2020年8月8日土曜日

世界との乖離に――新型ウィルスをめぐる(15)

 ジャパン・ミラクルとして欧米メディアから評価されもした、日本の無策による相対的好結果が、今回の第2波かもしれない事態によって揺らいでいるとしても(むしろ敢えて自ら揺さぶって深刻化しようとしているようにみえるが――)、とにかく死者数が桁違いなのだから、世界と日本との認識のずれは埋まらないままだ。読売新聞オンラインによると、東京でのコロナ死者平均年齢は、79.3歳だと東京都は公表したという。となるとこれは、男女合計での普通の平均寿命に近い。読者のコメント欄によると、実は世界でもそうなんですよ、と返信があったりする。となると、コロナがあってもなくても同じような人口動静だという話になる。私のリテラシーでは、その真偽を確認できないが、国際ジャーナリストの田中宇氏の認識が、だいぶ信憑性が高くなってくる、というデータであろう。

 今回は、このコロナ情勢をめぐる、スロベニアのジジェク(哲学)と、フランスからのトッド(人類・人口学)の意見が本としてまとめられたのを読んだので、それをめぐって、日本と世界との認識の乖離をめぐり整理できたら、と思っている。

 まず、ジジェクからいこう。(『パンデミック』ele-king books

ひとつひとつのエセーに、日付がないので正確ではないが、おそらく時系列で並べられ翻訳されたジジェクの意見には、3度、トーンの変調があるようにうかがえる。当初は、ウィルス自体への不安(ショック)に彩られながらも、世界的に資本が停滞し共産主義的な事態に推移している人々の情勢をポジティブにとらえようとしている姿勢である。次に、翻訳での第9章「人の顔をした野蛮が我々の運命か」から、国家が人々を超えて共産(全体主義)化していく様に疑いを抱き始めて、当初の楽観性が消えていく。そして最後の補遺では、コロナ・ウィルス自体への注視が、その発生以前にあった諸問題に包摂され相対化され、科学的観点から政治的観点への重視へと、途中でおきた共産的現実への疑問が思考の根拠として折り返されて、ある意味ジジェク本来へのスタンスへと冷静に回帰していった、ともいえる思考過程である。

 資本主義を否定するために、強権的な共産(全体)主義がなければ地球規模の問題には対処できないと主張してきたような印象を、私はジジェクにっもっていたが、このコロナ騒動の過程で、そのトーンは年齢からのように丸みを帯びていったかのようである。ジジェク自身はその態度変調を、「否定」がなくなってしまったからと、「クリームなしのコーヒー」か「ミルクなしのコーヒー」かという選択肢がなくなって単なる「ブラックコーヒー」しかなくなってしまった事態、と喩えている。9章によると、氏は実際に不眠や悪夢をみる体調の変調にも陥ったようだ。しかも最終的に氏は、「穏健な陰謀説」を認知するのである。――「既存の世界的な資本主義体制の代表たちが、しばらく前から批判的なマルクス主義批評家が指摘していたことに、気づいているとしたらどうだろう? つまり、我々が知るシステムが深刻な危機にあること、今ある自由放任の形で継続はできないことに気づいていたら? そして、この代表者たちが、感染拡大を容赦なく利用して、新しい形の統治を強制しようとしているなら?」そして、こう予測する。

 <この感染拡大の最もあり得る結果は、新しい野蛮な資本主義の蔓延である。体の弱った高齢者が、多数犠牲になって亡くなる。労働者は、生活水準の大幅な低下に甘んじるしかなくなる。生活に対するデジタル管理は、永続的なものになる。階級格差は、生か死かの問題に直結するようになる。今、権力者がやむを得ず導入している共産主義的な措置は、果たしてどれほど生き残るだろうか。>

 この「」と<>の連続した文章の引用は、実は、ジジェクの論理文脈の中では曖昧である。ジジェクは、この補遺の中で、トムとジェリーのアニメ、猫のトムが断崖絶壁をこえて歩いているが、下を向いてそれに気づき、はじめて落下する、というシーンを引いて、そのように、人々は権力者に「下を見てみろ」と促すだけでいい、すれば奈落の底に落ちていくのだ、といっている。が、権力者が、マルクス主義(科学)の事実を知って、その法則を利用して、つまり引力を利用してなお人々を支配することになる、とも言っていることになるからである。この、ジジェクの気づけない矛盾、無意識は、私の見立てでは、「科学(理性)」に対する関わりかた、関わりたい欲望のあり方に起因している。ジジェクは、補遺でも、「科学」に根拠をおけるのだといいながら、しかし、科学にも「大文字の他者」、「頼ることのできる主体」がなく、疫学者でも様々な意見になっていることを追記している。この「科学」に向けてのブレが、氏の意見全体へのブレと連動している、と私はみている。ジジェクは、トムとジェリーの喩え話を、単に政治的な比喩として援用しただけかもしれないが、まさにこの喩えで、大澤真幸氏が、近代科学のあり方を分析していることを指摘しておこう(『量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う』講談社)。おそらく、私たち日本人は、そこまで「科学」を前提信頼しようとしないだろう。だから、検査数が少なく、はじめから、政治という付き合いで、現実に対処しようとしているのかもしれない。

