2020年12月19日土曜日

新型ウィルスをめぐって(19)


私もチャンネル登録している「哲学系ユーチューバーじゅんちゃん」が、このブログでも肯定的に評価したといっていい、徳島大の大橋氏を陰謀論者として批判検討しているので、ウィルス・シリーズ(19)として、言及してみることにした。第三波といわれるものがやってきているところでもあるし。

 まず、大橋氏のコロナ・ウィルスに関する評価検討からいこう。

 私の理解というか、受け止め方と、じゅんちゃんのそれとは違うようだ。私は、「コロナ常在ウィルス説」、じゅんちゃんは、「コロナ存在しない説」、と受け止めているらしい。確かに、大橋氏は、当初「コロナウィルスは存在しない」とセンセーショナルなタイトルをつけていたが、話をきいていると、そういうことではない、と私はおもった。それは、日和見ウィルスとして、何かの加減で人に悪さを引き起こす場合がある、と。が、私の理解は他で言及しているので、ここではそれ以上追求しない。

 じゅんちゃんは、参照リンクをはっている「理系院卒の怒り」というnoteに連載されていた個人ブログを引用して、「コッホの四原則」をウィルスにあてはめようとする大橋氏の態度は、基礎的な間違い、素人並みだ、という意見を首肯する。が、そうでもないらしいことは、コメントでも誰かが紹介しているが、ウィキペディアをみると、そこは、大橋氏も見当はずれでもないらしい。

 また、コメント欄にあることだが、大橋氏のようなPCR検査に対する異議申し立て、そして中国論文に対する撤回運動も、初期段階に世界レベルであったらしい。私は、そのMedeical Tribuneなるサイトに登録などしてないので、読んではいないが、私がいいたいのは、そういう水準の反証がでてきたら、この分野での、専門での、大きくは、科学での、どっちが本当なんだ、という判断を、原則的に(専門家も専門外の素人性をもつのだから)、誰もすることはできなくなるだろう、という話になってしまう、ということだ。

 私は、じゅんちゃんが参照している「理系院卒の怒り」を、知的好奇心をもって読んだ。ちょうど、量子論をめぐる読書をしているところだし、量子生物学についてもこのブログで言及したところだから、「分子生物学」にも興味がいっている。翡翠さんは、大橋氏のやってることは「老害」であって、新しい知識や技術をとり入れて適応することができていない、ウィルス抽出作業でも、昔ながらの手作業レベルで今の水準を推論している。2月までだったらまあその説の該当性はあるといえても、5月の赤毛テナガザルだかへの感染実証の論文がネイチャーだかにのったあとでは、もう全く通用しない、嘘になる、……とう、いろいろ、ネタをあげて専門分野的に検証批判していく。で、PCR検査では、まずプライマリーという導入遺伝子の設計が重要なのだが、その新型コロナに対するプライマリー設計で、WHOが、基礎的な間違いをしている、と指摘し揶揄することにもなる。しかし、WHOの研究者は、若くて、優秀だろう。そういう人でも間違えるってことか?(だから、陰陽の結果も変わってくる?) となると、もう、私には、判断できない、というか、文学系ブロガーとしての私としては、「クレタ人の嘘」というパラドックス論理の問題を想起してしまう。つまり、「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人は言った」、ならば、そのクレタ人の発言は嘘なのか真実なのか? 「専門家がその事実は嘘だと専門家に言った」……どっちだい? が、私たちは、そもそも、実は、そういう風に真実を理解しようとしているのか? したいのか? いったいなぜ、翡翠さんは、分子生物学を選び、科学を志向したのか? 科学は、なんのためにあるのか? 専門分野って、なんだ? ガリレオやダヴィンチのときにはなかったみたいだが。なんで翡翠さんは、ブログに書いたの? それは、科学なの? 科学じゃないでしょ、ならば、大橋氏と、やっている営みは、おなじじゃない? なんらかの自分の信念みたいなものへ、科学事実をこえて、実践していこうとしているのではないの?

 *新型コロナのウィルスがきちんと抽出されているのかいなか、という問題でも、それは「分離/精製」されたのではなく、製造されたものだという反論があって、なお遺伝子ソースはわかっていないという話を、「In deep」のオカ氏がリンクをはっている。彼はオカルトがかった陰謀論支持者といえるだろうが、そこには科学的参照もあって、私は全面的には信じていないが、想像力をかきたてられる。

