2024年1月3日水曜日

再会


 いつの間にか、日は沈んだようだった。

 薄暗がりになるにつれて、街灯がつき、並ぶビルの室内から光がもれてくるからか、歩行者と自転車の通路を街路樹でしきっている大きな歩道の敷石が反射してきて、夜の訪れを気づかせなかったのかもしれない。もう帰宅の時間帯にはいったのだろう、いくつもの線路が走り込む駅のビルから、人の流れがゆっくりと押し寄せてきていた。その人並みに追いやられるように、慎吾は線路をまたぐ陸橋の上へと流され、立ちすくんだ。すぐには押し返せないまま、その人混みのうしろ、駅の隣に聳え立つオレンジ色の塊を見上げた。さっきまで、なお昼の明るさをとどめた陽の光が、コンクリートのビルの胴体を洗って、囲碁の升目のような窓ガラスもピカピカと照り返して、まるでこれから動き出す巨大な生き物みたいに、いくつもの目をもったマンションがこちらを見おろしてきたのだった。おそろしくなった慎吾は、また足早にもときた道をひき返す。そんないったりきたりを、何度つづけたのだろう。

 薄暗がりに気づいて、慎吾ははじめて、自分がマスクをつけていないことに思いあたった。そうだ、まだ新型ウィルスとやらが飛び交っているんだっけ。電車の中ではわからなかったけど、暗くなると、みんなの口元が白く浮き上がってくるんだな。まるで、お化けとすれ違うみたいだ。すう~っと、消えてゆく。いやあの女の人は、じろっとにらんだぞ。俺が、どこか、おかしいのだろうか? いや俺は、マスクをしてくるのを忘れてしまったんだ。いや、そもそも、世の中のことを、覚えていたっけ?

 沿道に並ぶいくつもの店が、入口を開いている。まるでそこが吸い込み口なように、ある人はそこに吸い取られ、またある人は次の吸い込み口へと消え、また吐き出されてくる。そこで吸引されないでまっすぐに道を進む人たちは、急ぐ目的が磁石にでもなっているのか、一つ方向へとやはり引きつけられるように、すう~っと行った。きょろきょろ、よろよろ、慎吾は当てのないように歩いて行く。そしてまた、地下鉄の階段が顔を出す大きな交差点へとたどり着く。その階段からも、人が噴き出ていた。交差点で落ち葉が滞留するように、人々は信号を待った。一瞬よどんだ流れに渦ができたように、慎吾は舞い回り、ふらふらと、もと来た道へとひき返す。おかしいな、なんで、俺は、たどり着けないんだろう? いや……やっぱり、ここで、いんじゃないのか? ためらって、玉すだれのような暖簾の前で立ち止まったときだった。後ろから、肩をたたかれた。

 野球帽のようなものをかぶった男は、目が合うと、笑みを浮かべた。黒か灰色にみえるマスクで口を覆ったその容姿からは、すぐに誰かはわからなかった。が軽く緩んだ目元を確認して、慎吾はぎくりとした。男は、青いステッキを一歩まえに出して、店の引き戸に手をかけた。

「おまえも、呼ばれて、たんだな……」 体が重なり合うようになったその男の耳元で、ささやくことになった慎吾にはかまわず、男は戸を開けた。その左手の、やけに長い指先で、頭上から前をさえぎってくる暖簾をどけて、店の中へと半身をいれた。漏れてきた電灯の光線が、ワイシャツの水色を浮き出させると同時に、背中の広がりを黒く染めた。店の中から、やっとお出ましか、という聞き覚えのある声が響いた。「おまえだよな、ヨシキ。あいつに、焼き鳥の王冠をちょん切れとそそのかしたのは。」

 慎吾はぎょっとして、思わず、時枝兆輝の背後から顔をのぞかせた。

「なんだ、二人そろって申し合わせか!」 島原史郎が頓狂な声をあげた。「とんちゃん、生ビール二つ追加してよ。秘密作戦会議がはじまるからさ。」
 アクリル板の向こうにいた丸刈り頭の眼鏡の店主が、目を大きくして、びっくりした声をだす。
「えっ、しろちゃん、連れがくるなんていってなかったじゃない。困るよ。」 とんちゃんは応じた。「これからヤンキースの飲み会で何人か来るんだよ。まあさんは、ヤンキースのメンバーなんだからね。」腰に手をあてて、毅然とした態度を示す。
「もう来ないからって。それに……」と、カウンターに座っていた島原は、その向かいのテーブル席にいた二人連れのうちの、中年男の方を指さした。「そのまあさんとやらは、弟分だぜ。」
 慎吾はその指先に誘われて、テーブル席の方へ目を向けた。真っ黒に日焼けした年老いた男の向かい側に、やはり真っ黒く日焼けした男がこちらを見上げていた。あっ、と慎吾は声をあげた。

