2010年6月26日土曜日

W杯、理想と現実


「例えば野球ではWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)において、日本はアメリカに勝利した。私にとっては、これは想像を絶する結果だった。しかし、サッカーでは、日本人の成長は停滞気味で緩やかである。それが彼らを悩ませている。まだ、バスケットボールの世界でもNBAに肩を並べるほど強くなることは難しいようだが、サッカーでならば、日本人は野球と同じようにできるはずなのだ。(イビチャ・オシム著『考えよ!――なぜ日本人はリスクを冒さないのか?』 角川oneテーマ21)

「ゴールまえで立ってるのよ。もっと守らないとだめでしょ。」と女房、子どものサッカー練習を見ていて一希をそうなじりはじめる。小学生のグループに入りはじめて、6年生をおさえて6試合で5得点と得点王、ゴールの味を覚えたのか、走ることが少なくなる。私が見ていたときもそんな様子だったが、先輩たちもストライカーとして信頼しているのか、「イッキ!」とパスをだしてくる。その横で、ああだこうだと女房が騒いでいるので、私はうんざりしてくるのだが……。まず、自分で考えること、幼児の頃のボールにわあ~っと集まっていくだけの動きとは変わってきたのはその証拠だ。ここにいれば、一番シュートできる確立がたかい、と自分で発見していったのだろう。それは、ゴールする喜びを覚えたからだ。そこから逆算して論理的に演繹しはじめている、ということだ。そういうサッカーには特に必要な論理思考を自己訓練しはじめてきているのに、いきなりああやれこうやれと指図するのは、それこそオシムが日本サッカーに求めた、「考えて走る」力を削いでしまうことになる。そのうち、そんなオフサイド(待ち伏せ)攻撃でもゴールを決められなくなるに決まっている、そのときどうするのか、と自分でまず考えさせることが重要なのだ。ゴールが目標(論理の帰結)なのだから、まずその喜びを知らなければ、そこに展開させていかせるイメージ力がはじまらない。周りの親たちのまえで自分の息子が楽していることに親が耐え切れず子どもをなじり、いい子にさせていかせようとするのは、それこそ日本サッカーが反省し、なんとかこの文化的癖を是正していかせようとしている方針に逆行していくことだろう。
最近の朝日新聞のアンケートでも、日本のサッカーにストライカーがいない、とか、決定力がない、とか見られるものを、自己主張しない、とか、出る杭は打たれる、ような日本の文化的な習性からきている、とみている人たちが多い、と知られる。私もとりあえずはその前提認識を共有するが、だから無理、諦める、という話になるとは思っていない。オシムは、なんで日本のプロ野球が世界一になったのかは「想像を絶する結果」だと述べているが、まさに封建的に愚直な野球界のほうが、サムライ魂が濃厚だからだ、というのが私の見解だった。しかし、それは本当の強さだろうか? 岡田監督自身が、野球部にある、先輩に対する問答無用な緊張感、その厳しさに耐え切れないでサッカー部に転向したとしても、その弱さから少しづつ強くなっていくという民主的な手続きと緩慢さにおいて、本当の強さが培われるものではないのか? と野球部での私は反省した。だから息子には、自分のような「奴隷根性」を身体化させられるのではなく、自分で考え意見を言える強い大人になってほしく、日本ではまだましなサッカーを選んでほしい、ということなのだった。そして、今回のW杯、日本チームを見ていて、そんな強さへの進歩が見られたことが、私にはなによりもうれしかったのだ。そこには、封建的な伝統ではなく、民主的な伝統が作られはじめている。カメルーン戦での解説者の山本氏は、これまでの蓄積がこの結果を生んだことを強調していたが、私も同感だ。サッカー自体は、決して強くはなっていないだろう(まるで優勝したかのような選手とサポーターというか国民の喜びようをみていると、次のパラグアイ戦でそれが証明されてしまいそうだが……)。しかし、これまでのW杯での負けが、サッカーを知っている、という経験知的な領域にフィードバックされているようにおもう。

稲本「役割分担が明確だから、みんな落ち着いていた。見る方は冷や冷やだったでしょうけど」
遠藤「カメルーン戦は、球を奪っても焦って縦にけり返すばかりだった、もっと落ち着いてパスをつなぐことも必要だった。オランダ戦に向けた修正点になる」

