2024年1月31日水曜日

山田いく子リバイバル(9)

 


1993.9.21 <「クリステヴァ サムライたち」に目を通しながら、フランス思想界の特徴的な雰囲気が鼻につき(それは読みとばし)ながらも、女の人がこんな風にフィジカルに性を話してくれればって思ってた。愛や気持ちじゃなく、女の人が女の人をフィジカルに語っているのって少ないと思う。女の人ってSEXを感じてるのかな。>

 

(1)1998421日 「バレエモダンダンス スプリングコンサート」 ティアラこうとう大ホール

 ・「練習問題」に出演。群舞。

・「逃走する」に出演……おそらく、この仲間4人との演舞のタイトルと振付は、いく子が、浅田彰の『逃走論』を読んでの影響で、制作したものなのだろう。

 1998.8.4 山田いく子他「逃走する」バレエモダンダンス スプリングコンサート ティアラこうとう大ホール (youtube.com)

 ・「月下の円舞」。群舞に出演。

 

(2)1998124日 江原朋子「ガリヴァ旅行記」に出演。

 1998.12.4江原朋子「ガリヴァー旅行記」より抜粋 (youtube.com)

      この公演の、江原先生単独での演舞を抜粋する。にこやかな少女の仮面の裏に、どんな本心、苦渋で女性たちが生きているのか、あからさまに告発してくるような構成である。

 

(3)19994月 江原朋子「WELCOME TO TRICKSTER」に出演。前回ブログで言及した四人の舞台。

 1999.4江原朋子他「WELCOME TO TRICKSTER」 (youtube.com)

 追記;この作品は、いく子の制作であるとわかった。いくつもの演舞を紹介する公演のなかでのものなので、ある意味安定したものになったのだろう。この頃から、江原先生から、「単独リサイタル」を試みるべきだと言われたり、先生の音楽担当の方が、いく子のための音源の相談に自らのりはじめている。


江原先生にとっては、珍しいと思われる、抽象性を志向した作品である。が、椅子4つを、平行に並べる、という冒頭や、ダンサーの配置などにも、壊していくことを配慮する、安定的な秩序が志向されている。おそらくこの場所は、長谷川六さんが主宰していたダンスパス会場なのだが、それでも、無意識なものとして抑制がきく。観客を呼ばなくてならない、会場を埋めなくてはならない、自分を見に来てくれる常連の客の期待を裏切るわけにはいかない、といった、大会場の規範からは解放される条件だとしても、歴史の切れ目や断層に逃走線を引くという思想は、あらわれないのだ。それは、いい悪いの問題ではない。ひとつの時代と、もうひとつの時代がぶつかりだした。先生は、いく子や、ほかの若い世代の生徒との間で、感づいていたこととおもう。

 が、新しい時代と意識に引き裂かれ始めた自分たちが生き延びていくための逃走(闘争)線の引き方は、いく子のような、内省的な批評意識から認識されてくる、外へと出ていこうとする態度や思想ばかりではない、ということを、この江原先生の「WELCOME TO TRICKSTER」が、示唆というか、露呈してしまった。もしかして、このタイトル自体が、先生が、自分とは違う可能性で動き出した、若いダンサーたちへむけて、「WELCOME」、と言ったのかもしれない。

いく子も出演してるようだが、私が「ようだ」とためらわずにはいられないくらい、与えられた振付や枠の中では、彼女の存在感は消される。

が、そんな枠の中でも、それを突き破っていけるということを突き付けたダンサーがいたのだ。いく子の、性格が正反対なのに、大の友人であるのだろう、「ひはる」さんである。マチネ(昼)の部では、まだお客の入りがないからか、集中力は発揮されなかったのだろう。が、夜の、ソワレというのか、の舞台では、江原先生をこえて、舞台を占拠してしまった。おそらく、カメラマンも、その演舞の迫力に引き込まれて、主役が先生ではなく、この生徒であることと思い直してしまったのかのように、その姿を追い始めた。

 いく子が、飛び出していく思想だとしたら、ひはるさんは、飛び抜けていく思想、になるのであろう。いわば、群れから飛び抜けた技術と才能をもっているのだが、それは、振付の熟練の披露というのにはとどまらない射程で突き抜けるのだ。

 私は、いく子のダンスは、自分の教養枠で把握することができる。が、ひはるさんのは、なお把握していくための言語を知らない。比喩的にいえば、巫女的、ということになるが、その言葉の含意が、集団憑依や、無意識的な世界の露呈ということであるならば、彼女の技術は正反対のものであるだろう。相当、理性的に統制されている。イチローの、バットさばきのようなものに近い。ボールのちょっとした変化に瞬時にこちらの引き出しの中からそれに対応できるものを引き出し改変し、応答する。イチローはそうやって、そのままならセンターライナーになるからと、ポテンヒットへと、ボールを芯ではなくグリップに近いほうに打点をずらして対処していく。ひはるさんのも、そういうことを、まわりのダンサーや場の雰囲気、力のみなぎりの流れ、エネルギーの気流を計算的に読み込みながら、その場に連動し、さらに、より気力がみなぎりその効果が発揮されるよう、場を組織し作り直していく。無意識的な憑依にはみえない。場に呼応できるダンサーはいるだろう。がそこを、理性的なように更新していくのは、並大抵ではないのではないか? 彼女は、孤立していない。性格的にも、人の意見を、いつも静かに聞いている。おそらく、口うるさいいく子も、彼女には頭があがらなかったろう。

 身体は、近代にあたって、ナショナリティックに編成されていった。もちろん、体が、そんな百年や二百年の人為的な試みで、矯正しきれるものではないだろう。もうそんな矯正に従って生きることはできない、がならば、もう一度なように、その矯正の立て直しを破り、超え、新しく自分たちの身体を、自分たちの方向=意味へと、この体の中にある地層群を統制していくためには、どうしたらいいのか? イチローは、打つという目的、塁に出るという目的、試合の流れを読んで、ゲームに勝つという目的の下で、自己の技術を統制できた。が、われわれは、ダンサーは? 目的ってなんだ? ただ情念を、地層の亀裂からの噴出を発散させるヒステリー的な自由だけで、いいわけがない。ならば、拘束の向こうに、私たちは、何を夢見るべきなのか?

 

(4) 舞踏作家協会 ティアラこうとう 江原朋子「和」、に出演している。

 

1999.5.1江原朋子他「和」ティアラこうとう (youtube.com)

 

     この作品のタイトルは、イロニーであろう。日本の伝統やイデオロギーを喚起させる「和」。が、そこに、女性はいるのだろうか、入っているのだろうか? 女性も、子供も、入っていける、新しい和を作ろうよ、と、笑える演出で、会場ロビーで、ゲリラ的におこなったのだろう。

山田いく子リバイバル(8)ー2

 


いく子の「エンジェル アット マイ テーブル」は、賛否がわかれたようである。

昼の部では酷評され、夜の部では、賞賛されたと、友達に報告している。

昼の部では、美術を担当している人は、日中は用があったのだろう、参加していない。その代わりなように、朗読をしていた男性が、壁にポスター大の紙を壁に貼り付けてゆくようなことをやったのだろう。そしてビラを客席に配るのだから、どこか、まだ立て看板がキャンパスにあったときのような、学生運動の雰囲気がでていたのだ。だからなのか、この作品は、「60年代、70年代を思わせる」と批評され、「過剰である」という言葉で評価を受けたということである。

しかし、どこかアングラ芸術をたしかに思い起こさせながらも、それとは質も思想も違うだろう。いく子は、「権力への抗議」をすることによる「連帯」など思いもしない、と言っている。ただ、「アンチ主流派のダンス」として「押し切った」だけだと。そしてその年代と「共通項」があるしたら、「言葉を武器にしたってこと」だと言う。

 

男性の朗読はいらなかったのではないか、と共演した他の二人、詩穂さんとさくらさんは言ったそうである。いく子はこの意見に組しない。私の印象でも、朗読がなかったら、ちょっと拍子抜けした部分が目立つことになったとおもう。が、それ以上に重要なのは、やはり、夜の部、ソワレでは出演できた平野美智子さんの、美術制作の現場の背景があることだ。鮮やかに赤く伸びる布、山のように積まれる黄色いリボン、こうしたきらびやかな趣味に、いく子のミーハー的な、芸術鑑賞好きな志向がでている。それこそが、たとえば民俗学者の大塚英志が『彼女たちの連合赤軍』で抽出してみせた、そこに参加した女性たちに芽生えていた女性意識であり、彼女らを惨殺してしまった永田洋子自身にも萌芽し、自己抑制したものであったろう。いく子はその無意識な時代の重なりと感触を、小倉千加子の本から感じとっていただろう(若い頃の日記では、この「ミーハー」という言葉をめぐり、妹と言い合っうときもあったようだ)。そしていく子の時代では、もうそんな女性意識は、抑制すべきものではなかった。むしろそれこそを、「権力」ではなく、より内在し無意識に制度化・身体化された「システム」(いく子はこの言葉を使う。たぶん、村上龍系譜だとおもわれる。)への抵抗の基点としたのである。

 

<私は女子供の世界というところに足がかりをとっている。男性を起用したって愛だの恋だのなんてやる気はない。死んだってやらない。(もっとも振り付けられたら喜んでやっちゃうけど。)女子供の世界に押し込められている女性の現状っていうことをこの人どう思っているのだろう。年齢を重ねることの良さって、この人はダンサーの若さ美しさと活筋性をみてるってことの裏返しで、これはそのまま女性のステレオタイプな見方にすぎない。>――いく子のの舞台を評した批評家に対していった言葉である。

 

この舞台には、深谷先生や江原先生も来ていた。いく子は、そんな批評家たちの言葉ではなく、江原先生や(長谷川)六さんが自分を認めてくれた、その一事で頑張れてるのだと、友達に訴えている。

 

おそらく、江原先生は、このいく子の葛藤を理解していたと思う。江原先生は、まるでこの直情的ないく子の思想に、翌年、応答するような、ベタな振付、舞台で、女性の現状を告発しているからだ。

2024年1月30日火曜日

山田いく子リバイバル(8)

 


(1)1998年2月1日 舞踏家協会 ティアラこうとう連続公演

 そのうちの、江原朋子先生の舞台「キャンプ 青白い月の光がてらしてる」、に主演している。

 

(2)1998年2月6日 「エンジェル アット マイ テーブル」と題して、仲間とともに振り付けし、自らのダンスを披露している。

 

1998.2.6 山田いく子他「エンジェル アット マイ テーブル」 (youtube.com)


※ これも、音楽が著作権にひっかかって、閲覧できなくなったようである。

 

いく子は、自分の本領を発揮しはじめた。がそのことが、「モダンダンス」を呼称する、江原先生との差異を、意識させられはじめることになった。そのことが、ほんの五日の間しかおかれていない二つの公演の比較において、歴然としてくる。そして翌年の公演において、おそらく決定的になったとおもわれる。

 

世代の差なのかもしれないが、江原先生には、核となる幻想、幼少期に夢見られるようなファンタジーが生きられ、反復される。98’21日「キャンプ」の舞台想定は、ヘンゼルとグレーテルや、赤ずきんちゃんをおもわせる、ドイツの森の中、夜、であろう。いわば、閉じた空間である。最後の場面、赤い炎とも血ともおもえる光の中で、ダンサーたちは、痙攣のような動きをつづけ、細い長い綱に赤い三角の旗のようなものを、江原先生が袖から、いかにも重そうに引いてあらわれて、終幕へとむかう。これは、江原先生の幻想が、揺らいでいる、それは自己の核としての夢であり、創造力の源泉なのだが、自分を重くし、ひきつけをもおこさせるものであることを、先生は感じ取っている。が、そこから、出る、という発想はない。あくまで、そこを表現する、という枠の中にとどまっており、それ以外の発想を、知らないようでもある。

 

が、より若い世代のいく子は違ったのだ。彼女の幻想の核は、引き裂かれており、社会の外へとひきずりだされているのだ、そのことを、意識として、突きつけられていることを、感じざるを得なくなっているのだ。

タイトルは、ニュージーランドの女性監督が作った映画からとられている。その映画の内容自体が、精神病院におくられる女性作家の話である。いく子は、もはや社会意識と作品と、自らの生き方を、要領よく振り分けて処世していくことはできない。彼女は、この自己分裂を、もう二人の個人として生きる女性ダンサーと組み、自分たちの個をぶつけあわせることで、その分裂した個々の衝突が垣間見せる、「リアル」な手ごたえ、生きた実感をつかもうとあがいているのだ。この「リアル」とは、いく子の言葉である。いく子は、すでに深谷正子先生の舞台に、こう疑問を呈してしる。<リアリティーって具象のことかな。抽象的なリアルって矛盾してるかな。>

 

いく子は、自分が何をはじめているのか、何をやっているのか、わからなかった。ただ、先生たちのいう「モダンダンス」とはずれていた。もはや、そこにはいっていくことも、とどまることもできなくなりつつあった。浅田彰や柄谷行人を読みはじめ、「ポスト・モダンって言いきれる人はうらやましい」とももらす。いく子には、そう言い切ることもできない幻想があり、自己が引き裂かれていた。いく子を評価した長谷川六氏には、それが見えていた。が、いまもなお、この亀裂からくるリアルをつかもうとするあがきを、ダンスの文脈においてうまく把握できている言説はないのではないかとおもう。長谷川氏は、柄谷行人や浅田彰がはじめた『批評空間』の前身である『季刊思潮』の創刊号に、ダンス批評を掲載した。が、彼女の言説では、この日本の思想ジャーナリズム界でも新しく台頭しはじめた言論空間に参入していくには、文脈の洗練さや、概念をつきつめるダンス界の批評の練度がたりなかった。だから、いく子は、もっと、自分を意識化してくれる、よその批評の言葉を欲したのである。それが、彼女がNAMにいく伏線だった。そして、江原先生や、その舞台にも参加してくれた、年上のおそらくはやさしい男性との別れの伏線でもあった。その二つの別れは、彼女にとって、思想的には同じことであった。父性的な抱擁さのなかにとどまり、自分をおしとやかにならしていくことは、ひとつの規範、モダンなるものを受け入れ、あきらめることにしか、彼女にはならなかった。もう、退行ができないところまで、彼女は歩みをはじめだしたのだ。

しかし、なおこの年、翌年は、葛藤の中であったろう。おそらく、彼女の方から、よりをもどそうと、花束をもって男のもとへ訪れたかもしれない。江原組の演舞にさそって、一緒に公演したかもしれない。二人で、舞台を作ったかもしれない。が、いく子は、あともどりできなかった、しないことを選んだ、ということになるのだろう。

