2020年12月6日日曜日

量子論をめぐって

 


図書館で量子論に関する本をいくつか借りたついでに、『新潮』12月号の、三浦雅士氏と福嶋亮大氏の最近の文学事情に関する対談を読んだ。さらについでに、ページをぺらぺらめくって、島田雅彦氏の、古井由吉氏の遺作『われもまた天に』の感想を読んだ。そこで、島田氏は、古井氏を量子論的観点から考察している。

私の、古井氏に関する関心も、島田氏のものと重なるところがある。いわば、時間と空間の、マクロ現象では常識的ではないとされる、その量子的なふるまいを文学者側から捕捉しようとしたような営為にである。プルースト『失われた時を求めて』のアジア版、日本語版といおうか。しかし、古井氏の関心が、あくまで、詩的なレベルにとどまっているとするなら、私はもう少し、文学とは切り離された、まずは科学的解析として、より散文的に理解し提示してみたいとおもっている。モデルとしては、ドストエスフスキーが、当時の数学の先端、非ユークリッド幾何学にふれて、それを自身の形而上学的な思想や終末思想にまでひろげながら、多様な主人公を設定して、散文的な議論を闘わせたような営為、になる。

量子論というと、文学的には、マルチバース、多世界論や平行宇宙論など、SF的な関心になりがちだ。島田氏も、そっちへのバイアスが強いようだ。東浩紀氏の『クォンタム・ファミリー』や、このブログでもとりあげた、倉数茂氏の『名もなき王国』もそうだろう。しかし私には、むしろより凡庸なこの世界、波と粒子の二重性という量子の性質でいうなら、波(潜在世界)よりも、粒子(物質世界)にこそウェイトがある。波(潜在性)を現実的に理解するところから、マルチバースになり、スピリチュアリズムの思想がはびこり、逆にその現実性を度外視するところに、俗物的な物質主義が支配的になる。が、大切なのは、<他ならぬこの>、ということだろうと、私は柄谷行人氏の『探究』経由で、量子論を理解しようとしているのだろう。他(可能なる潜在世界の多様性)ならぬ(その肯定による否認)この世界(唯一・固有性)、ということだ。この世界の理解には、量子力学的な波動的観点が必要であるが、それが、統計確率の平均値、ビッグデータみたいに理解されたらもともこうもないだろう。二重スリットの量子実験は、電子ビームを一粒ずつ打って、その多数打った統計的現象として、スクリーンに記録された波模様を観測するわけだから、それは、ビッグデータから一般法則を見だすのと同様な事態なのだ。そして実際に、いまや人間が、三浦VS福嶋氏の対談でも指摘されていたように、主体ではなく、量子的なふるまいをする統計(集団)として処理され、されることを望んでいるようなヴァーチャル世界事態になっているわけだ。AIが解析してネット上に提示される欲望は、明確に集団統計からくるが、それが個人のふるまいを現実化している。ウィルス騒動も、個人の思いを排除し、父母の死に目にもあえず、統計処理に従うよう要請している。

しかし粒子一粒一粒に、実存性や固有性があるわけではないだろう。スピリチュアリズムでは、そう解釈しようとするむきもあるようだが。が、あくまで、粒子と粒子との関係性に、固有な記憶性が刻まれているはずだ。が、その視点は、科学的にはまったく未解明なままである。が、粒子でも、陽子や電子といったフェルミ粒子や、光子のようなボース粒子といった区別があって、そのふるまいの違いと関係構造の考察に、量子関係の固有性をのぞかせる現象がうかがわれているのではないか、という気がしているが、勉強中だ。

夢は、覚めたばかりでも、思い出すのは困難だ。が、事実として収束した記憶は、つまりは経験は、時とともに解釈がかわるとはいえ、そうではない。つまり、潜在的に波としてみたものと、事実的に粒としてみたものとでは、記憶のあり方がちがう。また、ワクチンレベルでDNAの入れ替え治療がおこなわれ、遺伝子が変わって人格もが変わってしまう人もいるのだそうだが、それでも、記憶の同一性はあるようで、別人が同一人物と重なってしまう、というのもあるらしい。さらに、3.11の被害者に、両親から「不思議ちゃん」とよばれていた子供がいて、その子は、なぜか、神社参りして祝詞をおぼえることが大好きだったそうで、そんな現象を理解するには、前世の記憶という仮説を持ち出さないと理解しにくいが、としたら、それは、自然が量子レベルでの関係の固有記憶をリサイクルした、ということになるはずで、それでも、津波という自然の波動は、またシャッフルしたのか、ということになって、なぜなんだ、どうしてそんなことをするのだ、と訴えたくなる。

