2020年12月28日月曜日

植木手入れをめぐって

親方のモッコク
私のモッコク

年末の庭手入れで、久しぶりに、親方がずっとみていた植木にのぼって、整枝作業をした。親方の手入れしてきた庭木のあとを手入れするのは、難しい。抜く枝がないからだ。必要な枝だけで、シンプルに整枝されている。一年の間では、枝の発生や伸長も抑えられてあるので、なんとなく伸び、なんとなく混んでいる枝を抜き、詰め、透いて木漏れ日よりは少し光の多い加減で、均等に整枝していくのがむずかしい。今回の木はヤマモモだったが、モチやモッコク、マツといった手の込む庭木は、そうなる。ツバキも、そうなるな。団塊世代の職人さんが切った植木は、次の年にも無駄な枝がたくさん生えてくるので、抜くのはたやすい。というか、どう木を仕立てていきたいのか、その意図がみえない、というか、ない、のだろう。あったとしても、手元に次に使える枝を残しておく、といったマニュアル的な反応だけで、しかも、その残した枝の、先と手元の枝との奥行き感や、芽の左右への方向的なバランスなど、伸びてきたら使えないだろうな、と私などがおもうものがおおい。だから、毎年ばさばさと切り返しの剪定になる。木が、単純問題になって、解答が、簡単すぎる。おそらく、直観的にやっているのだろう。一方、親方のは、論理的だ。翌年その木に登って、その論理をみつけ追いながら、思考訓練してきて、いまはほとんど初めから自分で切り始める腕前になってもう20年以上になるわけだが、久しぶりに、親方の跡をうまく切り抜けられるか、と緊張した。結果は、まだ駄目、だ。すんなりいかない。抜く枝が見つけられないケースが多いので、不用意に手数が多くなって、細部がゴテゴテしてくる感じになる。どれを抜けば、すぱっと解答が得られるのか、親方のようなシンプルな複雑性が縮約されるのか、うまく解答をみつけられないままだった。

来年の私が手入れした木は、ちょっと混み過ぎているだろう。木の伸長は、抑制、制御されてはいるだろうから、根が水を吸い上げる収入と、葉が蒸散していく収支のバランスはとれているだろうが、形として、すっきりしていかないだろう。

翌日には、私がここ数年やってきたモッコクを(もちろんその前は、親方がやっていたわけだが)、親方がやることになった。私はその翌日、マンションのエントランスをはさんで植えてあるもう一本のモッコクを例年どおりやったのだが、それも、なかなか、親方のようにはならない。せめて親方が切り捨てたゴミを見てヒントをもらっておくんだった、など初心者みたく後悔し、『なんでだ、ちきしょう…』とおもいながらやっていると、三角脚立の下で、こちらの手入れの様子をみている男性に気づく。私のカンで、建築の設計者だな、とおもえる。目が合うと、自然樹形とは、みたいな話になって、自宅に「クマシデ」を植えた、と話してくる。放っておけば、そうなるかと切ってないのですが、と言う。「井の頭公園ですね?」と私が質問する。相手はびっくりして「ええ動物園のほう…なんでわかるんですか? やっぱり、あちらの植木屋さんですか?」と聞いてくる。「いやすぐそこの、近所ですよ」と返事しながら、この設計者が、どんなイメージをもっているのかが頭に浮かぶ。まだ四十前後と若いから、子どもの庭も考えたのだろう。遊び空き地のなかに下枝が邪魔にならない樹木、そして黒いクマのような幹肌に垂直に近いストライプの模様が地と空に走る庭(井の頭動物園の森のイメージだ)……「日本の狭い庭では、落葉の高木は、むずかしいいんじゃないですかね。」