彼女は自分のことを、「自己不確定性精神病者」と呼んでいる。

 

この舞台は、相当な強度と抽象度をもった、奇跡的な傑作である。江原先生の舞台を超えてしまっている。江原先生が、この一年程のち、まるでこの舞台の影響を受けたかのように、四人のダンサーを使う(いく子もふくまれる)抽象的な作品を作っている。がやはりそれは、具象的なストーリー性に回収されてしまう、安定的な調和、各人の対称性を保持している。(が、その枠を踏襲しながら内側から破っていく回路もがあることを、そこに参加する一人のダンサー、ひはるさんの演技が示唆するのだが、それは次のブログでの解説になるだろう。)

 

みんなすごいな、と思ってみていたら、あれ、このパントマイム、さくらさんじゃないか、あれ、この黒いダンサー、詩穂さんじゃないか、と気づいた。どちらも、付き合いが長くつづいて、私が知っている人たちだった。さくらさんは、今でも現役。詩穂さんは、交通事故にあってダンスはできなくなったが、岡山県で和紙職人のところへおもむき修行、3年目で独自の創作和紙を生みだし、現在も工房で活躍中だ。それと、朗読をしている男性。すでに当時アニメの「ドクタースランプ」の声優として採用されていて、のちに、「ドラゴンボール」などでも役をもらったらしい。いまは、ブックオフのベテラン店長であることが、スマホ検索から知れる。配布されたチラシには、ローリー・アンダーソンの「ストレンジ エンジェル」が翻訳されているが、その翻訳者を含めて、みないく子の友人・知人たちである。

 

「エンジェル アット マイ テーブル

  振付・出演 星野詩穂 山本さくら 山田いくこ

  朗読    吉本収一郎

  美術    平野美智子

 

ストレンジ エンジェル

  歌詞  ローリー アンダーソン

  訳   久喜はるみ

 

天国はTVみたいだという

小さな、完全な、世界

そこではあなたはそんなに必要とされていない

そこにあるものはすべて光でできている

日時は過ぎ去りつづける

ほら天使たちがやってきた 天使たちがやってきた

ほら天使たちがやってきた

 

運が悪いのを拡大したみたいな日

友達が夕食にやってきて

その夜は冷蔵庫を空っぽにし

またたくまにすべて食べつくした

そして居間でずっとおきていて

夜じゅう叫んでいた。

 

ストレンジ  エンジェル ― 私だけのために歌っている

昔の話 ― 頭から離れない

これは全然

私の願っているものではない

 

私は4つのドアの、外に、中に、いた

羽毛の上着を着て

見上げると、そこに天使たちがいた

何百万もの小さな涙

ほんのちょっと、そこでためらって

私は笑っていいのか泣けばいいのかわからない

それで自分にこう言った

次の大きな空は?

 

ストレンジ エンジェル ― 私だけのために歌っている

天使たちが動くとその一片一片が

私の上着にふりそそぐ

雨のようにふりそそぐ

ストレンジ エンジェル ― 私だけのために歌っている

昔の話 ― 頭から離れない

何かが大きく変わろうとしている

ほら天使たちがやってきた

ほら天使たちがやってきた       」

 

2024年1月29日月曜日

旅行

 


 ゆっくりと、母は入ってきた。

 手にした杖が、自動ドアのレールにかかった加減なのか、よろめきそうなのを見て、持っていたバックをいったん絨毯の上に置いて、母のもとへともどった。少し元気がでて、ひとりで歩けることに支障がなくなってきたとはいえ、もう、以前の、父が亡くなるまえの状態にはならないのかもしれない。あれから、半年余りがたった。その間、もはや自力での生活は、外見でも無理そうにみえるから、介護認定の検査をしてもらった。もしかして、長男の慎吾が家にいるから、それも難しくなるのか、とも危惧したが、要介護1の認定がでた。兄自身が、障害者の二級の身だから、だいじょうぶだったのだろう。

週に二日ほど、母は、デイサービスに通うことになった。認定検査を受けること自体をいやがっていたほどだから、ほんとうに通ってくれるのか、心配だったのだが、行ってみれば、けっこう楽しんでいるようだった。だいぶ以前から、風呂にはいる数もめっきり減って、むしろめったに入れなくなっていたろうから、毎週ごとに、体をお湯で温められるだけでも、生き返ったような心地がするのだろう。けれど、その道の専門職の自分には、母の靴下を履かせてやるときに目にする足の指先や、その間に、垢や埃がこびりついていることが、すぐに目についてしまう。限られた時間のなかで職務をこなしていくのだから、それは、しょうがないことだったろう。しかしその積もっていく光景は、少しずつ、心の重しになってくる。機会があれば、母を、旅行につれて、自分が風呂に入れて、体をきれにしてあげたかった。

母が、姉に会いに行きたい、と言ったのだ。実家で姉と同居し、面倒をみてくれていた独身の弟が、癌で先になくなってしまって、独り暮らしになることは無理だろうと、もう二人いるうちの弟の一人が、遠方から宮城の多賀城まで車で通いながら、いろいろ手配をしてくれた。姉と同居していた弟は、工場勤めをしていたからか、共産党員で、自分の死後のことを、党員の友人なのか、仲間に頼んでいた。なお身内が生きているうちの処置を他人に任せるのは不安だと、手続きにあたった弟は交渉し、あちこちと奔走した。まず、祖先から引き継いだ墓じまいをしなくてはならなかった。もう誰も、そこを見にゆける者はいない。檀家から抜ける、そう申し出ても、寺の住職は了承しなかった。母の何代か前には、日露戦争で活躍して、海軍の中将にまで出世したものがいた。兄の慎吾が、自分の精神のバランスをとるためなのか、いろいろ調べ上げて、親戚訪問などもしていたようである。ああ、永子の息子か、と、なお権威ある仕事などについているのだろうか、そう代を継承している親戚筋の者は言ったそうだ。母の実家は、当初は、仙台市のほうで、自転車屋を営んでいた。世界恐慌が来るまでは、裕福だったという。当時は、珍しく高級な乗り物だったのかもしれない。それが突然、貧乏になった。戦争が起きると、多賀城市の方へ疎開した。母は、小学校がかわり、そこではじめて鼻を垂らした同級生がいるのをみて、びっくりしたそうである。

手配の労苦を引き受けてくれていた弟の妻が、突然、泣き出したのだ。お姉さんがかわいそうだ! 先祖のひとたちに申し訳ない、ああ! わんわんと泣いた。住職は折れた。墓は、その弟夫婦の近くの墓地に移動することになった。母は、ほんとに演技がじょうずだったわよね、とのちに、回想した。

実家は取り壊され、更地にされた。売却し、入ってきた幾百万円かのお金は、兄弟姉妹で分割された。一番奔走した弟は、俺はいらないんだよ、もう使えきれないほどあるんだから、と言ったそうである。子供のころの記憶では、サラ金の取り立てみたいな仕事をしていて、自分にはあわない仕事でもういやだと言っている、という話を、聞いたことがあるような気がした。

姉も、千万円単位の預金があった。なので、それをもとに、専用の施設へと入居できることができたのだった。父が亡くなる、何年まえのことであったか。母は、その姉と、もう最後になるだろうから、会いたい、と言ったのだった。

ロビーの受付で手続きをすませると、ラウンジのソファに腰掛けさせていた、母のもとへともどった。母は、海に面した、大きなガラス窓の向うを眺めていた。雲のとぎれから、青空がところどころ覗いている下で、青くなりきれていない白い海が、おだやかに広がっていて、その広がりを、緑色の島が、あちこちと、まるで停泊する船のように、足を止めていた。ホテルの庭の垣根が、こちらに広がってくる波の静かな連なりを四角く区切って、その内側に、刈り込まれたばかりの芝が、苔のように覆っているのが見下ろせた。モスグリーンのゆるやかな起伏ある丘には、幾本もの松の木が散在していて、中央に、赤い屋根をもった東屋があった。大きなほんものの海とそこに浮かぶ島と、手前の、小さな、海を模した自然な風景は、どこか不均衡な二つの重なりをせりあがらせて、ここに立つ自分の場所が、まさに人工的に堅固なものであることを思い起こさせてくるようだった。階下から伸びた園路が、子供が砂場で作る細長い水路のように、微妙なくねりをみせて、東屋へと続いていた。

「津波は、その庭のところまでですんだのですよ。」

 いつのまにか、部屋へと案内してくれるのだろう女性が、背後に立っていて、少し事務的なニュアンスを感じさせて、言ってきた。

「島がたくさんあるから、だいじょうぶだったのですかね。」 直希は、人の気配を感じるだけにまかせて、海の方を向いたまま応じた。そうかもしれませんね、と女性は答えながら背をかがめて、絨毯上のバックに手をのばした。母の実家のほうでは、まえの道路ひとつ向うまで、津波が押し寄せて、危なかったそうである。

 エレベーターで何階か上の方へ昇ってから、部屋に通された。一通りの説明をして、女性はでていった。何をするでもなかった、風呂に、母をいれてあげればよかった。もちろん、男湯と女湯とに分かれた浴場になどは、連れていかれない。このホテルの一室の、狭い浴槽が使えればよかった。母は、畳に置かれた机の前で、背もたれのある座椅子に身を預けている。広がった窓からは、やはり海が見えた。向きが違うのか、先ほどのロビーからのものよりも、うかがえる島の塊が一方に偏っている。だから、半分、海が広く続く方向がある。日の出は、どちらからなのだろう。背の低い防潮堤が、浮かぶ島の手前に、くの字を描いている。漁船が走っている。庭が見えないからなのか、そこは、人の住む場所なような気がしてくる。

 夕食の時間までにもなお間がありすぎるから、テレビのスイッチをいれて、お茶をいれた。ここまでくる間、とくべつに観光名所をめぐって、お土産屋によってなどしていないから、口にするものもなかった。袋にはいった名物の笹蒲鉾が、お茶菓子がわりなように、人の数だけ皿に置いてある。母にとっては、それが食べなれたものなのかどうかはわからないが、子供のころ、家で作った味噌汁は、赤味噌だったとは思うが、世間でいわれるような、辛口であったようには思えない。ほとんど、外食などせず、母の作ってくれた食事だけをした。コロッケやハンバーグなど、子供向けの、地方色などないような献立ばかりだったと思うが、母は、料理は上手だった。ポテトサラダなども、食べやすく、食がすすんだ。群馬の山村の地主の息子だった父とは、この母の生まれた地方で知り合ったのだ。父は、自衛隊の事務職についていた。母は、仕事ができたので、そこへ派遣されていったのだという。着物をきて、大勢の人に囲われた、神社のまえでの結婚式の集合写真が残っているが、母の話だと、その日まで、式場に払うお金はなかったのだそうだ。参加してくれる知り合いのお祝いを当てにして、集まったお金を父とその友人たちが数え、その場で決済したのだともらしていた。母は、生い立ちはそれなりの裕福さを持ったのだろうが、テレビドラマの「おしん」を自分と重ね合わせてみているところがあったかもしれない。たしかに、働きづめだった。たぶん、結婚してほぼすぐになるのだろう、父の群馬の平野部の方で、長屋のようなアパートを借りて、そこで、三人の子供たちを産んだのだった。父は、地元の高校の、簿記の教師をしはじめていた。稼いだ金の半分以上が、仲間との付き合いや酒に消えていって、わたされる生活費では、どうにもならなかったのだろう。

 最初は、プラスチックの小さな部品を、プラモデルを作るときのように枠から外したり、つけたりする、内職と呼ばれるものだったかもしれない。そのクリーム色の部品の光沢の山が、記憶の片隅に積みあげられて、意識の端へと、その微かな光を匂わせてくるような気がする。それから、父が、事務型にうつったための、その補佐の仕事なのか、活字印刷のタイプを打つようになった。機織りものとまではいかなくとも、足押しミシンよりかは大きな、いかめしい鉄の塊が机の上に載っていて、一文字ごとに刻まれた鉄の活字を組みこんで並べた鉄板が、別の棚に積み置かれている。よく使う文字の入った鉄板は、すでに機械の中に挿入されているのだろう、片手で持ったレバーを、その鉄板の上に走らせ、必要な文字の上で押して活字をすくい上げ、それを印字する紙の位置にまで走らせなおし、またレバーを叩くように押して、インクを刻み付ける。ピアノを弾くときに楽譜を読むように、目よりは少し上の位置に開かれ置かれたた原稿を見ながら、一字一字、打ってゆく。挿入された鉄板の中にはない文字に出会うと、その文字が他のどの鉄板にあるかを探し出して、機械の中のものと入れ替える。打ち間違えたら、白い修正液でなおし、打ちなおす。打ち込みが、左の行先から右端の行末まで達したなら、印字の用紙が装着された丸い筒を、また左端の先頭から打ち込めるように、移動させる。ピコタン、ピコタン、ピコタン、ジー、と、その音はつづいた。いつまで続いたのだろう。朝から、中学に入るころ、父が倒れたときも、その音は、続いていただろうか。

 しかしそんな父の仕事の手伝いをしながら、母は、ピアノの先生もしはじめたのだった。母は、高校進学までで、べつだん音楽をやっていたわけではなかった。ただ、あこがれて、できるようになりたかったのだろう。とにかく、ひとつ隣の、町のピアノ教室に通ったのだ。どのくらいの年数を経てなのかはわからない。がベートーベンやショパンが弾けるようになり、家で、子供たちを教えることにしたのだ。次男の正岐までが、稽古をしたことと思う。正岐が小学生は中学年のころだろうか、父の教えていた少年野球に集中するということで、自らの子供たちは、生徒にはいなくなった。それでも、いつも十人近くの生徒を抱えて、週に一度になるのか、教室を開いていた。その中からは、実際に音大に合格する女の子もでてきて、将来はピアノ専門ではなくなったようだが、京都の芸術を教える大学の、古代の遺骨から人相を復元する専門の先生になる女性がでて、結婚した外国の夫をつれて、家に挨拶にきたりもしたのだった。

 まだある。着物の着付け。これも一度先生について、毛筆で大書された木製の板の看板をだした。それから、父が退職し、いったん勤め先の付属の幼稚園の園長になってからは、その幼稚園の先生までした。もちろん、保育士の勉強をし、試験を受け、その資格をとったのである。付属大学の学部増設の任務を終えてから、再雇用ということで引き続き事務にあたっていた父だったが、もう時代遅れな知識になるからか、やはり精神的にまいっていたからか、顔だけの園長職務は、左遷だったのだろうという。そんな父を助けるためなのか、母も、子供たちのあいだに、交じっていったのだ。