アメリカの大統領選を報道するネットTVで、アメリカではいま、バイデンの当確と「並行」してトランプ勝利が実現する世界が重なり動いている、と解説するニュースがあった。たしか、「大紀元」とかいう、ニューヨークに拠点する香港だか台湾系のメディアだ。意識的に、「並行世界」などという表現をつかったのかどうか、私にはわからないが、マルチバース論からは、そうなるのだろう。バイデン大統領と、トランプ大統領の世界に、アメリカは分岐した、するのだと。人間の選択が、宇宙(自然)の選択になりうるという、人間中心主義の思想をとることに私はばからしさを感じるが(しかしおそらく、宇宙とは、そんな人間の観測の産物でもあるだろう)、いまは、毎朝、通勤時、その重ね合わせの世界を実感してみようと試みている。引っ越しした借家から、自転車で職場へ向かうのに、先月まで住んでいた団地を通っていくのだ。時刻は七時に団地を出ていたのと、ちょうど同じ時刻に、そこを通過する。近所のお寺の鐘が鳴って、まさに、時間と空間が、そのゴーンという波動とともに重なる感じだ。引っ越ししなかった私と、引っ越しした私が、朝日にむかって、坂を疾走していく。そこから先は、同じ職場が、同じ仕事が待っている。違うのか、同じなのか? 不思議な感覚だ。

以上のような不思議なもつれを、文学的営為として刻みたいとおもっている。


*島田氏は、「ところで、量子のわけのわからなさを如実に示す二重スリット実験というのがある。縦長のスリットを二つ入れた衝立に電子を照射して、それがどのようにスリットを通過するかを確かめる実験だが、電子は人が観察している時は「粒子」として、観察していない時は「波動」として振る舞う。観測が起こると同時に電子は動きを変えてしまうため、観測していない時に何が起こっているのかは知りようがないのである。/なぜこうなるのか、結果の違いを引き起こす「観測」とはそもそもどういう現象なのか、長らく不明のままだったが、量子や原子同士が相互干渉することによって「観測」という事態が生じ、電子の状態が即座に決定されるということが証明された。」と言っている。本当に、「証明」されたのだろうか? というか、上の言いかただと、曖昧すぎてしまう、のではないか? たとえば、機械(観測装置)が反応したままでは、波であるらしいのに、人間が「観測」して、はじめて波が収束する、が、人間も機械も、量子なので、どこに違いがあるのか、ということがわからないので、「証明」になどなっていないのではないのか? つまり、「観測していない時に何が起こっているのかは知りようがない」ままなのではないか? いや、この言いかたも、曖昧だろう。波のとき、シュレディンガー方程式に従うことがわかっているのだから。つまりわからないのは、あくまで、「人間」がわからないのである。電子同士でのもつれも、収束し、波が粒になるが、だからといって、それが人が見て収束し粒として確定する「観測」と同等なのか、不明なままなのではないだろうか? Youtube上での量子論解説には、こうある。―― 「しかし私達自身がこれらの全く同じ粒子から作られているならば、では、私たちが何かを観測する行為が、宇宙の他のすべてのものと根本的に異なるのはなぜなのか? これは史上最大の未解決の科学的哲学的なミステリーの1つです。」

私は、生命というものが、量子の収束した現象なのだと予測し、そのビッグ収束の集まりのなかでも、小さな波のもつれと収束が反復される、という現象が生体内のあちこちで起きているのだろうと予測もする。波動方程式を発明というか発見したシュレディンガー自身が、最後の「生命論」で、そう感じていたようである。だから、生きた猫と死んだ猫が重なり合う曖昧な(多重)世界などおかしいだろう、と、「シュレディンガーの猫」という思考実験を皮肉的に提示したわけだろう。彼は、生命とは出来事なんだ、とみていたわけだ。あれこれではなく、このなんだ、と。が、アインシュタインとともに、その真理追求の科学態度は衰退し、実用科学として、シュレディンガー方程式が利用されてきた。真理追求は、棚上げされたわけだ。が、最近になって、それではすまない状況になり、真理探究的な包括的な理論をめざす動きが若い学者たちの間ででてきている、ということらしい。

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