」があり、疲れ方も人それぞれです。寝ているときには、局部的に疲れがたまり無意識のうちにとくに緊張しているところが、ゆるみやすい体勢になろうとする。/このそれぞれの疲れのパターンを野口さんは「偏り疲労」と呼びました。/それぞれの人が集中したり緊張したりするときの、姿勢・動作のバランスのとり方に違いがあるために、疲れ方にも「偏り」が生まれるのです。/腰椎は五つありますが、そのなかにとくに姿勢や動きの焦点になる腰椎があります。/人によってどの腰椎をとくに使うかという「癖」がある。それぞれの腰椎の運動特性が、身体のさまざまな働き――内臓の働き方やさらには心の動きの傾向や特性にもつながっていると見通したわけです。」(片山洋次郎著『骨盤にきく』 文芸春秋)
木から落ちて1年がすぎた、ということになる。まだ痛みがあるので、最近起きたこと、という事実を確認できるのだが、もうだいぶな過去のような気分のうちにいる。しかしそれは、忘れられるような、遠い話になったというわけではない。以前と同じような心持ではもう作業はできない。今年にはいっての東京都は中野区の街路樹剪定で、人がひとり木から落ちて死んだそうだ。役人たちは、安全帯を二つつけさせるだの、昇り降りするときにもつけながらを徹底させるだのと、なおさら事故の確率をあげて統計上は隠蔽させる形式的な対応にてんやわんやになっているんだそうだが、昔のようにヘルメットをかぶらずに男気試し、みたいな環境ではないのだから、過剰な対策は人災を引き寄せるだけだ。立って歩く人はつまずく。そういう確率で、事故をゼロにするなんてのはできやしないのだから、役人(責任者)が努めるのは、安定した作業環境を維持し、事故に騒ぐことではなく、腹を決めることだろう。そして起ったことは起ったこととして、その後のケアをきちんと保証することだ。しかし、原発事故後の労働環境と官僚対応を筆頭に、もはやそんな肝の据わった現実対応はどこかへ追いやられてしまったようだ。ならば、一介の労働者として、どう身をまもっていけばよいのか?
骨折した足の痛みは、今年にはいってとくに消えていっているのが実感できる。寒くなるとうずく、とかもいわれていたが、そんなこともない個人的特性なようで、私の足は全快するだろう。子どもとのサッカーでも、ほぼ差し障りなく一緒にできるようになってきた。だからそれよりも私が気がかりなのは、腰痛のほうである。一昨年だか再発したのがやっとなおってきたとおもったら、またちょっとしたぎっくり腰になって我慢生活を強いられている。骨折した私に代わって、高木の剪定作業をやり遂げてくれた団塊世代の職人さんは、その作業終了後すぐに入院し、腰の手術を受けた。腰痛とは縁のない活気な人だとおもっていたら、そのまま術後も回復がかんばしくなく、1年たった今でも復帰の目処はたっていない。仕事量も以前ほど多くはないので、そのままリストラを勧められているようなものでもある。この慢性的、日常的な事態のほうが、実はどうも深刻なのではないか? 事故はおこる、注意していても、魔がさすことは防ぎきれない。それはしょうがないと諦めもつき、頑張りもやりなおせるが、その底流に常に潜んでいる、持続的、蓄積的な痛みにはどう対処したらよいのか? 大震災のあとで、日常の貴重さを思い知らされたというが、私も、大骨折のあとで、腰痛の深刻さを思い知らされた、というべきか。そしてしかも、この腰痛の在り方が、その人個人の「身体のさまざまな働き――内臓の働き方やさらには心の動きの傾向や特性にもつながっている」というのが冒頭引用著者の言葉である。私の感受性、思考、行動の型が、私の骨盤の型によって規制される、というのである。だから整体的な実践としては、その「体癖」を知って、その部位の腰椎をやわらかくしていく体操が大切、ということになる。
私は野口整体の影響を受けた片山氏のその考え方にリアルさを覚えるが、いかんせん、自分がいったいどんな型の種類にはいるのか、判然としない。当初は腰椎3番に負担がかかるものかな、ともおもったが、腰椎1番や5番の種類にもおもえてくる、というか、どれもぴんとはこない。なかなか診断が素人には難しい、ということか。最近はスポーツでも、4スタンス理論とかいって、一つの教え(投げ方、打ち方)を誰にでもあてはめていくこれまでの指導法と違った、その人個人の筋肉特性の型に応じたやり方を肯定していく方法論がでてきたりしているが、私もその考え方に賛成だ。というか、きちんと洞察力のあるコーチなら、野球ならバットグリップの位置を肩の位置にとかの、正統的なスタンスを押し付けていてもその子にはだめだ、とかの認識が生じるはずである。自然な感じがいい。大リーガーのフォームをみよ。みな個性的ではないか? 無理は、スランプの周期を早め、怪我を誘発するだろう。怪我(事故)は人を落胆させ(ゆえに逆に頑張りを反発させる)。が腰痛は、むしろ人の意識を集中させる。それは高揚ではないが、なにか、人の生活や生き方を少しづつ変えていかせるような、微妙な偏差を私にもたらしくてくる。ならば、日常的な腰痛自体が、骨折後に現象されてきた官僚的な社会振舞いへの地に足着いた抵抗感覚になってくるのではないのか?
今日は雨で、仕事は休みだ。以前は、それは天の恵み、という感じがした。しかしあの大震災・原発事故後、もはやそれが同じ雨ではありえなくなっている。同じ自然現象としてあのときのシュールさをよみがえらせだぶらせてくる、そんな潜在意識を透きこまれたようなのだ。しかも、4年以内に東京直下型70%以上などと脅されている。窓からみえる雨模様が、自分をほっとさせない、奇妙な身構えを実感させてくるのだ。これが日常なのか? これは、日常なのか? 椅子に座った腰の痛みに耳をすましながら、その真贋をさぐっている、そんな私の感じが、パソコンのキーボードを打つ動きとともに今ある。