 母は、お茶をすするでもなかった。テレビの音にさそわれるように顔をそちらにあげたが、すっと、窓の向うの、海をみた。座った低い位置からは、海というより、空しかみえないかもしれない。背も、まがっている。がまがったその背を起こして、またすっと、立ち上がろうとした。座卓に手をついたところで、バックの整理をしていたのをやめて、その台のまわりをまわって、母のところへ寄った。膝をのばすのが億劫そうだったが、自力で起き上がると、窓のまえに置かれたテーブルの方へゆっくりと歩き、椅子に腰かけた。窓の向うの、海をみた。こんどは、はっきりと、海に浮かぶ島々も目に入っただろう。がすぐに母は、視線を下に向けて、テーブルの上を見つめるようになった。

 このホテルへ乗用車で向かう途中、海岸沿いの道路を走り抜けるとき、ここまで修学旅行で歩いたんだよ、と母はこぼした。幹の太くなった何本もの赤松が、その身をくねらせて、道路に、海の方へとかぶさっていた。小さな山のような島が、その松林の間から見え隠れし、切れ切れとなった海が、穴に蓋をするように盛り上がって見えた。訪れた観光客が、いくつかの塊を作って、芋虫が体をくねらすように、もぞもぞと移動してゆく。大変だったけど、おもしろかったなあ、と、母は、何かを思い出したのかもしれない。

 母は次女だったことになるのに、姉よりも、長女のようにみえた。この松島の湾に流れるいくぶん大きな川の河口先端の、見晴らしのいいホテルに来る前に、姉の入った施設に立ち寄ったのだ。用水路のような川の縁に、何棟かの二階ほどの建物が並んでいた。下火になったとはいえ、まだコロナの対策があるので、施設の中までは入れないということだった。出入口を入った玄関口、車いすでも入れるように広くはなっているので、その受付前の広間で、顔合わせ程度の話はできる、そう訪問まえに言われていた。母は、そこで持ってこられた椅子に座ってまち、しばらくして、姉が、施設の人に連れられて、やってきた。それを見届けて、過密な人の群れになるのは避けた方がいいのだろうと、職業意識が動いて、玄関を外にでた。日差しは強かった。梅雨時なはずなのに、雨は、まったく降ってこなかった。母をみたとき、背の小さな母よりさらに小さく細くなった姉は、はちきれたような笑みを皺の表へとみせた。

 10分もたたなかったのではないだろうか。母は、自動ドアをくぐって、外にでてきた。うれしそうだったねえ、帰るのが、かわいそうになってきたよ。お尻をね、まだ自分でふけるんだって。弟がね、あっちの施設をさがしてひきとってもいいって言ってくれてるんだって、タエさんがね、わざわざここまで言いにきてくれたんだって、どうするんだろうねえ……母は、少し、ゆっくりなしゃべり口だったが、饒舌になった。がまた車の後ろ座席に乗り込むと、引きこもるように、押し黙った。

 姉より勝気そうで、はっきりとものを言いそうな妹の母だった。アルバムで、若いころの写真を目にしたとき、土手の草むらの上に、スカートの裾を茸のように広げて座った母の、目をぱっちりあけて、前方をしかと見つめた眼差しは輝いていると思った。白黒の写真でも、その瞳が生き生きしているのがわかる。ベティーちゃんってあだ名だったのよ、といつだったか、まだ中学生の時分だろうか、教えるような口調で言われたた覚えがある。明るい笑みを浮かべて、そう口にしたのではなかったろうか。しかし、東北人だからなのだろうか、対人関係では控えめだった。子供の少年野球の応援では、他の母親たちの影に隠れるように、息子たちを見守った。かかあ天下といわれる上州育ちの、他の母親たちの間では、気後れしてしまうのだろうか。父の実家を訪れ、父の母や親戚たちの話し合いを目にしたとき、まるで喧嘩をしているのかと思った、という感想も聞いたことがあるような気がする。

 手持ち無沙汰になって、母の座っていた座椅子に腰掛け、お茶を飲んだ。笹蒲鉾の包装紙を引き裂いて、口にしてみる。もう何度も、母を実家に運んだついでに、その一帯にある観光スポットのような場所には立ち寄っていた。いや立ち寄るというか、素通りしながら、目にしていた。武将の勇ましい銅像のあるお城あとの公園、流れる川。思い出はかえらない、と、母が、そんなは流行りの歌を口ずさんでいたことがあったことを思い出したりした。しかし子供のころは、母は、実家にほとんど帰省したことはなかったろう。一度だけだ、思い出に残るのは。まだその頃は、母の父も、母も、健在だった。黒い、着物のような和服を着て、母の母は、笑顔をみせて、話しかけてきた。たぶん、正座をして、こちらを見ていた。が話す言葉が、まったくわからない。母の弟の、自分からすれば叔父さんにあたる者の言葉は、イントネーションがこちらとは違っても、その意味を聞き取ることができた。しかし母の母の言葉は、とっかかりがなかった。おそらく、ぽかんとしていたことだろう。不思議な経験だった。何もわからない。がそのなかから突然、「かつどん」という言葉があらわれた。う~ん、と深くうなずいただろうか。しばらくして、出前で、かつ丼がでてきたからだ。

 母の父は、何故なのだろう、たぶん二階からおりてきて、こちらに顔をだしたのだろうが、すぐに背中を向けて、どこかへいってしまった。記憶の中では、鴨居の下の、部屋の仕切りのところで立ったままの、後ろ姿の細長い背中がみえてくるだけだ。顔を、見た覚えがない。うん、とか、何か返事での受け答えを母との間でしたような気もするが、それきり、消えてしまった。昼についたのだから、夜になって、みなで食事をしたはずなのに、その姿をさがせられない。よみがえってくるのは、家の外の小屋のなかにあるお風呂のことで、五右衛門風呂の釜の姿だった。

 夜が、まるみえだった。小屋の上からさしてくるのか、電灯のオレンジ色のもやのような光の向うに、先ほどでてきた家の引き戸がみえる。まるい鉄の湯舟の底には、簀の子がひいてあって、やけどをしないように、その板の上に両足をそろえて、かがみこむ。それも、不思議な経験だった。湯につかっているというよりかは、やはり、ゆでられているような気がしたろうか。丸く縁どられた黒い水面に、顎から先の顔だけをだして、じっと、夜の向うの家の姿をみている。今から振り返れば、まさにゆでられた蛙のようだが、そのときも実際、蛙のようなぎょろ目で、身動きもせず、湯につかったまま、その開かれた目の玉だけで浮いていたように感じていたはずだ。たぶん、小学生も、中学年のころだ。母と二人で、大宮か上野駅まで電車ででて、乗り換えてまた、鈍行電車で七時間はかけて仙台にまでいったのだ。

 その母と、自分の運転する乗用車で、おそらく最後になるのだろう里帰りをしている。米寿で亡くなった父より二つ年下の母も、再来年には、そのお祝いの節目をむかえる。健康的にはそこまでゆきそうだったが、父が亡くなり、気落ちした状態がつづけば、どう転変するかはわからない。父も、ペットで買っていた犬が死んでしまってから、みるみると老化し、痴呆になり、衰弱していった。

 父が、施設に入ってからは、むしろ元気になった。この家を守らなければならない、と思いはじめたのか、となり近所の人たちと、対立するようになった。女だからって、なめてるんだよ、お父さんが人がよかったから、なめてるんだよ、と強い口調で言うようになった。堺を接したお隣の小屋の屋根のへりが、こちらの金網をこえてかかっていて、雨が激しく降ると、小屋の雨どいから雨水があふれだして、家と一体となったようなこちらの物置の中にまで浸ってくることがあった。といが外れてるんだよ、こっちの敷地の上にといがあるなんて、おかしいじゃない。わたし言ってやったのよ、こちら側につけるのっておかしくないですかって。だけど、何もしないのよ。女だからって、なめてるんだよ。たしかに、水の流れがつかえたように、物置のまえで、水たまりができるようだった。しかしそれは、梅雨時でもないのに激しい雨がつづき、雨どいではさばききれない量の大雨が降るからかもしれなかった。しかし雨どいがはずれていることははずれているので、それは脚立をだして直したが、そのお隣の小屋の雨どいの流れをみると、地面に流し落とすその垂直部分のつなぎに、穴が開いていないのが見えた。旦那さん本人が手作りした、小屋なのだろう。母に報告すると、ねえそうでしょ、おかしいでしょ、黙ってちゃだめなのよ、役所に言って、直させなくちゃだめよ、言ってもきかないんだから。

 越境してくる蜜柑の木のことでもそうだった。これもたしかに、金網をこえて、こちらの駐車場のところにまで、枝の山がこんもりと茂っていた。そのまま実がたくさんつくので、たわんだ下枝が頭の上くらいまで垂れ下がってくる。冬には、葉がたくさん駐車場のコンクリの上に落ちた。掃除にきりがないよ、まったく。実が欲しいものだから、枝を切らないのよ、塵取りの葉っぱをばあってお隣の庭に投げてやるんだから。お隣も、母より若いといっても、老夫婦だった。母がピアノを教えてもいた長女が一緒に暮らしていて、その息子たちが二人、家からどこかの職場に通っていた。車がなければ通勤できないとはいえ、みな、老夫婦をはじめ、一台一台、乗用車を所持していた。家の裏の屑屋の跡地を買い取って更地にし、砂利をひいたあと、息子たちの車をおかしてくれないかと声をかけられ、貸してやっていた。が息子のひとりが、遅く帰ってきて、吸い殻をその砂利の上にばらまいていくという。注意するという猶予もなく、母は、もう車をおかせないと言い張った。畑にするから、もうだめですって、言いにいって。そうして、車止めとチェーンを裏の空き地につけてやったのだ。

 母は、何にたいしても、かりかりするようになった。まるでそれは、これまでドラマのおしんのように我慢していたその蓋が、はち切れて、飛んでいってしまって、抑えていた中身があふれだしてくるようだった。女だからって、なめてるんだよ、口癖のようにそう言うのは、もしかして、東北からこの関東地方へと嫁にきた母が、ずっと抱え込んでいた思いだったのかもしれない。いいかい、こっち側の家との境界はね、金網の外側がそうなの、でこちらの家との境界はね、ブロック塀の真ん中がそうなんだからね、覚えておくのよ。それは、意地になっているように思えた。

 母は、窓のほうの、斜め下あたりを、ぼんやりと見ていた。その視線の先には、窓枠のなかにおさまる風景の端が見えるだろうが、母がいま、その懐かしい海と島の姿に物思いにふけっているようにはみえなかった。力のない瞳は、閉じられているかもしれない。

 父の葬儀にあわせて染めた髪の茶色が、透けたカーテンを通して照れる日の光を受けて、白っぽく反射している。もつれて落ちた髪の先が、耳たぶの上にかかっている。頬の膨らみと、染みのまだら模様の落ち着きには、風格があった。

 直希は、腰をあげて、横顔をみせてうつむく母に声をかける。

「お母さん、お風呂にはいるよ。」

2024年1月28日日曜日

山田いく子リバイバル(1)ー2


 1992年の作品「ガーベラは・と言った」の、いく子の制作過程を振り返った文章がみつかった。

 

1992.10<ラジオから昔のヒットソングがかかり、台所に座ってる女の人が、アルコール依存症にかかってるような、こわれたものにしようと思っている。

でもこわれない。深谷先生のところのメンバーはこわれない。冷たくも無機質にもなれない。困った人だ。どう振り付けていいのかわからない。だからコミカルダンスに変えちゃった。そう思えるかどうかわからないけれど、私から言われると、明るいからコミカル。照明も明るく入れてもらったし、きれいに仕上がった。>

 

しかし、最初の意図が、実現されてしまっていると見るべきだろう。じゅうぶん、椅子に座ったままの女性がアル中になってゆくような、退廃性をたたえている。コミカルに変えたのは、マリオネットなピノキオみたいな動きが、より女性の置かれた位置・拘束を浮き彫りにさせた。

2024年1月25日木曜日

山田いく子リバイバル(7)


 ・199783日 「レストレスドリーム」 

※残念ながら、おそらく最初のスペイン語の曲が著作権にひっかかって、削除されてしまった。また、いく子のダンスタイトルは上のようだったようで、「ルーシーの食卓」とは、ダンス機構主催、松村とも子企画制作の、この公演全体の題名だったようだ。天王洲アイル
駅近くの、アウフィアメックスという会場でおこなわれている。そしていく子のノートに貼り付けられたチラシによれば、衣類を広げていく二人の共演者は、亡くなるまでつきあいの続いた、堀江さんとひはるさんだった。

 

(6)で紹介したハット帽子ダンス「I asked to Summer」より、一月まえの作品になるようだ。

 たしか、ダンス評論家でもある長谷川六さんが、衣類を広げるいく子のダンスをみて、彼女の意義を理解した、みたいなことを私に言ったことがあったが、この「ルーシーの食卓」と題されたこの公演のことなのだろう。しかも、その一月後に、あの飛躍を刻印したハット帽子の演技をおこなうのであるから、彼女は、ダンサーとしては、充実した集中力を持てた時期なのだろう。江原組に入り、気の合う仲間もでき、その組みの踊りだけでなく、自分の創作にも打ち込める。

 

この舞台で、いく子は、何を表現したかったのだろう? この演技を録画したVHSビデオは、何本かあるのだが、そのうちの一本に、同じ公演での、他の女性ダンサー二人の演技のものが収録されていた。おそらく、いく子が自分のものと、彼女たちのものをも動画におさめさせて保存したのは、自分と似たものを、彼女たちの公演に認めたからであろう。

 

似ているからだ。どちらも、日常的な世界の一部を切り取って、素材としてアレンジしている。そして、「運ぶ」という動作を他者の演技として背景に持つ、ということだ。

 

二人ダンサーでは、一方が、突っ立ちながら、菓子パンか何かを、ポリポリ食べている。その背後で、もう一人が、段ボール箱みたいなものを、室内の外へと通じるドアから、入ったり出たりしながら、舞台の真ん中へんにある机に、重ねるというか、置いていく。そういう行為を骨格にして、断片的な、ダンス演技が披露されていく。

 

いく子のはどうか?