でかくなる木を、どうやって抑制していくか、その制御が、日本の植木屋の技術的な要諦になる。盆栽を、実地でできるのかどうか。ミクロな現象を、マクロで生かせるのか、となると、量子論になってしまうが、実際、なんで木のてっぺんにまで、根から吸い上げた水が上昇していくのか、は謎だ。本によれば、葉の蒸散作用、木の呼吸、とか説明があったりするが、ならば、なんでまだ枝葉が生えていない、冬から春先の樹木を切ってみると、幹からどばっとあふれるような水が漏れてくるのか、説明がつかない。まだ、光合成ははじめられていないぞ(呼吸はしているだろうし、人間の呼吸にも、量子現象があるかもしれないという説もでてきているが、それは置いておこう)。だから、まだ謎のままだ、とあった本の一説のほうが正しいのだろうと、私は判断している。が、電子(根から吸い取った水の、あるいはカリウムとかいった放射性物質に近い栄養分の陽子や中性子だとか…)といった、量子が関与しているだろうな、と想像している。量子もつれの、バトン・リレー、波動レベルの粒子が、収束を連鎖させて、いわばテレポートの数珠つなぎで、上に運んでいるのではないか、と予測している。その冬から春へのスイッチの入力も、量子現象が関与しているのではないか。量子時計だ。

となれば、植木屋さんのローカルな身体技術も、原子力と同じで、どう、その人智を超えた量子の振る舞いを制御していくのか、といったフォースの技なのかもしれない。原子力は窯底からの挿入棒操作で、コンピューターは半導体で、量子制御しているとしたら、植木屋さんは、剪定バサミや、素手そのもので、だ。私は普段、腰痛予防に杖をついて歩いているが、いざとなれば、スター・ウォーズのマスター・ヨーダよろしく、杖がなくても平気なのだ。

年末年始に向けて

ようやく仕事もおわり、年末年始へむけて、準備にはいる。

図書館で量子論関連のを借り、本屋にいき、ジャーナリズム関連の本を買ってくる。副島vs佐藤対談『ウィルスが変えた世界の構造』(日本文芸社)、佐藤vs手嶋対談『菅政権と米中危機』(中公新書ラクレ)、橋爪大三郎『中国 vs アメリカ』(河出新書)。

米大統領選では、投票機をふくめ、それなりの不正があったことは確実、と、オリーブの木の党首が、Youtubeで流している。だとしても、誰がなるかという個人をこえて、国家の意志のほうが強い、と上の識者の間では了解されているようだ。まだ読んでないが。

コロナでは、変異のことが世情の話題になっているようだ。一度に12か所、全部で28か所だかの変異部分が発生するのは、自然ウィルスではありえないのでは、という意見もでてきているようだ。新型ウィルスならぬ新型ワクチンにせよ、どうも物質の量子レベルでの関与・振る舞いの操作が要になっているのではないかと、私は推測している。開発途中の量子コンピューターもそうだが。原爆は、高エネルギーの粒子(物質)の性質を、RNAワクチンや量子コンピューターは、そうでもない粒子(波)の振る舞いを利用しようとしているようにみえるが、その制御が、人間に、本当にできるのだろうか? ヒト(生命)が認識するというレベルで取り違え=無理解が発生するのだし、数学とは、生命の認識を単純化したものだろうから、数式の解答が確率的に妥当な線、使える範囲、理解できる範囲、でやってしまうということが、どんな誤解=惨事を引き起こすのか、と予想してしまう。

やるのなら、わかってからやってもらいたいたいが、グローバルに展開されるワクチンなりコンピューターが、他に先取りされたらグローバルな不利益を被るので、ぶっつけ本番並みで実行されていくとしたら、おそるべき新年の夜明けになっていきそうな。

2020年12月19日土曜日

新型ウィルスをめぐって(19)


私もチャンネル登録している「哲学系ユーチューバーじゅんちゃん」が、このブログでも肯定的に評価したといっていい、徳島大の大橋氏を陰謀論者として批判検討しているので、ウィルス・シリーズ(19)として、言及してみることにした。第三波といわれるものがやってきているところでもあるし。

