2020年12月13日日曜日

量子論をめぐって(2)


前回ブログで、アメリカの新大統領に、トランプが再選されているアメリカと、バイデンが大統領になっているアメリカと、二つの世界が「並行」しはじめた、とニュース解説した「大紀元」というメディアに言及した。ウィキペディアによると、「法輪功」という中国での新興宗教的団体の参加者が実施しているメディアだそうだ。 弾圧を受けているらしいが、となると、これは、亡命政権的な活動なのだろうか? 日本でのオウム真理教との類似性を指摘している意見も散見したが、中国の歴史をかんがみると、そう社会学的単純さで比較はできないだろう。中国での動乱、革命は、道教的なものと結びついた大衆運動がかかわってくるのが、常態的ともみえるからである。そんな運動が、トランプなのか、トランプ的なるものなのか、を支持している。

日本でも、Youtubeなどが、トランプ賛辞的な報道を削除禁止する方針の報道から、その弾圧が、かつての左翼活動家たちの「転向」問題とパラレルであるかの感として受け取られ、発言されているのが見受けられる。彼らの多くは、一概には、右寄りな言論家、とされている。というよりなにより、トランプ自身がなお権力をもった保守派の大統領なのだから、なんだかよくわからない転倒した事態が起きているとするのが、客観的な見方になろう。いわば、日本におきかえたら、総理なままの安倍晋三とその支持者たちが、メディア弾圧をうけて、転向か沈黙を強いられている、そんな世界が到来しているようなものだろう。

私自身は、今回のアメリカ大統領選、不正があったと解釈するのか常識的だとおもっている。正邪、事実是非の判断は、しようがない。郵便での不在者投票のほぼすべてがバイデンになるなら、郵便物がとどくまえでも、バイデンが優勢であってもよかったとするのが、統計的な確率の現実に依拠することになるのではないか、とおもうからだ。そう選挙中に意見表明した、アメリカの経済学者もいたそうだ。数学的現実にそぐわない結果だ。もちろん、それくらい、トランプは圧倒的に嫌われていて、そういう人たちこそが郵便投票を選択した、という偏向行動も、確率的にないわけではないだろう。量子が、壁を突き抜けて、トンネルしていく確率もあるように。最初に開封されていった用紙に、トランプと書かれたものが偏っていた、という現象も、ありえないわけではないように。選挙が正当だと解釈する人たちは、この偏向した低い確率の現実を観測したわけだ。

私は、この結果を、素直に信じるわけにはいかない。しかしかといって、トランプが、貧しい(白人)労働者たちのために、エスタブリッシュメントに戦いを挑んでいる、というイデオロギーも、突然発生したような、トランプ自身が選挙のためにとった大義名分にすぎない唐突な感じで、本当に信じるわけにもいかない。実際、彼の政策は、金持ち優遇だったろう。が、いま、どちらを取るのか、選ぶのか、と世界が突き付けられているような印象である。エリートにつくのですか、没落大衆につくのですか、勝ち馬にのるのですか、敗者の道をゆくのですか、長いものにまかれるのですか、自分の道をゆくのですか……etc。

とはいえ、私が日本に住んでいるからなのか、日本人だからなのか、そんな騒動、コロナも含めて、としよう――に、巻き込まれているような日常ではまったくない。マスメディアにしろ、ネットやSNS等のメディアであれ、そういう情報を日々確認している知的大衆の間でだけ、観測されるような歴史混沌であろう。もと都知事の猪瀬直樹氏は、東大闘争に参加していたころ、喉がかわいたので東大裏のパチンコ屋にいって景品でコーラを当てて飲んでいたが、このパチンコ屋世界は、すぐ表のインテリ闘争のことなどまったく無知無関心なままなので、この現実を考えてとりこまないと、日本でのことなど考えられず、運動などできないのでは、とネット上のどこかで対談していた。とくに私のまわりは、年寄りな職人世界になってきたので、もう認知症がはじまっているのではないか、と観察されてくる。一緒の現場にいる70歳過ぎのベテランが、どこかずれた作業を繰り返している。たぶん、どうも、今の作業が、20年まえだかの作業を連想させてきて、それを、今の状況の中で固着しだすのだ。その一動作を、熱中して考えている、という感じだ。呼びかけても応じなくなるのは、耳が遠くなったわけではなく、注意力が今にいっているわけではないからだ。私の父もそうだったが、認知症と診断された人のなかには、なぜか掃除をしたがる人がおおい。なにかこだわりのある記憶があって、それを繰り返している。そして、はっとしたように、今にかえるが、そのとき、掃除をしていたという自覚はなくなっている。家にかえると、父は、ゴミをためこんだポケットのことなど忘れていた。

程度の違いはあっても、歳をとれば、言いかえれば、年齢を重ねれば、誰もが今と過去とを重ね合わせて認識していく。「昔はこうだった」、というのが、オヤジ尺度のひとつだそうだが、認知症の世界とは、その現在と過去とが「並行」して存在している事態の肥大化であろう。そして「過去」に言えることは、「未来」にもいえる。それは、現在の状態から過去の規則性をよみとることと、未来の予測をすることとは、同じ能力、計算なのだから。そうやってわれわれは、地球の過去の大気と未来の大気、CO2の増減がどうのと観測しているわけだろう。

以上の話を、もちろん今の私は、考え中、勉強中の「量子論」にひきつけて発言している。SF的な多世界論ではなく、凡庸な、普通の人の多世界論としてである。

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