2012年1月8日日曜日

仮説物語と世俗の夢

「民主主義は熟議を前提とする。しかし日本人は熟議が下手だと言われる。AとBの異なる意見を対立させ討議のはてに第三のCの立場に集約する、弁証法的な合意形成が苦手だと言われる。だから日本では二大政党制もなにもかもが機能しない、民度が低い国だと言われる。けれども、かわりに日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、わたしたちはもはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか。そして、もしその構想への道すじがルソーによって二世紀半前に引かれていたのだとしたら、そのとき日本は、民主主義が定着しない未熟な国どころか、逆に、民主主義の理念の起源に戻り、あらためてその新しい実装を開発した先駆的な国家として世界から尊敬され注目されることになるのではないか。」(東浩紀著『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』 講談社

震災前に書かれた文章集の著書に付けられた帯でも上のように引用された東氏は、さらにまえがきで次のようにも述べている。――<もしもいま(*引用者註;震災後のこと)、存分に手を加えるとすれば、筆者はおそらくは、本書を日本論に変えてしまうことだろう。一般意志2.0の実現が、単にルソーのテクストから導けるというだけでなく、また単にこの国の風土に合致しているというだけでもなく、日本がこれから新しい国に生まれ変わるためにこそ必要とされるのだと、そのように軸足を変えてしまうことだろう。」……先のブログでも引用を集めた水野和夫氏もその『終わりなき危機――』で、「日本」こそが「最も恵まれたポジションにいる」と前置きしている。私はこのどこかロマン派的な前提に懐疑と留保を覚えるけれども、明確にしえる文脈が仮説されえるかぎり、その方向で想像力を行き着くところまで押し広げたほうがいいと考えるので、二人の試みについてゆくことは面白かった。また東氏の立場とは、前々回のブログ宇野常寛氏の『リトル・ピープルの時代』の認識前提に重ねていったのと同様、私はおそらく超越的な視点を仮説しているということになるだろうので、東氏とも根底的なところで異議をもつ。が、そこをカッコにいれてみると、また東氏自身がそうした立場への批判を抑えているとおもわれるが、氏の唯物論的な理論、というよりは(むしろそうではなく、というべく)、具体化へと向けられた方策を、とても面白く拝読した。この面白さからみれば、最後に<超越>者的な選民に期待を寄せる、私の立場に近いだろう水野氏の「大きな物語」よりも、東氏の世俗的な知恵のほうが、好ましく感じられるのである。というか、私が認識的には超越者的なモノを理念的に仮構することになるとしても、実践的には、大衆と心中するほうがましだろう、と考えるからだ。それはなにも東氏が著作の最後のほうでローティの「アイロニー」をだしているような高尚な思想性によるのではなく、たとえば、もし雪山でまだ七歳の息子と二人で遭難し、前に進むことをぐずる息子を置いて体力ある私一人で下山すれば助かると認識しえるとき、果たしてその超越(大人)的な認識に従って行動することがいいのか、自分にできるだろうか、と考えてみた場合の結論のようなものである。おそらく私は、たとえ二人で行き倒れても、死ぬまでなんとか二人で打開できる方策をさぐっていくだろう。というか、実際には、それこそが理念的、より大きな我慢を強いるものであることは、幼い子供ふたりで街中を歩いてみればわかるだろう。幾度ぐずって立ち止まり、寄り道を好む子どもを置いて先に行ってしまうことだろう!

