2008年12月12日金曜日

金融危機と資本主義と<私>たち


「夜明け前が一番暗いというのは、今の難局が循環的なものだという考え方です。しかし今回の金融・経済の危機は、ひょっとしたら循環的ではなく、歴史の転換点かも知れない。金融や経済だけではなく、社会的、政治的、あるいは文化的な転換点かも知れないという思いがぼくにはあります。生き方や価値基準が問われているということですね。特に、金銭的利益以外の価値が問われている気がします。また政治的、外交的にはアメリカの覇権と基軸通貨としてのドルにどういう変化が起こるか、注意が必要でしょう。
循環的ではないと仮定すると、5年後、10年後の自分をイメージして、今を考えることが重要になるかもしれません。広い意味での投資感覚、みたいなことです。10年後のために、自分のどの部分、どの資質、どの技術に投資するのか、ということかな。滝に打たれるみたいな精神論じゃだめですね。ミもフタもなくスキルやキャリアが問われている傾向はより強まるので、投資という言葉をもっと広く捉えて、自分自身を含めた資産価値を高めないと。」(村上龍・朝日新聞朝刊2008/12/09「朝日ネクスト」全面広告より)

上の引用は、シティーバンクやらソニー銀行やらが集まって、円高株安で危機状態の今こそ投資をしてもらおうと金融機関共同の折込広告に掲載されたものである。お金の投資話ではなく、むしろ実存的な自己投企の話で作家の村上氏は返答しているのだが、私はこの態度を、イロニーの最終形態は真面目である、というものとして面白くおもう。また私自身、村上氏のように現状認識し、将来的なスタンスをとる。ゆえに、今日も一時、90円を割り込む円高が進んだようなので、円安のとき円に還元していた円利益でドルを買い替えして、98円で投資金額が回収でき100円になればこれまでの利益20万円が確保回収できるから、その時点でまた円を買い戻す、という戦術でいこうか、とかさっき考えたが、やめにした。理由は、はした金で面倒くさいことをしたくないし、日本バブル以後の為替チャート図をみてみても、来年そうそう1ドル=100円になるかもあやしそうだからだ。さらなるリスクを背負って投資し現時点での損失を回収しようとなんてケチな考えをおこすよりも、ほぼプラスマイナスがゼロになるあたりの相場なら、いったんはさらなる円高が進んでも、また戻ってくるだろう、そのとき解約、という時点では、まだシティーバンクはつぶれてはいないだろう……と。で、おろした金で買い物をしよう、それは、自己投資(=投企)のために。

といっても、いま41歳の私の10年後というのは……今日も、高い樹木、というか、他の造園会社がゴンドラユニックを使って変に手長ザルのようにしてしまった、つかまる枝のないケヤキをハシゴひとつでよじのぼっていく剪定作業をしてげっそりしているが(無事生還できてほっとする)、植木屋さんとしてまともに体が動くのは、55歳ぐらいまでだな、というのが感想である。だいたいそれくらいで、高木は無理だとやめる人がおおい。民間手入れ専門的な親方はべつ、低い木を選べるから。となると、もうこの歳では、専門のスキルで生きよう、というのは手遅れ、だろう。しかし私には、あとの世代に残しておきたいものがあるような気がするのだ。そして、40歳を前にして結婚し、息子もできた。私が知っているのは、この時代だけだ。知っているとは、予測する資格はある、ということを含む。逆に言えば、10年後の世界について、私は語る(参加する)資格を失うのである。それは、古典となった作品を、その当時の気持ちで読むことはできない、という誠実な態度(前提)と同等である。おおざっぱに言って、<私>たちは近代人であり、何百年か続いた資本主義システム下で自我や欲望を形成されてきたものなのだ。が、これからの子どもたちはどうなるのだろう? 息子の一希は時代(システム)の転換期にあたり、中年以後、新しいシステムに入っていく、ということになるだろう。

< さらに、A局面、B局面というような景気の循環が、長期的持続のシステム(資本主義システム)の移行期とも偶然一致しています。そのことが、状況をいっそう悪化させているのです。
 実際、私はこの30年間で5世紀にわたって続いてきた資本主義システムが最終段階に入ったのだと考えています。これまでの景気循環における様々な局面と、現在の局面が根本的に違うのは、資本主義はもはや、物理・化学者のイリヤ・プリゴジンがいうところの“システムを作る”ことができない状態になっているという点です。あるシステムがそのような状態に陥ると、生物学的、科学的、社会的な変調をきたすことが多すぎて、均衡に戻ることができず、岐路に立たされることになるのです。
 そうなると状況は混沌として、それまで支配的だった力ではもはや世界を統御することができなくなり、“闘争”が始まります。それはシステムの支持者と反対者の闘争ではなく、むしろ次のシステムを決定するためのプレーヤー全員の闘争となるのです。“危機”という言葉はこうした場合にこそ使われるべきだと思います。今、私たちは“危機”的状況にあり、資本主義は終焉に向っているのです。……(中略)……
 10年経てばもう少し状況は見えてくるでしょう。30~40年後であれば新しいシステムはすでにできあがっているはずです。そのときのシステムは、平等で再配分ができるものではなく、今の資本主義よりもさらに暴力的な搾取のシステムとなっている可能性もあります。>(イマニュエル・ウォーラステイン発言・『クーリエ・ジャポン』2008/12月号)

<私>たちは、「資本主義(金融危機)」以後の世界(世代)へ向けて、どのような「自己投企」ができるのだろうか?