2015年4月11日土曜日

少年サッカーの少子化問題

明日から、全日本少年サッカー大会の地区予選がはじまる。本年度から、サッカー協会の指導により、トーナメント方式から、リーグ戦方式にかわる。その趣旨は、できるだけ多くの子どもたちに試合経験をもたせることと、一試合ごとの内容を受けた修正意識(フィードバック)をもって、一発勝負の発想ではなく、持続的な戦いの考え方を育てていく、というもののようだ。この趣旨には私も賛成だ。日本サッカー協会の人たちは、サッカーの分野での世界標準ということだけを視野に、その理念の実現に一歩でも近づこうと制度変更を考えたのかもしれない。が、もっと大きく、文化的な視野で考えてみても、島国日本では、サッカーに伺えるその大陸的な論理、他者と陸続きに接した世界での付き合い方を、子供のときから教え意識づけてやる必要があるとおもう。

日本では、人生自体が一発勝負的、トーナメント方式だろう。受験に失敗したら、もうそれだけで人生は暗く失敗したようなプレッシャーを暗黙に、つまりは習慣的に受ける。この発想の最たるものが、特攻隊という作戦だろう。死ぬまで戦え、生きて俘虜のはずかしめを受けず、とかなんとか。いまの子供たちも、戦争になったらそれが当たり前、とおもっているかもしれない。が、ヨーロッパでの戦争倫理はそうではないそうだ。まずは死ぬことを前提とした作戦は、軍事プロのたてるものではない、と拒否される。たとえ少なくとも、確率的に生き伸びる道筋を示していなかったら、それは作戦ではないと。また一般の兵士も、まわりの仲間たちの70%が死んでしまったならば、戦いを放棄して投降していい。それが、慣習的であったと。むろん、捕虜への待遇も、国際法的に明記されている。(註*)

そこで子供たちに、「あなた(がた)は、どちらの社会に住みたいですか?」「中学の受験に失敗して、それで君たちの人生は終わりになりますか? 日本は戦争に負けることで、それで終わってしまいましたか? どちらの社会が本当のようにおもいますか?」

といっても、少年サッカーのリーグ戦への変更問題、私は当初、ただそれをJリーグにならって文字通り実行に移すのなら、逆にリーグ戦への趣旨に逆行してしまうのではないか、と危惧していた。私の所属するチームの第七ブロック(新宿・渋谷・目黒・文京・千代田地区)では、約40チームを実力差から三つにわけたのだが(J1からJ3のように)、強いチームは強い者同士で戦い続けることを強いられるので、コーチは負けられないと固定的な先発メンバーを使い続ける傾向がつよまるのでないか、と。しかし最近とどいた予定表をみると、ちょっと複雑なアイデアでその矛盾が揚棄されている。最終的には実力的にA・B・C・Dと4つに分けたリーグ戦のあとで、シード権をもつA1位とB、C・Dの各最下位チームのミニ・トーナメント方式をいれ、そこでの優勝者がまた優勝者どうしの決勝リーグ戦をおこうなうというのだ。都大会代表を決める決勝リーグは、結局はAリーグに選ばれたチーム同志がまた戦うことになるのではないか、という矛盾点も発生するが、上のアイデアだと、コーチはもっと余裕をもって選手起用、チーム作りをできるだろう。「こりゃ東大出の官僚あがりが考えた答案みたいだな。」そうおもいながらも、私は感心した。

が、今度は、そのコーチ体制が問題なのだった。ベンチには、最低3名のコーチが入らなければならず、しかも、サッカー協会が開催するコーチのライセンスを取得したものでなければならない、というのが、3年後くらいを目途にした方針だというのである。私も急きょ、先月、D級のコーチライセンスというのを、チームから2万円ばかりの受講料を払ってもらって取得した。サッカーは各学年別に大会があり、それも重なる時があるのだから、そんなコーチ数を抱えこむことができるチームには限りがある。緊急パパコーチというチームも多いだろう。私が所属するチームでも、今大会をめぐって、子供の人数が増えたので、今回は他チームとの合併でのぞむのではなく、自チームのみで参加しようと意欲していたのに、コーチが、大人の数が足りない! しかも3年後には、みながライセンスを取得していなくてはならない……。おそらく、この協会側の趣旨は、子供へのモンスターペアレント(パパ)の排除と、日本代表へとつなぐ、育成方針の統一化、ということだろう。D級講義でも、どのチームの指導もベクトルをできるだけ同じくすることで、成長の伸びしろをあげていく、と算数的な図が提示されていた。当初、大人が三名ベンチにはいるとは、負傷した子供の対応ということだったが、それがそのまま、指導員ということに拡大されている。これから、子供の数は少なくなる。一緒に参加してくるパパコーチも少なくなってくるだろう。私の所属チームも、もう数年したら、自分の息子・娘がいないパパコーチだけになってき、子供のメンバー自体が試合成立にたりなくなってくるので、合併するのか、続けるのか、考えておく段階に入っている。

自分の息子も少年チームを卒業し、各チーム自体が少子化になる。それでも、サッカー・チームを続ける意味とはなんだろうか? そのすそ野において、維持しようというモチベーションは、なんだろうか?

もちろん、第一は、サッカーが好きだ、楽しい、サッカーをやってきたもの、みてきたものの情熱だろう。それで、ここまでになってきたのだ。こんどのハリル・ジャパンが、ロシア・ワールドカップへむけて、図らずもな期待感を抱かせているが、将来的な体制は厳しいのは目に見えている。底上げ、追い上げ激しいアジアでもそうは勝てなくなり、そうなれば、サッカーに興味を抱く子供たちの数も減るだろう。ならば、好き嫌いという趣味的判断だけではなく、それが必要なのかどうか、在ることにどんな意義があるのか、サッカーをする意味は何か、と論理的に詰めて判断準備しておく必要がでてくる。それは、サッカーを知らない、無関心な他者(たち)を説得する準備であり、他者(たち)と共存することを受け入れた倫理の前提だろうし、そのことこそ、サッカーを通して子供たちに伝えたいことのひとつ、論理力、論理ということの必要性、世界標準、ということではないか?

註*  しかし捕虜への待遇は、国家間での保障に集約されていったもので、ゲリラやテロリストには考慮されない。だから昨今の国家間とはえいない戦争においては、双方とも国際法的に慣習化されたルールを守らない。またそれに従って投降し捕虜になっても、むしろ殺されてしまうほうが慣例化されているかもしれない。もし本当にそうなったら、何が世界基準なのか、ルールなのか、子供にも教えられなくなるだろう。そしてそういうことが、本当に今の世界戦争のなかで起き始めているのかもしれないのである。もう少しその辺を意識化できたら、「イスラム国の人質(6)」と題して書いてみるかもしれない。