 トッドは、明快である(『大分断 教育がもたらす新たな階級社会』PHP新書)。というのはおそらく、氏の「科学」は、大陸系の「合理(演繹)論」ではなく、イギリス系の「経験(帰納)論」に比重をおいているからかもしれない。フランス人のトッドは、当初は、仮説理念的に論をたてていたこともあったが、イギリスにわたって統計学に習熟していくにつれ、その大陸的合理論、デカルト的な発想は捨てていくように自覚的になった、というような解説いる。つまり、ジジェクが、カント的な仮説(理念)があって、それを目指して自身を統制していこうとしているとしたら、トッドには、目指すような理念が、少なくとも学問上はなく、単に、統計データからこういえる、と割り切った分別を、方法論としてモラル化している、ということだ。だから、ジジェクはうつ病になるが、トッドはモデルに向けて自分を照らしあわせる作業がないぶん、不眠や悪夢にも悩まされる精神内的葛藤は希薄、という条件下にいるだろう。

 そのトッドは、はじめから、コロナ変遷後のジジェクの立場でもあるかのように、「何も変わらないが、物事は加速し、悪化する」という。つまりは、「野蛮な資本主義」になっていくのは、コロナ以前から家族人類学的に明白、と言い切る。だから、コロナ以前からあった、フランスの「黄色いベスト運動」にみられたような労働者の運動が不可避で大切なのだ、と繰り返す。そこでは、古典的な資本家と労働者の対というよりは、高等教育を受けたエリートと、組織には属さない周辺大衆(右派のルペン支持者も多い、といわれる)、という対こそが現実の本姓となって現れている。大学を出ても職のない白人層もが、「黄色いベスト運動」に賛同し参加していたことが重要なのだと。これは、コロナ下でおきた、アメリカの黒人暴動でもいえるのだ。黒人だけの暴動ではなく、白人の知的階層もが参加している。それが意味するのは、コロナ以前の現実なのだ。そして、実は、この階層分化事態こそが、マルクスが生きた階級闘争の時代と類似しているのだと。なぜなら、資本の進展は、会社をも淘汰していく。賃金あげろだの、労働条件の改善を要求する対象はなくなっていく。あるのは、かつてはほんの少数だったエリートから、教育普及のために勢力を広げて安定し自らだけで再生産できるようになったエリート階層である。ターゲットたる個別の資本がなくなれば、より全体的な、ゼネラルボイコットになるのは必然である。つまり、労働者の闘争というより、「階級闘争」、社会間の闘争になるのだ。仕事のない者は、この闘争に参加(連帯)してはじめて、労働者になれるかのようだ。それは一国的な事態をこえて、マルクスの時代がそうでもあろうとしたように、インターナショナルな動きであることが資本の本性に対応する。もしかして、ジジェクが認めた「資本主義体制の代表」たる陰謀的な「世界政府」に対置しえる、庶民の「世界政府」という潜在性がそこに、あるのかもしれない。

 しかし、その正当な動きのやり口は、無意識的な文化、そこでの家族形態によって異なってくるだろう、となる。この具体的処方の例を、日本ではこうしたほうがいい、とヒント的な示唆をトッドは控えめに提示してみせたりするのだが、この経験論(データ)からそう言える、という物言いは、形式的にも、ジジェクよりもわかりにくい。理念ではなく、バランス操作になってくるからだ。その一つが、日本も核武装すべき、とかなるのだが、私たち日本人は、どう理解していいか面食らうばかりだろう。たしかに、人口学的に、中国の10億に日本の1億は呑み込まれてなくなるだけなのが法則、ベトナムはそれを知っているから、戦争で悲惨な目にあわされたアメリカとでも提携するし、そういう歴史経験を積んできているのだ、という。私たち日本人は島国育ちで平和ボケなんだ、ということでもあろう。が、だから核武装となると、いや、相手の核基地への防衛先制攻撃だって抵抗がでてくる、ほんとうに、現実は、そうなのか? 私には、わからない。心情的には、9条で自爆してもいいではないか、と一億総玉砕みたいな発想のほうが楽ちんな気がする。

また日本では、「社会的な格差」よりも「人口の収縮」の方が深刻な問題になるだろう、と。だから、ドイツのように使い捨てではなく、移民を受け入れて少しばかりの無秩序を甘受したほうがいい、バランスをとったほうが、となる。となると、コロナ情勢認識と同様、世界と日本との現状の認識の乖離は、そのまま推移する、ということだろうか?