 まず、大橋氏のコロナ・ウィルスに関する評価検討からいこう。

 私の理解というか、受け止め方と、じゅんちゃんのそれとは違うようだ。私は、「コロナ常在ウィルス説」、じゅんちゃんは、「コロナ存在しない説」、と受け止めているらしい。確かに、大橋氏は、当初「コロナウィルスは存在しない」とセンセーショナルなタイトルをつけていたが、話をきいていると、そういうことではない、と私はおもった。それは、日和見ウィルスとして、何かの加減で人に悪さを引き起こす場合がある、と。が、私の理解は他で言及しているので、ここではそれ以上追求しない。

 じゅんちゃんは、参照リンクをはっている「理系院卒の怒り」というnoteに連載されていた個人ブログを引用して、「コッホの四原則」をウィルスにあてはめようとする大橋氏の態度は、基礎的な間違い、素人並みだ、という意見を首肯する。が、そうでもないらしいことは、コメントでも誰かが紹介しているが、ウィキペディアをみると、そこは、大橋氏も見当はずれでもないらしい。

 また、コメント欄にあることだが、大橋氏のようなPCR検査に対する異議申し立て、そして中国論文に対する撤回運動も、初期段階に世界レベルであったらしい。私は、そのMedeical Tribuneなるサイトに登録などしてないので、読んではいないが、私がいいたいのは、そういう水準の反証がでてきたら、この分野での、専門での、大きくは、科学での、どっちが本当なんだ、という判断を、原則的に(専門家も専門外の素人性をもつのだから)、誰もすることはできなくなるだろう、という話になってしまう、ということだ。

 私は、じゅんちゃんが参照している「理系院卒の怒り」を、知的好奇心をもって読んだ。ちょうど、量子論をめぐる読書をしているところだし、量子生物学についてもこのブログで言及したところだから、「分子生物学」にも興味がいっている。翡翠さんは、大橋氏のやってることは「老害」であって、新しい知識や技術をとり入れて適応することができていない、ウィルス抽出作業でも、昔ながらの手作業レベルで今の水準を推論している。2月までだったらまあその説の該当性はあるといえても、5月の赤毛テナガザルだかへの感染実証の論文がネイチャーだかにのったあとでは、もう全く通用しない、嘘になる、……とう、いろいろ、ネタをあげて専門分野的に検証批判していく。で、PCR検査では、まずプライマリーという導入遺伝子の設計が重要なのだが、その新型コロナに対するプライマリー設計で、WHOが、基礎的な間違いをしている、と指摘し揶揄することにもなる。しかし、WHOの研究者は、若くて、優秀だろう。そういう人でも間違えるってことか?(だから、陰陽の結果も変わってくる?) となると、もう、私には、判断できない、というか、文学系ブロガーとしての私としては、「クレタ人の嘘」というパラドックス論理の問題を想起してしまう。つまり、「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人は言った」、ならば、そのクレタ人の発言は嘘なのか真実なのか? 「専門家がその事実は嘘だと専門家に言った」……どっちだい? が、私たちは、そもそも、実は、そういう風に真実を理解しようとしているのか? したいのか? いったいなぜ、翡翠さんは、分子生物学を選び、科学を志向したのか? 科学は、なんのためにあるのか? 専門分野って、なんだ? ガリレオやダヴィンチのときにはなかったみたいだが。なんで翡翠さんは、ブログに書いたの? それは、科学なの? 科学じゃないでしょ、ならば、大橋氏と、やっている営みは、おなじじゃない? なんらかの自分の信念みたいなものへ、科学事実をこえて、実践していこうとしているのではないの?

 *新型コロナのウィルスがきちんと抽出されているのかいなか、という問題でも、それは「分離/精製」されたのではなく、製造されたものだという反論があって、なお遺伝子ソースはわかっていないという話を、「In deep」のオカ氏がリンクをはっている。彼はオカルトがかった陰謀論支持者といえるだろうが、そこには科学的参照もあって、私は全面的には信じていないが、想像力をかきたてられる。