 外の暗みの中から顔をのぞかせた時から、正岐には、それが誰だかはわかっていた。島原史郎が、ここにいる。正岐がもう三十年近くにはなるこの界隈に、いつから居住していたのかは知れなかったが、その男がここでとぐろを巻いている。そこに、目の座ったインテリ風のあの男が現れた。その符号は、当然、兄の慎吾の存在をも、正岐には連想させてきたのだった。まだ、あの組織は、続いているのか。たしか、くじ引きで次の代表を選んでしばらくして内紛が起き、投票にかけて解散したのではなかったのか。

 時枝は、ゆっくりと店に入ってきて、ステッキをカウンターに寄りかけた。別段、足が悪いようには見えなかった。もう六十近くにもなるはずであったが、老けた感じはしなかった。緩慢な動作のうちにもどこか芯が入っているようで、体自体がアンテナのように、あちこちにレーダーを張ってものを見ているようだった。ステッキを握っていた指は、やはり魔法使いのように長く、不気味な感じがした。座る前にこちらに向けた視線だけが、つかの間の優しさに緩んで、またすぐに奥に引っ込んだ。

 慎吾は、まだ突っ立ったままだった。
「おまえ、ここら辺に住んでいるのかい?」
 正岐は、黙ったままうなずいた。そしてとんちゃんに、「僕の兄なんですよ。」と顔を向けた。
「えっ、そうなの? 実の、お兄さん?」 それから顔をほころばせて、「杯を交わした弟分ってわけじゃないんだよね?」
 奥さんが、生ビールをすでに二つ注いでいて、島原の隣のカウンター席に置いた。
「まあさんも、こう見えてヤクザだからなあ。」 とんちゃんが言っている間に、慎吾はおずおずと進み出て、時枝の隣に座った。「なんせ歌舞伎町の店のオーナーだからね。」
「保証人ですよ。」 正岐はジョッキに残っていたビールに口をつけた。
「同じようなもんでしょ。家賃払ってなかったら、払わなくちゃならないんだからね。まわりがぜんぶ、外人ですからね。危ないの。」

 とんちゃんの話を耳奥にしまい込むようにして、島原が言った。
「遅かったじゃねえか。」
 どぎまぎを隠せない慎吾がすぐに返した。「いやだいぶ前からこっちに着いてたんだけどさ、焼き鳥屋さんっていうのに、とんちゃんってあるからさ、違うのかとおもって通りすぎちゃったんだよ。」
 とんちゃんがまたすぐに応じた。「すみませんねえ。そのひねりがネタでね。豚でなく鳥かいって、お客さんとの話がはずめばっていう営業戦略でね。」
 とんちゃんはそう言って、お通しを奥さんに渡した。「だけど、こりゃ三密になっちゃうな。」

 島原が「乾杯!」とジョッキを時枝と慎吾の方に向けて、「来るべき生き地獄のために!」と声をあげてから、とんちゃんに顔を向け直して言う。
「人が何人あつまろうと、この世界の、宇宙の密度は変わりはなしないよ。平気だって。真空にだってエネルギーは満ちている。宇宙はどんどん加速度的に膨張してるっていうのに、そこにあるエネルギーの量は変わらないっていうんだぜ。薄くなっていくのが道理なのに、不変なんだとさ。真空から、つねに散漫にも過密にもならないように、こんこんとエネルギーは湧いてくるんだよ。だから三密なんて、気にすることはないさ。」
「また難しいことを言って。」と、立ったままのとんちゃんが、上から見おろすように応じる。「風邪ひいて熱だしたら、いやでしょが。不要不急の外出はひかえて、家にも帰らず、店で寝泊まりして営業してたんだからね。」
「えらいよとんちゃん!」 島原がジョッキをとんちゃんの方へかかげた。「その引きこもれる力こそがダークなエネルギーの源なんだよ。こんことんと湧きでる狐の化かした粒子の発生だ。まあ、ダークマターに関しては、このお隣のきざなステッキ爺さんが専門だけどな。」と、ぎょろっと島原は、時枝の方へ視線を向けた。