水野氏の「海から陸へ」という歴史転換という経済史的に大きな物語は、最近でもNHKで「シルクロードの復活」というような特集番組や、副島隆彦氏のような政治学者も説いていたことである。ただ水野氏の重点は、そこで資本主義が行き詰まってしまうのでゆえに今からなんとかしなければ、という話である。一方東氏は、そうした時間軸的な転換を前提とするより、停滞した時間としての空間的常態を認識の枠組みとして捉えることから始めているようだ。この二人の話の前提をまえに、震災・原発事故を見てきた私としては、おもわず次のような想像してもしょうがない想定外的な事態を仮想してしまう。温暖化で南極の氷が解けて新大陸が出現し、ゴールドラッシュ的な移民的新しい歴史がはじまってしまったとしたらどうなるであろう? しかも、あらわになった南極大陸から人類の文明遺跡までもが発掘され、アフリカのサルからヒトへが北へ向っただけでなく海を越えて南へも直接向かっていたことがわかってくるような、人類史を塗り替えるようなことが起きたらどうだろう? インターネット世界は、電気を前提する。その配線や人工衛星を。それが世界のあちこちで寸断・破断・墜落するような災害が発生したらどうだろう? 大事な政治的な決め事まで発電していないと決められないインフラ社会に住むようなことになったら、たしかにクリックしていれば政治参加していることになるのだから、これほど楽なことはないけれど、この怠け癖が危機時の対応を遅らせてしまうのではないか?

というか、東氏の知恵に意義があるのは、それが「夢」だからであろう。「みんなの意見は案外ただしい」という統計的正しさが保証されるのは、そうした数学的な現実が本当の現実として実現されるのは、柄谷氏が新聞書評でも述べていたように、参加者各々が自由な条件にいるときであるという、実現不可能な社会の理想の下においてなのだ。東氏のデータベース(各人の履歴蓄積)としての一般意志2.0が、フロイトが理念(超越)的に仮説した「無意識」と重なるとするのは、正確ではない。形式的に同型な階層としてあるとされるだけであって、データベースと世界(国民)大衆の無意識がぴたりと重なり合うという保証はどこにもないのである。それは、そうしたテクノロジーを信仰する者たちのあいだにだけ存在するだけである。信じられない者たちの間では、そのデータベース自体が疑わしい、依拠することもできない<似非無意識>と想定されてしまうであろう。しかし、フロイトの無意識と同型的であるだけに、それは「否定」できない形として、やっかいな下手物としてわれわれの前にたちふさがってくるとされるのが理論的な実状である、と私は理解する。つまり、東氏の設計する一般意志2.0という無意識は、抑圧された夢、というよりは、理想化された夢である。つまり、精神分析的というより、世俗でいう夢の語意に近いだろう。しかしだからこそ、この震災後において、われわれ読者をして鬱屈させるよりか、どこか楽観的な解放感をもって読める、苦々しい日常を一時でも忘れさせてくれる爽快さ、突き詰めた想像を味あわせてくれるのだ。これは東氏の意図したことではないかもしれないけれど。