 大橋氏のアップしているYouTubeをみれば、コロナ以前から、いわゆる、陰暴論支持者であることがわかる。私は、陰暴論を否定しない。それは、副島隆彦氏が、世の中に出ている大人たちは、トップの話し合いで物事が決まっていくことをみな知っているではないか、と言っているような、そういう意味延長でだ。私は植木屋だが、そこから類推し、金額のでかくなる世界で、談合がないわけないだろう、とおもう。高校時代の野球部同期で、地元で一番の商業都市の役所で経理のトップをしている者や、WTCの崩壊をニューヨークで直にみていたという金融アナリストなどにさぐりをいれると、にやにやしてたり、よくしってるなあ、とかいわれたりする。もちろん、世界のトップレベルのお話合いのことなど知らないから、だいそれた陰暴論のあるなし判断などしようがないが、苫米地英人氏のようなその近い現場にいた者が、昔はウォール街の人しか知らなかったことが今ではだいぶよその人にも知れるようになっているとの発言を、現場の声なんだろうなと推測する。じゅんちゃんは、陰暴論とは、ものごとを結局はそこへ一元化、単純化していく目的思考だと形式化する。しかしだからといって、真実が相対化されたままの、複雑こんがらがったままのなんでもありでいいということではなく、普遍(的真実)を、目的(エンド、終末)にではなく、始めにもってくるということがいいのではないか、とマルクス・ガブリエルの説をとりあげたりする。柄谷行人を読んできた文学系の者の言葉で言いかえれば、他者(とのつながり=普遍、真実の共有)は認識論的な構えではなく、論理的な前提として必要なんだ、ということになろうか。そしてこの必要は、実践において、生きることの倫理として、ということだ。しかし始原となる普遍とは、いやもうここでは、事実是非を超えた真理ということかもしれないが、その、真理とはなんだ?

 ベンヤミンは、嘘は必要なんだと、『暴力批判論』でいっている。トランプは、嘘つきなのかもしれない、バイデン当選には不正などなかったことを知っており、自分が大統領でなくなったら、借金取りにおわれ、暴行罪で起訴され、亡命でもしなくてはならなくなっているのかもしれない。しかし、そんな個人の動機をこえて、自由という大義名分に藁をもつかむおもいでしがみつき、本当にそれを信じ、ジャンヌダルクのように、遺伝子そのままで人格変貌するかもしれない。あるいは、リバティ大学での講演をきくと、自分をアウトサイダーとして認識する確信犯像もうかがえるから、本当に、ジャンヌダルクになろうとしているのかもしれない。そしてそう、のぞんでいる人の波がある。その波は、陰謀論者の妄想などではなく、小手先の改革で自分のどうにもならぬ現実が変わるものか、という生活の実感=必要がつきあげているのでは、と私は観測している。その波にのって、陰謀論者が空想するトップからの大リセットではなく、下からのリセット、終末思想的な動乱が新型ウィルスの拡散と一体となってビッグ・ウェーブに発展するかもしれないと。いま、いや新年そうそう、私はそうなってほしくはないが、その波はくるだろう、こないわけないだろう、とおもう。トランプがいようがいまいがだ。ソ連崩壊、リーマンショック、9.11、など、まだ小さな破局で……これは願望なのか、現実認識なのか? いやこれまでの社会現実が、そんな願望をつくっており、その目的のない下々の終末論的な波動のなかに、ベンヤミンが肯定して指摘する「神的暴力」が挿入されてくるのではないだろうか?

 しかし私たちは、神の真理を、普遍的な真理を知らない。しかし真実はこっちだという信仰に根拠をおく科学的態度への従属とは、ニーチェが洞察したように(それが正しければ)、遠近法的な倒錯、しかも身体(生体)レベルでのカラクリにはまったままだということになる。ならば、事実是非をこえていく信念が人には必要なのだ、ということではないだろうか? 大橋氏の啓蒙活動とは、そういうものだろうと私はおもうし、その個人の信仰を、私はおちょくる気にはなれない。また、その信者たちを、じゅんちゃんのように、そういう人たちが一定の割合で存在することはなくならない、という生態的理解ですむ問題だともおもわない。ウィルスる(15)のブログで、私はかろうじて陰謀の可能性を認めたジジェクに言及したが、マルクス主義的な原理的思考を忌避しているらしいじゅんちゃんは、では、どうやって、現実に切り込むのだろう? 宇宙の真理を原理的に解こうとする態度は、量子の発見とその振る舞いの不可思議な現実をまえに、棚上げされた。その態度の行くつく先の一つが、原爆であったと、そう理解してもよい文脈があると、私は理解している。