 

スペイン語の「エスペランザ(希望)」と歌われる曲で踊りはじめる彼女の背後から、やはり、二人の作業服を着たものが、両腕に、シャツや上着などの衣類を抱えて、床に山にしていく。それを、舞台の外へと通じるドアから、行ったり来たりと、舞台のあちこちに山ができあがるまで、繰り返すのだ。

 

そして、どこか破壊的なノイジーな音楽に変わって、いく子も、飛び蹴りや、彼女は高校部活でハンドボール部だったから、そのボールを投げる動作を、繰り返す。あの、上に振り上げた両手を、床に叩き落とす表現もみえる。が、おそらく、同じ日に2回公演したものと思われるが、一回目では、手が床についておらず、どこか、ラジオ体操である(両手を使うのが大変なので、片手投げになった、ようにもみえる)。が、二回目の公演で、はっきりと、床に両手が着かれた。が、またその力は、弱い。その間、作業員の二人は、山になった衣服を、一着一着手に取って、広げ、床にならべるというか、広げはじめるのである。

 

そんな中で、また、音楽が変わる。イスラム教のような、祈りの文句をとなえた曲が流れる。いく子も、祈りのようなポーズを連想させるフォルムをつなげながら、しばらくして、衣服を広げる作業員とともに、静かに、ゆっくり暗くなっていく舞台の闇に消えていく。

 

タイトルには、「食卓」とある。食べる、着る、つまりは、日常にある現場、労働の、仕事ある生活。しかしその普通な表象の背後では、ゴミ捨て場のような山ができていく。それは、乱雑に、拡張されていく。その間を、狂ったように走り回る。――テーマは、明白になる。希望、破壊、祈り……今の世界、そのものだ。

 

1997.8.3 山田いく子ダンス「ルーシーの食卓」 (youtube.com)

山田いく子リバイバル(6)ー2

 


S.62..7 七夕<アナイス・ニンの日記 一日め。笑ちゃった。あなたがわからないのは、私がヘンリー・ミラーだから。早く読んで、そう言えばよかった。あなたは ニンに 似ている。ニンはあなたに似てる。まだ読み終わってないから、感想は、あなたの分析は……怒らないで、次回に。>

 

家父長制的な下で幼少期を送った彼女たちは、表向きは、「強い姉」、キャリアウーマン、下村満子、といった表象をもつ。が、その内面では、少女漫画(いく子の小倉千加子の受容はこの文脈でだろう)、小さな、「軟弱」な自分を育んでいくことで、精神のバランスをとるほかなかった。精神分析的な解釈など、彼女たちが気づき、わかっているのだ。だから、ニンはどうしたいの? といく子は問うている。

 

そこから、自分が知らない間に立たされた位置から、彼女たちが、どう方向=意味(sense)を見出し、あがいたのか、その思想的な葛藤を読み込んでいくことが大切だと考える。

 

たとえば、性同一性障害者は、手術して体を変えてしまえば、同一性を確保できれば、問題は解決されるのか? そうではない、と、よりグラーデーション(レインボー)な場所にいる彼女たち、いく子や冥王真佐子の生きざまが、あかしている。

 

自分のマッチョさを、唯物(交換)論的に偽装することや、耄碌的に居直ることの、どこに意義があるのだろう?(いく子は、柄谷と村上春樹を、「軟弱」だから好き、と受容している。村上春樹が男根的なのは、最近の評価では、宇野常寛や福嶋亮大によって、あからさまに指摘されている。二人が世界で受容されているのは、そんな「軟弱」な体系(男)でモテルことがありうるのか、という、日本的形式性へのエクゾチズム、オリエンタリズムであろう。)

2024年1月23日火曜日

山田いく子リバイバル(6)

 


1997.9.1 作家協会 新人コンサート 「I asked to Summer」

 

39歳の作品。また「ホテル・カルフォルニア」の音楽が流れたとき、やば、これも著作権にひっかかって、削除されるのか、と思った。が、そうにはならなかった。何故なら、いく子は、この音楽を、ずたずたに引き裂いたからだ。

 

小道具として、「ガーベラは・と言った」ででてきた、ゴム紐が使用された。しかしその使用は、女性の現状を寓意するかのような象徴行為としてではない。彼女は、自分を、批判しはじめたのである。ゴム紐は、2本だけ使われた。踊る舞台の手前に、だから2本の線が引かれた状態になる。これは、たとえば字を間違えて書いたとき、2本の傍線をひくだろう、そういうことなのだ。いく子は、これまでの自分が、ダンスが間違っている、否定する、という表明実践にでたのだ。

 

(1)「ホテル・カルフォルニア」の楽曲が、日本の歌謡曲の断片に寸断され、バラバラにされたのは、この自己言及、自分の作品を引用することによる、自己批判の決意なのだ。いく子は、この作品で、文学的に言うならば、「歌の別れ(中野重治)」を遂げたのである。自分を笑い飛ばし、ダンスを笑い飛ばし、ユーモアをまといはじめる。

 

大きなハット帽で顔を隠す。何故か? 彼女の自己批判は、自己を消すことであり、ナルシズムからの脱却実践だからである。演技後、ゴム紐を袖脇で持ってもらっていた、ひはるさんをはじめとした二人を、舞台に呼んで、一緒に挨拶をしている。ナルシズムから出るということは、他人の間にあることを、自覚することでもあった。彼女は、ジオシティーズでのダンス&パンセHPでの自己紹介文に、こう記した。「私はソロダンスが嫌いです。ダンスは身体であると同時に、関係なのですから。」

 

私の知っている、いく子が、登場した。

 

     いく子は、この公演での写真を、プロに頼んだようだが、そのやりとりのメモがでてきた。彼女が選んだ三枚の写真を、縦に並べてくれ、と。そして、その写真は、トイレに飾るのがいいのだ、とつけ加えている。たしかに、いつもいく子は、その三枚一組にしたハット帽写真を、トイレに飾っていた。千葉の自宅でも、そうしようと、出入り口ドア上部の窓枠に置こうとしたが、落ちてくるので、やめにして、どこかにほっておかれたままになっていた。遺品整理にあたり、私はそれを、階段の壁にかけたのだが、そのメモをみることになったため、トイレに、飾り直した。

 

1997.9.1 作家協会 新人コンサート 山田いく子 タイトル「I asked to Summer」 (youtube.com)

 

(2)上のダンスのゲネの模様。公演まえの打ち合わせ、音響・照明あわせなどが終わったあとで、舞台担当者が、まえのロープを全然使わなかったけど、いいのか? と聞いている。踊り終わって息を切らしているいく子は、首だけで、いいの、とうなずいている。この2本の線は、ただ、舞台のまえで、舞台自体を消すためにこそ、引かれていなければならなかった。しかし、誰が、そんな彼女の実践を、理解できただろうか?

 

1997.9.1作家協会新人コンサート 山田いく子 「I asked to Summer」のゲネ (youtube.com)

山田いく子リバイバル(5)

 


・1996年12月12日 バレエ・モダンダンス合同発表会 豊島公会堂に、江原朋子先生のダンスカンパニーのメンバーとして、いく子は参加している。

 

髪を短くし、生き返ったような彼女の姿を見ることができる。ほっとする。この年に、KRAS WORKSHOPに申し込み、そこで、亡くなるまで関係が続いた気の合う友人たちと出会えたことが、彼女を救ったのではないかとおもう。

 

上公演よりの、いく子出演のものをアップする。

 

(1)「ずれ」……そのタイトルは、現代思想的なものを予想させたが、たぶん、そうではなく、3人での演舞のうち、いく子のダンスがずれている、ことから命名したのではないかとおもわれる。いく子が、練習に熱心でなく、振り付けをきちんと覚えられないから、先生がならば、とそのへたくそ自体を取り入れて、口達者ないく子自身への皮肉か、あるいはそれを超えた太っ腹なユーモア、諧謔として、この舞台を作ったのか、と思った。が、この公演の最後は、また「江原組」のダンスで終わるのだが、それを見ると、そうでもなく(つまりいく子もちゃんと踊っている)、「ずれ」に参加した3人のメンバーのアイデア、ならばとくには、いく子自身の、自虐ネタ、とも考えられてくる。

 

     なお、YouTube上の領域を、スマホから直接アップロードすることにしたため、以後の録画は、ダンス&パンセ2、として新しい場所へ移行する。

 

1996.12.22バレエモダンダンス合同発表会「ずれ」 (youtube.com)

 

(2)宴(うたげ)……いく子やひはるさんを含めた、江原組の先鋭部隊になるのか、の群舞。

 

1996.12/22 バレエモダンダンス合同発表会 豊島公会堂「宴(うたげ)」 (youtube.com)

 

(4)フィナーレ……公演終わっての、幕前での皆での挨拶。いく子の笑顔をみられる。結婚当初、江原先生とも少し話したことがあるが、彼女の父親は、神田の鳶の棟梁だったそうである。そしてその父は、一度も自分のダンスを見にきてくれたことはなかったという。いく子の父も、私とのやり取りのなかで、いく子のダンスを、あんなもの、と言っていたように記憶する。が、彼女たちは、自分たちを、「組」で呼ぶ。いく子には、おそらく、その男性性が、馬に合ったのだ。深谷正子先生とも、脱会したあとも、やりとりがだいぶ続いたようだ。そして先生方は、口達者ないく子をうさんくさがっていたと思うが、決して「切断(柄谷用語)」しなかった。そんなダンス界の、懐の深い先生方に、いく子を私のところまで、無事とどけてくれたことに、感謝の念がこみあげてくる。

 

1996..12.22バレエモダンダンス合同発表会 豊島公会堂「フィナーレ」 (youtube.com)

2024年1月22日月曜日

山田いく子リバイバル(4)

 


前回のブログで、いく子は、親に「小説」を書いていると嘘をついたと書き付けているが、実は、嘘ではなかった。

 

そう書き付けた95年の時点では、嘘な理由付けなのだが、実は、91年ころから「制作ノート」と題された日記をつけはじめている。私は、彼女のダンスの制作意図等がうかがえるかと思って、91年6月までつづく5冊の大学ノートに目を通してみたのだ。が、なんとこれは、小説を書いていくための“創作ノート”だったのだ。

 

「制作ノートNo1 ’90 10/3 統一ドイツの日から」と表紙に小さく記されることからはじめられたその「制作」意図とは、派遣労働の実態をあばくべく企画された、いわばプロレタリア小説の構想なのだ。彼女はこのころ、自分を自主的な首に追い込もうとしている派遣会社と個人的に闘争している。労働組合に早くから参加したこともある彼女は、組合が、結局は男性支配を手放す気はないと見切っている記述もある。しかし、その軋轢に疲れ、91’年の年末に、トルコ・イスタンブールへと突如旅たち、92’年の夏には、ニューヨークへも行く。ニューヨークでの、壁の落書きを背景にした彼女の写真が残っているが、おそらく、拒食症になっていて、がりがり気味にやせている。

 

いく子はその日記のなかで、リアリズムを嫌悪していると表明している。構想としては、日記的につづっていくものだったようだが、もちろんというか、本人にはそれを続行していく気力が備わっていないと自覚しているので、冗談なように綴られていくことになった日記=「制作ノート」だったのだろう。

 

10/3……<アナイス この人の日記はすごいですね。長大な量を書き続けたこと。私がしゃべって歩いて、浪費させてきた時間を綿々と書き続けたんだなと、方法と労力に感心しています。私はできなかった。日記を書き続けたら(「完全に」―線で消されている)気が狂うと思ってた。醜悪なものも、見据えてしまいますもの。>

10/4……<おそらく私は女性の権利を声高に叫び、自己啓発、自己表現の可能性をたゆまぬ努力し続けたと思う。たぶんそういうところが約束されていたと思う。しかし叫ぶ以前のところにおしとどめられてるんだな、私は。会社がない、仕事がない、権利がない。しかしひょっとしたら、理想のところにいるのかもしれない。すべては私のためにあること。かきねをこえて移動できること。ボヘミアン>

10/31……<小説作法 「私」が会話体で物語ってゆく。録音して速記して完成させる。><(註―アナイスニンに対して)女の情念――こんな文句どこにも書いてありませんが、こう言ってしまう人が苦手で。しかもそれが何なのか私は具体的にわかってないのですが、アナイスから匂ってくるんです。たぶん、これが反発してるものなんだと思うのですが。最後まで何に反発しているのかを確かめようとしてるのですが、うまくいかない。><年末にさしかかってくると ばかさわぎがしたくなり、クリスマスが近くなると、恋人が欲しくなる。どこかに遊びに行きたいな。東京nightでもいいし、軽井沢・湯沢でもいい。>

 

12/10……<タイトル「負け犬の遠吠日記」→ヤメ! 要素 ・アナイスニンの日記、泥棒日記 ・髪を切ったこと 検定 舞台 〆切 ・履歴書について、経歴について ・労働の現場 終身雇用が崩れてる><好きな女の人 下村満子 小倉佳代子 フェミニストが好きだな。>

 

「制作ノートNo1」からの抜粋のみにするが、次第に、片思いをつづる葛藤も増えていく。海外への旅たちは、その男性に拒絶されたこともあるのだろう。

 

いく子は、アナイスニンが日記のなかで、セックスとかの記述を省いたこと(あるいは出版にあたり削除されたのではないかと)を疑問視しているのだが、これまでのところ、彼女自身がそうしたものを抑制しているように感じられる。熊本での、男子校から共学にかわったばかりの高校生活で、自分が奥手であること、出遅れてしまっていることを吐露する記述も目にしたが、それゆえに進学できず就職したあとでの男性づきあいは、恋を恋するためにやってしまったようでと、後悔している初期日記の記述も目にした。

が、彼女が、おそらく男性的な男性から逃げてしまうだろうようなのは、父親の精神分析的対象になるような影響ということもあるが(だから、父への愛を語るアナイスを好きになれないのだが、その嫌悪が、自身への否認の身振りであることにも感ずいている――)、それ以上に、彼女自身が男性的であり、そして、レズビアンではないが、同性愛の志向が強いからだと思われる。

 

いく子の残した本には、荻尾望都の半自伝のものがある。少女漫画のジャンルになるのだろうか。彼女は、村上春樹が好きだが、その理由は、彼(の主人公)が「軟弱」だからだと記している。彼女の心の中には、小さないく子が住んでいる。その小人が、日記を記しているようなところがある。そもそも、この「制作ノート」自体が、ある女性、「軟弱」な心を秘めた男性として、憧れの女性に向けて書かれ始めているのだ(おそらくその頃なのだろう、映画「ヘンリー&ジェーン」とかいうアナイス・ニンとヘンリー・ミラーの関係を映画化したものが放映されたのは。その映画感想を彼女に送る、という体裁で書き始められた「制作ノート」なのだ)。そしてその憧れの彼女が、和歌山県の有田市出身のダンサーで、いく子を中上の熊野大学に誘ったのである。彼女とだけのやりとりをまとめた「○○ノート」も、4冊残っている。そして、いく子は、その熊野大学で、柄谷行人の涙をみ、そこに、男性の中の「軟弱さ」、いわば、女性的なるものに感応しているのだ。そしてもちろん、ヘンリー・ミラーとアナイスニンの翻訳を手掛けた経歴のあるのが、柄谷とその最初の婦人、のち小説家の冥王まさ子だった(彼女のペンネームや小説を考えれば、そこにも、少女漫画的なものを認めることができる)。となれば、彼女は、二人の関係を描いた映画に、レズビアン的な、あるいは少女小説的な少年(同性)愛が希薄であることこそを読み込もうとしてしまっているのである、となると思う。また、のちに、彼女が年上の男性との結婚に踏み切れないのも、そうした精神的複雑さが(私はそこに、時代をブレークスルーしていく思想性を勘ぐっているので、山田いく子をリバイバルしようとしているのだが――)、起因しているだろう。

 

とりあえず、そんな仮説推論で、終えておく。

 

2024年1月21日日曜日

戦争


 『The last day of the Caverna, Latin restaurant and disco in Kabukicho, Shinjuku, Tokyo, Japan.