「というと、どのような方なんですか? 先生?」 とんちゃんは時枝の方へ顔を振ってから、また島原に向き直った。
「かつては大学に籍を置いていたが、いまは暗黒唯物論の扇動者だな。」 島原がビールを飲みながら言った。
「アンコ食うって……ここは和菓子屋さんじゃないから、そういうグルメはできませんよ。」と、とんちゃんが応じたところで、時枝が「何か焼いてもらえますか?」と言う。
 とんちゃんは笑い顔で「ええもちろん」と言いながら、「ネギマにしましょうか、タレと塩、どちらにします?」と聞く。時枝が「塩」と答えるのを聞いて、「まあさんのお兄さんも、塩でいいですか?」と慎吾の方へ向き、慎吾がおどおどとうなずくのを見ると、「久しぶりに会われたんでしょ?」と肉の用意に体を動かし始めながら聞く。

 正岐は、そんなカウンターでのやりとりを見ていた。皇居近くのビルで、はじめてこの二人や他の参加者と顔を合わせたあとも、慎吾のあとについて、彼らの話を何度か聞く機会があった。慎吾は、当時とくらべて、だいぶ太ったように見える。といっても顔の膨らみをみると、それが脂肪というよりは、浮腫みのようで、だからその体の膨張は、肥満からではなく、睡眠剤や精神安定剤の副作用からなのだろうと正岐は思った。兄の慎吾の体調は、まだ平常にはもどっていないのだろう。空調は効いているのに、額に、だいぶ汗を浮かべている。あれから、二十年は経つだろうのに、なお世間やあの組織との緊張を抱え込んでいるのだろうか?

 慎吾は、乾杯で手にしたジョッキを手にしたままだった。テーブル席に腰かける正岐がこちらをうかがっているのに気づいたように、そのジョッキを正岐の方へ向けた。
「おれ、アルコールは駄目なんだよ。正岐、これ、飲めるだろ?」と差し出した。
 えっちゃんがそのジョッキを受け取りながら、「はじめまして。まあちゃんにはいつもお世話になってるんですよ。」と言って、正岐に手渡した。「じゃあ、何にします?」と、えっちゃんが、慎吾にきく。
「コカコーラあるかな?」 慎吾がとんちゃんに聞くと、「コーラはおいてないんですよね。」ととんちゃんが答え、じゃあ、と慎吾は考えると、「お茶みたいの。」と言う。
 とんちゃんが笑いながら、「ウーロン茶でいいですね?」と顔をあげた。「久しぶりじゃ、積もる話もあるんじゃないんですか?」
 慎吾は、とんちゃんと正岐の間で首を振りながら、「ここは、新宿なの、中野区なの?」と、どちらにともなく聞く。
「微妙な問題ですね。」ととんちゃんが声をだして笑った。「まえの通りの向う側が新宿。こちら側は中野。だけど意識はどうなんすかね、ヤンキースは、中井だから新宿だけど、まあさんは、新宿の落合から東中野、でまた落合の真上にある中野の上高田に引っ越したんですけど、NYのまま。中井の草野球チームの一員ですからね。」
「引っ越しといっても」と正岐が受け継ぐ。「みな職場から半径3キロ圏内だよ。」
「いいじゃないですか、」ととんちゃんが相槌をうちながら、「バッケの野球場がどれも近くて。」と付け足す。
「ちっ、」と島原が舌をならして介入した。

 奥さんが、焼き鳥の皿をもってきて、カウンターのテーブルに置く。
「またお化けの話かよ。」さっそくネギマを手に取った島原が、串を口に運んで肉を嚙み切り、もぐもぐさせながら話しだす。
「墓下に広がるお化けのでる葛が谷の野っぱらには、山羊が草をはんでいた。」
 島原の歌うようなリズムに、えっちゃんが「そうそ」と拍子をとるように相槌をうつ。
「いたいた。子供のころ、見たよ。葛が谷地区には、豚もいたんじゃなかったかなあ」 えっちゃんは、妙正寺川の縁に広がる、そのばっけが原と呼ばれた、いまは地下に貯水場を湛えた人工芝の野球場になっているそこから崖をあがった、目白の文化村に通じる高台のアパートに住んでいた。両親は、もとは杉並のほうにいたらしかったが、火事にあって、こっちに引っ越してきたとのことだった。