 <古典物理学にとって、決定論と自由意志の間の矛盾が決して解決されないとしても、物理対象に対する量子的確率という形での決定論の喪失が、矛盾をなくしてくれるわけではない。それはあくまでも、誰も答えを知らない問題である。それが答えが物理の領域にあるような問いであるかどうかさえわからない。量子物理学、古典物理学、神学――いくつかの問いは永遠に解けないように思われる。>(『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』デヴィッド・リンドリー著 松浦俊輔訳 青土社)

 *この世界的な第三波の推移をニュースでみていると、確率的には低いと私は想定してきた、もしかして人為的ウィルスか、という気がしてきた。去年と同様、インフルエンザの入り込む余地がなさそうで。どちらも風邪みたいな自然同士なら、少しはせめぎあってもよさそうなのに。集団免疫も、中国からの亡命者が告発していたように、できない、って気配が。しかし、身近には実感も持てないので、本当にコロナ在るのか、という気もなくならない。翡翠さんは、その説を、提出されたとされている新コロの遺伝子コードの読解から、そこに人為を読むことこそ「不自然」と判断した。また、今の技術では、遺伝子の配列を人工的に操作・製造することは可能だとも言っている。私の知っていた範囲では、科学者のほとんどが、人為はありえない、今の科学技術では無理だから、というものだったが。しかしそう思われていても、アメリカの軍事技術はやったのだ、というのが、副島氏の見立てだった。 

2020年12月13日日曜日

量子論をめぐって(2)


前回ブログで、アメリカの新大統領に、トランプが再選されているアメリカと、バイデンが大統領になっているアメリカと、二つの世界が「並行」しはじめた、とニュース解説した「大紀元」というメディアに言及した。ウィキペディアによると、「法輪功」という中国での新興宗教的団体の参加者が実施しているメディアだそうだ。 弾圧を受けているらしいが、となると、これは、亡命政権的な活動なのだろうか? 日本でのオウム真理教との類似性を指摘している意見も散見したが、中国の歴史をかんがみると、そう社会学的単純さで比較はできないだろう。中国での動乱、革命は、道教的なものと結びついた大衆運動がかかわってくるのが、常態的ともみえるからである。そんな運動が、トランプなのか、トランプ的なるものなのか、を支持している。

日本でも、Youtubeなどが、トランプ賛辞的な報道を削除禁止する方針の報道から、その弾圧が、かつての左翼活動家たちの「転向」問題とパラレルであるかの感として受け取られ、発言されているのが見受けられる。彼らの多くは、一概には、右寄りな言論家、とされている。というよりなにより、トランプ自身がなお権力をもった保守派の大統領なのだから、なんだかよくわからない転倒した事態が起きているとするのが、客観的な見方になろう。いわば、日本におきかえたら、総理なままの安倍晋三とその支持者たちが、メディア弾圧をうけて、転向か沈黙を強いられている、そんな世界が到来しているようなものだろう。

私自身は、今回のアメリカ大統領選、不正があったと解釈するのか常識的だとおもっている。正邪、事実是非の判断は、しようがない。郵便での不在者投票のほぼすべてがバイデンになるなら、郵便物がとどくまえでも、バイデンが優勢であってもよかったとするのが、統計的な確率の現実に依拠することになるのではないか、とおもうからだ。そう選挙中に意見表明した、アメリカの経済学者もいたそうだ。数学的現実にそぐわない結果だ。もちろん、それくらい、トランプは圧倒的に嫌われていて、そういう人たちこそが郵便投票を選択した、という偏向行動も、確率的にないわけではないだろう。量子が、壁を突き抜けて、トンネルしていく確率もあるように。最初に開封されていった用紙に、トランプと書かれたものが偏っていた、という現象も、ありえないわけではないように。選挙が正当だと解釈する人たちは、この偏向した低い確率の現実を観測したわけだ。

