2024年1月9日火曜日

成人式

 


「昭和56年1月7日(水) …(略)…

小学校の上級の頃から 茶の間でテレビを見る習慣をなくしていた。そしていまでも、家というものを一人で考えると 涙がでてくるのだ。階段から つきおとされてから(おととしの6月だ) けんかもしてないのに。

 嫌いだ、家なんて きらいだ。私は親になれない、家庭を持てない。子供に向かって お説教し、手をふりあげたら 私自身が しったされなければならない。いつまでたっても 子供だ。大人になんかなれない。」

 

災害派遣されるかもしれないから、帰れないかもしれない、とそう息子が、地震直後に電話をかけてきた。が、6日から、成人式の翌日まで、休みがとれた。普通警察じゃ現場に行けないんじゃないか、と帰省してきた息子に言うと、警視庁からは、レスキュー隊と、機動隊がレスキューの訓練を受けているのでいってるよ、たぶん、その部隊の穴埋めにはいることになるんじゃないかな。

 

ユーチューブで、現場に入る自衛隊員の動画をみると、おそらく20キロはあるだろう支援物資の入った背嚢を背負って、膝までつかる泥水のなかを歩き、岩場をのぼり、砂浜を歩き、と、特殊訓練を受けてるものでないと、乗り越えられない先端現場にみえる。私は落下傘部隊でも使うのかとおもっていたが。ドローンでも、写真だけでなく、スピーカーに無線機をつけて、現場に孤立した人たちと直接話して情報を得ていくようなことはできないのだろうかとも思う。

 

私はといえば、大掃除で引きお起こしたぎっくり腰を早くなおそうと、まだ終わっていなかった引っ越しの整理に、段ボール箱と格闘している。とにかく、痛くても、体は動かした方が直りがはやい。いまの私には、赤十字や、千葉の造園家の、地球森の災害支援の活動に募金をすることぐらいしかできない。

 

段ボール箱は、すべて妻の荷物である。紙だ。息子の小学生の頃のドリルの答案用紙から、20年前の領収書からチラシの類い、参加した活動の書類などが、年度ごとにまとめられてそのまま袋にぶっこまれている。9割がたゴミとして古新聞をあつめるビニール袋に積み置いていくが、妊娠中のお腹の中の写真や、息子の写真などがまじってくるので、確認しながら作業をしているうちに、過去なんだが現在なんだがわからなくなっていく時間の中に潜入させられてしまう。

 

瞳が内側にこもってきて、気がおかしくなりそうなので、観賞しようとおもっていた、市原市の湖畔美術館に、鉄を使ったアート作品をみにいくことにした。

 

去年の今頃、二人でいったらしいことは、スマホの写真アプリの通知でわかっていたが、何みたんだっけかなあ、という感じだった。が、駐車場に止めた車から降りると、その美術館わきの植え込みの風景、湖と山、大きな水車やその手前のピザ・レストランの風景をみて、まるでつい最近来たばかりなような既視感におそわれた。私は、館前の広場を一周した。足が、能のすり足のようになって、歩いている。私がひとりで、この景色をみているのではなく、二人でみている。やば、まじか? おい、おまえ、留守番してるんじゃなかったのか……。

 

展示場に入れば、なおさらだ。植え込みの風景をみた瞬間に、二人でここで何を観たのかもよみがえってきていた。田中泯の、白州の模様を振り返った展示会だ。あすこの壁に、スクリーンがあって、あいつは、じっとそれを見ていた。もはや私は、何をみているのか、わからなくなった。二重写しだ。いや、それ以上だ。段バール箱の中からは、いく子が18歳の時から23歳までの、日記もでてきていた。

 

いく子は、小学3年生には、書道的にみて、1級か初段くらいの正確な字体で作文を書いていた。が、私が知っていた彼女の字は、いわば丸文字だ。なんであんな強気な性格なのに、こんな縮こまったような小さな字を書くのだろう、これは、私が最初に感じた怪訝の一つだった。丸文字は、社会学や民俗学的には、1980年代の少女たちが、雑誌などの影響を受けて書き始めたのではないかと言われているようだ。が、彼女の日記に目を通すと、そんな外形的な話だけではすまないことが推察されてくる。熊本の水俣の私立進学校から、千葉の県立高校へ、東京での予備校がよいの生活、大学にゆかずに就職し、そこでの労働組合に入っての男女関係での肉体をふくめた葛藤のことが書き込まれている。

 

私は、彼女は意識を言語化するのが苦手なので、ダンスにいったのだと思っていた。が、そうではない。相当な内省だ。はじめて渋谷を歩いたときの、なんで買い物をするのか、という感情の思考までたどっている。労働運動家との間で、セックスは楽しくない、とも書いている。そうしたことどもを吹っ切るための、表現として、いく子はダンスに出会ったのだろう。

 

大塚英志の『彼女たちの連合赤軍』を読んだとき、私は、いく子のことも考えた。楷書でしっかり書かれた字体が、丸みを帯びて縮こまるような内的なドラマ、抑圧の過程があったことが刻印されている。

 

ピザ・レストランでは、昨年、妻と2種類たのんだのだ。いわしのピザの量が多すぎて食べきれないので、家に持ち帰った。今回は、テイクアウトで、ポテトフライのローズマリー風味とコーヒーをたのんだ。広場のベンチに座るときは、もう会話になってしまう。おまえさあ、いったい俺に、何をしろって、いうんだい?

 

夜中の2時に、小中時代を過ごした中野区の成人式に参加した息子から、ラインがはいった。<私が無事に20歳になれたのは本当に両親のおかげだと思っています。ありがとうございます。本当はお母さんに20歳の姿を見せたかった。これからも自分なりに頑張っていきたいと思いますのでこれからもよろしくお願いします。>

 

寝覚めて眠れなくなっていた私も、すぐに返事を返した。<あせらず、無理しないようにな。そして、社会をよくみろ。パパはいま、2階に積んである段ボールを整理している。ママの20歳前後の日記もでてきた。多感な少女が何に悩んでいるか、ものすごいものがある。パパも、成人式にはいかなかった。野球をやめて、部屋にこもり、ひたすら本を読んでいた時期だ。みなひとりひとり、固有の時間、ペースがある。もうゆっくり休め。>

 

はじめてママでなく「お母さん」と呼んだ息子は、泣いていたのだろう。眠れなかったのだろう。が、災厄は、明日にでも、次から次へと、やってくるだろう。

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