2010年8月6日金曜日

サッカーと構造


「ここまでは、いわばサッカーの準備期間と考えていい。テクニックのベースができて、その使い方も覚えた子供たちは、次のステップを踏み出すことが可能になる。それは「サッカーを読む」というトレーニングである。もちろんFCバルセロナ(バルサ)のカンテラ(下部組織)時代にも、テクニックを磨くトレーニングがなかったわけではない。しかしそれはウォームアップの段階や、トレーニングの最後に組み込む程度で、あくまで重きを置いたのは「プレーを読む」、つまり状況判断を磨くことだった。」(『史上最強バルセロナ 世界最高の育成メソッド』 ジョアン・サルバンス著 小学館101新書)

たいがいの植木屋さんは、剪定残材をトラックに積むのに、荷台にコンパネを立て、箱のように囲いを作ることで対処している。そのコンパネを縦に使うか横に使うかはまちまちだが、縦使用は荷重に押されてコンパネが倒れてくるのを防ぐためにロープで巻いたり、その高さのために後からしか積めなくなるという面倒がある。横に使う場合、ゴミの集積状況に応じて、コンパネを上にスライドさせていかせることになり、状況判断を怠ってそのままにしていると、荷の圧迫でもうコンパネがあがらない。律儀な職人さんは、そうあがらなくなるまでよく残材を踏圧したほうがたくさん積み込めるのだ、と無理やり若い人にさとしたりしているが、あげてから踏んでもかわらないだろうに。いつもうんうんうなって苦労してあげさせている。私は馬鹿馬鹿しいので、若者には、早めにあげておけ、というのだが、むしろ若者はそのちょこまかな判断が面倒なので、コンパネをあげるのを怠って作業を続けてしまう。すると、もうあがらない。黙ってそのまま仕事をつづけている。そのままではろくな分量が積み込めずにゴミが溢れてしまうので、自分が荷台にのってこの野郎とばかりにコンパネを引き上げようとすると、バキッっと、腰のほうが折れる音。そのまま残材の上に仰向けに倒れて、身動き不能になってしまった。

このぎっくり腰のおかげで、しかしW杯のテレビ観戦はよくできた。仕事は休めないというので、明日仕事でも、横になって寝ると、起き上がれなくなるので、一週間、椅子に座って寝た。寝れないので、テレビをつけて、深夜や早朝のサッカーを観ることになる。パラグアイやウルグアイの試合をみていると、夏の甲子園みたいで、選手の必死さがよく伝わってきて、面白い。がスペインの試合となると、眠くなってきてしょうがない。弱者がカウンターの一瞬にかけるのは素人目にもわかりやすいし、物語性があって興奮もするが、パスサッカーとなると、とにかく単調で、ハイになる場面が素人目にはつかみにくい。もともと、点取りゲームとはなりにくいサッカーはそうなのかもしれない。私が中学生の頃だったか、東京12チャンネルで、週に一度の夕刻、ヨーロッパのサッカーを一時間ばかり放映していた時期があった。あの緑の柴の上を、ボールがゆったりとあっちへいき、こっちへいき、スタジアムでは、当時もブブセラの音だったのだろうか、眠気を誘うを間延びした笛の音が響いていた。それは不思議な感覚だった。退屈なのだが、言い知れぬ快楽がある。

「サッカーしているのに、どうして戦争があるの?」と、W杯での日本の活躍に、少しづつサッカー小僧的な熱意を示しはじめてきた息子の一希は、そう尋ねてくる。戦争していて、サッカーの試合にでれなくなる場合もあるんだよ、と状況証拠的な解説しかできない自分がいる。サッカーをみていると、どうしてもローマ時代のコロッセウム、パンと見世物、というヨーロッパの歴史を思い起こしてしまう。実際、チームは大金持ちの所有物であったりする。選手が、スタジアムで闘わされる妾にもみえてきてしまう。カメルーン出身のエトーは、財団を作って地元の貧しい子供たちを支援している。メッシも、難病を抱えた子供たちを助ける財団を作っている。日本の中田氏も、団体を作って世界中の貧しい子供たちにサッカーボールを配りながらその地域の活動を助けている。私には、氏がブランド品を身につけた格好で、さっそうと被支援者のもとへ赴く姿は、ほんとうに偉いことなのかと疑問もわくし、マイクロソフト社のビル・ゲイツの、資本構造に寄生した慈善的偽善のようなことを、オーナーにかわってサッカー選手個人が代理しているような構図だな、とも思うのだけれど、個人の活動を構造に還元してもしょうがない。その個々人の純真さがなかったら、構造も変えられないだろうから。

腰が治ってくると、仕事もなくなってきて、今度は休んでいい、となる。ずいぶんと都合のいい話だが、そういう構造にのっかっているのだから、そこでジタバタしてもしょうがない。むしろこの時を有意義に使って、構造から出られる次の領域へ繋げていこうとすることだ。若い人は早まって、早急な判断をくだすかもしれない。中田氏がスペインのシャビ選手を評価していったように、「(周囲をみるための)首を振るタイミングがいいんですよ。疲れてくると、まわりをみなくなったりするんですが…」――そのちょこまかした動きをつづけ判断を怠ることを自制できるのがベテランの技なのかもしれない。私はどうも、もう若い人を気にかける余裕がなくなってきている、というより、どこか見限っている判断をくだしはじめているのかもしれない。

が、子供たちは別だ。バルサのカンテラのコーチだったサルバンス氏は、日本のスカウトができがった人材を探して「補強」しようとしているのに対し、ヨーロッパのスカウトは、公園で草サッカーをしている子供たちをみつけ育てることを目指している、という。できあがった人を変えるのは無理だ、そしてできあがった構造を変えていくには、まだできあがっていない子供たちを育てていくのが、回り道なようで近道なのではないだろうか? つまり、「サッカーしているのになんで戦争がおきるのか?」、そんな子供の疑問に、こちらもが一緒に考えていけるような共存条件を作り、維持していくことではないだろうか? そうでなければ、子供はいつしか自分のような大人になり、大人の自分は相変わらず、のままだろうから。