2012年2月23日木曜日

腰痛とともに

「本書の一番はじめに、「寝相」について触れました。寝相にも人それぞれに「癖」があり、疲れ方も人それぞれです。寝ているときには、局部的に疲れがたまり無意識のうちにとくに緊張しているところが、ゆるみやすい体勢になろうとする。/このそれぞれの疲れのパターンを野口さんは「偏り疲労」と呼びました。/それぞれの人が集中したり緊張したりするときの、姿勢・動作のバランスのとり方に違いがあるために、疲れ方にも「偏り」が生まれるのです。/腰椎は五つありますが、そのなかにとくに姿勢や動きの焦点になる腰椎があります。/人によってどの腰椎をとくに使うかという「癖」がある。それぞれの腰椎の運動特性が、身体のさまざまな働き――内臓の働き方やさらには心の動きの傾向や特性にもつながっていると見通したわけです。」(片山洋次郎著『骨盤にきく』 文芸春秋)
木から落ちて1年がすぎた、ということになる。まだ痛みがあるので、最近起きたこと、という事実を確認できるのだが、もうだいぶな過去のような気分のうちにいる。しかしそれは、忘れられるような、遠い話になったというわけではない。以前と同じような心持ではもう作業はできない。今年にはいっての東京都は中野区の街路樹剪定で、人がひとり木から落ちて死んだそうだ。役人たちは、安全帯を二つつけさせるだの、昇り降りするときにもつけながらを徹底させるだのと、なおさら事故の確率をあげて統計上は隠蔽させる形式的な対応にてんやわんやになっているんだそうだが、昔のようにヘルメットをかぶらずに男気試し、みたいな環境ではないのだから、過剰な対策は人災を引き寄せるだけだ。立って歩く人はつまずく。そういう確率で、事故をゼロにするなんてのはできやしないのだから、役人(責任者)が努めるのは、安定した作業環境を維持し、事故に騒ぐことではなく、腹を決めることだろう。そして起ったことは起ったこととして、その後のケアをきちんと保証することだ。しかし、原発事故後の労働環境と官僚対応を筆頭に、もはやそんな肝の据わった現実対応はどこかへ追いやられてしまったようだ。ならば、一介の労働者として、どう身をまもっていけばよいのか?
骨折した足の痛みは、今年にはいってとくに消えていっているのが実感できる。寒くなるとうずく、とかもいわれていたが、そんなこともない個人的特性なようで、私の足は全快するだろう。子どもとのサッカーでも、ほぼ差し障りなく一緒にできるようになってきた。だからそれよりも私が気がかりなのは、腰痛のほうである。一昨年だか再発したのがやっとなおってきたとおもったら、またちょっとしたぎっくり腰になって我慢生活を強いられている。骨折した私に代わって、高木の剪定作業をやり遂げてくれた団塊世代の職人さんは、その作業終了後すぐに入院し、腰の手術を受けた。腰痛とは縁のない活気な人だとおもっていたら、そのまま術後も回復がかんばしくなく、1年たった今でも復帰の目処はたっていない。仕事量も以前ほど多くはないので、そのままリストラを勧められているようなものでもある。この慢性的、日常的な事態のほうが、実はどうも深刻なのではないか? 事故はおこる、注意していても、魔がさすことは防ぎきれない。それはしょうがないと諦めもつき、頑張りもやりなおせるが、その底流に常に潜んでいる、持続的、蓄積的な痛みにはどう対処したらよいのか? 大震災のあとで、日常の貴重さを思い知らされたというが、私も、大骨折のあとで、腰痛の深刻さを思い知らされた、というべきか。そしてしかも、この腰痛の在り方が、その人個人の「身体のさまざまな働き――内臓の働き方やさらには心の動きの傾向や特性にもつながっている」というのが冒頭引用著者の言葉である。私の感受性、思考、行動の型が、私の骨盤の型によって規制される、というのである。だから整体的な実践としては、その「体癖」を知って、その部位の腰椎をやわらかくしていく体操が大切、ということになる。
私は野口整体の影響を受けた片山氏のその考え方にリアルさを覚えるが、いかんせん、自分がいったいどんな型の種類にはいるのか、判然としない。当初は腰椎3番に負担がかかるものかな、ともおもったが、腰椎1番や5番の種類にもおもえてくる、というか、どれもぴんとはこない。なかなか診断が素人には難しい、ということか。最近はスポーツでも、4スタンス理論とかいって、一つの教え(投げ方、打ち方)を誰にでもあてはめていくこれまでの指導法と違った、その人個人の筋肉特性の型に応じたやり方を肯定していく方法論がでてきたりしているが、私もその考え方に賛成だ。というか、きちんと洞察力のあるコーチなら、野球ならバットグリップの位置を肩の位置にとかの、正統的なスタンスを押し付けていてもその子にはだめだ、とかの認識が生じるはずである。自然な感じがいい。大リーガーのフォームをみよ。みな個性的ではないか? 無理は、スランプの周期を早め、怪我を誘発するだろう。怪我(事故)は人を落胆させ(ゆえに逆に頑張りを反発させる)。が腰痛は、むしろ人の意識を集中させる。それは高揚ではないが、なにか、人の生活や生き方を少しづつ変えていかせるような、微妙な偏差を私にもたらしくてくる。ならば、日常的な腰痛自体が、骨折後に現象されてきた官僚的な社会振舞いへの地に足着いた抵抗感覚になってくるのではないのか?
今日は雨で、仕事は休みだ。以前は、それは天の恵み、という感じがした。しかしあの大震災・原発事故後、もはやそれが同じ雨ではありえなくなっている。同じ自然現象としてあのときのシュールさをよみがえらせだぶらせてくる、そんな潜在意識を透きこまれたようなのだ。しかも、4年以内に東京直下型70%以上などと脅されている。窓からみえる雨模様が、自分をほっとさせない、奇妙な身構えを実感させてくるのだ。これが日常なのか? これは、日常なのか? 椅子に座った腰の痛みに耳をすましながら、その真贋をさぐっている、そんな私の感じが、パソコンのキーボードを打つ動きとともに今ある。