 

 そうタイトルを打って、英文と日本文のものを投降してみたのだった。

 

I want to appeal to the Ukrainian people. Everyone knows that the Russian Putin has begun to invade this time. So you can surrender with confidence. In the past, the Japanese also fought a thorough fight to prolong the war, and as a result, indiscriminate carpet bombing and two atomic bombs were dropped. I don't want to see other people like that again. On TV, a Ukrainian grandmother sadly says "Surrender to Russia will kill all lives, not just our territory.” It was once thought that if the Japanese surrendered to the United States, the men would be killed and all the women would be raped. But that didn't happen. If we had surrendered earlier, many people's lives would have been saved. But Ukraine is still in time. Please survive. Surrender to war is neither the end of life nor the loss. The fight continues. Endure the intolerable, and survive. Please.

私は、ウクライナの人々に、訴えたい。今回、プーチンロシア側か、いっぽう的に侵略をはじめたのは、みなが知っている。だから、自信をもって、降伏してください。かつて日本人も、徹底抗戦して戦争をながびかせ、その結果、無差別絨毯爆撃と、原子爆弾を二つ、落とされた。もう二度と、他の人々に、そんな目にあわせたくありません。テレビでは、ウクライナのおばあさんが、ロシアに降伏したら、領土を失うだけでなく、みな殺されてしまう、と嘆いていました。日本人もかつて、アメリカに降伏したら、男は殺され、女はみなレイプされるのだとおもわされた。が、そんなことにはならなかった。もっと早く降参していたら、たくさんの人の命が助かった。しかしウクライナは、まだ間に合う。どうか、しぶとく生き抜いてください。戦争への降伏は、人生の終わりでも、負けでもない。闘いは、つづくのです。耐え難きを耐え、どうか生き延びてください。

 

 

私は思い出す、もう二十年近くまえになるだろうか、東京は新宿の、歌舞伎町にあったラテン・レストラン&ディスコを店じまいした日のことを。

 

経営者はフランス女性で、店長はペルー人、そして日本人の私が保証人だった。

 

歌舞伎町は、日本でも一番の歓楽街であって、私たちは、南米や中東からの客を相手にしていた。街は、暴力団がしのぎを削る場所だった。みかじめ料として、その組織の一つに支払うことが慣例だった。

 

正月の注連飾りを購入するのも、そのひとつだ。集金しにきたヤクザと、「新宿で植木職人やってる俺が保証してるんだから、それは要らない。必要なら、自分で作れる。」と言ったことがある。もちろん、慣例をやぶることはできなかった。

 

あるとき、イランの男たちが、アラビアン・ナイトの物語にでてくるような刀を振り回して喧嘩しはじめることがあった。集金しにくるヤクザが呼ばれたが、「見てるだけ」、と経営者は怒っていた。バーテンをしていたコロンビアの男性が、白刃取りでつかんだというエピソードもある。私も、カウンターの下に隠してあった、没収された刀を見せてもらったことはあるが、そうした事件に出くわしたことはない。

 

店は、10年近くは続いたのだろうか。なお日本はバブル経済の余波があったころだ。しかし、たくさんあったラテン系の店も減っていき、とうとう歌舞伎町では、私たちとヤクザの経営する店だけになっていた。客層が、中国人に変わってきていたのだ。

 

ヤクザの店と一騎打ちのような形になった私たちの店には、いろいろな圧力がかかった。私たちの店にいったものには、罰金が科せられたりした。

 

そうしたある日、経営者から電話がかかってきた。「店を閉めようとおもいます。ヤクザには、何も言っていません。だから、暴力、あるかもしれません。彼らがお金を取りに来る日に、やめます。」

 

私もその日、店に行くことにした。日本語のできる日本人がいたほうがいいだろう。店では、経営者のフランス女性や、ペルー人の店長がいた。彼とは、夜の荷物担ぎの仕事での仲間だった。DJでもある。食事を作っていたペルー人のおばさんや、コロンビアの青年がいたのかは、覚えていない。

 

フランス女性は、モップをもっていた。「これで、彼らにも、お掃除をしてもらいます。」

 

私は、ソファに座って、待つことにした。一時間たち、二時間たっても、ヤクザは現れない。いつしか、私は寝入ってしまった。目を覚ますと、フランス女性が言った。「やっと起きましたね。あなたが寝てたので、ヤクザは店にいれませんでした。道路で、話をしました。もう、終わりです。」

 

朝までには、まだ間がある時刻だった。

 

私たちは、降伏したのだろうか? 一騎打ちに、負けたのだろうか? そうかもしれない。彼らは、銃を持っている。私たちは、モップを持っている。だから、どうしたというのだ?>

 

フェイスブックの友だちには、英語圏のものはいなかった。南米、フランス、そしていつからか、中東、アフリカの人々とつながることになっていった。もともとは、日本での仕事で知り合ったペルーの男や、彼らと結婚し一緒にペルーの方へ帰っていったコロンビアの女たちから、これで連絡がとりあえるから入っていてくれ、と頼まれて、わけのわからぬまま、彼らの招待メールに応答したのだった。日本が不景気になるにつれ、永住ビザを持っていた日系の者らも、日本にとどまる選択をしなかった。そんな彼ら彼女に向けて、というより、彼ら彼女を通して、ネット上の世界に訴えたのだった。

 正岐は、何が言いたかったのだろう? 振り返ってみると、正岐は、ロシアの大統領であるプーチンのことを、一番に心配していたのではないかと思い出されてきた。引き続いたフェイスブック上の投稿では、プーチンはクレムリンに原子爆弾を落とすだろう、と訴えた。そう想像されてくる覚悟は、正岐には、個人的なものというより、人類的な衝迫に由来するように思われた。日本人の玉砕という思想も、たとえその作戦が実際には、指導者が己のプロとしての無能さを合理化するための拙い考えで行われたとしても、生き物総意としての意志が蛇のようにのたうったのだと思えるのだ。侍の切腹という気概や儀式が、単に個人的な意志によるのではなく、人々が狩猟を営んで暮らす太古の時代から引き継がれてきたもののように。獣のはらわたを白日の下にさらして己の潔白を示したいという作法は、いつしか己自身のはらわたをさらけ出す行為にかわっていった。ロシアの作家のドストエフスキーは、日本に残ったその切腹のあり様に興味を持って言及している。作品『白痴』でのそんな逸話と、プーチンを通して垣間見えてくる覚悟のような訴えが、正岐には重なりはじめたのだった。プーチンと何度か会ったことのあるアメリカの研究者は、プーチンはドストエフスキーの小説に出てくる主人公のような人物なのだと評していた。世界に躍り出たそんな主人公に、本当に、人類自身を破滅させるような意志を実現させていかせていいのか? 腹を切れ、と迫っていいのか?

 日本でも、若者たちが、同じような衝動にのたうち始めたような事件があいついでいた。秋葉原での歩行者天国に車で突っ込んでいった通り魔事件、京都アニメーションの放火事件、大阪の精神科への放火事件、東京は京王線での放火事件、東大入学試験場まえでの殺傷事件……それらは、心理学的な用語でなのか、「拡大自殺」という言葉でくくられてもいた。彼らは、特別なのだろうか? 正岐自身、バブル期、大学は出たけれど、とアルバイトの生活に入りながら、そのような衝迫を世界に向けていなかっただろうか?

「俺だって、」と慎吾が島原の言葉を受けついだのだった。「追いつめられたうえ降伏もできなかったら、やるしかないって、やるときはやるって、やるさ……」そしてまた押し黙った。

「で、やれなかった、と。」 島原が軽蔑したような目を、慎吾に向けた。「おまえの釈明を聞いてやってもいいから、俺はおまえを呼んだ。しかしおまえ個人の釈明など、どうでもいい。日本は、日本人は勝ち目のない戦いを世界へとのぞんだ。戦わなくても屈従される、戦っても屈従させられる、しかし、戦わなかった者たちは忘れられるが、戦った者たちの記憶は残り、その戦で負けても、また未来の若者たちがその記憶を根拠に奮起する、それが歴史が示していることだ、だからいっときの負けに屈従しても、戦って負けるべきだ、そう日本軍の参謀は戦略したというA級戦犯者の記述がある。しかし、原爆を落とされてもなお徹底抗戦をつづけたとしたら、どうなっていたんだ?」

「それこそ、一億総玉砕じゃないか。」 慎吾が島原を睨み返して言う。

「そんなのは物理的に無理なんだよ。」 島原はつづけた。「一億人の死体が日本列島を埋めるだって? 訓練もされていない民間人が、刺し殺し合えるのか? 生態的にだって、みなが同じ考えと行動をおこせるなんて前提にできないだろう。ハチやアリンコに分業があるようにな。だからいずれ降伏になる。その意志があろうとなかろうと。いや降伏の意志をも示さなかったから、結局は、朝鮮半島みたく分断されたうえで、しかもクニはなくなり、ソ連と合衆国の領土になっていったのが現実的な落ちだろう。いまのウクライナだって、そうなる可能性があると言われているしな。」

「いまのウクライナの人々は、まるきり被害者じゃないか。日本人は、自分からやってしまった者じゃないか。……俺は、加害者になるのが怖くてやるのをやめたんじゃない……」   ウーロン茶の入ったグラスを両手でつかみ直して、下を向いて、慎吾はじっとみつめた。

「原子爆弾をはじめ、いまの科学技術がおおった世界のなかで、加害者と被害者の区別がありうるとおもうか?」 島原が、見下すように慎吾に言う。「ウクライナ頑張れ、って戦争に加担し、その戦争でどっちの国の者だろうが殺し合い、よその国では餓死者がではじめ、内戦がおき、因果の複雑さは露わになる。ネット上の不備が、いつ世界じゅうの現実をおびやかすかもわからない。健康のためにと打った薬が、時限爆弾のように体をむしばんでいくのかもしれない。ゴミとなった人工衛星が、いつ空から降ってくるのかもわからない。スマホをいじってた誰かちゃんにそのゴミが当たったら、その誰かちゃんは、被害者なのか? 世界頑張れ、って応援していた者なんじゃないの? 問題起きても当社は責任おいませんっていう契約書にサインして、みんなが片腕だして薬漬けになっていったんじゃないの? 誰が責任を負い、負えることができるんだ? 小さきものたちの一挙手一投足が、世界とつながってしまっているんだぜ?」

「で、だから、何が言いたいんだよ?」 慎吾がいらついたように顔をあげた。「俺は、やってないんだから、責任なんてないさ。いや、それでも……良心の呵責ってものがあるだろう? おまえにそそのかされたからって、俺は、被害者面なんて、したくはないさ。でも、加害者じゃないけど、けど……」

「もう終わってゆく世界を前に、加害被害もないだろう。」 時枝は手にしていた焼き鳥の串を皿にもどして、ビールを一口飲んだ。「全員が死んでゆくのに、なお責任がどうのこうのと争っているのは、意識が近代空間に残ったまま、ということではないのか。」

「おっ、」と島原が合いの手を打つように、声をあげた。「お得意の『世界史の抗争』か? いちおう、読んでやったよ。印税で、貢献もしてるぜ。」

「それはどうも。」と時枝は応じた。「しかし中世の人々が今の世の人々とは違う世界を見ていたように、世界が変わるということは、ありうることだろう。世界の見方が変わるだけで、世界自体は変わらないじゃないか、とカントみたく言う人も出てくるだろうが、人が生まれながらにして生き方が変わってしまう、とはしばしばあることだ。神秘体験から回心した宗教家をはじめ、UFOから降りてきた宇宙人に会って人生が変わってしまった人もいるし、読書体験が、その人の生き方を変えてしまう場合もある。その場合、単に、見方が変わっただけ、とは言えないのではないか?」

「ああ言えないよ言えない。」 島原がおしんこを串でつついて、やけになったように言い返す。「おまえの話はあれだな。」と串でとったおしんこを口にもっていった。「イエス・キリストだよ。迷える一匹の子羊みたいに、やけに具体的な喩え話がやってくる。が、神じゃないぜ。悪魔の救世主。あくまで、現実的な解でなくちゃいかんよ。小さき人々は、パンを欲しているんだからな。」

「そうとはかぎらない。(時枝はつづけた。)そういうことを、スマホを手にしている人々が示している、そう世界の見方が変わってきていることを、証しはじめているのじゃないか?」

「人はパンのみに生きるにあらず、ってか?」 島原はもぐもぐと言った。「そりゃキリストなこった。このとんちゃんのおしんこよりも、ヴァーチャルな世界の方がおいしいだって?」 島原はまたひとつ、おしんこを串でとって、見つめた。「たしかに、ありうるな。このおしんこより、スマホ失くす方が一大事だろうからな。」

「その通りだ。一大事だ。」 時枝は口を潤すように、ビールをちょっとだけ、口に含んだ。「なぜなら、そこにはその人固有の記憶が付着している。データ化され、物質的にひきだせるものが大事だというのではない。そういうものなら、クラウドに保存されてもいるだろう。だが、そのデータ総体と、スマホと一緒に過ごしてきたという一事は消えてしまう。つまりはデータの集積は、プラスアルファな余剰を人に与えている。その余分に抱え込んだものの方が、人にとって、いや生き物にとっても、大切なものだ。」