「アナキストな詩人が飼っていたんだよ。」 島原がつづける。「いや詩人の師匠たちがそこの乞食村に住んでいたのさ。親分は仕事となれば台車に両脚をたたんで仲間を引き連れ都会にくりだす。右と左の旦那さま~、きょう~もおめぐみくださいな、って歌をうたいにな。」
「だから今でも乞食山っていうの?」と、とんちゃんが間に入る。「まあさんの住んでる団地が、その跡地なんですよね?」
「賭博場でもあったのさ。」 島原がビールを口にし、焼き鳥を流しこむようにしてごくりとする。「博徒の聖地だな。所場が開かれるときは、あちこちの街角に、見張り役が立ったらしいよ。」
「戦前の話だろう。」 時枝が言った。
「そうでもないさ。」 島原は応じる。「爆撃で家をなくしたものたちが、崖に穴を掘って暮らしていたんだ。それをどかして、モダンな高層団地ができたのさ。」
「だ、だけど……」 ウーロン茶を神妙に飲んでいた慎吾が、言葉をはさんだ。「だけど、そこに住んでるからって、なんの関係があるっていうんだい? お、俺たちの運動が、アナキストの系譜にあるからって、その詩人の何かを、受け継いでいるってわけでもないんだろう?」 
「なにが化けてでてくるか、わかりゃしないぜ。」と、島原が応じた。「俺たちの運動とやらは解散した。が一度起きた出来事は、この空間に、真空にもエネルギーの痕跡を残す。遺伝されるのは、二重らせんにコード化された物質だけじゃない。ダークな、見えない境域というものがあるんだよ。そこにある暗黒マターも遺伝する、つきまとう、化けてでる。ばっけで飼ってた秋山清の山羊が、この焼き鳥になってでたって、おかしくないじゃないか?」
 島原はそう言って、串にかみつき、肉を頬張った。「だけどなあ」ともぐもぐと続ける。「どうも年取ると、油っこいものはだめだな。漬物とか山菜が欲しくなるよ。」そしてとくちゃんに、「おしんこない? あと、トマトをちょうだいよ。」と言う。「日本人はあれだな、肉なんて食い始めたのは戦後もしばらくしてだから、遺伝的に肉はだめなんだろうね。歳くうと地が出てくるんじゃない?」
「それじゃあ、焼き鳥屋さんの将来がないじゃないですか?」 とんちゃんはトマトを冷蔵庫から取り出して、「トマトね。」と片手で持ち上げてみせて、確認する。

「俺は…」と、慎吾がまた食い下がるように言った。「ふざけてるんじゃないよ。だって、おまえら、また……殺したじゃないか……」
 慎吾はつぶやくようになったが、一瞬、しんと間が入った。

「ニワトリの首しめたって?」と島原が沈黙を破るように言い、「そりゃそうだろう。ここは、焼き鳥屋さんなんだからさ。日本のお庭にのさばる最後のトリを、バンっとやらせて、まきあげる。カモにされた小鳥たちを、パニックに陥れて、そのままどっさり生贄にしようってか? そうだろう?」と、隣でビールを口にしている時枝の方に視線を走らせた。
「ギャラの分配も、地鶏たちの間で交換が成立していたことになる。」 時枝が目だけを動かして、島原を見返した。「それも、合意のうちに入る。」
「ほう~」と島原は考え込んでから、「つまり、認めたってわけだ。」とまた押し黙った。「まあ確かに、合意ではあるな。地方から秋風をそよがせるってわけか。」

 奥さんが、おしんことトマトをもってきた。えっちゃんと正岐のテーブルにも、おしんこの小皿を置いていった。
「もっともっと、空気を入れ替える必要があるからな。」 島原は焼き鳥の串で、トマトを刺して、その赤い実を顔の前にまで持ち上げた。「とんちゃん、そろそろ換気したほうがいいんじゃないの? みなウィルスにやられちゃうよ。」
「さっきお二人さんがはいってきたときので十分でしょ。もう夜はひんやりしてくるんだから。」
 とんちゃんは下を見たまま、包丁をさばいて、忙しく立ち働いている。
「空気が変わったってことね。」 島原はひとり合点がいったようにうなずいて、トマトを食べた。