 大橋氏のアップしているYouTubeをみれば、コロナ以前から、いわゆる、陰暴論支持者であることがわかる。私は、陰暴論を否定しない。それは、副島隆彦氏が、世の中に出ている大人たちは、トップの話し合いで物事が決まっていくことをみな知っているではないか、と言っているような、そういう意味延長でだ。私は植木屋だが、そこから類推し、金額のでかくなる世界で、談合がないわけないだろう、とおもう。高校時代の野球部同期で、地元で一番の商業都市の役所で経理のトップをしている者や、WTCの崩壊をニューヨークで直にみていたという金融アナリストなどにさぐりをいれると、にやにやしてたり、よくしってるなあ、とかいわれたりする。もちろん、世界のトップレベルのお話合いのことなど知らないから、だいそれた陰暴論のあるなし判断などしようがないが、苫米地英人氏のようなその近い現場にいた者が、昔はウォール街の人しか知らなかったことが今ではだいぶよその人にも知れるようになっているとの発言を、現場の声なんだろうなと推測する。じゅんちゃんは、陰暴論とは、ものごとを結局はそこへ一元化、単純化していく目的思考だと形式化する。しかしだからといって、真実が相対化されたままの、複雑こんがらがったままのなんでもありでいいということではなく、普遍(的真実)を、目的(エンド、終末)にではなく、始めにもってくるということがいいのではないか、とマルクス・ガブリエルの説をとりあげたりする。柄谷行人を読んできた文学系の者の言葉で言いかえれば、他者(とのつながり=普遍、真実の共有)は認識論的な構えではなく、論理的な前提として必要なんだ、ということになろうか。そしてこの必要は、実践において、生きることの倫理として、ということだ。しかし始原となる普遍とは、いやもうここでは、事実是非を超えた真理ということかもしれないが、その、真理とはなんだ?

 ベンヤミンは、嘘は必要なんだと、『暴力批判論』でいっている。トランプは、嘘つきなのかもしれない、バイデン当選には不正などなかったことを知っており、自分が大統領でなくなったら、借金取りにおわれ、暴行罪で起訴され、亡命でもしなくてはならなくなっているのかもしれない。しかし、そんな個人の動機をこえて、自由という大義名分に藁をもつかむおもいでしがみつき、本当にそれを信じ、ジャンヌダルクのように、遺伝子そのままで人格変貌するかもしれない。あるいは、リバティ大学での講演をきくと、自分をアウトサイダーとして認識する確信犯像もうかがえるから、本当に、ジャンヌダルクになろうとしているのかもしれない。そしてそう、のぞんでいる人の波がある。その波は、陰謀論者の妄想などではなく、小手先の改革で自分のどうにもならぬ現実が変わるものか、という生活の実感=必要がつきあげているのでは、と私は観測している。その波にのって、陰謀論者が空想するトップからの大リセットではなく、下からのリセット、終末思想的な動乱が新型ウィルスの拡散と一体となってビッグ・ウェーブに発展するかもしれないと。いま、いや新年そうそう、私はそうなってほしくはないが、その波はくるだろう、こないわけないだろう、とおもう。トランプがいようがいまいがだ。ソ連崩壊、リーマンショック、9.11、など、まだ小さな破局で……これは願望なのか、現実認識なのか? いやこれまでの社会現実が、そんな願望をつくっており、その目的のない下々の終末論的な波動のなかに、ベンヤミンが肯定して指摘する「神的暴力」が挿入されてくるのではないだろうか?

 しかし私たちは、神の真理を、普遍的な真理を知らない。しかし真実はこっちだという信仰に根拠をおく科学的態度への従属とは、ニーチェが洞察したように(それが正しければ)、遠近法的な倒錯、しかも身体(生体)レベルでのカラクリにはまったままだということになる。ならば、事実是非をこえていく信念が人には必要なのだ、ということではないだろうか? 大橋氏の啓蒙活動とは、そういうものだろうと私はおもうし、その個人の信仰を、私はおちょくる気にはなれない。また、その信者たちを、じゅんちゃんのように、そういう人たちが一定の割合で存在することはなくならない、という生態的理解ですむ問題だともおもわない。ウィルスる(15)のブログで、私はかろうじて陰謀の可能性を認めたジジェクに言及したが、マルクス主義的な原理的思考を忌避しているらしいじゅんちゃんは、では、どうやって、現実に切り込むのだろう? 宇宙の真理を原理的に解こうとする態度は、量子の発見とその振る舞いの不可思議な現実をまえに、棚上げされた。その態度の行くつく先の一つが、原爆であったと、そう理解してもよい文脈があると、私は理解している。

 <古典物理学にとって、決定論と自由意志の間の矛盾が決して解決されないとしても、物理対象に対する量子的確率という形での決定論の喪失が、矛盾をなくしてくれるわけではない。それはあくまでも、誰も答えを知らない問題である。それが答えが物理の領域にあるような問いであるかどうかさえわからない。量子物理学、古典物理学、神学――いくつかの問いは永遠に解けないように思われる。>(『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』デヴィッド・リンドリー著 松浦俊輔訳 青土社)

 *この世界的な第三波の推移をニュースでみていると、確率的には低いと私は想定してきた、もしかして人為的ウィルスか、という気がしてきた。去年と同様、インフルエンザの入り込む余地がなさそうで。どちらも風邪みたいな自然同士なら、少しはせめぎあってもよさそうなのに。集団免疫も、中国からの亡命者が告発していたように、できない、って気配が。しかし、身近には実感も持てないので、本当にコロナ在るのか、という気もなくならない。翡翠さんは、その説を、提出されたとされている新コロの遺伝子コードの読解から、そこに人為を読むことこそ「不自然」と判断した。また、今の技術では、遺伝子の配列を人工的に操作・製造することは可能だとも言っている。私の知っていた範囲では、科学者のほとんどが、人為はありえない、今の科学技術では無理だから、というものだったが。しかしそう思われていても、アメリカの軍事技術はやったのだ、というのが、副島氏の見立てだった。 

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