しかし私は、やはりこの世俗的な夢のほうが、たとえば、昨年柄谷氏が文芸誌で連載していた「哲学の起源」と題した「大きな物語」よりも、より思考を刺激するのでないかと考える。教養のない私ゆえに、そのギリシア以前の哲学的前提状況を、比喩として現在と重ね合わせる読みしかできないとしても、つまりその真偽(仮説)は検討しようもないが、その構えは、デモにもいかない大衆への脅迫的なエリート意識、悪意に裏付けられている、と感ずる。とくにNAM実践での挫折経験のあとでは、『世界史の構造』の文明史論的枠組み、そしてその派生たるようなギリシア文明論的な「大きな物語」は、眉唾物的な発想として警戒感が強くなる。参考には十分するが、発想自体がいいのか、前作まではともかく、ひきつづく作品と、そして水野氏にも現れた「大きな物語」、大きな流れでのレトリックを、罠にははまるまいとする思いで私は受け入れる。この警戒は、身体的にいかんともしがたいトラウマになっているのかもしれない。しかし逆に、その物語を本当なものとして受け入れるのであれば、「金融空間」にいる現在の流れは変えられないまでも、数十年後の資本主義的行き詰まりを焦点として捉えて、どうそこへ向けて現生活を組織していけばいいだろうか、という実践思考になるのだろうか。つまり私たちが必要としている実践とは、仮説的な時間軸から暫定的な目的地点へむけて、現在をどう待機的に編成していったらよいのか、ということになるだろう。一方、東氏の「一般意志」という現常態から発する実践とは、すでに今から発想され設計されうるもので、その実現(実装)の持続をアップデートとして更新していけたらいい、ということになるだろう。

唯物論的な理論、か、世俗的な知恵、か。いやこの二つの態度は、両立可能なのか? それとも、全く不要なものなのか? 少なくとも、この二つの相対した態度が、われわれが望むと望まずとも、震災事故後には、後戻りできない地点から考えられていることだけは確かだと、私は認識する。

現状を考えるための引用

「明確な定義を明かさないグローバリズムの背後に潜んでいる思想をあぶりだしてこそ、現在起きている様々な現象を統一的に理解することが可能となるばかりか、数十年後の世界を予想することができるのである。/数十年後には、理念として無限である「カフカの帝国」が閉じてしまうのである。先進国の中で先頭を走っている日本は、実は「カフカの帝国」以後に備える上で最も恵まれたポジションにいることを自覚することが重要である。/三・一一以後をこのような視点で考えなければならない。被災地・東北の問題は日本全体の問題であり、先進国の問題なのである。残念ながら、今の日本が直面しているのは、「がんばれ日本」で乗り越えられるような生易しい危機ではないのである。」(水野和夫著『終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか』 日本経済新聞社)

「このように、金利の歴史において前例のないほどに「革命」的な超低金利が実現したのは、その背後に「革命」的に変わろうとしている歴史の断絶があったからである。すなわち、十六~十七世紀の「利子率革命」は、中世と近世を画し、それは同時に「陸の時代」から「海の時代」への転換を示唆していたのである。…(略)…近代資本主義にとって、交易条件の数世紀にわたる持続的な改善と海外市場の拡大こそが、資本蓄積の必要十分条件である。だから、ニ〇世紀初頭に「海の国」となってアジアに進出した米国が、一九七五のベトナム戦争で事実上敗北したことで、利潤極大化原理は「電子・金融空間」で実行されるようになった。/一方、二度にわたる石油危機は、交易条件の趨勢的悪化をもたらした。それを少しでも緩和しようと、先進国は原子力発電への依存度を高めていった。それがニ〇~ニ一世紀の「利子率革命」となって表れている。…(略)…グローバリズム、「海に対する陸のたたかい」、そして「人件費の変動費化は、いずれも同じ根っこを有している。すなわち、これら三つは、ニ一世紀の「利子率革命」をいかに克服するかを共通課題として生じたのであり、これら三つは「利子率」、すなわち資本の利潤率を再び引き上げようとする反「利子率革命」として捉えることができる。…(略)…米「金融帝国」が「帝国」たる所以は、米消費者だけに依存するわけではなく、「帝国」の定義通り、外国に対しても影響力を行使する点にある。米「金融帝国」の狙いは、グローバル化することで世界の金融資本市場で新しいマネーを創出し、そのうえで新興国・途上国の六〇億人の近代化を促すことで、反「利子率革命」(=「空間革命」)を引き起こすことである。…(略)…マネタリスト的世界が成立するのは、「空間」が閉じられているときである。新しい「空間」ができると、一六~一七世紀や二〇~ニ一世紀の現在のように、旧い空間では金利が低下し、新しい「空間」では物価が高騰(新価格体系への移行)するのである。旧い「空間」で旧来のインフレを起こそうとしても無理である。」…(略)…「「価格革命」が収束するときが概ね、新しい「空間」と旧い「空間」が一体化するときである。」