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高校生の息子がいる私にとって、労働の問題は間近な現実だ。植木屋の職場でも、私が若かった頃にも若者がでたりはいったりしていたが、ここのとこ、40歳の若社長のもと、20歳前後の若者たちと接することが多くなった。初老が近い私には、若者との接触がメンタル的にはいいものだと、気づかされる。いやちょっと前は、若者がいても若社長の横暴で暗い組織だったのだが、私がコーチとして関わった少年サッカークラブ、若社長が小学生のときに不良対策として形成されたクラブが解散し(子供が逃げていく)、組織がなくなることは現実なんだと認識したのだろう、自分の会社もそうなるかも、と態度が変わってきたような。だから、いまは、けっこう明るくなってきたような。しかしその対策は、トッドが、同じものの反復になりやすい、という長子相続、父権的継承によってだ。トッドは、この家族形態では変化に対応できない、と指摘するわけだが、危機になればなるほど、そこで責任もってやる大変さを引き受けるのはみないやがるから、長男がやる、と逃げ場なく決まっていることと無意識に観念しているところは、当座は強くなるのかもしれない、ともみえる。権力をわたされる長男にも、うまみだけでなく、プレッシャーはものすごい。若社長、寝起きに呼吸困難になって医者にみてもらってもいたという。ストレスなんだろうから、医学的には原因未定だそう。

が、私は次男だからか、長男の発想、責任感がそもそもない、というか、知らなかったし、ゆえに、息子にも、自分のように生きてもらいたいともおもわない。しかしそれでも、最近、教科書とか参考書の類いにすぎないが、自分から本を読んでいる姿をみるのはうれしく感じる。夜に、ランニングとかもはじめたりする。結果現象はなんであれ、自ら考える力と体力を養ってくれたら、というのが私の願いだろうか?

 同じ団地のお隣の青年、発達障害で引きこもりがちだったが、最近、uber-eatの配達をはじめている。会社の面接もほぼなく、仕事での客との接触会話もほぼなく、無言で店から家へと自転車で運ぶスマホ結びつき形態が、彼(ら)にとっては救いでもあるのでは、とおもう。形式的には、ひとり親方、ということだろう。自転車と、もしかしてあの大きな背負いバックが、手元資本、事故やトラブルは自己責任で、となっているのか。数か月前だったか、会社uber-eatが突然時給を大幅にさげたため、労働組合ができたはずだが、ひとり親方的な法的身分から、議論が発生するのだろう。最近は、おまわりさんに呼び止められている姿をよく目にする。接触事故か、マンション前に駐輪して、警察に通告されるのだろうか?

ソ連が崩壊したとき、もと社会主義国の人民は勤勉に教育されているから、資本主義にとっては使い勝手がいいだろう、といわれた。が、いまの、より機械化以上にコンピューティングされた社会、労働形態では、毎日働けるメンタルもった労働者は疎んじられ、むしろ、あまり働きたがらない、テキトーな労働者のほうが重宝される、という傾向が強いだろう。派遣社員には、なお相手となる派遣会社があるが、ひとり親方的なフリーターでは、自らが資本家とされる。自転車もってるだろうが、と。テレワークは、会社員も、よりフリーランスな条件に追い込むのだろう。遠隔設備は自己投資が基本、の資本家にさせられていくのだ。息子が直面していく資本の現実=進行は、トッドが言うように、コロナ下で「加速」された。ジジェクがいうように、階級格差は、「生か死かの問題に直結」していく。生き延びてくれ、考える力と体力で、と私は息子に願うばかりだ。しかしだからこそ、この東京の自粛騒ぎの中での、友達とのバカ騒ぎも、私は否定しない。昨夜は、焼き肉屋だ、今日は、中国人を母にもつ家でのパーティーだとか。そのために、息子がコロナをひきつれて帰ってきて、私に感染させても、それでいい。現実が階層的なら、「連帯」が条件だ。引きこもりの私など、自己免疫でウィルスを撃退していくように、撃退していけばいい。「縊れた親を食い尽くして力を貯える獅子の子のように、力強く勇ましく私を振り捨てて人生に乗り出して行くがいい。」(有島武郎「小さき者へ」)新しい世界を、仲間といっしょに切り開いていってくれ。おまえは、エリートではないのだから。

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