「ど、どんな空気だっていうんだよ。」 慎吾が、ウーロン茶のグラスをテーブルに戻して、時枝ごしに、島原の顔をのぞきこんだ。
「どんなって、みんなでやりまくりてぇって、ことじゃないの?」
「ふざけるなよ!」と、慎吾は声をあげた。「俺にだって、想像はつくんだよ。おまえらが、たくらんでいることぐらい……」
「おまえらじゃ、ないだろう。もうみんな、挙国一致な揚げ足取り。鳥はやっぱりもも肉だろう?」 慎吾はかっと目を見開いたが、そのあとの言動を封じるように、島原がそのまま声をはりあげた。
「正義の戦争は万々歳、勝ってくるぞと勇ましく、侵略者はインベーダー、反対するひと陰謀だ、苦情があるなら9条へ、不法侵入武器よこせ、投げ銭上げ膳お膳立て、炎上上演品行方正、毎度の火種もどこ吹く風……てなもんでさ、みんな、やる気まんまんになっちゃったんじゃないの。」
「俺は、」と慎吾は唇をかんだ。「やる気なんて、ないよ! そんなこと!」
 島原は、じろっと慎吾をにらんだ。「ああ、まだまだ真剣味がたりないよな。焼き鳥も焼いただけじゃなくて、七味をかけて食わんとな。ドンパチやってる当人のところに、頑張ってって、甲子園の応援しゃもじをお土産にもってくんだから、とんだソーリーだよ。失礼千万。いったい何匹の首をしめれば気がすむんだか。」

 時枝が、「もう一杯もらえますか?」と、カウンターの横で待機しているような奥さんに、ジョッキを持ち上げた。
「明治以降、何人の首相経験者が殺されたとおもう?」 時枝がまるでジョッキを受け取った奥さんにでも言うように、話をつづけた。「総理経験者七名、およびそれに匹敵する地位と権力をもった者が三十人、暗殺された。その数を、『壮観』だと評する学者もいる。また一人、付け加わったわけだが。韓国の大統領経験者が、引退後に逮捕される者が多いどころではないだろう。だとすれば、その暗殺は、日本の近代以来、連綿と続いている情念のくすぶりということになる。戦国の時代から近代社会への移行にあたって噴き出てきた矛盾が、今も解決されていないということだ。自らの命をさしだして一揆を敢行した百姓でも、殿様を殺しはしなかった。ならば、その命がけの情念は、いま、どこにあるというのか?」
「そりぁ、決まってるさ。」と島原は吐き捨てるように言う。「ここにいる、小さきものたち、小鳥たちにだよ。(島原はつづける。)鳥籠だろうがブロイラーだろうが、地団駄踏むしかない自由に文句があるわけじゃない。一寸の虫にも五分の魂っていうじゃないか。明日食われるかもしれない小鳥たちにだって、気概はある。自由なんかじゃない。人を、小さき鳥たちを馬鹿にして羽をむしりとり大きな家畜にみせるイリュージョンにいつまでもひっかかっていられるか? 飛べなくたって、羽があるから鳥なんだぜ。」
「ならば、」とまた時枝が応じる。「その飛べない小鳥たちは、どうやって自分たちにも羽があるのだと知らせることができる? 羽ばたいて、飛んでみせなければ、鳥だと認められないのではないのか? 自由が問題ではないのはかまわない。が、鳥籠のなか、ブロイラーの中で餌を与えられ肥えさせられているだけなら、鳥としての気概も、魂もある人間たちなのだと、どうやって証明できるのか? 他者から、思ってもらえるのか?」
「だから、」と島原がさえぎる。「合意している、と言っただろう? このままでは、焼き鳥にされてしまうからな。おまえらやっぱり人間じゃあねえ馬鹿だから、科学実験のモルモットが似合うよって、放射能だのワクチンだの、科学調味料をふりかけられっぱなしになるからな。原爆投下まえの降伏なんて、そう簡単にさせてはもらえなかったろうよ。」

 正岐はえっちゃんの肩越しに漏れてくるそんなカウンターでの話に聞き耳をたてていた。降伏をさせてもらえない、その島原の言葉に、ロシアによるウクライナ侵攻がはじまった直後、フェイスブックで訴えた投稿文を正岐は思い出したのだった。

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