「そうなの?」 島原が、つっけんどんに言う。

「宇宙とは、余りあるものだ。」 時枝は、意に介さないようにつづけた。「全ての物質を足した総体より、宇宙は重い。」

「へっ、」と島原が鼻でふくような声をだす。「ダークマターがあるんだってか?」

「記憶とはなんだ?」 時枝は食べ終わった焼き鳥の串を、右手の長い人差し指でオーケストラの指揮棒のように持ち、チク、タク、と小さく上下に運動させた。「アリの生態の話がさっきでたが、子育ての分担作業をしていたアリだけをとりだしてみても、やはりそのうちの2割だけが働きアリとして外へとでていくようになる。申し合わせはない。アリにとって、外を出歩くとは、感染症の危険にさらされることだから、命がけの散歩だ。そういうアリでも、外敵に出会えば、右往左往し、逃げる。怖いのかもしれない。カマキリだって、人が手をだせば、歯向かってくる。怖いのかもしれない。が、生殖の役割を終えたオスは、メスに食われて死ぬ。怖くないのだろうか? なんの申し合わせもないのに、瞬時にして死を超えたコミュニケーションが成立し、総体が、生態系が納得し、プログラムに従っている。しかしそのプログラムは、データの総体を超えている。DNAに書き込まれているのではない。世界に、宇宙に書き込まれている。人はその法則を、見ることも、知ることもない。量子の観測問題として、そう推測できるだけだ。ハトだったら、目隠しされて移動されたハトは家に帰れなくなるから、どうも目の中での量子現象が、帰巣本能という集団性を実行させているらしいと推定されるだけだ。ならば、こう推定することは、飛躍なのか? ヒトも、戦争を怖がって逃げる、外敵を怖がって戦う、みなで家に帰りたくなる、けれども、メスにむしゃむしゃ食われることは、恐れてはいないと。」

 島原が一瞬押し黙ったようになってから、「知るかっ」と首を振った。「俺は、カマキリは嫌いだからな。一緒にするな。」

「そ、そうだよ。」と慎吾が、おどおどした声をだした。「カマキリのオスみたく食われるのがプログラムだなんて、それじゃ、人間の意志など、問題ないというのかい?」

 時枝が、慎吾の方を向いて、笑い顔をみせた。目を細めている。「やってやる、とか、戦ってやる、とか、反戦だ、とかの意志があるじゃないか。だけど、そんな意志なら、むしゃむしゃ食われているカマキリの方が、偉くないか? 真理はわからない。が、こっちのほうが格好いいとか、すごいとか、実際的な行動の方が重要な場合もあるだろう。」

「行動って……(慎吾は口ごもった。)メスに、食われるって、こと? プログラムは、宇宙は、お、オンナなのかい?」 頓狂な声をあげた。

「アダムとイブを神が創ったという場合、神は女だ、と人間的にはそういう解釈もありうる、という話は成立するだろう。が呼び名ではなく、現実が問題になっている。真理ではなく、真実が大切な場面に直面しているということだ。人間は本当は、食われることを恐れていないのではないか、ということだ。」

 慎吾は、頭を振った。「わからない。俺は……」口までもっていったグラスを、またテーブルにもどした。「俺は、世界が、世の中が怖くてしょうがない。ほんとうに、食われちまうみたいじゃないか……」

 正岐は、下を向いた慎吾の横顔を認めてから、こちらに背を向けた時枝の、その背筋の伸びた青い背中に、池に石ころを投げるみたく、声を落とした。

「ドストエフスキーの作品でも(と正岐はつづけた。)、待ちかまえていたクモにむしゃむしゃ食べられてしまうのが宇宙の真実だ、みたいな話がありましたね。だけど、それは、やはり怖い認識として、説かれていたように思えましたが。……」

 時枝が、ゆっくりと背中の芯をねじって、上体だけをいくぶん、正岐の方へ向けた。

「それは、19世紀の、あくまで大戦まえの近代空間での意識にすぎない。三島由紀夫は、最後の切腹で、ほんの一寸しか腹を切れなかった。無理もない。中世のような緊張した空間は消えて、弛緩した、平和な後世で無理やりな動機を作らなければならなかったのだからな。しかし、二度も世界の廃墟を目の当たりにしてきた人類は、全てをゆだねるようになる。三度目となったら、なおさらだ。世界が滅びようと、この宇宙はなくならないという当たり前の真実を、受け容れざるをえなくなる。」

 正岐は首をかしげた。「建築物は亡くなっても、庭は死なない、という話に似てますね。三島由紀夫にも、『終わらない庭』という認識があるようですけど。」

 時枝は正岐の方に振り返るまでのことはせず、あくまで同じ調子で言葉をついだ。

「正確には、人間の世界とともに、この宇宙も滅ぶ。死なないのは、人にはあずかり知れない宇宙だ。」……そう言ったとき、ガラッと、店のドアが開いた。

山田いく子リバイバル(3)

 


19951月より、いく子は、深谷先生のところから、江原朋子先生のスタジオに移っている。37歳の時になる。

 

 この年、いく子は失意のどん底に落ちたようだ。私は、たまたま段ボール箱から落ちてきた、1993年1月から1997年末までと表記された(実際には92‘年末よりの記述)大学ノートだけは、今の段階で目を通している。それは日記というより、他の友・知人へ宛てた手紙をコピーし、貼り付けたものが多い。93’年の夏には、中上健次死去からの2周忌にあたる、熊野大学に、おそらくは四国のダンス友人に誘われて参加している。そこで、司会をした柄谷行人が、四方田犬彦による中上作品を一般的理解へ解消してしまうその読みに怒り、涙を流し、その姿に心打たれている。私と彼女が、柄谷が始めたNAMで出会うことを思えば、契機を刻む年ではある。のちに、NAM創生に関わる幾人かにも、出会っている。95年は、阪神大震災が、発生した年であり、関西にすむ友を案ずる記述もある。が、いく子は、明くる年が迫る中、それどころではない現状に突き当たっていったように見える。それは、このノートからは伺い知れない。彼女の、この年の11月、おそらく自らソロ活動を始めるにあたり開催した、「パフォーマンス」とだけ題された、音羽での公演録画で、その惨状を目の当たりにしてしまう。

 

そのノートの、引用からはじめなければならない。

 

1/4……「昨々年の11月から仕事をせずにいます。小説を書くと両親にはいってアパートを借りたままそこにポツ然と一人でいたわけです。ダンスは続けています。その位が外に出る機会の1年余で。閉塞していますが結構楽しくすごしました。」

その後、「ひきこもり」という言葉がでてくる。6月には派遣労働する友達へのアドバイスをしながら、8月、自ら派遣労働者となり、端末データ入力の作業をはじめる。

9/27……「たぶん、結婚するだろう人とはお付き合いしています。でもどうして具体的に計画をすすめないかといえば、説明不能。その人から強く言われると、けんかになってしまいます。」

そして10月には、公演のための会場の手配をしたはずである。

11月、音羽のどこかの室内スタジオ借りて、舞台に立つ。いや、立てなかったのだ。

 

(1)最初、これがいく子だとはわからなかった。がりがりにやせている。摂食障害のような女性が、歩きはじめる。が音楽は、「ガーベラは・と言った」で使った、「ホテル・カルフォルニア」だ。踊りだせば、彼女の振りだ。しかしダンスは中断し、断絶し、お腹が痛くなるのか、おさえ、涙がでるのか、手でぬぐう。束ねた長い前髪が、目を覆い隠している。彼女は、顔をあげて、客席をみることはできない。立ってもいられない、壁によりかかり、ずり落ちる。椅子に辿り着き、カーデガンをはおって、腰かける。踊らなければ、とまた立ち上がり、倒れ込み、床に手を着いた。椅子をひきずって、舞台を去った。

 

音羽 ソロ - YouTube

※どうもBGMの楽曲が著作権にひっかかり、閲覧できなくなったようである。

 

(2)もしかして、いく子は、自らの主張を作るべく、自ら生徒を集めて、自らのスタジオを始めようとしたのかもしれない。彼女以外は、動きが素人そのままである。しかし彼女は、オーソドックスなダンスの基礎訓練・技術とは違う領域において、自分のダンスを形作ろうとしていた。深谷正子先生から、江原朋子先生へとグループを変えたさい、江原先生の訓練に、バレーでのバーを使った練習が多いことを、その必要性は認めながらも、突き放した視点でみている。この公演では、ある女性たちのグループが、新聞紙をひきちぎって踊る、倒れる、走り回るなどのパフォーマンスがあった。しかし、おそらくは公演間際に、プライベートな関係で失意のどん底に突き落とされた彼女には、もうこのスタジオを維持するモチベーションは折れてしまったことだろう。教え子かもしれない若い生徒ダンサーを、この群舞では、蹴飛ばしたり、小突いたり、自らの欲求の挫折・不満の憂さを晴らすためかのように、いじめたりしている。彼女は、復活できるのだろうか? いく子、だいじょうぶなのかい?

 

音羽 群舞 (youtube.com)

 

     いく子は、男性との結婚に踏み切れない理由を、「説明不能」と言っている。彼女と彼との幾枚もの写真をみている私には、想像することはできる。この公演まえに決裂したのか、と推定したが、97年にも一緒の写真がある。年上の、ダンサーであろう。ならば単なる「けんか」で、ここまで落ち込むダンスになったのだろうか?

 

※ しかし、この公演で、みるべきものが、ひとつ発見されていたのを忘れていた。それは、いく子の靴である。黒い、短い、ブーツ。彼女は以後、それを愛用していったのではないかと思う。段ボール箱の中から、まとめ買いされビニール袋に入っていたのがみつかった。それは、いく子が、単独者として立ち上がっていく決意の証しであっただろう。現使用していたものは、いく子の棚に、飾った。

 

(3)暗鬱になってしまったので、1992年の深谷正子「Dance Performance NOMAD」の、最後の演舞、タイトル「洗面器」もアップロードすることにした。彼女と他メンバーとの、洗面器を外したときに現れた生き生きした顔を、見ることができる。いく子の葬儀に参列してくれた仲間の若き姿もみることができる。そして彼女たちは、変わっていないようにみえる。いく子は、結婚し、変わったのだろうか?

 

洗面器 (youtube.com)

2024年1月20日土曜日

山田いく子リバイバル(2)

 


1993年6月11日公演の、深谷正子ダンスカンパニー『PERMANENT FACE』 草月ホールにも、いく子は参加している。録画を見ても、どれが彼女なのかはわからない。がたぶん、真鍮色の洗面器で顔をずっと隠している何人かのダンサーのうちの、一人なのかもしれない。たしか日記の中で、この振付をめぐってなのか、深谷先生に直談判なような抗議をした様子がうかがえたようにおもう。何か、違和感が噴出してきたのだろう。

 

1994319日公演、深谷正子ダンスカンパニー『Noisy Majority』 STUDIO錦糸町にも、参加したようだ。が、これはVHSのテープが切れてしまっていて、見ることができなかった。が、次の二つの作品を発表したようである。

ソロダンス「フィジカルレッスン」、群舞「くちなしの花はいいました」

 

19941022日 『第1回 HERT BEAT’94 OHBA JAZZ DANCE COMPANY 合同発表会』 砧区民会館ホールに参加している。録画を見ても、どのグループで参加しているのかわからなかったが、最後の主演者のテロップで、「HOLD ME」というグループに参加していると名前がでてきた。また、おまけ動画としての「スナップ」の最初場面に、レストランのボーイのようなファッションに身を包んだグループの2列目で踊っているシルエットが見受けられた。しかし、いく子は、こうしたものに参加して、欲求不満が高まり、孤立と孤独に追い込まれていったのではないかと、私は予測する。いく子の日記には、公演と発表会は違うのだ、という区別がある。この合同発表会は、お嬢さんが家族を呼んで晴れの舞台を見てもらう発表会なのだ。ダンス自体も、音楽にあわせて踊っているだけである。

 

上の3つは、YouTube上には、アップする必要はないだろう。

 

今回アップしたものとしての紹介は、ビデオに年代の表記がなかったので、まず見てみたものからである。

 

タイトルは、『小ダンスだより・冬』、とある。この「夏」バージョンが、20017月とあるから、2000年の冬なのではないかと思われる。おそらく、いく子本人が仲間に声をかけて、場を借り、主催したものと思われる。また、若手を誘って場所を作ってあげたようにもみえる。ここに参加している主要メンバー四人は、いく子の葬儀に参列してくれたり、自宅へ焼香に来てくれたりして、私と今でも顔見知りな関係である。この公演時には、私といく子はまだ出会っていなかったろう。

 

全員、あるいは全部をアップするわけにもいかないので、二番手のいく子のものと、四番手の野村ひはるさん、およびその演舞あとでの若手ダンスへの全員でのコラボレーション模様をアップロードした。当時のダンス界の雰囲気が幾分わかるのでないかと思う。

 

(1)いく子ダンス……鬼気迫るものがある。42歳でこの過激さを維持するのは、体力的に大変なのでは、と推定する。しかし、若い頃の葛藤からは解放され、開き直りがあるのだろう。岸洋子の「希望」という歌にのせての演技には、上でいった「発表会」的なお嬢様意識へのイロニーがあるのだろう。また、自分の過去を突き放していく距離を持った、ということであるかもしれない。1997年9月22日の手紙に、こうある。「幼年期のトラウマがって程、私は若くない。いい年をした中年に向かって、トラウマから説明したってしょうがないって思うのですよ。たぶん先生は早くに結婚してるし子供を生んでるから、家族ってワクで考えちゃうんだろうなって。それはとてもフツーの考えだから、多勢に無勢で抗議したってどうしょもないことだとわかっていても。」

 両手を頭上に振り上げて、そのまま地面に叩きつける型は、たしかトリスタン・ツァラの詩の朗読か何かにあわせて作ったダンスでも、繰り返されていたようだから、いく子が身体化した言語のひとつなのだろう。最後、疲れたように、ただ立ち尽くす姿は、悲痛である。

 

(2)ひはるさんのダンス/他メンバーとのコラボ……いく子とは対照的な、静謐さあふれるダンスである。二人の性格自体が、対照的でもあるが。感動してしまったので、本人に許可を得て、いっしょにアップロードすることにした。