私は、この結果を、素直に信じるわけにはいかない。しかしかといって、トランプが、貧しい(白人)労働者たちのために、エスタブリッシュメントに戦いを挑んでいる、というイデオロギーも、突然発生したような、トランプ自身が選挙のためにとった大義名分にすぎない唐突な感じで、本当に信じるわけにもいかない。実際、彼の政策は、金持ち優遇だったろう。が、いま、どちらを取るのか、選ぶのか、と世界が突き付けられているような印象である。エリートにつくのですか、没落大衆につくのですか、勝ち馬にのるのですか、敗者の道をゆくのですか、長いものにまかれるのですか、自分の道をゆくのですか……etc。

とはいえ、私が日本に住んでいるからなのか、日本人だからなのか、そんな騒動、コロナも含めて、としよう――に、巻き込まれているような日常ではまったくない。マスメディアにしろ、ネットやSNS等のメディアであれ、そういう情報を日々確認している知的大衆の間でだけ、観測されるような歴史混沌であろう。もと都知事の猪瀬直樹氏は、東大闘争に参加していたころ、喉がかわいたので東大裏のパチンコ屋にいって景品でコーラを当てて飲んでいたが、このパチンコ屋世界は、すぐ表のインテリ闘争のことなどまったく無知無関心なままなので、この現実を考えてとりこまないと、日本でのことなど考えられず、運動などできないのでは、とネット上のどこかで対談していた。とくに私のまわりは、年寄りな職人世界になってきたので、もう認知症がはじまっているのではないか、と観察されてくる。一緒の現場にいる70歳過ぎのベテランが、どこかずれた作業を繰り返している。たぶん、どうも、今の作業が、20年まえだかの作業を連想させてきて、それを、今の状況の中で固着しだすのだ。その一動作を、熱中して考えている、という感じだ。呼びかけても応じなくなるのは、耳が遠くなったわけではなく、注意力が今にいっているわけではないからだ。私の父もそうだったが、認知症と診断された人のなかには、なぜか掃除をしたがる人がおおい。なにかこだわりのある記憶があって、それを繰り返している。そして、はっとしたように、今にかえるが、そのとき、掃除をしていたという自覚はなくなっている。家にかえると、父は、ゴミをためこんだポケットのことなど忘れていた。

程度の違いはあっても、歳をとれば、言いかえれば、年齢を重ねれば、誰もが今と過去とを重ね合わせて認識していく。「昔はこうだった」、というのが、オヤジ尺度のひとつだそうだが、認知症の世界とは、その現在と過去とが「並行」して存在している事態の肥大化であろう。そして「過去」に言えることは、「未来」にもいえる。それは、現在の状態から過去の規則性をよみとることと、未来の予測をすることとは、同じ能力、計算なのだから。そうやってわれわれは、地球の過去の大気と未来の大気、CO2の増減がどうのと観測しているわけだろう。

以上の話を、もちろん今の私は、考え中、勉強中の「量子論」にひきつけて発言している。SF的な多世界論ではなく、凡庸な、普通の人の多世界論としてである。

2020年12月6日日曜日

量子論をめぐって

 


図書館で量子論に関する本をいくつか借りたついでに、『新潮』12月号の、三浦雅士氏と福嶋亮大氏の最近の文学事情に関する対談を読んだ。さらについでに、ページをぺらぺらめくって、島田雅彦氏の、古井由吉氏の遺作『われもまた天に』の感想を読んだ。そこで、島田氏は、古井氏を量子論的観点から考察している。