「長いニ一世紀」の「空間革命」がいつまで続くかという問いに答えることは、日本のデフレがいつまで続くのか、そして資源価格高騰に代表される新興国の物価がいつまで上昇するのか、という問いに答えることと等しい。…(略)…長い一六世紀に起きた「価格革命」は、ヨーロッパ大陸が一つの価格体系に収斂していくプロセスであった。「価格革命」が収束に向った一六五〇年後には、次の二つのことが起きていた。一つは、ヨーロッパの先進地域と後進地域の内外価格差がニ対一になったことであり、もう一つは、新興国・英国が先進国・イタリアに一人当たり実質GDPで追いついたことである。…(略)…ニ一世紀の「価格革命」がいつ収斂するかを知るために、一六五〇年前後に起きた二つの現象を二一世紀に適用すると、次のようになる。まず、日本の一人当たり実質GDP(九〇年国際ドル基準)に中国のそれがいつ追いつくかを試算すると、およそニ〇年後ということになる。…(略)…次に、一六五〇年に内外価格差がニ対一とは、第一グループである先進地域・地中海と第三グループの東欧の間の物価格差のことである。そこで二一世紀においては、第一グループ(物価水準が最も高い)ドイツと、インドを比較するのが適当である。/九〇年国際ドルで測ったドイツとインドの内外価格差は、ニ〇〇八年時点で三・四対一である。今度、IMFの見通しに従って、ドイツの物価上昇率〇・五%、インドを同四・〇%とすると、インドの物価水準がドイツの半分に達するのはニ〇ニ四年である。/新興国の生活水準が先進国と肩を並べるのはニ〇年後であり、先進国と途上国の内外価格差がニ対一に縮まるのは一三年後である。アフリカのグローバリゼーションを考慮すると、「価格革命」が収束するのは三〇年から四〇年後となるであろう。/二一世紀の「空間革命」の始点を「利子率革命」が始まった一九七四年とすると、すでに三七年が経過した。ニ〇一一年現在、ようやくニ一世紀の「空間革命」は中間地点に到達したといえる。」

「「バブルの大きな物語」は、「成長とインフレ」のメカニズムが崩壊したからこそ登場したのであり、それまでのバブルとは性格を異にする。これまで幾度となく発生したバブルは「地理的・物的空間」(実物投資空間)の中で起きたのであるが、「利子率革命」下で生ずるのは、「電子・金融空間」における「バブルなくして利潤なし」なのである。一九七〇年代半ば以降、バブルと実物経済活動の関係において、主客が転倒したのである。/「バブルなくして利潤なし」の資本主義経済は、社会生活を崩壊させることになる。バブルが繰り返し生ずるのは、「大きなバブルの物語」が支配している中で、中間層にバブルに依存してでも「成長」を望む潜在意識があるからであり、その結果、国の借金が増えるだけであれば、現在の社会・経済システムを支えようとするインセンティブは働かなくなるからである。…(略)…「「バブルの大きな物語」は、「海と陸のたたかい」と同時並行で進行する。正確にいえば、「バブルの大きな物語」のもとで進んだ市場化と金融化は、「海の国」がそのたたかいを有利に進めるための手段であった。「陸の国」が地球上の多くの資源を保有する。米国は一九七〇年代の資源ナショナリズムで失った原油の価格決定権を取り戻すために、WTI先物市場をニューヨークに創設(八三年)するなどして、無から有のごとくマネーを生み出す「金融帝国」へと変貌していったのである。/しかし、歴史は思惑通りには進まない。事態は「海の国」の思惑を超えて進行する。その象徴が、二〇〇一年の九・一一であり、〇七年から急増したソマリアの海賊であり、〇八年のリーマン・ショックであった。」