 まず私はたまげた。冒頭の、立ち姿。いったいどんな内的なバランスで、あの説得力ある安定感を存在させることができるのか? 人の内には、さまざまな情念や思いが渦巻いている。野球のバッターなどは、そうした雑念とは別に、またピッチャーの配球も思考しなくてはいけないから、スライダー5割・ストレート3割・フォーク2割とかの力配分・加減をスタンスの内に作る。がダンスには、ボールを打つなどの目的はない。力を、どこに向けて組織していくのか? ゆっくりと、まず指先からか、動きはじめる。それはまるで、内的なエネルギーを、そこから外へと逃げさせながら、静かに、私たちの方へと波立たせるかのようである。その波は、動きは、微妙な体の蠕動とバランスで調整されて、少しずつ大きくなっていっても、常に安定的な周波で私たちに送り届けられる。私には、その静謐な動きから、聖母マリアのイコンが連想されてきた。まるで、天上から再び地上に降りてきたマリアが、人々の苦難に寄り添いながらなだめている、としたら、こんな感じになるのではないか、と。不思議なダンスである、と同時に、ダンス自体の不思議さを、突きつけてくるような舞台である。

2024年1月19日金曜日

山田いく子リバイバル(1)

 


VHS形式のアナログ・データを、ネット上で公開できるよう、デジタル・データに変えたいとは、いく子の希望だった。

段ボール箱40箱くらいが、リフォームした2階の廊下に、山になっていたので、まず元データを見つけるのが面倒そうだったので、ほっといたのだった。私にはさわるな、とも言われたし。おそらく、本人では、いつまでも、片付かなかったことだろう。

 

二十年まえ、ダンス&パンセのヤフージオシティーズでのホームページを作ったさい、いく子自身で抜粋した、自身のいくつかのダンスを紹介した。その一本を、カメラのキタムラに、YouTubeアップのためのデータに変換できないかともちかけてみた。工場に送ってできたとしても、仕上げにひと月はかかり、お金もかかるというので、ふと、夜中にカーテンしめてテレビで再生したものをスマホで撮ればいいのではないか、と思いついた。

 

やってみたら、記録保存データとしては、まあいける。ので、少しずつ、スマホでデジタル化したデータを、YouTubeにアップし、公開し、そして記録として伝えることにした。マイナーではあれ、ダンスのある批評家からは評価と支持を受けたことのあるダンサーである。

 

とくに、いく子の生きた若い時代、女性たちが、社会との軋轢を思いきりこのジャンルにぶつけている様が、共有されていたのではないかと感じる。踊るわけにはいかないのに、踊るしかない、と二律背反に引き裂かれていく構成が、共通に抽出されえるかもしれない。バイトや派遣労働をしながら、バブルがはじけたあとは、それすらの求人も少なくなっていく中で、彼女たちは、金銭を度外視したような活動に身を費やした。いく子の日記でも、死と隣り合わせのあがきであることがうかがえる。

 

保管されていた一番古いものは、1992年の、深谷正子先生のダンスカンパニーに所属していた頃の、公演会のものである。

 

スマホ撮影しているうちに、データー容量が大きくなるためか、スマホのフォトアプリがおかしくなっている。ので、撮影できたものは、随時バックアップのため、YouTube上にあげはじめているが、私自身がいく子の歴史をたどってみたいので、おそらく古い順にアップロードしていくことになるだろう。

 

1992920日 深谷正子ダンスウィング『Dance Performance NOMAD』>より、船橋勤労市民センター。34歳のときの作品。

 

(1)「ガーベラは・と言った」……いく子が振付を担当し、自ら出演したもの。このタイトルのものは、年をこえて、何度か使われている。が、これが一番最初のものらしいので、(1)とした。

 どこか、退廃的な感じを潜ませた作品である。が、小道具のアイデアは、斬新なのかもしれない。赤い洋服の女性ダンサー5人が、ゴム紐のようなものにつながれている。それは、マリオネットのような、操り人形なのか。彼女たちの舞いは、優雅な一方で、ピノキオのような動きもみせる。5人が、それぞれ、その起伏をずらしながら発現させていく。反対の袖まで到達すると、そのゴム紐は、まるで音階の五線譜のようになる。音は楽しいのか、哀しいのか、バックミュージックも、その両義性の間で揺れていて、ダンスと融合する。彼女たちは、その五線を、まるで琴の弦のようにも弾きはじめる。がそう舞えば舞うほど、五線はからまり、まるで蜘蛛の巣にからめとられた蝶のように、かそけき羽ばたきをみせる。彼女たちはついに、まるでもがくことをあきらめたように、ひとつところに佇みながら、片腕をもがれたように折りたたみながら、静かな上下運動だけにおさまってゆく。それはまるで、これから生贄として食べられてゆくことを許しているような。静かな覚悟と悲しい優雅さのなかで、彼女たちは闇に消えてゆく。

ガーベラは・と言った(1) (youtube.com)

※ アップしてから、ふと、タイトルの意味がわかった。「ガーベラ」とは、花の名前である。花の蜜を吸いにやってくる蜂や蝶の運命を「・」と言った、ガーベラは、彼女たちを見守っているのだ。その花言葉は「希望」「前進」「辛抱強さ」であり、赤色のものは、「神秘」「チャレンジ」「常に前進」という意味を持つそうである。おそらくいく子は、現実を超えていく、自己分裂した視点(「希望」につながる)から、自分を含めた彼女たちの行く末を優しく見守っているのだろう。が、彼女たちの現実は、「・」としてしか、論理化されえないのである。

 

(2)「AからZへ」……いく子のソロダンス。二十歳くらいからバレーをやっていると、履歴書にあった。だから、オーソドックスな訓練も受けたのだろうし、その様が伺える。足腰が強いんだな、とも。が、作品最後、反対の袖前まで走り滑り込んだ彼女の脇から、突如、ハット帽にコートで身を包んだ黒い影のような男が過ぎり、彼女の後ろに、横顔のまま立つ。はっとしたように、彼女は上空をみつめる。鋭い視線。……この黒い男の影は、彼女が葛藤していた父の影と、精神分析的にみるのは、間違いなような気がする。いやたとえそれが契機であったとしても、彼女は、自分自身の中に、暴力的な何か、自分を突き上げてくる衝迫を発見し、そのもう一人の自分と葛藤しはじめた表現ではないかと、思われる。ピカソのデッサンなどでも伺えるが、よく分裂病者が描いた自身の絵の中に、もう一人それを見ている者、顔を描き込まずにはいられないのに、似ている。その発見、気づきは、彼女にオーソドックスなダンス構成をさせないのだ。そんなのでは、我慢できなくなっていったのだろう。もしかたしたら、その移行が、「AからZへ」ということなのかもしれない。何か暴力的なものが、以後、噴出してくると予感させてくる、初期作品である。

AからZへ (youtube.com)

引用『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(ムージル作 古井由吉訳 岩波文庫)

 


「こうして思慮もなく男たちに身をゆだねながらも、彼女をして最後のところでおのれの内にしかと留まらしめたものは、彼女のおこないにかすかに伴うある内面性についての、けっして定かにはならぬ意識だった。現実の体験のあらゆる結び目の背後で、何かが見出されぬままに流れていた。彼女は自分の生のこの隠れた本性を一度としてつかんだことはなかった、そればかりかどうやら、この本性のもとまで行き着くことはけっしてあるまいと思ってさえいるようであったが、それでも彼女は何が起ころうとそれについて客人のよそよそしい気持ちしかいだかなかった。ちょうど知らぬ家の中にたった一度かぎりで入りこみ、考える面倒をやめて、いくらか退屈しながら、そこで出会うすべてに身をまかせる客人の。

 やがて現在の夫を知ったそのとき、彼女がおこない、こうむったすべては、彼女にとって過去へと沈んだ。それを境に彼女は静謐と孤独の中へと入った。今までに何があったかはすでに問題でなく、これから何がそこから生じるか、それだけのためにあったかに思われた。あるいはまるきり忘れられた。なにやら心をしびれさせる生長感が、花咲く山々のように、彼女のまわりに満ちあげた。ごくわずかに、辛苦をしのいできたという感情がのこってひとつの背景をなし、そこからあらゆる感情が、ちょうど暖風の訪れとともに固い氷の下からさまざまな動きが寝ぼけ顔で目を覚ますように、解き放たれた。」(『愛の完成』p19)

 

「そうしてごくおもむろに、自分が現実にはここに存在していないかに思えてきた。まるでなにかしらがひとり彼女の内からはるばるとさまよい出て、空間と年月を抜け、いまどこかしら彼女から遠く離れたところで道に踏み迷ってふと目を覚まし、そして彼女自身はじつは依然としてあのとうに消えた夢の感情のもとにたたずんでいるかに……どこかしらで……ひとつの住まいが浮かぶ……男たちの姿が……恐ろしい、がんじがらめの不安……。それから、顔の紅潮する、唇のやわらかくなる感じ……そしていきなり、また誰かがやってくるという意識、ほつれた髪の、両の腕の、日頃と違う、すでに過去のものとなったはずの感触、自分がこの髪や腕とともにいまだに不実であるかのような……。そのとき、愛する人のために操を守りたいと、小心翼々とすがりつく願いのまっただ中からせつなくさしのべられた両手をゆっくりと力萎えさせながら、ひとつの思いが浮かんだ。《あたしたちは、お互いを知りあうその前から、お互いに不実だった》と。それはなかばしか存在しないものの静けさの中から輝き出る思い、ほとんどひとつの感情にすぎなかった。それは不思議にいとおしい苦さ、ちょうど海から起る風の中にときおり潮の香のそこはかとなく漂う、そんな苦さだった。いや、それは、《わたしたちは、お互いを知りあうその前から、お互いを愛しあっていた》という思いとほとんどかわりがなかった。彼女の内で突然、愛の果てしない緊張が、現に在るものを超えて、はるばると不実の中へ伸びていくかのように。そこからかつて愛が、あたかも永遠にお互いの間にとどまるそれ以前のかたちから、二人のもとへやってきたそのところへ。」(同上p50)

 

「またしても彼女は沈黙を守った。その沈黙を相手がどんなふうに誤解せずにいないかはわかったが、しかしそれも妙に心地よかった。自分の内には、行為には表わされず、行為からは何ひとつこうむらぬものがある。言葉の領分よりも深いところにあるがゆえに、おのれを弁明するすべも知らぬ何か、それを理解するためには、まずそれを愛さなくてはならない、それがおのれを愛するように、それを愛さなくてはならない何か、ただ夫とだけ分かち合っているそんな何かが自分の内にあることを、彼女はこうして沈黙を守っていると、いよいよ強く感じた。それは内なる合一だった。それにひきかえ自分の存在の表面は、彼女はこれをこの縁もない男にゆだねて、男が醜くゆがめていくままにまかせた。」(同上p66)

 

「おそらくそのときでも、彼女は愛する人にこの肉体を捧げたいという願いのほかに何ひとつ心にいだいていなかった。しかしさまざまな精神の価値の根深い揺らぎに戦慄させられて、その願いはあの縁もない男への欲求のごとく彼女をとらえた。そしてたとえこの肉体において、自分を砕き去る暴力をこうむることになろうと、なおかつこの肉体を通じて自分を自分として感じるだろう、とその可能性を見つめ、あらゆる精神の決断を微妙に避けるこの肉体の自己感覚の前で、暗く空虚に彼女をつつみこむものを前にしたようにおののくうちに、彼女はおのれの肉体にせつなく誘われた。この肉体をつきはなしてみたいと。官能に溺れてわが身を守るすべも知らぬまま、無縁の男にこの肉体を組み伏せられ、ナイフで裂かれるようにひらかれるのを感じたい、この肉体を恐怖と嫌悪と暴力と不本意な身悶えとに満たされたい、と。こうして、奇妙にも最後の誠実さにまでひらいた貞操の中で、この虚無のまわりに、この動揺の、この混沌とした拡散の、この病む魂の静けさのまわりに、なおかつおのれの肉体を、まるで現ならぬ傷口、ひとつに癒着しようとはてしもなく繰りかえされる努力の痛みの中から、むなしく相手を求める傷口の縁と感じとるために。」(同上p78)

 

「あのとき、ある思いがひそかに彼女の心をおそったものだった。どこかしら、この人間たちのあいだに、ひとりの人間が暮らしている、自分にはふさわしくない人間が、あかの他人が。しかし自分はこの人間にふさわしい女にもなれたかもしれないのだ。もしもそうなっていたとしたら、今日ある《私》については、何ひとつ知らずにいたはずだ。なぜといって、感情というものはほかの感情とひとすじに長くつながって、お互い支えあって、はじめて生きながらえるものなのだ。生活の一点がほかの一点に隙間なくつながること、それだけが大切なことなのだ。やり方は幾百となくある。夫を愛しはじめてからというものはじめて、これは偶然なのだという思いが彼女の心をつきぬけた。これは偶然なのだ、これはかつてなにやらひとつの偶然によって現実となった。それ以来、自分はこれをつかんで離さずにいると。このときはじめて彼女は自分というものを、その奥底にいたるまで不明瞭なものと感じ、彼女の愛における究極の自我感に触れた。みずから根を断ち、絶対というものを砕き、もはや顔というものをもたぬ究極の自我感に。それはいつもなら彼女をくりかえし彼女たらしめてくれただろうに、いまでは誰からも区別しなかった。彼女はふたたびものぐるおしい、現実とならぬ、どこにも安住できぬ境へ、身を沈めなくてはならぬ気がした。そしてひとけない表通りのわびしさの中を走り、家々の内をのぞきこみ、自分の靴の踵が敷石を打つ音のほかには、どんな道づれもほしくなかった。この音の中に、彼女はただ生きてあるだけのものにまで狭められて駆ける自分自身を聴きとった。あるときは自分の前に、あるときはうしろに。」(同上p82)

 

「そのとき、彼女は自分の肉体があらゆる嫌悪にもかかわらず快楽に満たされてくるのを、身ぶるいとともに感じた。しかし同時に、彼女はいつか春の日に感じたことを思い出した心地がした。こうしてすべての人間たちのためにあって、それでいて、ひたすら一人のためのようにあることもできるのだと。そしてはるか遠くに、子供たちが神のことを思って、神さまは大きいんだと言うように、彼女は自分の愛の姿を思い浮かべた。」(同上p97)

 