私の、古井氏に関する関心も、島田氏のものと重なるところがある。いわば、時間と空間の、マクロ現象では常識的ではないとされる、その量子的なふるまいを文学者側から捕捉しようとしたような営為にである。プルースト『失われた時を求めて』のアジア版、日本語版といおうか。しかし、古井氏の関心が、あくまで、詩的なレベルにとどまっているとするなら、私はもう少し、文学とは切り離された、まずは科学的解析として、より散文的に理解し提示してみたいとおもっている。モデルとしては、ドストエスフスキーが、当時の数学の先端、非ユークリッド幾何学にふれて、それを自身の形而上学的な思想や終末思想にまでひろげながら、多様な主人公を設定して、散文的な議論を闘わせたような営為、になる。

量子論というと、文学的には、マルチバース、多世界論や平行宇宙論など、SF的な関心になりがちだ。島田氏も、そっちへのバイアスが強いようだ。東浩紀氏の『クォンタム・ファミリー』や、このブログでもとりあげた、倉数茂氏の『名もなき王国』もそうだろう。しかし私には、むしろより凡庸なこの世界、波と粒子の二重性という量子の性質でいうなら、波(潜在世界)よりも、粒子(物質世界)にこそウェイトがある。波(潜在性)を現実的に理解するところから、マルチバースになり、スピリチュアリズムの思想がはびこり、逆にその現実性を度外視するところに、俗物的な物質主義が支配的になる。が、大切なのは、<他ならぬこの>、ということだろうと、私は柄谷行人氏の『探究』経由で、量子論を理解しようとしているのだろう。他(可能なる潜在世界の多様性)ならぬ(その肯定による否認)この世界(唯一・固有性)、ということだ。この世界の理解には、量子力学的な波動的観点が必要であるが、それが、統計確率の平均値、ビッグデータみたいに理解されたらもともこうもないだろう。二重スリットの量子実験は、電子ビームを一粒ずつ打って、その多数打った統計的現象として、スクリーンに記録された波模様を観測するわけだから、それは、ビッグデータから一般法則を見だすのと同様な事態なのだ。そして実際に、いまや人間が、三浦VS福嶋氏の対談でも指摘されていたように、主体ではなく、量子的なふるまいをする統計(集団)として処理され、されることを望んでいるようなヴァーチャル世界事態になっているわけだ。AIが解析してネット上に提示される欲望は、明確に集団統計からくるが、それが個人のふるまいを現実化している。ウィルス騒動も、個人の思いを排除し、父母の死に目にもあえず、統計処理に従うよう要請している。

しかし粒子一粒一粒に、実存性や固有性があるわけではないだろう。スピリチュアリズムでは、そう解釈しようとするむきもあるようだが。が、あくまで、粒子と粒子との関係性に、固有な記憶性が刻まれているはずだ。が、その視点は、科学的にはまったく未解明なままである。が、粒子でも、陽子や電子といったフェルミ粒子や、光子のようなボース粒子といった区別があって、そのふるまいの違いと関係構造の考察に、量子関係の固有性をのぞかせる現象がうかがわれているのではないか、という気がしているが、勉強中だ。

夢は、覚めたばかりでも、思い出すのは困難だ。が、事実として収束した記憶は、つまりは経験は、時とともに解釈がかわるとはいえ、そうではない。つまり、潜在的に波としてみたものと、事実的に粒としてみたものとでは、記憶のあり方がちがう。また、ワクチンレベルでDNAの入れ替え治療がおこなわれ、遺伝子が変わって人格もが変わってしまう人もいるのだそうだが、それでも、記憶の同一性はあるようで、別人が同一人物と重なってしまう、というのもあるらしい。さらに、3.11の被害者に、両親から「不思議ちゃん」とよばれていた子供がいて、その子は、なぜか、神社参りして祝詞をおぼえることが大好きだったそうで、そんな現象を理解するには、前世の記憶という仮説を持ち出さないと理解しにくいが、としたら、それは、自然が量子レベルでの関係の固有記憶をリサイクルした、ということになるはずで、それでも、津波という自然の波動は、またシャッフルしたのか、ということになって、なぜなんだ、どうしてそんなことをするのだ、と訴えたくなる。