「「海と陸のたたかい」は、新興国においてはいわゆるヘーゲルのいう「大きな物語」となって開花した。先進国は本来、「脱近代化の物語」に向うべきところなのに、現実には未だに成長物語を追いかけている。新興国における「大きな物語」にはモデルが存在するから、BRICsに象徴されるように、「輝く未来」が待っていると皆が確信している。一方、先進国における「脱近代化の物語」は未だ姿かたちもみえないし、それを指向しようとする意思もみられない。日本をはじめ先進国は今でも、「成長」によってさまざまな問題を解決できると信じているからである。…(略)…証券化商品バブルとその崩壊は、日本の土地・株式バブル崩壊がそうであったように欧米の財政事情を悪化させ、福島第一原発事故は名目GDPを増やすことを困難にしつつある。原発事故後、被災した東北が失った分だけ前進するから、そのほかの地域は後退する。九州、沖縄を含めて日本全体で自粛が起きるのは、もはや全員が前進するのは不可能であるという人々の直感の表れである。…(略)…東北地方の再興は、日本の未来の姿でもある。それは少なくとも近代社会の延長線上にはない。二一世紀は「脱テクノロジー・脱成長の時代」であるのは確実であり、それは「共存の時代」となるであろう。自然と人間の共存であり、陸と海の共存である。「定常」で成り立つシステムを構築することが必要である。貯蓄と投資がバランスし、ゼロ成長で持続する社会である。」

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以上の主旨を述べて、水野氏は、次のように待望する。――<そのために望まれるのは、シュミットが『政治神学』(一九ニ三年)で述べた「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者」の登場である。…(略)…シュミットは、『中立化と脱政治化の時代』(一九ニ九年)において、「根源に立ち返って新たな秩序が生れるであろう」と締めくくっている。この解釈に関して、長尾龍一は「危機に逆上した大衆により終末が始まり、最後に『完璧な知』をもつ大哲学者ないし大神学者が登場して秩序を創生するという趣旨か?」と述べている。/大哲学者であり、大神学者が例外状況において決断をするのである。そして、大哲学者や大神学者が決断する前に必要なのは、「成長教」の呪縛から解放されることである。>

この結論の是非と、引用してきた氏の説く経済政治史的な「大きな物語」の検討は、並列して読んだ東浩紀氏の『一般意志2.0』(講談社)と対比させながら、次のブログで言及していこうと考える。

2012年1月5日木曜日

夢を見れない年

「もし私たちが「想像力」を武器に現実を、「壁」を変えていこうと考えたとき――その武器となるのは存在し得ない<外部>に依存する<仮想現実>的想像力ではなく、<内部>を無限に多重化し得る<拡張現実>的想像力ではないだろうか?/「壁」をビッグ・ブラザー的な擬似人格と「彼」の語る大きな物語ではなく、リトル・ピープルの時代における(ゲーム)システムと(キャラクターの)データベースとして捉えなおしたとき、そこには<革命>ではなく<ハッキング>的に世界を変化させ得る想像力を私たちは手にすることができる。そしてその萌芽は、既に貨幣と情報のネットワークの中に豊富に発見することができるのだ。」(宇野常寛著『リトル・ピープルの時代』 幻冬舎)

ここのとこ例年、初夢を書くことからこのブログが始められてきたように思うが、今年は、そんな記憶に残るような夢をみることもなく、正月の朝をむかえた。しかし、一緒に目覚めた一希が、最初は見た夢を覚えていない、といっていたのが、布団の中でじゃれあっているうちに、ふと「あっ、おもいだした」という。話すところによれば、前を赤ちゃんがハイハイしているのだが、なかなかおいつけない。みんなで歩いていて、おいつこうとしてもおいつけないでいるうちに、森に出て、そこにトイレがあるので、おしっこをした、というのである。「そのときオネショしちゃったのかなあ」と。つまり、オシメをしている赤ちゃんを卒業して早くお兄さんになりなさいと「みんな」から重圧を受けている自分が、なんとか赤ちゃんを追い抜こうとしているがそれができずに、森に迷い込んでしまう、あるいは、森という立小便をゆるされるような空間に逃げ込むことで、安心感(トイレ)をみだした、が、その安心が実はおもらししてしまうという現実という不安でもあるので、その葛藤の強さに目が覚めた、ということかもしれない。小学2年生にして、自分を分裂しはじめることができるのかな、と私はおもった。そして私が夢を見れない(思い出せない)のは(それはたぶん、たいした夢でもないので…)、現実の日常生活自体の内に、夢から目覚めさせるような緊張感が挿入されてしまったからだろう。あの震災と原発事故で。仕事納めの年末から仕事はじめの年始までの空白の時間、私は脱力と突然せりあがってくるおぞましさの感覚に陥ってしまう。しかし今年は、そんな年の区切りを味わうにしては、すでにしてゆるめられない緊張と高揚が内心に巣食ってしまったのだ。