「明るくなるにつれて、ヨハネスが死んだということが、彼女にはいよいよありそうにもなく思えてきた。それはもはやかすかに彼女に伴う思いにすぎず、彼女自身そこから抜け出していった。こうして彼への関係がふたたびごく遠いものになり、信じられぬものになるとともにしかし、二人を隔てていた最後の一線までがひらいていくかに見えた。甘美なやわらぎと、このうえもない親しさを、彼女は感じた。肉体の親しさよりも、魂の親しさだった。まるで彼の目から自身を眺めているような、そして触れあうたびに彼を感じとるばかりでなく、なんとも言いあらわしようもないふうに、彼がこの自分のことをどう感じているかをも感じとれる、そんな親しさであり、彼女にはそれが神秘な合一のように思えた。ときおり彼女はこう思った。あの人はあたしの守護天使なのだ。あの人はやってきて、あたしがその姿を認めると、また立ち去った。けれどこれからは、いつもあたしのそばにいてくれるだろう。あたしが着物を脱ぐとき、あたしを見ていてくれる、あたしが歩くと、あたしのスカートの下に隠れてついてくる。そしてあの人のまなざしは、たえずつきまとうほのかな疲れのように、ものやさしいことだろう。といっても、彼女はあのヨハネスについてそのことを思ったのではなかった。彼女がそれを感じたのは、あのどうでもよいヨハネスについてではなかった。彼女の内にさめた灰色に張りつめたものがあり、思いはそこを通り過ぎるとき、おぼろな姿が冬空の前に立ったように、白い輪郭を浮きあがらせる。そんな輪郭でしか、それはなかった。手探り求めるやさしさの輪郭でしか。それは静かに現われ……より鮮明になり、しかもそこにはなく……何ものでもなく、しかもすべてなのだ……。

 彼女はじっと座って、思いをもてあそんでいた。ひとつの世界がある。脇へそれた何かが、もうひとつの世界が、あるいはたったひとつの哀しみが……それはたとえて言うなら病熱と夢想とによって彩色された壁、その間では健康な人間たちの言葉は響かず、意味もなく地に落ちてしまう。またたとえて言うなら、その上を歩むには彼らの立居振舞いは重すぎる絨毯。それはごく薄くて、よく響く世界、その中を彼女は彼とともに歩み、そこでは彼女が何をおこなおうと、それに静けさが伴い、彼女が何を思おうと、それは入り組んだ通路を行くささやきのように、どこまでも走ってやまない……。」(『静かなヴェロニカの誘惑』p165)

2024年1月16日火曜日

浅田彰へのインタビューを読む

 

<私は もっぱら言葉的なものから成る環境と文化の中で、生まれ育ち、教育された わたしは、自分を規制しているその条件から、自分を解放するために、描く>(1994.9)


 図書館でコピーをとろうとしたのだが、著作権があるので、そのインタビュー記事全文はコピー申請できないと言われたので、館内閲覧だけですました。ので、引用的なものは、記憶による。


浅田彰の久しぶりのインタビューが文芸誌『新潮』「アイデンティティ・ポリティクスを超えて」(2024.2月号)に乗っているのを新聞広告で知って、読んでみた。世界情勢的なものは、田中康夫との対談を、スマホニュースで、たまに目を通していた。が、情勢確認程度な話なので、いつしかそれもなくなっていた。

 

が今回、思想的な水準の話になるのだろうと、図書館で読んでみることにしたのだ。が、『構造と力』の文庫化にあたるその件についての話であるためか、あるいは、やはりネット時勢になっているためか、当たり障りのない言い方になっているように思われ、私が若いころのような、啓発的な勉強にはならなかった。

 

が、いくつか、私にとって、問題意識が重なってきたところをメモしておこうと思った。

 

まず一つ目は、「承認」ということ。

 

確かに誰もが表現してもいいしできることだとはいえ、やはり水準というものはあるので、そこには精神分析でいう「去勢」は必要だろう、たとえば、柄谷行人にとってはアメリカでのポール・ド・マンからのVサインの合図が知的水準の「承認」だったろう。ネット上の「いいね」レベルの「承認」を「去勢」していく必要性もあるだろう、というような発言。

 

私も、「去勢」の必要性を認める。とくには子育てにおいて、母子密着的な母親の暴走には、父親の(第三者でもいいのかは、また別問題として――)介入はあったほうがいいと経験する。しかし少年サッカークラブでの、パパコーチ体験の知見からすると、いまはほとんどの「夫」は黙っている。以前、昭和年代は、むしろ妻(母)が黙っていた傾向が強かったと印象受ける。司馬遼太郎が、昭和は日本ではないというように、軍事的緊張の中で、父権的地勢が強まり、その軍隊教育を受けた一般の庶民の間で、戦後、会社や部活、家庭の中に広まっていったのだろうと思う。が、やはり日本の地は、双系的なものなので、より平時がつづくと、母(妻)の力が回復されてくるのだろう。インテリ上層階級では、父権的な家庭雰囲気が残っているだろう。

ちなみに1958年生まれの私の妻いく子が、同世代的な犯罪事件として反応していたのが、金属バット殺人事件、それと、東電OL殺人事件(被害者は1957年生まれ)である。そこには、父権の強さが刻印されている。で一方、母の強さの中で、秋葉原事件が発生してきたのでは、と思われる。その中途経過の犯罪として、酒鬼薔薇事件があるようにも思う。そしてそれから、映画『ジョーカー』を模した拡大自殺事件。いまは、次なる様相に変貌していきそうにみえるが。

 

しかし、「去勢」が、ハイレベルな水準での「承認」と重ねあわされるとき、私のこのブログでも追及してきた、思想的文脈では、ある種の危険性なり陥没が予測される。いわばその「承認」とは、男同士の、ライバルの間での「承認」ということに収れんされやすいからだ(北野武の映画『首』での感想でも触れた問題系)。柄谷の交換論の、交換A(贈与)の高次元での回復という交換Dの提唱とは、氏族社会を生きた侍魂の高次元反復とかいう話になるが、私は、この理論を、唯物論的作為、だと思っている。エマニュエル・トッドが、アメリカでの核家族社会下でのLGBT的な運動に、人類史始まって以来の母権性的な方向での可能性を示唆しているように、私は、トッドの側をとる。

 

*ちなみに、だいぶ依然、浅田彰は、トッドのような見方を批判していた。いまトッドをもてはやしている佐藤優も、トッドのロシアのなんとかという部族の家族分析はまちがっていて、その統計的見方は嘘だ、と批判していた。

 

が、二つ目として、そのLGBT問題。最近はこれに、Q+、と足すらしい。がならばそこに、私は引っかかりを持ったのだが、浅田もそのQにこそ、話をすすめた。

 

浅田は、Qというのは、クイアーというのは、「変態」ということなんだ、そう「である」ではなく、そう「なる」ということなんだ、とその言葉を肯定的に把握しなおす。その文脈で、ジャニーズ問題に触れてくれるのかとおもったが、そういうネット炎上危険があるような話題には、ふれなかった、のが残念だった。

 

私が若いころ読んだ、たしか、ドゥルーズ=ガタリの共著だったと記憶するが、そこでは、ブルジョワの家庭が可愛い子息を育ててくれるので、その子供少年たちを性的にちょうだいしてしまうのは革命的な実践になる、みたいな記述があって、なんともいえぬ気持ちを持ったことがある。だから、ジャニーが、ブルジョワ社会を揺るがす「革命」戦士を意識していたなら、リベラル派は、それを肯定する言論でもだすのなかな、と思ったりもしたのだった。「変態」になる、とは、そういう水準での、思想的実践性が、かつての思潮の中には、孕まれていたんではなかったっけ、と。おそらく、下層階級的な環境で育っていた少年たちは、すでに、そうした性的世間を見知っていただろう、と私は思う。が、よい家庭で育って、子や孫が有名人の世界に入れるかもとなって、お金をつぎこめる、そんな家庭環境での少年たちは、免疫なく、相当なトラウマを被ったのだろうな、とも。

 

日本のマスメディアでは、ゲイパレードなど、当たりさわりのない映像しか流さないが、私には、気味の悪い部分もたくさんあるようにうかがえる。世界の富豪が、ペニスケースだけつけて素っ裸、天使の羽をつけて行進する……自由って、そんなことなの、と、私は思わざるを得ない。

 

私は、精神的に安定してきたら、妻が残した、本人の文献の解読をしていくことになると思うが、それは、私自身が、女になる、いく子になっていく試みであり、そうすることで、私自身が、より「変態」し、たぶん、「高次元」などではなく、なにか違った人格に変成していく試みなのだろう、試みになるのだろう、と、予感している。

2024年1月9日火曜日

成人式

 


「昭和56年1月7日(水) …(略)…

小学校の上級の頃から 茶の間でテレビを見る習慣をなくしていた。そしていまでも、家というものを一人で考えると 涙がでてくるのだ。階段から つきおとされてから(おととしの6月だ) けんかもしてないのに。

 嫌いだ、家なんて きらいだ。私は親になれない、家庭を持てない。子供に向かって お説教し、手をふりあげたら 私自身が しったされなければならない。いつまでたっても 子供だ。大人になんかなれない。」

 

災害派遣されるかもしれないから、帰れないかもしれない、とそう息子が、地震直後に電話をかけてきた。が、6日から、成人式の翌日まで、休みがとれた。普通警察じゃ現場に行けないんじゃないか、と帰省してきた息子に言うと、警視庁からは、レスキュー隊と、機動隊がレスキューの訓練を受けているのでいってるよ、たぶん、その部隊の穴埋めにはいることになるんじゃないかな。

 

ユーチューブで、現場に入る自衛隊員の動画をみると、おそらく20キロはあるだろう支援物資の入った背嚢を背負って、膝までつかる泥水のなかを歩き、岩場をのぼり、砂浜を歩き、と、特殊訓練を受けてるものでないと、乗り越えられない先端現場にみえる。私は落下傘部隊でも使うのかとおもっていたが。ドローンでも、写真だけでなく、スピーカーに無線機をつけて、現場に孤立した人たちと直接話して情報を得ていくようなことはできないのだろうかとも思う。

 

私はといえば、大掃除で引きお起こしたぎっくり腰を早くなおそうと、まだ終わっていなかった引っ越しの整理に、段ボール箱と格闘している。とにかく、痛くても、体は動かした方が直りがはやい。いまの私には、赤十字や、千葉の造園家の、地球森の災害支援の活動に募金をすることぐらいしかできない。

 

段ボール箱は、すべて妻の荷物である。紙だ。息子の小学生の頃のドリルの答案用紙から、20年前の領収書からチラシの類い、参加した活動の書類などが、年度ごとにまとめられてそのまま袋にぶっこまれている。9割がたゴミとして古新聞をあつめるビニール袋に積み置いていくが、妊娠中のお腹の中の写真や、息子の写真などがまじってくるので、確認しながら作業をしているうちに、過去なんだが現在なんだがわからなくなっていく時間の中に潜入させられてしまう。

 

瞳が内側にこもってきて、気がおかしくなりそうなので、観賞しようとおもっていた、市原市の湖畔美術館に、鉄を使ったアート作品をみにいくことにした。

 

去年の今頃、二人でいったらしいことは、スマホの写真アプリの通知でわかっていたが、何みたんだっけかなあ、という感じだった。が、駐車場に止めた車から降りると、その美術館わきの植え込みの風景、湖と山、大きな水車やその手前のピザ・レストランの風景をみて、まるでつい最近来たばかりなような既視感におそわれた。私は、館前の広場を一周した。足が、能のすり足のようになって、歩いている。私がひとりで、この景色をみているのではなく、二人でみている。やば、まじか? おい、おまえ、留守番してるんじゃなかったのか……。

 

展示場に入れば、なおさらだ。植え込みの風景をみた瞬間に、二人でここで何を観たのかもよみがえってきていた。田中泯の、白州の模様を振り返った展示会だ。あすこの壁に、スクリーンがあって、あいつは、じっとそれを見ていた。もはや私は、何をみているのか、わからなくなった。二重写しだ。いや、それ以上だ。段バール箱の中からは、いく子が18歳の時から23歳までの、日記もでてきていた。

 

いく子は、小学3年生には、書道的にみて、1級か初段くらいの正確な字体で作文を書いていた。が、私が知っていた彼女の字は、いわば丸文字だ。なんであんな強気な性格なのに、こんな縮こまったような小さな字を書くのだろう、これは、私が最初に感じた怪訝の一つだった。丸文字は、社会学や民俗学的には、1980年代の少女たちが、雑誌などの影響を受けて書き始めたのではないかと言われているようだ。が、彼女の日記に目を通すと、そんな外形的な話だけではすまないことが推察されてくる。熊本の水俣の私立進学校から、千葉の県立高校へ、東京での予備校がよいの生活、大学にゆかずに就職し、そこでの労働組合に入っての男女関係での肉体をふくめた葛藤のことが書き込まれている。

 

私は、彼女は意識を言語化するのが苦手なので、ダンスにいったのだと思っていた。が、そうではない。相当な内省だ。はじめて渋谷を歩いたときの、なんで買い物をするのか、という感情の思考までたどっている。労働運動家との間で、セックスは楽しくない、とも書いている。そうしたことどもを吹っ切るための、表現として、いく子はダンスに出会ったのだろう。

 

大塚英志の『彼女たちの連合赤軍』を読んだとき、私は、いく子のことも考えた。楷書でしっかり書かれた字体が、丸みを帯びて縮こまるような内的なドラマ、抑圧の過程があったことが刻印されている。

 

ピザ・レストランでは、昨年、妻と2種類たのんだのだ。いわしのピザの量が多すぎて食べきれないので、家に持ち帰った。今回は、テイクアウトで、ポテトフライのローズマリー風味とコーヒーをたのんだ。広場のベンチに座るときは、もう会話になってしまう。おまえさあ、いったい俺に、何をしろって、いうんだい?

 

夜中の2時に、小中時代を過ごした中野区の成人式に参加した息子から、ラインがはいった。<私が無事に20歳になれたのは本当に両親のおかげだと思っています。ありがとうございます。本当はお母さんに20歳の姿を見せたかった。これからも自分なりに頑張っていきたいと思いますのでこれからもよろしくお願いします。>

 

寝覚めて眠れなくなっていた私も、すぐに返事を返した。<あせらず、無理しないようにな。そして、社会をよくみろ。パパはいま、2階に積んである段ボールを整理している。ママの20歳前後の日記もでてきた。多感な少女が何に悩んでいるか、ものすごいものがある。パパも、成人式にはいかなかった。野球をやめて、部屋にこもり、ひたすら本を読んでいた時期だ。みなひとりひとり、固有の時間、ペースがある。もうゆっくり休め。>

 

はじめてママでなく「お母さん」と呼んだ息子は、泣いていたのだろう。眠れなかったのだろう。が、災厄は、明日にでも、次から次へと、やってくるだろう。