アメリカの大統領選を報道するネットTVで、アメリカではいま、バイデンの当確と「並行」してトランプ勝利が実現する世界が重なり動いている、と解説するニュースがあった。たしか、「大紀元」とかいう、ニューヨークに拠点する香港だか台湾系のメディアだ。意識的に、「並行世界」などという表現をつかったのかどうか、私にはわからないが、マルチバース論からは、そうなるのだろう。バイデン大統領と、トランプ大統領の世界に、アメリカは分岐した、するのだと。人間の選択が、宇宙(自然)の選択になりうるという、人間中心主義の思想をとることに私はばからしさを感じるが(しかしおそらく、宇宙とは、そんな人間の観測の産物でもあるだろう)、いまは、毎朝、通勤時、その重ね合わせの世界を実感してみようと試みている。引っ越しした借家から、自転車で職場へ向かうのに、先月まで住んでいた団地を通っていくのだ。時刻は七時に団地を出ていたのと、ちょうど同じ時刻に、そこを通過する。近所のお寺の鐘が鳴って、まさに、時間と空間が、そのゴーンという波動とともに重なる感じだ。引っ越ししなかった私と、引っ越しした私が、朝日にむかって、坂を疾走していく。そこから先は、同じ職場が、同じ仕事が待っている。違うのか、同じなのか? 不思議な感覚だ。

以上のような不思議なもつれを、文学的営為として刻みたいとおもっている。


*島田氏は、「ところで、量子のわけのわからなさを如実に示す二重スリット実験というのがある。縦長のスリットを二つ入れた衝立に電子を照射して、それがどのようにスリットを通過するかを確かめる実験だが、電子は人が観察している時は「粒子」として、観察していない時は「波動」として振る舞う。観測が起こると同時に電子は動きを変えてしまうため、観測していない時に何が起こっているのかは知りようがないのである。/なぜこうなるのか、結果の違いを引き起こす「観測」とはそもそもどういう現象なのか、長らく不明のままだったが、量子や原子同士が相互干渉することによって「観測」という事態が生じ、電子の状態が即座に決定されるということが証明された。」と言っている。本当に、「証明」されたのだろうか? というか、上の言いかただと、曖昧すぎてしまう、のではないか? たとえば、機械(観測装置)が反応したままでは、波であるらしいのに、人間が「観測」して、はじめて波が収束する、が、人間も機械も、量子なので、どこに違いがあるのか、ということがわからないので、「証明」になどなっていないのではないのか? つまり、「観測していない時に何が起こっているのかは知りようがない」ままなのではないか? いや、この言いかたも、曖昧だろう。波のとき、シュレディンガー方程式に従うことがわかっているのだから。つまりわからないのは、あくまで、「人間」がわからないのである。電子同士でのもつれも、収束し、波が粒になるが、だからといって、それが人が見て収束し粒として確定する「観測」と同等なのか、不明なままなのではないだろうか? Youtube上での量子論解説には、こうある。―― 「しかし私達自身がこれらの全く同じ粒子から作られているならば、では、私たちが何かを観測する行為が、宇宙の他のすべてのものと根本的に異なるのはなぜなのか? これは史上最大の未解決の科学的哲学的なミステリーの1つです。」

私は、生命というものが、量子の収束した現象なのだと予測し、そのビッグ収束の集まりのなかでも、小さな波のもつれと収束が反復される、という現象が生体内のあちこちで起きているのだろうと予測もする。波動方程式を発明というか発見したシュレディンガー自身が、最後の「生命論」で、そう感じていたようである。だから、生きた猫と死んだ猫が重なり合う曖昧な(多重)世界などおかしいだろう、と、「シュレディンガーの猫」という思考実験を皮肉的に提示したわけだろう。彼は、生命とは出来事なんだ、とみていたわけだ。あれこれではなく、このなんだ、と。が、アインシュタインとともに、その真理追求の科学態度は衰退し、実用科学として、シュレディンガー方程式が利用されてきた。真理追求は、棚上げされたわけだ。が、最近になって、それではすまない状況になり、真理探究的な包括的な理論をめざす動きが若い学者たちの間ででてきている、ということらしい。