<あれから数ヶ月、特に原発事故の長期化がもたらした日本の「分断」による諸影響は計り知れない。そもそも、今回の震災はその被害が広範であったがゆえに、逆に日本社会分断の危機を孕んでいた。つまり、津波に襲われた東北地方東部と茨城県、そして計画停電や水質汚染の恐怖に断続的に襲われ続けている東京周辺、最後に被害が軽微だった北海道及び西日本といった具合に、地方ごとに異なる震災の被害度合いによって人々の生活感覚が分断されてしまう可能性が高かった。そしてそれが、原発事故の長期化によって現実のものとなってしまった。もちろん、震災の影響による企業倒産など、経済的には既にその被害は全国的なものとなりつつある。しかしそれ以上に、生活実感のレベルでの分断のほうが強い力として今の日本社会を支配しているように思える。>(前掲書)

私も冒頭で引用した宇野氏の実感と認識に同感する。ゆえに東京に住んでいる私が、「日常と非日常の混在」という場所にいることにも肯えるが、そこが、あるいはそこからそこを、「分断されつつある社会をつなぐ」ための「想像力」を発揮しうる特権的な場所であるとは考えない。むしろ私はその初夢を覚えさせなかった「日常と非日常の混在」という日常を生きさせられることになった私が、これまで抱えてきた時間こそが、やはり私の考える場所なのだ……正月の休みの内にして、私の中には、様々な時間が同期して蠢いているのがわかってくる。子ども時代の記憶、人生の流れを切断していったようないくつもの記憶群、独身時代の葛藤、現在の家族との時間、気遣ってしまう子どもの将来の時間……それらの時間は、その時々の情念を伴っている。私は、それらを統合することもできずに、そのことがこの際といように自覚させられた自己の無能を、苦虫を噛むようにして、今をにらみながら、自分たちがばらばらにならぬようなんとか統御している……あくまで、私の考える、想像力を発揮させうる場所とは、この自己(事故)状態だ。それら統合できない自分たちを、キャラと呼んでもいいかもしれないが、データベースと化した、つまり、通時的機能をもった自己物語群(歴史)が共時的に並列化したそれを、自由意志的に引き出せるわけではない。ゆえに私には、宇野氏の提言は、どこか呑気に、あるいは、リアルな道筋というより、期待を表明しているもののように思えるのである。おそらく私は、宇野氏からすれば、なお「仮想現実(外部)」を信じている、とされる時代遅れな思考態度、ということになるのだろう。氏の言う「いま、ここ」とは、いわゆる「現在」という曖昧な実感と同義のように思えるが、私が前回ブログで言及した中上氏にみる「今ここ」とは、むしろ出来事性としてしかないものなので、それを思考として持続的に使用するには、理念的に仮想しなくてはならず、実践としては、反復的になるほかはない。しかも、その理念(出来事)は、ありふれた日常的な出来事、常々反復されていることとして想定されるのである。(キルケゴールのイエスのように。)――私のこうした認識的立場は、デリダが精神分析を得意点的な学術としたように、あるいは、ラカンがそうであるよに、あるいは、そこからカントに系譜的にさかのぼってとされるような、一時代の教養的前提であるかもしれない。それ(外部)を信仰するか否か、という二者択一的な厳しさゆえに「転向」が問題ともなるだろう。宇野氏の認識枠には、そうした問題は生じない。ただ私としては、たとえば、認識と実践を同一化させたがる傾向にある柄谷氏のような偏狭さは、まさに実践とが自己統御を超えた外部性とかかわらざるを得ないがゆえに、もっと我慢する、いい加減になっていい、とする立場だということだ。