今ちょうど、決勝トーナメントに進出した韓国がウルグアイに2-1で負けた。対アルゼンチン戦をみてもおもったことだが、技術的に両者にそんな開きがあるようにはみえない、が、サッカーを知っている、というレベルにおいて、質的な差があるのではないかと思えた。野球でならば、それを知っているチームとそうでないチームとの差は、端的には走塁に現れる。リードの仕方ひとつでプレスをかけてくる。隙あらば走ってくる。そうやってミスを誘うのだ。プロともあらば守備側もそれに対応しているとおもわれるが、5月の日本プロ野球交流戦、ヤクルト対ソフトバンクを神宮球場でみていたら、ヤクルトのセカンドがずれていた。盗塁で二塁に進塁したランナーを背負って、バッターは一打席目に本塁打を打っている4番打者。遊撃手の宮本は、芝生の切れ目を越えた深い位置についている。ランナーを牽制するのはセカンドの役割、とはっきりさせるのはいい、が、その二塁手の守備位置が、半歩一塁よりすぎるのだ。せっかくシフトをしいて打者にプレスをかけようとしているのに、それでは半端になってしまう。だから、最初は小さいリードのランナーが、ピッチャーが投げようとするタイミングを見計らってさっと大きくとる。集中の切れる投手はカウントを悪くして、ノーツーから一打席目と同じ放物線を描いた逆転のツーランを打たれてしまう。原因は、セカンドの位置取り半歩不足と、それを見逃さなかったランナーのプレスの技術である。つまりそういうところに、野球を知っているかどうか、という差がみえてくる。韓国のサッカーは(日本をふくめて)、この意識的な微妙さを欠いたマニュアル的な攻撃にみえてしまうのだ。それに比べ、アルゼンチンは臨機応変に多彩であり、ウルグアイは明確だった。この差はどこからでてくるのだろう? 幼少の頃からボールを扱っている条件は変わらないだろうから、いわゆるボールコントロールの技術の差ではない。ではなにか? 私は、伝統(経験知、モデル)のあるなし、だとおもえた。ジダンは子どものころ、団地の空地での草サッカーで、単にゴールを目指してボールを蹴っていたわけではなかった。「俺はトッティだ」とか、フランスのヒーロー選手に皆が振り分けられなりきって、その役割をなぞるようにフォーメーションを組んで遊んでいたのだ。私は、この遊び方の違いが、サッカーを知っている、という微妙な態度技術に刷り込まれていくのだとおもう。スペインのバルセロナの指導方針でも、この実践的な技術を意識的にトレーニングさせているようだ。それに比べ日本の練習は分割的であり、子どもの頃から役割(大人)的にやらせると、女房のように、不平等感に苛まれて、親から文句がくるかもしれない。しかし、このワールドカップで、本田が、遠藤がみせた。子どもたちは、「俺は本田だ! 遠藤だ!」とその役割になりきってボールを蹴り始めるかもしれない。そうした経験が、重要なのではなかろうか? そして実際、中山を尊敬する岡崎の対デンマーク戦三点目は、中山のW杯初ゴールにどこか似ていた。しかし、カメルーン戦後の遠藤が自省するように、あるいはオシム氏が指摘したように、決して質のいいサッカーではなかったろう。本番前テストマッチの対イングランド戦でも、解説者のセルジオ越後氏はなんでここで後にパスをだすのかと、遠藤の選択を疑問視していたが、なお無理だったのだ。世界の強豪相手には、中学生レベルのクリアでしかピンチをしのげないサッカーの程度なのだ。岡田監督の後退した決断は正しかったことになるだろう。おそらくその壁を超えるには、遠藤のマイペースを取りもどす選択(鍛錬)よりも、それで試合の流れを変えられる程度の差ではないのだから、むしろ相手の流れの中にとびこんで、がむしゃらに泳ぎきっていくしかないのではないか? 海外でプレーする選手にはそれがみえているようにおもえる。私は、日本から出ていない遠藤や、日本サッカーのエリートコース出身第一号とされる阿部選手の活躍を面白くおもうけれど、なお理想とするサッカーをやれる現実的条件を勝ち得ているようにはみえない。

だから、国民が終わってもいない大会にはしゃぎすぎるのはどんなものかとおもう。日露戦争に勝った日本が現実を見失って妄想の世界に突き進んでいったように、勝利が歪曲された習性を、似非文化や似非伝統を身に染み込ませることもあるのである。