そうした認識的な前提をカッコにいれれば、私は宇野氏の「リトル・ピープル」の時代認識を首肯しえる。たとえば、子どものサッカーチームのコーチをするにつけても、そこには小さき父たちの闘争(日常)しかない。まだサッカークラブにははいっていないが、運動能力の高い、一希と同じ小学校の子どもたちの話をきくにしても、「〇〇ちゃんはね、センタリングが得意なんだ。いっちゃんが望んでいるところがどこだかわかって、そこにどんぴしゃにあわせてくるんだよ。やっているのは、空手だよ。〇〇ちゃんは、キックボクシングやってる。〇〇ちゃんは、レスリング。〇〇ちゃんは、英語の塾にいっているよ。この4人がいっしょにサッカーやったら強力なんだけどな。」――スポーツといえばみんなが野球をやっていたような時代、星一徹―飛馬親子のような父が子にスパルタ的に強靭な物語(「巨人の星」)を教えてきた時代……それが反面教師にしかならないという反省からある今の自分が、子どもにそれを反復できるわけもなく、またさせられるような環境ではないのである。サッカークラブに入っている子どもでさえ、様々な塾に通っている。そこでは、ボールを追うという動機自体を作っていくことがコーチングとなる。ゆえに、エリート的な専門技術としてサッカーを志向させる親たちがいる子供たちのクラブとは、差がついてしまう。かといって、その差を埋めるべく、サッカーという民主的育ちの若いコーチたちをだしおいて、かつての野球クラブのようなワンマン的な指導法を実践する気にもならず、なおサッカー小僧になりきれない一希にも、無理な自主トレでしごこうとも思えない。いや自身の習性からは、そうやってしまうのだが、すぐにこれではだめだと目前の現実認識がおこり、修正につぐ修正で、かつてのワンマン教育からは後退につぐ後退のような試行錯誤がつづくのだ。そしてこっちがそう後退戦をしているのに、わが女房はこりずに突撃をつづける、甘やかしてはいけない、と。元旦早々、見れない夢の続きのように、九九の暗記ができない子どもを女房は足蹴にしはじめる。いい加減私は耐え切れず、女房を突き飛ばすと、「こんど足蹴にしたら、俺がおまえをぶんなぐる!」と宣言する始末。まったく、「リトル・ピープル」な時代である。

しかし、そんな時代を超えて、革命(=民衆・日常)はやってくるのだと私には思えるのだ。それは宇野氏が期待するような、内側からの変革としてではない。外部からの、戦争的な事態としてやってくる。この日本でも、暴動はありうる。一希は、いつもふざけているようにみえる。クラスの係りも、お笑い係だという。私は、このふざけが、真剣さと裏腹であることを洞察している。(子どもは、すべてをギャクにしてしまえる能力がないだろうか?)。どこか、マラドーナみたいだ。クラブチームに子どもをいれるのは、真剣さを学ぶためだ、というのが親としての私の言い分なのだが、真剣になる時とふざけていい時とのヒエラルキーを決定するのは、その基準とはなんであろうか? ふと私は思い出す、まだ5歳ころの街の祭りで、近所の公園の噴水の中に、真っ裸になって風呂のようにつかった一希をみて、母子家庭のヤクルトおばさんが、「ここまでやらしちゃ駄目なのよ! 親がとめないとだめなのよ!」と叫んでいた場面を。歯止めのきかない世界……それは理念的な日常とは似て非なるものだが、その暴力がリセットさせた世の中に、偏差としての理念が反復されて刻印されている……つまり、意識的には反復しえないが、無意識にそうしてしまうものとして、それは実現される。ならば、意志的には、人は無力なのだろうか? なんとか、できないのか? 私が、震災後のここ数ヶ月、苦虫を噛んだようにどこかイライラしているのは、おそらく、そんな思いにかられているからである。もちろん、私の認識態度が正当であるかはわからない。だから、以上のように、より若い人の著作を暇あるときに読んで、自己の内で議論を闘わせているのだ。その自信のなさ自体が、「リトル・ピープル」であることをあかすとしても。